第四章(2)
月曜日の十時から「演劇史Ⅱ」のエウリビデスについての講義があり、それは十一時半に終わった。講義のあとで僕は大学から歩いて十分ばかりのところにある小さなレストランに行ってオムレツとサラダを食べた。そのレストランはにぎやかな通りからは離れていたし、値段も学生向きの食堂より少し高かったが、静かで落ち着けたし、なかなか美味しいオムレツを食べさせてくれた。無口な夫婦とアルバイトの女の子が三人で働いていた。僕が窓際の席に一人で座って食事をしていると、四人連れの学生が店に入ってきた。男が二人と女が二人で、みんなこさっぱりとした服装をしていた。彼らは入口近くのテーブルに座ってメニューを眺め、しばらくいろいろと検討していたが、やがて一人が注文をまとめ、アルバイトの女の子にそれを伝えた。
そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気がついた。ひどく髪の短い女の子で、濃いサングラスをかけ、白いコットンのミニのワンピースを着ていた。彼女の顔には見覚えがなかったので僕がそのまま食事をつづけていると、そのうち彼女はすっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテーブルの端に片手をついて僕の名前を呼んだ。
「ワタナベ君、でしょう?」
僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚えはなかった。彼女はとても目立つ女の子だったし、どこかで会っていたらすぐに思い出せるはずだった。それに僕の名前を知っている人間がそれほど沢山この大学にいるわけではない。
「ちょっと座ってもいいかしら?それとも誰か来るの、ここ?」
僕はよくわからないままに首を振った。「誰も来ないよ。どうぞ」
彼女はゴトゴトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座ってサングラスの奥から僕をじっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。
「おいしいそうね、それ」
「美味いよ。マッシュルーム・オムレツとグリーン・ピースのサラダ」
「ふむ」と彼女は言った。「今度はそれにするわ。今日はもう別の頼んじゃったから」
「何を頼んだの?」
「マカロニ・グラタン」
「マカロニ・グラタンも悪くない」と僕は言った。「ところで君とどこで会ったんだっけな?どうしても思い出せないんだけど」
「エウリビデス」と彼女は簡潔に言った。「エレクトラ。『いいえ、神様だって不幸なものの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです』。さっきの授業が終ったばかりでしょう?」
僕はまじまじと彼女の顔を見た。彼女はサングラスを外した。それでやっと僕は思い出した。「演劇史Ⅱ」のクラスで見かけたことのある一年生の女の子だった。ただあまりにもがらりとヘア・スタイルが変わってしまったので、誰のなのかわからなかったのだ。
「だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう?」と僕は肩から十センチくらい下のところを手で示した。
「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするようなひどい代物でね、これが。一度は真剣に死のうと思ったくらいよ。本当にひどかったよ。ワカメが頭に絡みついて水死体みたいに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけっぱちで坊主頭にしちゃったの。涼しいことは涼しいわよ、これ」と彼女は言って、長さ四センチの髪を手の平でさらさらと撫でた。そして僕に向かってにっこり微笑んだ。
「でも全然悪くないよ、それ」と僕はオムレツの続きを食べながら言った。「ちょっと横を向いてみてくれないかな」
彼女は横を向いて、五秒くらいそのままじっとしていた。
「うん、とてもよく似合っていると思うな。きっと頭の形が良いんだね。耳もきれいに見えるし」と僕は言った。
「そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これもわるくないじゃないかって思ったわけ。でも男の人って誰もそんなことを言ってくれやしない。小学生みたいだとか、強制収容所だとか、そんなことばかり言うのよ。ねえ、どうして男の人って髪の長い女の子が上品で心やしくて女らしいと思うのかしら?私なんかね、髪の長い下品の女の子二百五十人くらい知ってるわよ、本当よ」
「僕は今の方が好きだよ」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。髪の長かったときの彼女は、僕の覚えている限りではまあごく普通の可愛い女の子だった。でも今僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように瑞々しい生命を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたり諦めたりしていた。僕はこんな生き生きとした表情を目にしたのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺めていた。
「本当にそう思う?」
僕はサラダを食べながら肯いた。
彼女はもう一度濃いサングラスをかけ、その奥から僕の顔を見た。
「ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね?」
「まあできることなら正直な人間でありたいと思っているけれどね」と僕は言った。
「ふうん」と彼女は言った。
「どうしてそんな濃いサングラスかけてるの?」と僕は訊いてみた。「急に毛が短くなるとものすごく無防備な気がするのよ。まるで裸で人ごみの中に放り出されちゃったみたいでね、全然落ち着かないの。だからサングラスかけるわけ」
「なるほど」と僕は言った。そしてオムレツの残りを食べた。彼女は僕がそれを食べてしまうのを興味深そうな目でじっと見ていた。
「あっちの席に戻らなくていいの?」と僕は彼女の連れの三人の方を指して言った。
「いいのよ、べつに。料理が来たら戻るから。なんてことないのよ。でもここにいると食事の邪魔かしら?」
「邪魔も何も、もう食べ終っちゃったよ」と僕は言った。そして彼女が自分のテーブルに戻る気配がないので食後のコーヒーを注文した。奥さんが皿を下げて、そのかわりに砂糖とクリームを置いていた。
「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの?ワタナべってあなたの名前でしょう?ワタナベ・トオルって」
「そうだよ」
「じゃどうして返事しなかったの?」
「今日はあまり返事したくなかったんだ」
彼女はもう一度サングラスを外してテーブルの上に置き、まるで珍しい動物の入っている檻でも覗きこむような目つきで僕をじっと眺めた。「『今日はあまり返事したくなかったんだ』」と彼女はくりかえした。「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボガートみたいなしゃべり方するのね。クールでタフで」
「まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもいる」
奥さんがコーヒーを持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もクリームも入れずにそれをそっとすすった。
「ほらね、やっぱり砂糖もクリームもいれないでしょう」
「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。「君は何か誤解しているんじゃないかな」
「どうしてそんなに日焼けしているの?」
「二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リュックと寝袋を担いで。だから日焼けしたんだ」
「どんなところ?」
「金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った」
「一人で?」
「そうだよ」と僕は言った。「ところどころで道連れができるってことはあるけれどね」
「ロマンスは生まれたりするのかしら?旅先でふと女の子と知りあったりして」
「ロマンス?」と僕はびっくりして言った。「あのね、やはり君は何か思い違いをしていると思うね。寝袋担いで髭ぼうぼうで歩きまわっている人間が一体どこでどうやってロマンスなんてものにめぐりあえるんだよ?」
「いつもそんな風に一人で旅行するの?」
「そうだね」
「孤独が好きなのね?」と彼女は頬杖をついて言った。「一人で旅行して、一人でご飯食べて、授業の時は一人だけぽつんと離れて座っているのが好きなの?」
「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことしたってがっかりするだけだもの」と僕は言った。
彼女はサングラスのつるを口にくわえ、もそもそした声で「『孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ』」と言った。「もしあなたが自叙伝書書くことになったらそのときはその科白使えるわよ」
「ありがとう」と僕は言った。
「緑色は好き?」
「どうして?」
「緑色のポロシャツをあなたが着てるからよ。だから緑色は好きなのかって訊いているの」
「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」
「『とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ』」と彼女はまたくりかえした。「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これまでにそういわれたことある、他の人から?」
ない、と僕は答えた。
「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょう。そんなのひどいと思わない?まるでのろわれた人生じゃない、これじゃ。ねえ、私の姉さん桃子っていうのよ。おかしくない?」
「それでお姉さんはピンク似合う?」
「それがものすごくよく似合うの。ピンクを着るために生まれてきたような人ね。ふん、まったく不公平なんだから」
彼女のテーブルに料理が運ばれ、マドラス・チェックの上着を着た男が「おーい、ミドリ、飯だぞお」と呼んだ。彼女はそちらに向かって<わかった>というよに手をあげた。
「ねえ、ワタナベ君、あなた講義のノートをとってる?演劇史Ⅱの?」
「とってるよ」と僕は言った。
「悪いだけど貸してもらえないかしら?私二回休んじゃってるのよ。あのクラスに私、知っている人しないし」
「もちろん、いいよ」僕は鞄からノートを出して何か余計なものが書かれていないことを確かめてから緑に渡した。
「ありがとう。ねえ、ワタナベ君、あさって学校に来る?」
「来るよ」
「じゃあ十二時にここにこない?ノート返してお昼ごちそうするから。別に一人でごはん食べないと消化不良おこすとか、そういうんじゃないでしょう?」
「まさか」と僕は言った。「でもお礼なんていらないよ。ノートを見せるくらいで」
「いいのよ。私、お礼するの好きなの。ねえ、大丈夫?手帳に書いとかなくて忘れない?」
「忘れないよ。あさっての十二時に君とここで会う」
向こうの方から「おーい、ミドリ、早く来ないと冷めちゃうぞ」という声が聞こえた。
「ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?」と緑はその声を無視して言った。
「そうだと思うよ。あまり意識したことがないけど」と僕は答えた。しゃべり方が変わっているなんて言われたのは本当にそれが初めてだったのだ。
彼女は少し何か考えていたが、やがてにっこり笑って席を立ち、自分のテーブルに戻っていった。ぼくがそのテーブルのそばを通りすぎたとき緑は僕に向かって手を上げた。他の三人はちらっと僕の顔を見ただけだった。
水曜日の十二時になっても緑はそのレストランに姿を見せなかった。僕は彼女が来るまでビールを飲んで待っているつもりだったのだが店が混みはじめたので仕方なく料理を注文し、一人で食べた。食べ終ったのは十二時三十五分だったが、それでもまだ緑は姿を見せなかった。勘定を払い、外に出て店の向かい側にある小さな神社の石段に座ってビールの酔いを覚ましながら一時まで彼女を待ったが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図書館で本を読んだ。そして二時からのドイツ語の授業に出た。
講義が終ると、僕は学生課に行って講義の登録簿を調べ、「演劇史Ⅱ」のクラスに彼女の名前を見つけた。ミドリという名前の学生は小林緑ひとりしかいなかった。次にカード式になっている学生名簿を繰って六九年度入学の学生の中から「小林緑」を探し出し、住所と電話番号をメモした。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話ボックスに入ってその番号をまわした。
「もしもし、小林書店です」と男の声が言った。小林書店?
「申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?」と僕は訊いた。
「いや、緑は今いませんねえ」と相手は言った。
「大学に行かれたんでしょうか」
「うん、えーと、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は?」
僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は怪我をするかあるいは病気にかかるかして病院に行ったのだろうか?しかし男の声からはそういう種類の非日常的な緊迫感はまったく感じられなかった。<うん、えーと、病院の方じゃないかなあ>、それはまるで病院が生活の一部であるといわんばかりの口ぶりであった。魚屋に魚を買いに行ったよとか、その程度の軽い言い方だった。僕はそれについて少し考えを巡らせてみたが、面倒臭くなったので考えるのをやめて寮に戻り、ベッドに寝転んで永沢さんに借りていたジョセフ・コンラッドの『ロード・ジム』の残りを読んでしまった。そして彼のところにそれを返しに行った。
永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に言って夕食を食べた。
外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務省の上級試験の第二次が八月にあったのだ。
「普通だよ」と永沢さんは何でもなさそうに答えた。「あんなの普通にやってりゃ通るんだよ。集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」
「じゃあまあ簡単だったわけね」と僕は言った。「発表はいつなんですか?」
「十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ」
「ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さんみたいな人ばかりが受けに来るんですか?」
「まさか。大体アホだよ。アホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうなんて人間の九五パーセントまでは屑だもんなあ。これ嘘じゃないぜ。あいつら字だってろくに読めないんだ」
「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?」
「いろいろと理由はあるさ」と永沢さんは言った。「外地勤務が好きだとか、いろいろな。でも一番の理由は自分の能力をためしてみたいってことだよな。どうせためすんなら一番でかい入れものの中にためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。この馬鹿でかい官僚機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのを試してみたいんだよ。わかるか?」
「なんだがゲームみたいに聞こえますね」
「そうだよ。ゲームみたいなもんさ。俺には権力欲と金銭欲とかいうものは殆んどない。本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらいないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いタフな世界で自分の力を試してみたいんだ」
「そして理想というようなものも持ちあわせてないでしょうね?」
「もちろんない」と彼は言った。「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想でしゃなく行動規範だ」
「でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね?」と僕は訊いた。
「俺のような人生はすきじゃないか?」
「よして下さいよ」と僕は言った。「好き嫌いもありません。だってそうでしょう、僕は東大に入れるわけでもないし、好きなときに好きな女と寝られるわけでもないし、弁が立つわけでもない。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がいるでもない。二流の私立大学を出たって将来の展望があるわけでもない。僕に何が言えるんですか?」
「じゃあ俺の人生がうらやましいか?」
「うらやましかないですね」と僕は言った。「僕はあまり僕自身に馴れすぎてますからね。それに正直なところ、東大にも外務省にも興味がない。ただひとつうらやましいのはハツミさんみたいに素敵な恋人を持ってることですね」
彼はしばらく黙って食事をしていた。
「なあ、ワタナベ」と食事が終ってから永沢さんは僕に言った。「俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまだどこかで出会いそうな気がするんだ。「そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」
「まるでディッケンズの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。
「そうだな」と彼も笑った。「でも俺の予感ってよく当るんだぜ」
食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのスナック・バーに酒を飲みに行った。そして九時すぎまでそこで飲んでいた。
「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範って一体どんなものなんですか?」と僕は訊いてみた。
「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。
「笑いませんよ」と僕は言った。
「紳士であることだ」
僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになった。「紳士ってあの紳士ですか?」
「そうだよ、あの紳士だよ」と彼は言った。
「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえませんか」
「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」
「あなたはぼくがこれまで会った人の中で一番変った人ですね」と僕は言った。
「お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ」と彼は行った。そして勘定を全部払ってくれた。