第四章(4)
翌日の「演劇史Ⅱ」の講義に緑の姿を見せなかった。講義が終ると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べ、それから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐ隣では女子学生の二人でとても長い立ち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニス・ラケットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナード・バーンステインのLPを持っていた。二人ともきれいな子で、ひどく楽しそうに話をしていた。クラブ・ハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四、五人の学生のグループがいて、彼らは何やかやについて好き勝手な意見を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちにぼくはふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかはわからない。でもとにかくその九月の終りの気持ちの良い昼下がり、人々はみんな幸せそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋しい想いをした。僕ひとりだけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。
でも考えて見ればこの何年間のあいだいったいどんな風景に馴染んできたというのだ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまい、それ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷やかな空気が入り込むことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったいなんだっただろうと考えてみた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれははっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を意味し、どのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを往き来する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないと思ったが、結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書館に行ってドイツ語の予習をした。
*
その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、よかったら今夜遊びにいかないか、外泊許可はとってやるからと言った。いいですよ、と僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていて、誰とでもいいから寝てみたいという気分だった。
僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロシャツの上にコットンの上着を着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとり、バスに乗って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧噪の中でバスを降り、そのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに入って適当な女の子がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったのだが、その日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔わない程度にウィスキー・ソーダをちびちびすすりながら二時間近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンターに座ってギムレットとマルガリータを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったが、二人は男友だちと待ち合わせていた。それでも僕らはしばらく四人で親しく話しをしていたのだが、待ち合わせの相手が来ると二人はそっちに行ってしまった。
店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれてった。少し奥まったところにある小さな店で、大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブルに三人組の女の子がいたので、我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲まないかと誘うと、女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだもの、と言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという気配がまるでないのだ。
十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんが言った。
「悪かったな、ひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。
「かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかっただけでも楽しかったですよ」と僕は言った。
「年に一回くらいあるんだ、こういうの」と彼は言った。
正直な話、僕はもうセックスなんてどうだっていいやと言う気分になっていた。土曜日の新宿の夜の喧噪の中を三時間半もうろうろして、性欲やらアルコールやらの入り混じったわけのかわらないエネルギーを眺めているうちに、僕自身の性欲なんてとるに足らない卑小なものであるように思えてきたのだ。
「これからどうする、ワタナベ?」と永沢さんが僕に訊いた。
「オールナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」
「じゃあ僕はハツミのところに行くよ。いいかな?」
「いけないわけがないでしょう」と僕は笑って言った。
「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけど、どうだ?」
「いや、映画観たいですね、今日は」
「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に消えていった。僕はハンバーガー・スタンドに入ってチーズ・バーガーを食べ、熱いコーヒーを飲んで酔いをさましてから近くの二番館で『卒業』を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれど、他にやることもないので、そのままもう一度くりかえしてその映画を観た。そして映画館を出て午前四時前のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩いた。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発の電車を待つことにした。しばらくすると店はやはり同じように始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイターが僕のところにやってきて、すみませんが相席お願いしますと言った。いいですよ、と僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけだし、前に誰が座ろうが気にもならなかった。
僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美人というわけではないが、感じのわるくない女の子だった。化粧も服装もごくまともで、朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかった。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないと僕は思った。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をしていたし、夕方髭も剃っていたし。おまけにトーマス・マンの『魔の山』を一心不乱に読んでいた。
女の子の一人は大柄で、グレーのヨットパーカーにホワイト・ジーンズをはき、大きなビニール・レザーの鞄を持ち、貝のかたちの大きなイヤリングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡をかけ、格子柄のシャツの上にブルーのカーディガンを着て、指にはターコイズ・ブルーの指輪を嵌めていた。小柄な方の女の子はときどき眼鏡を取って目を押えてのが癖らしかった。
彼女達はどちらもカフェオレとケーキを注文し、何事かを小声で相談しながら時間をかけてケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひねり、小柄の女の子は何回か首を横に振った。マーピン・ゲイやらビージーズやらの音楽が大きな音でかかっていたので話の内容までは聴き取れなかったけれど、どうやら小柄な女の子が悩むか怒るかして、大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。僕は本を読んだり、彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。
小柄な女の子がショルダー・バッグを抱えるようにして洗面所に行ってしまうと、大柄な方の女の子が僕に向って、あのすみません、と言った。僕は本を置いて彼女を見た。
「このへんにまだお酒飲めるお店ご存知ありませんか?」と彼女は言った。
「朝の五時すぎにですか?」と僕はびっくりして訊きかえした。
「ええ」
「ねえ、朝の五時ニ十分っていえば大抵の人は酔いをさまして家に帰る時間ですよ」
「ええ、それはよくかわってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに言った。
「友だちがどうしてもお酒飲みたいっていうんです。いろいろまあ事情があって」
「家に帰って二人でお酒飲むしかないじゃないかな」
「でも私、朝の七時半ごろの電車で長野に行っちゃうんです」
「じゃあ自動販売機でお酒を買って、そのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」
申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなことできないから、と。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれど、朝の五時ニ十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれがはじめてだった。断るのも面倒だったし、まあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買い、彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行き、そこで即席の宴会のようなものを開いた。
話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤め始めたばかりで、仲良しだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよく付き合っていたのだが、最近になって彼は他の女と寝ていることがわかって、それで彼女はひどく落ち込んでいた。それがおおまかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだが、友だちに付き合って一晩新宿で夜明かしし、日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。
「でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの?」と僕は小柄な子に訊いてみた。
小柄な方の女の子は日本酒をちびちび飲みながら足もとの雑草をむしっていた。「彼の部屋のドアを開けたら、目の前でやってたんだもの、そんなのかわるもかわらないもないでしょう」
「いつの話、それ?」
「おとといの夜」
「ふうん」と僕は言った。「ドアは鍵があいてたわけ?」
「そう」
「どして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。
「知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう」
「でもそういうの本当にショックだと思わない?ひどいでしょう?彼女の気持ちはどうなるのよ?」と人のよさそうな大柄の女の子が言った。
「なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さないの問題になると思うけど、あとは」と僕は言った。
「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぶちぶちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。
カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を越えていった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたので、僕らは残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうと、僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。
十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセージもなかった。変な時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に重くなっているような気がした。僕はシャワーに入って眠気を取り、髭を剃って、裸のまま椅子に座って冷蔵庫のジュースを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思い出してみた。どれもガラス板をニ、三枚あいだに挟んだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたが、間違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上にはビールを飲んだガラスが残っていたし、洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。
僕は新宿で簡単に昼食を食べ、それから電話ボックスに入って小林緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているかと思ったからだ。しかし十五回コールしても電話には誰も出なかった。ニ十分にもう一度電話してみたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。