又、『周(しう)の創(はじめ)、武(ぶ)王(わう)一たび怒(いか)りて天下の民を安くす。臣として君を弑(しい)すといふべからず。仁(じん)を賊(ぬす)み義を賊(ぬす)む、一夫(いっぷ)の紂(もう)を誅(ちゅう)するなり』といふ事、孟子(まうし)といふ書にありと人の伝(つた)へに聞き侍(はべ)る。
されば漢土(もろこし)の書は経典(けいてん)・史(し)策(さく)・詩文(しぶん)にいたるまで渡さざるはなきに、かの孟子(まうし)の書ばかりいまだ日本に来らず。此の書を積みて来たる船は、必ずしも暴風(あらきかぜ)にあひて沈没(しづむ)よしをいへり。
それをいかなる故ぞととふに、我が国は天(あま)照(てら)すおほん神の開闢(はつぐに)しろしめししより、日嗣(ひつぎ)の大王(きみ)絶(たゆ)る事なきを、かく口(くち)賢(さか)しきをしへを伝えなば、末の世に神孫(しんそん)を奪(うば)うて罪(つみ)なしといふ敵(あた)も出(いづ)べしと八百(やほ)よろづの神の悪(にく)ませ給うて、神風を起(お)こして船を覆(くつがへ)し給ふと聞く。
されば他国(かのくに)の聖(ひじり)の教(をしへ)も、ここの国土(くにつち)にふさわしからぬことすくなからず。
現代語訳
また、『周の建国の際、武王がひとたび憤(いきどお)りを発して、暴帝紂(ちゅう)王(おう)を討ち滅ぼし、天下の民を安んじた。これを臣下の身でありながら天子を殺したといってはならぬ。仁を破り義を損なった、一人の無法者としての紂王を討ったのだ』ということが、孟子という書に載っていると人伝(ひとづて)に聞いております。
それゆえにこそ唐土の書典は、経典(けいてん)・史(し)策(さく)・詩文(しぶん)にいたるまでわが国に渡来していないものはないのに、この孟子一書だけは未(いま)だ到来しておりませぬ。この書を積んで来る船は、必ず暴風にあって沈没することがいわれております。
それは何ゆえかと問えば、わが国は天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)が開闢(ひらき)お治めになって以来、その血脈を継承する帝が絶えたことのない国柄(くにがら)であるのに、このような小賢(こざか)しい教えが伝来すれば、後世に至って神孫から帝位を武力で奪っても罪ではないとする悪臣も出ようと、八百万(やおよろず)の神々がお憎みになって、神風を起こしてその船を転覆させるのであると聞いております。
してみれば唐土の聖人の教えといえども、この国の国風、国柄にそぐわないことも少なくはないのであります。