第八章
その週の半ばに僕は手のひらをガラスの先で深く切ってしまった。レコード棚のガラスの仕切りが割れていることに気がつかなかったのだ。自分でもびっくりするくらい血がいっぱい出て、それがぽたぽたと下にこぼれ、足もとの床が真っ赤になった。店長がタオルを何枚が持ってきてそれを強く巻いて包帯がわりにしてくれた。そして電話をかけて夜でも開いている救急病院の場所を訊いてくれた。ろくでもない男だったが、そういう処置だけは手ばやかった。病院は幸い近くにあったが、そこに着くまでにタオルは真っ赤に染まって、はみでた血がアスファルトの上にこぼれた。人々はあわてて道をあけてくれた。彼らは喧嘩か何かの傷だと思ったようだった。痛みらしい痛みはなかった。ただ次から次へと血が出てくるだけだった。
医者は無感動に血だらけのタオルを取り、手首をぎゅっとしばって血を止め傷口を消毒してから縫い合わせ、明日また来なさいと言った。レコード店に戻ると、お前もう家帰れよ、出勤にしといてやるから、と店長が言った。僕はバスに乗って寮に戻った。そして永沢さんの部屋に行ってみた。怪我のせいで気が高ぶっていて誰かと話がしたかったし、彼にもずいぶん長く会っていないような気がしたからだ。
彼は部屋にいて、TVのスペイン語講座を見ながら缶ビールを飲んでいた。彼は僕の包帯を見て、お前それどうしたんだよと訊いた。ちょっと怪我したのだがたいしたことはないと僕は言った。ビール飲むかと彼が訊いて、いらないと僕は言った。
「これもうすぐ終るから待ってろよ」と永沢さんは言って、スペイン語の発音の練習をした。僕は自分で湯をわかし、ティーバッグで紅茶を作って飲んだ。スペイン人の女性が例文を読みあげた。「こんなひどい雨ははじめてですわ。バルセロナでは橋がいくつも流されました」。永沢さんは自分でもその例文を読んで発音してから「ひどい例文だよな」と言った。「外国語講座の例文ってこういうのばっかりなんだからまったく」
スペイン語講座が終ると永沢さんはTVを消し、小型の冷蔵庫からもう一本ビールを出して飲んだ。
「邪魔じゃないですか?」と僕は訊いてみた。
「俺?全然邪魔じゃないよ。退屈してたんだ。本当にビールいらない?」
いらないと僕は言った。
「そうそう、このあいだ試験の発表あったよ。受かってたよ」と永沢さんが言った。
「外務省の試験?」
「そう、正式には外務公務員採用一種試験っていうんだけどね、アホみたいだろ?」
「おめでとう」と僕は言って左手をさしだして握手した。
「ありがとう」
「まあ当然でしょうけれどね」
「まあ当然だけどな」と永沢さんは笑った。「しかしまあちゃんと決まるってのはいいことだよ、とにかく」
「外国に行くんですか、入省したら?」
「いや最初の一年間は国内研修だね。それから当分は外国にやられる」
僕は紅茶をすすり、彼はうまそうにビールを飲んだ。
「この冷蔵庫だけどさ、もしよかったらここを出るときにお前にやるよ」と永沢さんは言った。「欲しいだろ?これあると冷たいビール飲めるし」
「そりゃもらえるんなら欲しいですけどね、永沢さんだって必要でしょう?どうぜアパート暮しか何かだろうし」
「馬鹿言っちゃいけないよ。こんなところ出たら俺はもっとでかい冷蔵庫を買ってゴージャスに暮すよ。こんなケチなところで四年我慢したんだぜ。こんなところで使ってたものなんて目にしたくもないさ。何でも好きなものやるよ、TVだろうが、魔法瓶だろうが、ラジオだろうが」
「まあなんでもいいですけどね」と僕は言った。そして机の上のスペイン語のテキスト・ブックを手にとって眺めた。「スペイン語始めたんですか?」
「うん。語学はひとつでも沢山できた方が役に立つし、だいたい生来俺はそういうの得意なんだ。フランス語だって独学でやってきて殆んど完璧だしな。ゲームと同じさ。ルールがひとつわかったら、あとはいくつやったってみんな同じなんだよ。ほら女と一緒だよ」
「ずいぶん内省的な生き方ですね」と僕は皮肉を言った。
「ところで今度一緒に飯食いに行かないか」と永沢さんが言った。
「また女漁りじゃないでしょうね?」
「いや、そうじゃなくてさ、純粋な飯だよ。ハツミと三人でちゃんとしたレストランに行って会食するんだ。俺の就職祝いだよ。なるべく高い店に行こう。どうせ払いは父親だから」
「そういうのはハツミさんと二人でやればいいじゃないですか」
「お前がいてくれた方が楽なんだよ。その方が俺もハツミも」と永沢さんは言った。
やれやれ、と僕は思った。それじゃキズキと直子のときとまったく同じじゃないか。
「飯のあとで俺はハツミのところ行って泊るからさ。飯くらい三人で食おうよ」
「まああなた二人がそれでいいって言うんなら行きますよ」と僕は言った。「でも永沢さんはどうするですか、ハツミさんのこと?研修のあとで国外勤務になって何年も帰ってこないんでしょ?彼女はどうなるんですか?」
「それはハツミの問題であって、俺の問題ではない」
「よく意味がわかんないですね」
彼は足を机の上にのせたままビールを飲み、あくびをした。
「つまり俺は誰とも結婚するつもりはないし、そのことはハツミにもちゃんと言ってある。だからさ、ハツミは誰かと結婚したきゃすりゃいいんだ。俺は止めないよ。結婚しないで俺を待ちたきゃ待ちゃいい。そういう意味だよ」
「ふうん」と僕は感心して言った。
「ひどいと思うだろ、俺のこと?」
「思いますね」
「世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺のせいじゃない。はじめからそうなってるんだ。俺はハツミをだましたことなんか一度もない。そういう意味では俺はひどい人間だから、それが嫌なら別れろってちゃんと言ってる」
永沢さんはビールを飲んでしまうとタバコをくわえて火をつけた。
「あなたは人生に対して恐怖を感じるということはないですか?」と僕は訊いてみた。
「あのね、俺はそれほど馬鹿じゃないよ」と永沢さんは言った。「もちろん人生に対して恐怖を感じることはある。そんなの当たり前じゃないか。ただ俺はそういうのを前提条件として認めない。自分の力を百パーセント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはとるし、欲しくないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったところでまた考える。不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある」
「身勝手な話みたいだけれど」と僕は言った。
「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。俺は俺なりにずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」
「そうでしょうね」と僕は認めた。
「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」
僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」
「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」
「たとえば就職が決って他のみんながホッとしている時にスペイン語の勉強を始めるとか、そういうことですね?」
「そういうことだよ。俺は春までにスペイン語を完全にマスターする。英語とドイツ語とフランス語はもうできあがってるし、イタリア語もだいたいはできる。こういうのって努力なくしてできるか?」
彼はタバコを吸い、僕は緑の父親のことを考えた。そして緑の父親はTVでスペイン語の勉強を始めようなんて思いつきもしなかったろうと思った。努力と労働の違いがどこかにあるかなんて考えもしなかったろう。そんなことを考えるには彼はたぶん忙しすぎたのだ。仕事も忙しかったし、福島まで家出した娘を連れ戻しにも行かねばならなかった。
「食事の話だけど、今度の土曜日でどうだ?」と永沢さんが言った。
いいですよ、と僕は言った。
永沢さんが選んだ店は麻布の裏手にある静かで上品なフランス料理店だった。永沢さんが名前を言うと我々は奥の個室に通された。小さな部屋で壁には十五枚くらい版画がかかっていた。ハツミさんが来るまで、僕と永沢さんはジョセフ・コンラッドの小説の話をしながら美味しいワインを飲んだ。永沢さんは見るからに高価そうなグレーのスーツを着て、僕はごく普通のネイビー・ブルーのブレザー・コートを着ていた。
十五分くらい経ってからハツミさんがやってきた。彼女はとてもきちんと化粧をして金のイヤリングをつけ、深いブルーの素敵なワンピースを着て、上品なかたちの赤いパンプスをはいていた。僕はワンピースの色を賞めると、これはミッドナイト・ブルーっていうのよとハツミさんは教えてくれた。
「素敵なところじゃない」とハツミさんが言った。
「父親が東京に来るとここで飯食うんだ。前に一度一緒に来たことあるよ。俺はこういう気取った料理はあまり好きじゃないけどな」と永沢さんが言った。
「あら、たまにはいいじゃない、こういうのも。ねえ、ワタナベ君」とハツミさんが言った。
「そうですね、自分の払いじゃなければね」と僕は言った。
「うちの父親はだいたいいつも女と来るんだ」と永沢さんが言った。「東京に女がいるから」
「そう?」とハツミさんが言った。
僕は聞こえないふりをしてワインを飲んでいた。
やがてウェイターがやってきて、我々は料理を注文した。オードブルとスープを我々は選び、メイン・ディッシュに永沢さんは鴨を、僕とハツミさんは鱸を注文した。料理はとてもゆっくり出てきたので、僕らはワインを飲みながらいろんな話をした。最初は永沢さんが外務省の試験の話をした。受験者の殆んどは底なし沼に放りこんでやりたいようなゴミだが、まあ中には何人かまともなのもいたなと彼は言った。その比率は一般社会の比率と比べて低いのか高いのかと僕は質問してみた。
「同じだよ、もちろん」と永沢さんはあたり前じゃないかという顔で言った。「そういうのって、どこでも同じなんだよ。一定不変なんだ」
ワインを飲んでしまうと永沢さんはもう一本注文し、自分のためにスコッチ・ウィスキーをダブルで頼んだ。
それからハツミさんがまた僕に紹介したい女の子の話を始めた。これはハツミさんと僕の間の永遠の話題だった。彼女は僕に<クラブの下級生のすごく可愛い子>を紹介したがって、僕はいつも逃げまわっていた。
「でも本当に良い子なのよ、美人だし。今度連れてくるから一度お話しなさいよ。きっと気にいるわよ」
「駄目ですよ」と僕は言った。「僕はハツミさんの大学の女の子とつきあうには貧乏すぎるもの。お金もないし、話もあわないし」
「あら、そんなことないわよ。その子なんてとてもさっぱりした良い子よ。全然そんな風に気取ってないし」
「一度会ってみりゃいいじゃないか、ワタナベ」と永沢さんが言った。「べつにやらなくていいんだから」
「あたり前でしょう。そんなことしたら大変よ。ちゃんとバージンなんだから」とハツミさんが言った。
「昔の君みたい」
「そう、昔の私みたいに」とハツミはにっこり笑って言った。「でもワタナベ君、貧乏だとかなんだかとかって、そんなのあまり関係ないよ。そりゃクラスに何人かはものすごく気取ったバリバリの子はいるけれど、あとは私たち普通なのよ。お昼には学食で二百五十円のランチ食べて――」
「ねえハツミさん」と僕は口をはさんだ。「僕の学校の学食のランチは、A、B、CとあってAが百二十円でBは百円でCが八十円なんです。それでたまに僕がAランチを食べるとみんな嫌な目で見るんです。Cランチが食えないやつは六十円のラーメン食うんです。そういう学校なんです。話があうと思いますか?」
ハツミさんは大笑いした。「安いわねえ、私食べに行こうかしら。でもね、ワタナベ君、あなた良い人だし、きっと彼女と話あうわよ。彼女だって百二十円のランチ気に入るかもしれないわよ」
「まさか」と僕は笑って言った。「誰もあんなもの気に入ってやしませんよ。仕方ないから食べてるんです。
「でも入れもので私たちを判断しないでよ、ワタナベ君。そりゅまあかなりちゃらちゃらしたお嬢様学校であるにせよ、真面目に人生を考えて生きているまともな女の子だって沢山いるのよ。みんながみんなスポーツ・カーに乗った男の子とつきあいたいと思ってるわけじゃないのよ」
「それはもちろんわかってますよ」と僕は言った。
「ワタナベには好きな女の子がいるんだよ」と永沢さんが言った。「でもそれについてはこの男は一言もしゃべらないんだ。なにしろ口が固くてね。全ては謎に包まれているんだ」
「本当?」とハツミさんが僕に訊いた。
「本当です。でも別に謎なんてありませんよ。ただ事情がとてもこみいって話しづらいだけです」
「道ならぬ恋とかそういうの?ねえ、私に相談してごらんなさいよ」
僕はワインを飲んでごまかした。
「ほら、口が固いだろう」と三杯目のウィスキーを飲みながら永沢さんが言った。「この男は一度言わないって決めたら絶対に言わないんだもの」
「残念ねえ」とハツミさんはテリーヌを小さく切ってフォークで口に運びながら言った。「その女の子とあなたがうまくいったら私たちダブル・デートできたのにね」
「酔払ってスワッピングだってできたのにね」と永沢さんが言った。
「変なこと言わないでよ」
「変じゃないよ、ワタナベ君のこと好きなんだから」
「それとこれは別でしょう」とハツミさんは静かな声で言った。「彼はそういう人じゃないわよ。自分のものをとてもきちんと大事にする人よ。私わかるもの。だから女の子を紹介しようとしたのよ」
「でも俺とワタナベで一度女をとりかえっこしたことあるよ、前に。なあ、そうだよな?」永沢さんは何でもないという顔をしてウィスキーのグラスをあけ、おわかりを注文した。
ハツミさんはフォークとナイフを下に置き、ナプキンでそっと口を拭った。そして僕の顔を見た。「ワタナベ君、あなた本当にそんなことしたの?」
どう答えていいのかわからなかったので、僕は黙っていた。
「ちゃんと話せよ。かまわないよ」と永沢さんが言った。まずいことになってきたと僕は思った。時々酒が入ると永沢さんは意地がわるくなることがあるのだ。そして今夜の彼の意地のわるさは僕に向けられたものではなく、ハツミさんに向けられたものだった。それがわかっていたもので、僕としても余計に居心地がわるかった。
「その話聞きたいわ。すごく面白そうじゃない」とハツミさんが僕に言った。
「酔払ってたんです」と僕は言った。
「いいのよ、べつに。責めてるわけじゃないんだから。ただその話を聞かせてほしいだけなの」
「渋谷のバーで永沢さんと二人で飲んでいて、二人連れの女の子と仲良くなったんです。どこかの短大の女の子で、向うも結構出来上っていて、それでまあ結局そのへんのホテルに入って寝たんです。僕と永沢さんとで隣りどうしの部屋をとって。そうしたら夜中に永沢さんが僕の部屋をノックして、おいワタナベ、女の子とりかえようぜって言うから、僕が永沢さんの方に行って、永沢さんが僕の方に来たんです」
「その女の子たちは怒らなかったの?」
「その子たちも酔ってたし、それにどっちだってよかったんです。結局その子たちとしても」
「そうするにはそうするだけの理由があったんだよ」と永沢さんが言った。
「どんな理由?」
「その二人組の女の子だけど、ちょっと差がありすぎたんだよ。一人の子はきれいだったんだけど、もう一人がひどくってさ、そういうの不公平だと思ったんだ。つまり俺が美人の方をとっちゃったからさ、ワタナベにわるいじゃないか。だから交換したんだよ。そうだよな、ワタナベ?」
「まあ、そうですね」と僕は言った。しかし本当のことを言えば、僕はその美人じゃない子の方をけっこう気に入っていたのだ。話していて面白かったし、性格もいい子だった。僕と彼女がセックスのあとベッドの中でわりに楽しく話をしていると、永沢さんが来てとりかえっこしようぜと言ったのだ。僕がその子にいいかなと訊くと、まあいいわよ、あなたたちそうしたいんなら、と彼女は言った。彼女はたぶん僕がその美人の子の方とやりたがっていると思ったのだろう。
「楽しかった?」とハツミさんが僕に訊いた。
「交換のことですか?」
「そんな何やかやが」
「べつにとくに楽しくはないです」と僕は言った。「ただやるだけです。そんな風に女の子と寝たってとくに何か楽しいことがあるわけじゃないです」
「じゃあ何故そんなことするの?」
「俺が誘うからだよ」と永沢さんが言った。
「私、ワタナベ君に質問してるのよ」とハツミさんはきっぱりと言った。「どうしてそんなことするの?」
「ときどきすごく女の子と寝たくなるんです」と僕は言った。
「好きな人がいるのなら、その人となんとかするわけにはいかないの?」とハツミさんは少し考えてから言った。
「複雑な事情があるんです」
ハツミさんはため息をついた。
そこでドアが開いて料理が運ばれてきた。永沢さんの前には鴨のローストが運ばれ、僕とハツミさんの前には鱸の皿が置かれた。皿には温野菜が盛られ、ソースがかけられた。そして給仕人が引き下がり、我々はまた三人きりになった。永沢さんは鴨をナイフで切ってうまそうに食べ、ウィスキーを飲んだ。
僕はホウレン草を食べてみた。ハツミさんは料理には手をつけなかった。
「あのね、ワタナベ君、どんな事情があるかは知らないけれど、そういう種類のことはあなたには向いてないし、ふさわしくないと思うんだけれど、どうかしら?」とハツミさんは言った。彼女はテーブルの上に手を置いて、じっと僕の顔を見ていた。
「そうですね」と僕は言った。「自分でもときどきそう思います」
「じゃあ、どうしてやめないの?」
「ときどき温もりが欲しくなるんです」と僕は正直に言った。「そういう肌のぬくもりのようなものがないと、ときどきたまらなく淋しくなるんです」
「要約するとこういうことだと思うんだ」永沢さんが口をはさんだ。「ワタナベには好きな女の子がいるんだけれどある事情があってやれない。だからセックスはセックスと割り切って他で処理するわけだよ。それでかまわないじゃないか。話としてはまともだよ。部屋にこもってずっとマスターベーションやってるわけにもいかないだろう?」
「でも彼女のことが本当に好きなら我慢できるんじゃないかしら、ワタナベ君?」
「そうかもしれないですね」と言って僕はクリーム・ソースのかかった鱸の身を口に運んだ。
「君には男の性欲というものが理解できないんだ」と永沢さんがハツミさんに言った。「たとえば俺は君と三年つきあっていて、しかもそのあいだにけっこう他の女と寝てきた。でも俺はその女たちのことなんて何も覚えてないよ。名前も知らない、顔も覚えない。誰とも一度しか寝ない。会って、やって、別れる。それだけよ。それのどこがいけない?」
「私が我慢できないのはあなたのそういう傲慢さなのよ」とハツミさんは静かに言った。「他の女の人と寝る寝ないの問題じゃないの。私これまであなたの女遊びのことで真剣に怒ったこと一度もないでしょう?」
「あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゲームだ。誰も傷つかない」と永沢さんは言った。
「私は傷ついてる」とハツミさん言った。「どうして私だけじゃ足りないの?」
永沢さんはしばらく黙ってウィスキーのグラスを振っていた。「足りないわけじゃない。それはまったく別のフェイスの話なんだ。俺の中には何かしらそういうものを求める渇きのようなものがあるんだよ。そしてそれがもし君を傷つけたとしたら申しわけないと思う。決して君一人で足りないとかそういうんじゃないんだよ。でも俺はその渇きのもとでしか生きていけない男だし、それが俺なんだ。仕方ないじゃないか」
ハツミさんはやっとナイフとフォークを手にとって鱸を食べはじめた。「でもあなたは少なくともワタナベ君をひきずりこむべきじゃないわ」
「俺とワタナベには似ているところがあるんだよ」と永沢さんは言った。「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃないかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人をきりはなしてものを考えることができる。俺がワタナベを好きなのはそういうところだよ。ただこの男の場合自分でそれがまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするんだ」
「迷ったり傷ついたりしない人間がどこにいるのよ?」とハツミさんは言った。「それともあなたは迷ったり傷ついたりしたことないって言うの?」
「もちろん俺だって迷うし傷つく。ただそれは訓練によって軽減することが可能なんだよ。鼠だって電気ショックを与えれば傷つくことの少ない道を選ぶようになる」
「でも鼠は恋をしないわ」
「鼠は恋をしない」と永沢さんはそうくりかえしてから僕の方を見た。「素敵だね。バックグランド・ミュージックがほしいね。オーケストラにハーブが二台入って――」
「冗談にしないでよ。私、真剣なのよ」
「今は食事をしてるんだよ」と永沢さんは言った。「それにワタナベもいる。真剣に話をするのは別の機会にした方が礼儀にかなっていると思うね」
「席を外しましょうか?」と僕は言った。
「ここにいてちょうだいよ。その方がいい」とハツミさんが言った。
「せっかく来たんだからデザートも食べていけば」と永沢さんが言った。
「僕はべつにかまいませんけど」
それからしばらく我々は黙って食事をつづけた。僕は鱸をきれいに食べ、ハツミさんは半分残した。永沢さんはとっくに鴨を食べ終えて、またウィスキーを飲みつづけていた。
「鱸、けっこううまかったですよ」と僕は言ってみたが誰も返事をしなかった。まるで深い竪穴に小石を投げ込んだみたいだった。
皿がさげられて、レモンのシャーベットとエスプレッソ・コーヒーが運んできた。永沢さんはどちらにもちょっと手をつけただけで、すぐに煙草を吸った。ハツミさんはレモンのシャーベットにはまったく手をつけなかった。やれやれと思いながら僕はシャーベットをたいらげ、コーヒーを飲んだ。ハツミさんはテーブルの上に揃えておいた自分の両手を眺めていた。ハツミさんの身につけた全てのものと同じように、その両手はとてもシックで上品で高価そうだった。僕は直子とレイコさんのことを考えていた。彼女たちは今頃何をしているんだろう?直子はソファーに寝転んで本を読み、レイコさんはギターで『ノルウェイの森』を弾いているのかもしれないなと僕は思った。僕は彼女たち二人のいるあの小さな部屋に戻りたいという激しい想いに駆けられた。俺はいったいここで何をしているのだ?
「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ」と永沢さんが言った。「そこが他の連中と違っているところなんだ。他の奴らはみんな自分のことをまわりの人間にわかってほしいと思ってあくせくしてる。でも俺はそうじゃないし、ワタナベもそうじゃない。理解してもらわなくったってかまわないと思っているのさ。自分は自分で、他人は他人だって」
「そうなの?」とハツミさんが僕に訊いた。
「まさか」と僕は言った。「僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなくていいと思っているわけじゃない。理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけです。あきらめてるんです。だから永沢さんの言うように理解されなくたってかまわないと思っているわけじゃありません」
「俺の言ってるのも殆んど同じ意味だよ」と永沢さんはコーヒー・スプーンを手にとって言った。「本当に同じことなんだよ。遅いめの朝飯と早いめの昼飯の違いくらいしかないんだ。食べるものも同じで、食べる時間も同じで、ただ呼び方がちがうんだ」
「永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと思ってるの?」とハツミさんが訊いた。
「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期がきたからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」
「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなの?たとえばあなたに?」
「いや、べつに間違っていないよ」と永沢さんは答えた。「まともな人間はそれを恋と呼ぶ。もし君が俺を理解したいと思うのならね。俺のシステムは他の人間の生き方のシステムとはずいぶん違うんだよ」
「でも私に恋してはいないのね?」
「だから君は僕のシステムを――」
「システムなんてどうでもいいわよ!」とハツミさんがどなった。彼女がどなったのを見たのはあとにも先にもこの一度きりだった。
永沢さんがテーブルのわきのベルを押すと給仕人が勘定書を持ってやってきた。永沢さんはクレジット・カードを出して彼に渡した。
「悪かったな、ワタナベ、今日は」と彼は言った。「俺はハツミを送っていくから、お前一人であとやってくれよ」
「いいですよ、僕は。食事はうまかったし」と僕は言ったが、それについては誰も何も言わなかった。
給仕人がカードを持ってきて、永沢さんは金額をたしかめてボールペンでサインをした。そして我々は席を立って店の外に出た。永沢さんが道路に出てタクシーを停めるようとしたが、ハツミさんがそれを止めた。
「ありがとう、でも今日はもうこれ以上あなたと一緒にいたくないの。だから送ってくれないでいいわよ。ごちそさま」
「お好きに」と永沢さんは言った。
「ワタナベ君に送ってもらうわ」とハツミさんは言った。
「お好きに」と永沢さんは言った。「でもワタナベだって殆んど同じだよ、俺と。親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚めていて、そしてただ乾きがあるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ」
僕はタクシーを停めてハツミさんを先に乗せ、まあとにかく送りますよと永沢さんに言った。「悪いな」と彼は僕に謝ったが、頭の中ではもう全然別のことを考えはじめているように見えた。
「どこに行きますか?恵比寿に戻りますか?」と僕はハツミさんに訊いた。彼女のアパートは恵比寿にあったからだ。ハツミさんは首を横に振った。
「じゃあ、そこかで一杯飲みますか?」
「うん」と彼女は肯いた。
「渋谷」と僕は運転手に言った。
ハツミさんは腕組みをして目をつぶり、タクシーの座席によりかかっていた。金の小さなイヤリングが車のゆれにあわせてときどききらりと光った。彼女のミッドナイト・ブルーのワンピースはまるでタクシーの片隅の闇にあわせてあつらえたように見えた。淡い色あいで塗られた彼女のかたちの良い唇がまるで一人言を言いかけてやめたみたいに時折ぴくりと動いた。そんな姿を見ていると永沢さんがどうして彼女を特別な相手として選んだのかわかるような気がした。ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう、そして永沢さんならそういう女をいくらでも手に入ることができただろう。しかしハツミさんという女性の中には何かしら人の心を強く揺さぶるものがあった。そしてそれは決して彼女が強い力を出して相手を揺さぶるというのではない。彼女の発する力はささやかなものなのだが、それが相手の心の共震を呼ぶのだ。タクシーが渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、彼女が僕の心の中に引き起こすこの感情の震えはいったい何なんだろうと考えつづけていた。しかしそれが何であるのかはとうとう最後までわからなかった。
僕はそれが何であるかに思いあたったのは十二年か十三年あとのことだった。僕はある画家をインタヴェーするためにニュー・メキシコ州サンタ・フェの町に来ていて、夕方近所のピツァ・ハウスに入ってビールを飲みピツァをかじりながら奇蹟のように美しい夕陽を眺めていた。世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から皿からテーブルから、目につくもの何から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのことを思いだした。そしてそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何であったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた<僕自身の一部>であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆んど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてもでも彼女を救うべきだったのだ。
でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんは――多くの僕の知りあいがそうしたように――人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った。彼女は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切った。
彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボンから僕に手紙を書いてきた。「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かなかった。
*
我々は小さなバーに入って、何杯かずつ酒を飲んだ。僕もハツミさんも殆んど口をきかなかった。僕と彼女はまるで倦怠期の夫婦みたいに向いあわせに座って黙って酒を飲み、ピーナッツをかじった。そのうちに店が混みあってきたので、我々は外を少し散歩することにした。ハツミさんは自分が勘定を払うと言ったが、僕は自分が誘ったのだからと言って払った。
外に出ると夜の空気はずいぶん冷ややかになっていた。ハツミさんは淡いグレーのカーディガンを羽織った。そしてあいかわらず黙って僕の横を歩いていた。どこに行くというあてもなかったけれど、僕はズボンのポケットに両手をつっこんでゆっくりと夜の街を歩いた。まるで直子と歩いていたときみたいだな、と僕はふと思った。
「ワタナベ君。どこかこのへんでビリヤードできるところ知らない?」ハツミさんが突然そう言った。
「ビリヤード?」と僕はびっくりして言った。「ハツミさんがビリヤードやるんですか?」
「ええ、私けっこう上手いのよ。あなたどう?」
「四ツ玉ならやることはやりますよ。あまり上手くはないけれど」
「じゃ、行きましょう」
我々は近くでビリヤード屋をみつけて中に入った。路地のつきあたりにある小さな店だった。シックなワンピースを着たハツミさんとネイビー・ブルーのブレザー・コートにレジメンタル・タイという格好の僕の組みあわせはビリヤード屋の中ではひどく目立ったが、ハツミさんはそんなことはあまり気にせずにキューを選び、チョークでその先をキュッキュッとこすった。そしてバッグから髪どめを出して額のわきでとめ、玉を撞くときの邪魔にならないようにした。
我々は四ツ玉のゲームを二回やったが、ハツミさんは自分でも言ったようになかなか腕が良かったし、僕は厚く包帯を巻いていたのであまり上手く玉を撞くことができなかった。それでニゲームとも彼女が圧勝した。
「上手いですね」と僕は感心して言った。
「見かけによらず、でしょう?」とハツミさんは丁寧に玉の位置を測りながらにっこりとして言った。
「いったいどこで練習したんですか?」
「私の父方の祖父が昔の遊び人でね、玉撞き台を家に持っていたのよ。それでそこに行くと小さい頃から兄と二人で玉を撞いて遊んでたの。少し大きくなってからは祖父が正式な撞き方を教えてくれたし。良い人だったな。スマートでハンサムでね。もう死んじゃったけれど。昔ニューヨークでディアナ・ダービンにあったことがあるっていうのが自慢だったわね」
彼女は三回つづけて得点し、四回めで失敗した。僕は辛じて一回得点し、それからやさしいのを撞き損った。
「包帯してるせいよ」とハツミさんは慰めてくれた。
「長くやってないせいですよ。もう二年五ヶ月もやってないから」
「どうしてそんなにはっきり覚えてるの?」
「友だちと玉を撞いたその夜に彼が死んじゃったから、それでよく覚えてるんです」
「それでそれ以来ビリヤードやらなくなったの?」
「いや、とくにそういうわけではないんです」と僕は少し考えてからそう答えた。「ただなんとなくそれ以来玉撞きをする機会がなかったんです。それだけのことですよ」
「お友だちはどうして亡くなったの?」
「交通事故です」と僕は言った。
彼女は何回か玉を撞いた。玉筋を見るときの彼女の目は真剣で、玉を撞くときの力の入れ方は正確だった。彼女はきれいにセットした髪をくるりとうしろに回して金のイヤリングを光らせ、パンプスの位置をきちんと決め、すらりと伸びた美しい指で台のフェルトを押えて玉を撞く様子を見ていると、うす汚いビリヤード場のそこの場所だけが何かしら立派な社交場の一角であるように見えた。彼女と二人きりになるのは初めてだったが、それは僕にとって素敵な体験だった。彼女と一緒にいると僕は人生を一段階上にひっぱりあげられたような気がした。三ゲームを終えたところで――もちろん三ゲームめも彼女が圧勝した――僕の手の傷が少しうずきはじめたので我々はゲームを切りあげることにした。
「ごめんなさい。ビリヤードなんかに誘うんじゃなかったわね」とハツミさんはとても悪そうに言った。
「いいんですよ。たいした傷じゃないし、それに楽しかったです、すごく」と僕は言った。
帰り際にビリヤード場の経営者らしいやせた中年の女がハツミさんに「お姐さん、良い筋してるわね」と言った。「ありがとう」とにっこり笑ってハツミさんは言った。そして彼女がそこの勘定を払った。
「痛む?」と外に出てハツミさんが言った。
「それほど痛くはないです」と僕は言った。
「傷口開いちゃったかしら?」
「大丈夫ですよ、たぶん」
「どうだわ、うちにいらっしゃいよ。傷口見て、包帯とりかえてあげるから」とハツミさんが言った。「うち、ちゃんと包帯も消毒薬もあるし、すぐそこだから」
そんなに心配するほどのことじゃないし大丈夫だと僕は言ったが、彼女の方は傷口が開いていないかどうかちゃんと調べてみるべきだと言いはった。
「それとも私と一緒にいるの嫌?一刻も早く自分のお部屋に戻りたい?」とハツミさんは冗談めかして言った。
「まさか」と僕は言った。
「じゃあ遠慮なんかしてないでうちにいらっしゃいよ。歩いてすぐだから」
ハツミさんのアパートは渋谷から恵比寿に向って十五分くらい歩いたところにあった。豪華とは言えないまでもかなり立派なアパートで、小さなロビーもあればエレベーターもついていた。ハツミさんはその1DKの部屋の台所のテーブルに僕を座らせ、となりの部屋に行って服を着がえてきた。プリンストン・ユニヴァシティーという文字の入ったヨットパーカーと綿のズボンという格好で、金のイヤリングも消えていた。彼女はどこから救急箱を持って来て、テーブルの上で僕の包帯をほどき、傷口が開いていないことをたしかめてから、一応そこを消毒して、新しい包帯に巻きなおしてくれた。とても手際がよかった。
「どうしてそんなにいろんなことが上手なんですか?」と僕は訊いてみた。
「昔ボランティアでこういうのやってたことあるのよ。看護婦のまね事のようなもの。そこで覚えたの」とハツミさんは言った。
包帯を巻き終えると、彼女は冷蔵庫から缶ビールを二本出してきた。彼女が一缶の半分を飲み、僕は一本半飲んだ。そしてハツミさんは僕にクラブの下級生の女の子たちが写った写真を見せてくれた。たしかに何人か可愛い子がいた。
「もしガールフレンドがほしくなったらいつでも私のところにいらっしゃい。すぐ紹介してあげるから」
「そうします」
「でもワタナベ君、あなた私のことをお見合い紹介おばさんみたいだなと思ってるでしょ、正直言って?」
「幾分」と僕は正直に答えて笑った。ハツミさんも笑った。彼女は笑顔がとてもよく似合う人だった。
「ねえワタナベ君はどう思ってるの?私と永沢君のこと?」
「どう思うって、何についてですか?」
「私どうすればいいのかしら、これから?」
「私が何を言っても始まらないでしょう」と僕はよく冷えたビール飲みながら言った。
「いいわよ、なんでも、思ったとおり言ってみて」
「僕があなただったら、あの男とは別れます。そして少しまともな考え方をする相手を見つけて幸せに暮らしますよ。だってどう好意的に見てもあの人とつきあって幸せになれるわけがないですよ。あの人は自分が幸せになろうとか他人を幸せにしようとか、そんな風に考えて生きている人じゃないんだもの。一緒にいたら神経がおかしくなっちゃいますよ。僕から見ればハツミさんがあの人と三年も付き合ってるというのが既に奇跡ですよ。もちろん僕だって僕なりにあの人のこと好きだし、面白い人だし、立派なところも沢山あると思いますよ。僕なんかの及びもつかないような能力と強さを持ってるし。でもね、あの人の物の考え方とか生き方はまともじゃないです。あの人と話をしていると、時々自分が同じところを堂々めぐりしているような気分になることがあるんです。彼の方は同じプロセスでどんどん上に進んで行ってるのに、僕の方はずっと堂々めぐりしてるんです。そしてすごく空しくなるんです。要するにシステムそのものが違うんです。僕の言ってることわかりますか?」
「よくわかるわ」とハツミさん言って、冷蔵庫から新しいビールを出してくれた。
「それにあの人、外務省に入って一年の国内研修が終ったら当分国外に行っちゃうわけでしょう?ハツミさんはどうするんですか?ずっと待ってるんですか?あの人、誰とも結婚する気なんかありませんよ」
「それもわかってるのよ」
「じゃあ僕が言うべきことは何もありませんよ、これ以上」
「うん」とハツミさんは言った。
僕はグラスにゆっくりとビールを注いで飲んだ。
「さっきハツミさんとビリヤードやっててふと思ったんです」と僕は言った。「つまりね、僕には兄弟がいなくってずっと一人で育ってきたけれど、それで淋しいとか兄弟が欲しいと思ったことはなかったんです。一人でいいやと思ってたんです。でもハツミさんとさっきビリヤードやってて、僕にもあなたみたいなお姉さんがいたらよかったなと突然思ったんです。スマートでシックで、ミッドナイト・ブルーのワンピースと金のイヤリングがよく似合って、ビリヤードが上手なお姉さんがね」
ハツミさんは嬉しそうに笑って僕の顔を見た。「少なくともこの一年くらいのあいだに耳にしたいろんな科白の中では今のあなたのが最高に嬉しかったわ。本当よ」
「だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんです」と僕はちょっと赤くなって言った。「でも不思議ですね。あなたみたいな人なら誰とだって幸せになれそうに見えるのに、どうしてまたよりによって永沢さんみたいな人とくっついちゃうんだろう?」
「そういうのってたぶんどうしようもないことなのよ。自分ではどうしようもないことなのよ。永沢君に言わせれば、そんなこと君の責任だ。俺は知らんってことになるでしょうけれどね」
「そういうでしょうね」と僕は同意した。
「でもね、ワタナベ君、私はそんなに頭の良い女じゃないのよ。私はどっちかっていうと馬鹿で古風な女なの。システムとか責任とか、そんなことどうだっていいの。結婚して、好きな人に毎晩抱かれて、子供を産めばそれでいいのよ。それだけなの。私が求めているのはそれだけなのよ」
「彼が求めているのはそれとは全然別のものですよ」
「でも人は変るわ。そうでしょう?」とハツミさんは言った。
「社会に出て世間の荒波に打たれ、挫折し、大人になり……ということ?」
「そう。それに長く私と離れることによって、私に対する感情も変ってくるかもしれないでしょう?」
「それは普通の人間の話です」と僕は言った。「普通の人間だったらそういうのもあるでしょうね。でもあの人は別です。あの人は我々の想像を越えて意志の強い人だし、その上毎日毎日それを補強してるんです。そして何かに打たれればもっと強くなろうとする人なんです。他人にうしろを見せるくらいならナメクジだって食べちゃうような人です。そんな人間にあなたはいったい何を期待するんですか?」
「でもね、ワタナベ君。今の私には待つしかないのよ」とハツミさんはテーブルに頬杖をついて言った。
「そんなに永沢さんのこと好きなんですか?」
「好きよ」と彼女は即座に答えた。
「やれやれ」と僕は言ってため息をつき、ビールの残りを飲み干した。「それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね」
「私はただ馬鹿で古風なのよ」とハツミさんは言った。「ビールもっと飲む?」
「いや、もう結構です。そろそろ帰ります。包帯とビールをどうもありがとう」
僕が立ち上がって戸口で靴をはいていると、電話のベルが鳴りはじめた。ハツミさんは僕を見て電話を見て、それからまた僕を見た。「おやすみなさい」と言って僕はドアを開けて外に出た。ドアをそっと閉めるときにハツミさんが受話器をとっている姿がちらりと見えた。それが僕の見た彼女の最後の姿だった。
寮に戻ったのは十一時半だった。僕はそのまますぐ永沢さんの部屋に行ってドアをノックした。そして十回くらいノックしてから今日は土曜日の夜だったことを思いだした。土曜日の夜は永沢さんは親戚の家に泊まるという名目で毎週外泊許可をとっているのだ。
僕は部屋に戻ってネクタイを外し、上着とズボンをハンガーにかけてパジャマに着がえ、歯を磨いた。そしてやれやれ明日はまた日曜日かと思った。まるで四日に一回くらいのペースで日曜日がやってきているような気がした。そしてあと二回土曜日が来たら僕は二十歳になる。僕はベッドに寝転んで壁にかかったカレンダーを眺め、暗い気持になった。
*
日曜日の朝、僕はいつものように机に向って直子への手紙を書いた。大きなカップでコーヒーを飲み、マイルス・ディヴィスの古いレコードを聴きながら、長い手紙を書いた。窓の外には細い雨が降っていて、部屋の中は水族館みたいにひやりとしていた。衣裳箱から出してきたばかりの厚手のセーターには防虫剤の匂いが残っていた。窓ガラスの上の方にはむくむくと太った蠅が一匹とまったまま身動きひとつしなかった。日の丸の旗は風がないせいで元老院議員のトーガの裾みたいにくしゃっとボールに絡みついたままびくりとも動かなかった。どこかから中庭に入りこんできた気弱そうな顔つきのやせた茶色い犬が、花壇の花を片端からくんくんと嗅ぎまわっていた。いったい何の目的で雨の日に犬が花の匂いを嗅いでまわらねばならないのか、僕にはさっぱりわからなかった。
僕は机に向って手紙を書き、ペンを持った右手の傷が痛んでくるとそんな雨の中庭の風景をぼんやりと眺めた。
僕はまずレコード店で働いているときに手のひらを深く切ってしまったことを書き、土曜日の夜に、永沢さんとハツミさんと僕の三人で永沢さんの外交官試験合格の祝いのようなことをやったと書いた。そして僕はそこがどんな店で、どんな料理が出たかというのを説明した。料理はなかなかのものだったが、途中で雰囲気がいささかややこしいものになって云々と僕は書いた。
僕はハツミさんとビリヤード場に行ったことに関連してキズキのことを書こうかどうか少し迷ったが、結局書くことにした。書くべきだという気がしたからだ。
「僕はあの日――キズキが死んだ日――彼が最後に撞いたボールのことをはっきりと覚えています。それはずいぶんむずかしいクッションを必要とするボールで、僕はまさかそんなものがうまく行くと思わなかった。でも、たぶん何かの偶然によるものだとは思うのだけれど、そのショットは百パーセントぴったりと決まって、緑のフェルトの上で白いボールと赤いボールが音もたてないくらいそっとぶつかりあって、それが結局最終得点になったわけです。今でもありありと思い出せるくらい美しく印象的なショットでした。そしてそれ以来二年近く僕はビリヤードというものをやりませんでした。
でもハツミさんとビリヤードをやったその夜、僕は最初の一ゲームが終るまでキズキのことを思い出しもしなかったし、そのことは僕としては少なからざるショックでした。というのはキズキが死んだあとずっと、これからはビリヤードをやるたびに彼を思い出すことになるだろうなという風に考えていたからです。でも僕は一ゲーム終えて店内の自動販売機でペプシコーラを買って飲むまで、キズキのことを思い出しもしませんでした。どうしてそこでキズキのことを思い出したかというと、僕と彼がよく通ったビリヤード屋にもやはりペプシの販売機があって、僕らはよくその代金を賭けてゲームをしたからです。
キズキのことを思い出さなかったことで、僕は彼に対してなんだか悪いことをしたような気になりました。そのときはまるで自分が彼のことを見捨ててしまったように感じられたのです。でもその夜部屋に戻って、こんな風に考えました。あれからもう二年半だったんだ。そしてあいつはまだ十七歳のままなんだ、と。でもそれは僕の中で彼の記憶が薄れたということを意味しているのではありません。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の中に残っているし、その中のあるものはその当時よりかえって鮮明になっているくらいです。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十歳だし、僕とキズキが十六か十七の年に共有したもののある部分は既に消滅しちゃったし、それはどのように嘆いたところで二度と戻っては来ないのだ、ということです。僕はそれ以上うまく説明できないけれど、君なら僕の感じたこと、言わんとすることをうまく理解してくれるのではないかと思います。そしてこういうことを理解してくれるのはたぶん君の他にはいないだろうという気がします。
僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雨が降っています。雨の日曜日は僕を少し混乱させます。雨が降ると洗濯できないし、したがってアイロンがけもできないからです。散歩もできなし、屋上に寝転んでいることもできません。机の前に座って『カインド・オブ・ブルー』をオートリピートで何度も聴きながら雨の中庭の風景をぼんやりと眺めているくらいしかやることがないのです。前にも書いたように僕は日曜日にはねじを巻かないのです。そのせいで手紙がひどく長くなってしまいました。もうやめます。そして食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら」