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挪威的森林(3-2)
日期:2017-12-27 17:07  点击:793
 第三章(2)
 
僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。僕が当時好きだったのはトルーマン・カポーティ、ジョン・アップダイク、スコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラーといった作家たちだったが、クラスでも寮でもそういうタイプの小説を好んで読む人間は一人も見あたらなかった。彼らが読むのは高橋和巳や大江健三郎や三島由紀夫、あるいは現代のフランスの作家の小説が多かった。だから当然話もかみあわなかったし、僕は一人で黙々と本を読みつづけることになった。そして本を何度も読みかえし、ときどき目を閉じて本の香りを胸に吸いこんだ。その本の香りをかぎ、ページに手を触れているだけで、僕は幸せな気持になることができた。
十八歳の年の僕にとって最高の書物はジョン・アップダイクの『ケンタウロス』だったが何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最初の輝きを失って、フィッツジェスラルドの『グレート・ギャツビイ』にベスト・ワンの地位をゆずりわたすことになった。そして『グレート・ギャツビイ』はその後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた。僕は気が向くと書棚から『グレート・ギャツビイ』をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴しいんだろうと僕は思った。そして人々にその素晴しさを伝えたいと思った。しかし僕のまわりには『グレート・ギャツビイ』を読んだことのある人間なんていなかったし、読んでもいいと思いそうな人間すらいなかった。一九六八年にスコット・フィッツジェラルドを読むというのは反動とまではいかなくとも、決して推奨される行為ではなかった。 
 その当時僕のまわりで『グレート・ギャツビイ』を読んだことのある人間はたった一人しかいなかったし、僕と彼が親しくなったのもそのせいだった。彼は永沢という名の東大の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。我々は同じ寮に住んでいて、一応お互い顔だけは知っているという間柄だったのだが、ある日僕が食堂の日だまりで日なたぼっこをしながら『グレート・ギャツビイ』を読んでいると、となりに座って何を読んでいるのかと訊いた。『グレート・ギャツビイ』だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通して読むのは三度めだが読みかえせば読みかえすほど面白いと感じる部分がふえてくると僕は答えた。 
 「『グレート・ギャツビイ』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と彼は自分に言いきかせるように言った。そして我々は友だちになった。十月のことだった。 
 永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間にはまだお目にかかったことはない。彼は僕なんかははるかに及ばないくらいの読書家だったが、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう本しか俺は信用しない、と彼は言った。 
 「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」 
 「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。 
 「バルザック、ダンテ、ジョセフ・コンラッド、ディッケンズ」と彼は即座に.答えた。 
 「あまり今日性のある作家とは言えないですね」 
 「だから読むのさ。他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない。なあ知ってるか、ワタナベ?この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな紙屑みたいなもんだ」 
 「とうしてそんなことがわかるんですか?」と僕はあきれて質問した。 
 「俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわかるんだよ、見ただけで。それに俺たち二人とも『グレート・ギャツビイ』を読んでる」 
 僕は頭の中で計算してみた。「でもスコット・フィッツジェラルドが死んでからまだ二十八年しか経っていませんよ」 
 「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。「スコット・フィッツジェスラルドくらいの立派な作家はアンダー・バーでいいんだよ」 
 もっとも彼が隠れた古典小説の読書家であることは寮内ではまったく知られていなかったし、もし知られたとしても殆んど注目を引くことはなかっただろう。彼はなんといってもまず第一に頭の良さで知られていた。何の苦もなく東大に入り、文句のない成績をとり、公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしていた。父親は名古屋で大きな病院を経営し、兄はやはり東大の医学部を出て、そのあとを継ぐことになっていた。まったく申しぶんのない一家みたいだった。小遣いもたっぷり持っていたし、おまけに風釆も良かった。だから誰もが彼に一目置いたし、寮長でさえ永沢さんに対してだけは強いことは言えなかった。彼が誰かに何かを要求すると、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのとおりにした。そうしないわけにはいかなかったのだ。 
 永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつき備わっているようだった。人々の上に立って素速く状況を判断し、人々に手際よく的確な指示を与え、人々を素直に従わせるという能力である。彼の頭上にはそういう力が備わっていることを示すオーラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでいて、誰もが一目見ただけで「この男は特別な存在なんだ」と思って恐れいってしまうわけである。だから僕のようなこれといって特徴もない男が永沢さんの個人的な友人に選ばれたことに対してみんなはひどく驚いたし、そのせいで僕はよく知りもしない人間からちょっとした敬意を払われまでした。でもみんなにはわかっていなかったようだけれど、その理由はとても簡単なことなのだ。永沢さんが僕を好んだのは、僕が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなのだ。僕は彼の人間性の非常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を持ちはしたが、成績の良さだとかオーラだとか男っぷりだとかには一片の関心も持たなかった。彼としてはそういうのがけっこう珍しかったのだろうと思う。 
 永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持った男だった。彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時におそろしく底意地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると同時に、どうしょうもない俗物だった。人々を率いて楽天的にどんどん前に進んで行きながら、その心は孤独に陰鬱な泥沼の底でのたうっていた。僕はそういう彼の中の背反性を最初からはっきりと感じとっていだし、他の人々にどうしてそういう彼の面が見えないのかさっぱり理解できなかった。この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。
 しかし原則的には僕は彼に対して好意を抱いていたと思う。彼の最大の美徳は正直さだった。彼は決して嘘をつかなかったし、自分のあやまちや欠点はいつもきちんと認めた。自分にとって都合のわるいことを隠したりもしなかった。そして僕に対しては彼はいつも変ることなく親切だったし、あれこれと面倒をみてくれた。彼がそうしてくれなかったら、僕の寮での生活はもっとずっとややっこしく不快なものになっていただろうと思う。それでも僕は彼には一度も心を許したことはなかったし、そういう面では僕と彼との関係は僕とキズキとの関係とはまったく違った種類のものだった。僕は永沢さんが酔払ってある女の子に対しておそろしく意地わるくあたるのを目にして以来、この男にだけは何があっても心を許すまいと決心したのだ。 
 永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは彼がナメクジを三匹食べたことがあるというものであり、もうひとつは彼が非常に大きいペニスを持っていて、これまでに百人は女と寝たというものだった。 
 ナメクジの話は本当だった。僕が質問すると、彼はああ本当だよ、それ、と言った。「でかいの三匹飲んだよ」 
 「どうしてそんなことしたんですか?」 
 「まあいろいろとあってな」と彼は言った。「俺がこの寮に入った年、新入生と上級生のあいだでちょっとしたごたごたがあったんだ。九月だったな、たしか。それで俺が新入生の代表格として上級生のところに話をつけに行ったのさ。相手は右翼で、木刀なんか持っててな、とても話がまとまる雰囲気じゃない。それで俺はわかりました、俺ですむことならなんでもしましょう、だからそれで話をまとめて下さいっていったよ。そしたらお前ナメクジ飲めって言うんだ。いいですよ、飲みましょうって言ったよ。それで飲んだんだ。あいつらでかいの三匹もあつめてきやがったんだ」 
 「どんな気分でした?」 
 「どんな気分も何も、ナメクジを飲むときの気分って、ナメクジを飲んだことのある人間にしかわからないよな。こうナメクジがヌラッと喉もとをとおって、ツウッと腹の中に落ちていくのって本当にたまらないぜ、そりゃ。冷たくって、口の中にあと味がのこってさ。思い出してもゾッとするね。ゲエゲエ吐きたいのを死にものぐるいでおさえたよ、だって吐いたりしたらまた飲みなおしだもんな。そして俺はとうとう三匹全部飲んだよ」 
 「飲んじゃってからどうしました」 
 「もちろん部屋に帰って塩水がぶがぶ飲んださ」と永沢さんは言った。「だって他にどうしようがある」 
 「まあそうですね」と僕も認めた。 
 「でもそれ以来、誰も俺に対して何も言えなくなったよ。上級生も含めて誰もだよ。あんなナメクジ三匹も飲める人間なんて俺の他には誰もいないんだ」 
 「いないでしょうね」と僕は言った。 
 ペニスの大きさを調べるのは簡単だった。一緒に風呂に入ればいいのだ。たしかにそれはなかなか立派なものだった。百人もの女と寝たというのは誇張だった。七十五人くらいじゃないかな、と彼はちょっと考えてから言った。よく覚えてないけど七十はいってるよ、と。僕が一人としか寝てないと言うと、そんなの簡単だよ、お前、と彼は言った。 
 「今度俺とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから」 
 僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやってみると本当に簡単だった。 あまりに簡単すぎて気が抜けるくらいだった。彼と一緒に渋谷か新宿のバーだかスナックだかに入って(店はだいたいいつもきまっていた)、適当な女の子の二人連れをみつけて話をし(世界は二人づれの女の子で充ちていた)、酒を飲み、それからホテルに入ってセックスした。とにかく彼は話がうまかった。べつに何かたいしたことを話すわけでもないのだが、彼が話していると女の子たちはみんな大抵ぼおっと感心して、その話にひきずりこまれ、ついついお酒を飲みすぎて酔払って、それで彼と寝てしまうことになるのだ。おまけに彼はハンサムで、親切で、よく気が利いたから、女の子たちは一緒にいるだけでなんだかいい気持になってしまうのだ。そして、これは僕としてはすごく不思議なのだけれど、彼と一緒にいることで僕までがどうも魅力的な男のように見えてしまうらしかった。僕が永沢さんにせかされて何かをしゃべると女の子たちは彼に対するのと同じように僕の話にたいしてひどく感心したり笑ったりしてくれるのである。全部永沢さんの魔力のせいなのである。まったくたいした才能だなあと僕はそのたびに感心した。こんなのに比べれば、キズキの座談の才なんて子供だましのようなものだった。まるでスケールがちがうのだ。それでも永沢さんのそんな能力にまきこまれながらも、僕はキズキのことをとても優しく思った。キズキは本当に誠実な男だったんだなと僕はあらためて思った。彼は自分のそんなささやかな才能を僕と直子だけのためにとっておいてくれたのだ。それに比べると永沢さんはその圧倒的な才能をゲームでもやるみたいにあたりにばらまいていた。だいたい彼は前にいる女の子たちと本気で寝たがっているというわけではないのだ。彼にとつてはそれはただのゲームにすぎないのだ。 
 僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性欲を処理する方法としては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわりあったりしていること自体は楽しかった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。目がさめるととなりに知らない女の子がぐうぐう寝ていて、部屋中に酒の匂いがして、ベッドも照明もカーテンも何もかもがラブ・ホテル特有のけばけばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。やがて女の子が目を覚まして、もそもそと下着を探しまわる。そしてストッキングをはきながら「ねえ、昨夜ちゃんとアレつけてくれた?私ばっちり危い日だったんだから」と言う。そして鏡に向って頭が痛いだの化粧がうまくのらないだのとぶつぶつ文句を言いながら、口紅を塗ったりまつ毛をつけたりする。そういうのが僕は嫌だった。だから本当は朝までいなければいいのだけれど、十二時の門限を気にしながら女の子を口説くわけにもいかないし(そんなことは物理的に不可能である)、どうしても外泊許可をとってくりだすことになる。そうすると朝までそこにいなければならないということになり、自己嫌悪と幻滅を感じながら寮に戻ってくるというわけだ。日の光がひどく眩しく、口の中がざらざらして、頭はなんだか他の誰かの頭みたいに感じられる。
 僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみた。こんなことを七十回もつづけていて空しくならないのか、と。 
 「お前がこういうのを空しいと感じるなら、それはお前がまともな人間である証拠だし、それは喜ばしいことだ」と彼は言った。「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もない。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」 
 「じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?」 
 「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったろう?あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それをやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?」 
 「なんとなく」と僕は言った。 
 「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。それは本当に簡単なことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと同じくらい簡単なことなんだ。そんなのアッという間に落とせるし、向うだってそれを待ってるのさ。それが可能性というものだよ。そういう可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすごせるか? 自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通りすぎるかい?」 
 「そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりませんね。どういうものだか見当もつかないな」と僕は笑いながら言った。 
 「ある意味では幸せなんだよ、それ」と永沢さんは言った。 
 家が裕福でありながら永沢さんが寮に入っているのは、その女遊びが原因だった。東京に出て一人暮しなんかしたらどうしょうもなく女と遊びまわるんじゃないかと心配した父親が四年間寮暮しをすることを強制したのだ。もっとも永沢さんにとってはそんなものどちらでもいいことで、彼は寮の規則なんかたいして気にしないで好きに暮していた。気が向くと外泊許可をとってガール・ハントにいったり、恋人のアパートに泊りに行ったりしていた。外泊許可をとるのはけっこう面倒なのだが、彼の場合は殆んどフリー・パスだったし、彼が口をきいてくれる限り僕のも同様だった。 
 永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとした恋人がいた。ハツミさんという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔をあわせたことがあるが、とても感じの良い女性だった。はっと人目を引くような美人ではないし、どちらかというと平凡といってもいい外見だったからどうして永沢さんのような男がこの程度の女と、と最初は思うのだけれど、少し話をすると誰もが彼女に好感を持たないわけにはいかなかった。彼女はそういうタイプの女性だった。穏かで、理知的で、ユーモアがあって、思いやりがあって、いつも素晴しく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好きだったし、自分にもしこんな恋人がいたら他のつまらない女となんか寝たりしないだろうと思った。彼女も僕のことを気に入ってくれて、僕に彼女のクラブの下級生の女の子を紹介するから四人でデートしましょうよと熱心に誘ってくれたが、僕は過去の失敗をくりかえしたくなかったので、適当なことを言っていつも逃げていた。ハツミさんの通っている大学はとびっきりのお金持の娘があつまることで有名な女子大だったし、そんな女の子たちと僕が話があうわけがなかった。 
 彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっていることをだいたいは知っていたが、そのことで彼に文句を言ったことは一度もなかった。彼女は永沢さんのことを真剣に愛していたが、それでいて彼に何ひとつ押しつけなかった。 
 「俺にはもったいない女だよ」と永沢さんは言った。そのとおりだと僕も思った。 

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