且(かつ)、詩(し)にもいはざるや、『兄弟(けいてい)牆(うち)に鬩(せめ)ぐとも外(よそ)の侮(あなど)りを禦(ふせ)げよ』と。
さるを、骨肉(こつにく)の愛(あい)をわすれ給ひ、あまさへ一院崩御(かみがくれ)給ひて、殯(もがり)の宮に肌(みは)膚(だへ)もいまだ寒(ひえ)させたまはぬに、御旗(みはた)なびかせ弓(ゆ)末(すゑ)ふり立て宝祚(みくらゐ)をあらそひ給ふは、不幸(ふかう)の罪(つみ)これより劇(はなはだ)しきはあらじ。
天下は神器(じんき)なり。人のわたくしをもて奪(うば)ふとも得(う)べからぬことわりなるを。
たとへ重仁王(しげひとぎみ)の即位(みくらゐ)は民の仰(あふ)ぎ望(のぞ)む所なりとも、徳を布(しき)、和(くは)を施(ほどこ)し給はで、道ならぬみわざをもて代(よ)を乱(みだ)し給ふ即(とき)は、きのふまで君を慕(した)ひしも、けふは忽(たちまち)怨敵(あた)となりて、本意(ほい)をも遂(とげ)たまはで、いにしへより例(あと)なき刑(つみ)を得給ひて、かかる鄙(ひな)の国の土(つち)とならせ給ふなり。
ただただ旧(ふる)き讐(あた)をわすれ給うて、浄土(じゃうど)にかへらせ給はんこそ願(ねがは)まほしき叡慮(みこころ)なれ」と、はばかることなく奏(まをし)ける。
現代語訳
その上、詩経にもいっていませぬか、『兄弟は内では相争っても、外からの軽侮に対しては一致して防げ』と。
それなのに骨肉の兄弟愛をお忘れになり、あまつさえ父帝鳥羽院が崩御されて、未だ殯(ひん)宮(きゅう)のご遺体の肌も冷えきらぬうちに、軍(いくさ)の御旗を挙げ、弓弭(ゆはず)を振り立てて御位(みくらい)を争うとは、不幸の罪にこれ以上のものはございませぬ。
天下とは人の私できぬ神器であります。私利私欲をもって奪い取っても得られるはずがないのが道理であります。
たとえ重仁(しげひと)王子のご即位が、民の待ち望むものであったとしても、徳を敷き広め、和をお恵みにならずに、道に外(はず)れたなされかたで世をお乱しになれば、昨日まで君主(おかみ)をお慕いした者も、今日はたちまち敵対者となって、ご本意を遂げられないばかりか、古来、例のない罪科(つみ)を得られ、このような辺鄙(へんぴ)な国の土となられたのであります。
ただひたすらに過去の憎しみを忘れ去られ、浄土へのお帰りこそ、願わまほしき御心であります。」と憚(はばか)ることもなく奏上した。