第三章(5)
その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。
螢はインスタント・コーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が少し入っていて、ふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしい、それは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。
「庭にいたんだよ」
「ここの庭に?」と僕はびっくりして訊いた。
「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あれがこっちに紛れこんできたんだよ」と彼は黒いボストン・バックに衣類やノートを詰めこみながら言った。
夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているのは我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていたし、彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。
「これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。
「ありがとう」と僕は言った。
日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいな感じになった。国旗がポールから降ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいで、食堂の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えて、左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリーム・シチューの匂いだった。
僕は螢の入ったインスタント・コーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていて、何かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。
僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろし、手すりにもたれかかると、ほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光が、左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となって、街から街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったが、その記憶の中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だったのだろう、あれは?僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。
僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのに、それは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開けると、夏の夜の闇はほんの少し深まっていた。
僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三センチばかりつきだした給水塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したり、かさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、また左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじのぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。
僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。
僕はいつまでも待ちつづけた。
螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうとするかのように、給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってから、やがて東に向けて飛び去っていった。
螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた分厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。