頼(より)朝(とも)東風(とうふう)に競(きそ)ひおこり、義(よし)仲(なか)北雪(ほくせつ)をはらうて出づるに及び、平氏の一門ことごとく西の海に漂(ただよ)ひ、遂(つひ)に讃岐(さぬき)の海志(し)戸(と)、八島(やしま)にいたりて、武(たけ)きつはどもおほく鼇(ごう)魚(ぎょ)のはらに葬(はぶ)られ、赤間(あかま)が関(せき)、壇(だん)の浦(うら)にせまりて、幼主(えうしゆ)海に入らせたまへば、軍将(いくさぎみ)たちものこりなく亡(ほろ)びしまで、露たがはざりしぞ、おそろしくあやしき話柄(かたりぐさ)なりけり。
其の後、御廟(みべう)は玉もて雕(ゑ)り、丹青(たんせい)を彩(ゑど)りなして、稜(み)威(いつ)を崇(あが)めたてまつる。かの国にかよふ人は、必ず幣(ぬさ)をささげて斎(いは)ひまつるべき御神(おんあみ)なりけらし。
現代語訳
その頃、源頼朝が東国から、東風と競い合うように兵を挙げ、木曽(きそ)義(よし)仲(なか)は北国から、雪を蹴(け)って都に進軍することに及び、平氏の一門は追われ追われてことごとく西海に漂流し、ついに讃岐の志戸の海、屋島の浦に至って、武勇の強兵(つわもの)どもの大半が魚の餌食(えじき)となりおおせ、赤間が関、壇の浦に追い詰められて、幼帝安徳(あんとく)天皇も入水(じゅすい)なされ、武将たちも残らずここに死滅してしまったという成り行きが、あの夜の新院のお言葉と少しも違わなかったのは、恐ろしくも不思議な語り草であった。
その後になって白峰のご霊廟(れいびょう)は玉をちりばめ、彩(いろど)り美しく造営して、そのご威光を尊崇(そんすう)申し上げた。この国へ行く人は、必ず供物を捧げて拝み申し上げなくてはならない御神であるということである。