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草薙が帝都大学理工学部物理学科第十三研究室を訪ねたのは、奇怪な事件が起きてから三日目のことだった。
彼はこの大学の社会学部を出ていた。だから理工学部のほうに足を踏み入れたことなど、在学中は一度もなかった。卒業して十年以上経ってからこんなところへ来ることになるとはなあと、自分のことながらおかしかった。
灰色をした四階建ての建物が物理学科のある棟だった。それを下から見上げただけで萎縮しそうになるのは、生まれついての理系オンチのせいだろうと草薙は自己分析した。
目的の部屋は三階にあった。ドアの前に助手や学生の名前を書いた紙が張ってあり、その横に行き先を示す磁石のプレートがくっつけてあった。学生は全員講義に出ているようだ。そして湯川という名字のところを見ると、『在室』になっていた。草薙は時計を見て、約束の二時を少し過ぎていることを確認してからドアをノックした。
はい、という声が聞こえた。それで彼はドアを開いたが、部屋の中を見て一瞬たじろいだ。
室内は明かりがついておらず、真っ暗だった。いや、昼間であるから明かりをつけなくとも充分に明るいはずなのだが、遮光カーテンでもつけてあるのか窓からの光も殆どなく、まるで暗室のようなのだ。
「湯川、どこにいるんだ」
草薙が呼びかけた時、突然すぐそばで機械の動く音がした。モーター音に似ており、しかも草薙としても馴染《なじ》みのある音だった。
そうだこれは電子レンジの音だと彼が気づくのとほぼ同時に、すぐ目の前に炎が出現した。見ると小型の電子レンジが机の上に置かれ、その中で電球が光を発しているのだった。しかもそれは通常の電球の光り方ではなく、中で炎がゆらめいているのだ。
見ていると光は次第に小さくなり、やがて消えた。するとそれを待っていたようにカーテンが開けられた。
「日々、治安維持に努めてくれている草薙刑事をもてなすには、光がちょっとばかり貧弱すぎたかな」
白衣姿の男が、カーテンの端を持って立っていた。長身で色白、黒縁眼鏡をかけた秀才タイプの顔つきは、学生の頃から殆ど変わっていない。前髪を眉の少し上で切りそろえた髪型も、昔のままだった。
草薙はため息をつき、ついでに苦笑いした。
「おどかすなよ。いい歳をして悪戯《いたずら》かい?」
「そんなふうにいわれると心外だね。僕としちゃあ、君への協力の意思を形で示したつもりなんだけど」
湯川はカーテンをすっかり開けてしまうと、白衣の袖をまくりながら草薙のほうへ歩み寄ってきた。そして右手を出した。
「元気だったかい」
「まあな」そういって草薙は湯川と握手した。優男に見えるが、湯川はバドミントン部のエースだった。草薙は何度も彼と練習で対戦したが、いつも苦戦を強いられた。今こうして草薙の右手を握ってくる力の強さは、その頃のことを思い出させるものだった。
「いつ以来かな」握手を終えてから草薙はいった。二人が会うのは、という意味だった。
「最後に会ったのは三年前の十月十日だった」湯川はいった。自信のある口ぶりだ。
「そうだったか」
「川本の結婚披露宴で会っただろ。あれが最後だ。ほかの者が黒の礼服なのに、草薙一人だけがグレーのスーツを着ていた」
「ああ」草薙はその時のことを思い出して頷いた。たしかにそのとおりだった。そして記憶力のほうも昔のままらしいぞと湯川を見て思った。
「大学のほうはどうだい。助教授になって、いろいろと大変じゃないのか」仲間の白衣姿を眺めながら草薙は訊いた。
「別に大きく変わることはないね。学生の質が年々低下していく現象にも、もう慣れた」湯川は真面目な顔でいった。冗談のつもりではなさそうだった。
「手厳しいな」
「それより」湯川はいった。「君のほうこそ大変じゃないのか。特にここ二、三日は」
「どういう意味だ?」
「僕としては君の狙いを察して、こういうものも用意して待っていたわけだよ」湯川は先程の電子レンジを指差した。
「そういえば何かいってたな。協力の意思とか」そういいながら、草薙は電子レンジに触れようとした。
「ストップ。電源部分が露出したままだ」
湯川があわててそばのコンセントからプラグを抜いた。たしかに電子レンジの背面カバーが外され、そこに草薙には何が何だかさっぱりわからない機器が取り付けられているのだった。
それから湯川は電子レンジの前面扉を開け、中のものを取り出した。それは金属製の灰皿に入れられた電球だった。
「これがさっきの手品の正体さ」と彼はいった。
草薙は湯川の手元をしげしげと眺めた。
「単なる電球に見えるけどなあ」
「そう。単なる電球さ」湯川はそれを近くの机の上に置いた。「電子レンジの電磁波による誘導電流で、電球内部のキセノンがプラズマ化して発光したんだ。紫色だけでなく、緑色の光も見えたから、フィラメントを支えている銅から出た、銅のプラズマも混じっていたかもしれないな」
「プラズマ? 今のがプラズマかい」草薙は訊いた。その前の湯川の話は殆ど意味がわからなかったが、プラズマという言葉には馴染みがある。
「まあね」湯川はそばの椅子に腰を下ろし、大きく後ろにもたれた。「これで僕がさっきいった意味がわかっただろう? 草薙はプラズマについて訊きたいがために、わざわざこんなところまで来たはずだからな」
「参ったね」草薙は首の後ろを撫でながら、湯川とは机を挟んで反対側の椅子に腰かけた。「どうしてわかった」
「それほど大した推理でもないだろう。例の焼死事件のことは我々の間でも有名だし、人が死んでいるわけだから警視庁捜査一課の草薙が駆り出されている確率は高い。その草薙が、忙しい合間を縫って、僕と昔話をするためだけにこんなところへ来るはずがないじゃないか」
あっさりと見抜かれて、草薙としては苦笑するしかなかった。
「ま、そういうことだ」頬をぽりぽりと掻いた。
「とりあえずコーヒーでもいれよう。ただしインスタントだがね」湯川は立ち上がり、コンロで湯を沸かし始めた。
彼がコーヒーをいれてくれる間に、草薙は手帳を取り出し、事件の概要をもう一度見直した。
じつのところこれが事件と呼べるものなのか、それとも単なる事故なのか、警察としてもまだよくわかっていなかった。
これまでに明らかになっていることを整理すると次のようになる。まず、花屋通りという地味な道路の道端で突然局所的な火災が起き、近くにいた若者五人のうち一人が死亡、残る四人は重軽傷という被害が出た。現場にはガソリンの臭いが充満し、焼け跡の中から灯油用の赤いポリタンクと思われるものが見つかっていることから、そこに入れてあったガソリンが何らかの弾みで燃えだしたと考えられる。ただし、なぜそこにそんなものがあったのかは不明。若者たちは、そんなポリタンクのことは知らないし、絶対に自分たちが火をつけたのではないと主張している。
ではなぜ突然火災が起きたのか。
プラズマ説は、一部のマスコミがいいだしたことだった。雷が発生しやすいような気象条件の時、空気などのガス状物質に誘導電流が流れることにより、強い光と高熱を伴う火の玉のようなプラズマが出現することがある。今回の事件でも、そうしたプラズマの一種が発生したことでポリタンク内のガソリンが燃えだしたのではないかというわけだ。こうした説が出る背景に、いくつかの超常現象がプラズマで説明できるという実績があるのは明らかだった。警察としても、これを霊の仕業だとか、超能力によるものだとかいわれるのよりは、プラズマ説のほうが受け入れやすい。それで一度プラズマについて調べてみようということになり、草薙が大学時代の友人である湯川を訪ねることになったのだった。
その湯川がコーヒーカップを二つ持って戻ってきた。どちらも何かの景品でもらったと思われる、趣味の悪いマグカップだった。あまりきちんと洗っていないことは、見ただけですぐにわかった。それでも草薙は、「やあ、すまんなあ」といって、インスタントコーヒーをおいしそうに一口|啜《すす》った。
「で、どう思う?」カップを机に置いてから草薙は訊いた。
「どう思うって?」
「例の事件についてさ。花屋通りの火災事件をどう思う? こんな実験をして見せたところからすると、おまえもプラズマだと考えているわけか」
「僕がこの実験をしたのは、新聞にプラズマ説が載っていて、草薙もきっとこれに関心があるだろうと思ったからだ。僕としては、今のところ何の意見もない。プラズマかもしれないし、そうじゃないかもしれない。何しろデータが何一つないんだから、仮説の立てようがないよ」
「おまえは事件について、どの程度まで知ってるんだ」と草薙は訊いた。
「当然のことながら、せいぜい新聞に載っている程度のことさ。つまり」湯川はコーヒーを一口飲んでから続けた。「なぜか道端に置いてあったガソリン入りのポリタンクが、なぜか突然火を吹いて、そばにいた若者を焼いた――これだけのことさ」
「それだけのことから、何か推理できないか」
草薙の言葉に湯川は吹き出した。
「無茶いうなよ。焼け跡からどういうものが見つかったのか、それを詳しく調べなきゃ原因なんか推察できない。消防の連中だって、そんなふうにいったはずだ」
「焼け跡から見つかったのはポリタンクだけだ。本当にそれだけなんだ」
「タンクに何か仕掛けがしてあったんじゃないかって、テレビのニュースキャスターがいってたな」
「そんな連中がいうことを、俺たちが考えつかないとでも思うかい? 鑑識が目の色を変えて調べたけれど、仕掛けの痕跡は見つからなかったんだ」
「それはご愁傷様」
「茶化すなよ。本気で知恵を借りたいと思ってるんだ」
草薙が真面目な顔でいうと、湯川はちょっと肩をすくめて見せ、それから笑みを浮かべていった。
「面白いことを教えてやろう。アメリカで、UFOを目撃したという人の話を徹底的に分析してみたところ、九十パーセント以上が何かの見間違いであると判明したそうだ。しかもその中で最も多いのは、なんと天体をUFOと見間違えたというものだった。特に多いのは金星だが、中には月をUFOだと思ったという人間さえいる」
「何がいいたいんだ」
「幽霊の正体は、いつも案外つまらないということさ。ガソリンの入ったポリタンクがあって、その近くにまだ大人の分別が備わっていない少年数名がいた。で、そのタンクに火がついたということになれば、考えられることは一つじゃないか」
草薙は目を剥《む》いた。
「連中は嘘をついていて、やっぱり奴等がガソリンに火をつけたっていうのか。大火傷《おおやけど》することを覚悟で」
「わざとつけたかどうかはわからない。もしかしたらポリタンクを置いたのは別の人間で、少年たちは中身がガソリンだと知らなかったのかもしれない。でもとにかく、彼等が原因じゃないという証拠はないだろう。どうせ煙草を吸っていただろうし、ライターだって持っていたはずだ」
湯川がいうのを聞いて、草薙は思わず顔をしかめた。
「がっかりさせることをいわないでくれよ。それじゃあまるで、うちの課長と同じだ」
「へえ、捜査一課長は、この説なのかい」
「ガキたちの火の不始末が原因だろうってさ」
「いいじゃないか。じつに論理的だ。非のうちどころがない」
「おまえがそういう保守的な意見に固執するなら、新しい情報を与えてやろう」草薙はそういいながら上着の内ポケットから何か取り出した。
「保守的なわけじゃなく、常識的なんだけどね。なんだいそれは。小型テープレコーダーのようだな」
「少年の一人から話を聞いた時のものだ。火傷のせいで口を動かすのは難儀そうだが、意識ははっきりしている。まあちょっと聞いてくれ」
草薙がスイッチを入れると、テープレコーダーからぼそぼそとしゃべる声が聞こえてきた。彼はボリュームを上げた。
まず簡単な身元確認がある。少年の名前は向井和彦、十九歳だった。
そしていよいよ本題に入る。草薙による質問から。
(燃えた時のことを教えてほしいんだけどね、その前に何か変わったことはなかった?)
(変わった……こと?)
(何でもいいんだよ。君は何をしていた)
(おれ……俺は、ええと、煙草を吸ってたのかな。それで、良介の話を聞いてた)
(ほかの友達はどうだった? 何をしていた)
(特に何も……やっぱり良介の話を聞いてただけ。それでそうしたら急に燃えだしたんだ。すごい、びっくりした)
(ポリタンクが燃えたんだね)
(そうじゃなくって……良介が……良介の頭が)
(頭?)
(髪の毛が……あいつの後ろの髪の毛から急に火が出たんだ。そうして、あいつはばったり倒れて……それで、びっくりしてたら、あっという間に俺たちまで火に包まれてて……あとは何だかよくわからない)
(ちょっと待って。それは逆じゃないのかな。まず火に包まれて、それでその友達の頭が燃えだしたんじゃないのかい)
(違う。そうじゃない。あいつの頭が燃えたんだ。最初に良介の頭が燃えたんだ)
ここまで聞いたところで草薙はテープレコーダーのストップボタンを押した。
「どうだい?」と彼は湯川を見た。
湯川はいつの間にか頬杖をついていた。だがそれが退屈している徴《しるし》でないことは、眼鏡の奥の目が語っている。
「頭が燃えた?」
「そういうことらしいぜ」
草薙は湯川がどうやら興味を抱き始めたことを知り、内心ほくそ笑みながら煙草の箱を取り出した。だが彼が一本抜き取ろうとした時、湯川は無言で壁の張り紙を指差した。そこには『禁煙 それ以上脳味噌の血の巡りを悪くしてどうする』と書いてあった。草薙はげんなりしながら煙草をポケットにしまった。
「頭が、燃える」湯川は腕組みをした。『マッチ棒みたいに、頭だけが先に、燃える』低く唸《うな》り始めた。「手品でもないのに燃える? 大道芸で火を吹く男がいるけど、あれだって頭は燃えない」
「でも燃えたんだ」草薙は拳を振った。「頭だけが先に燃えたんだ」
「死体はどうなってる。やっぱり頭だけ焼けてるのか」
「残念ながら、倒れた後でポリタンクの火災に巻き込まれたらしく全身黒焦げだ。どこから先に燃えたのかは判断できない」
湯川は再び唸った。それからふと何かを思い出した顔で草薙を見た。
「それで君のところの論理的な課長は、これについて何といってるんだい」
「この証人の錯覚だろうといっている。気が動転して、記憶が混乱しているんだってさ。だけど他の少年たちに訊いても、やっぱりその良介という少年の頭が燃えたのが先だというんだ」
「なるほど」湯川は一つ頷いた。それから腰をあげた。「じゃあ、ちょっと行ってみようか」
「どこへ?」
「決まっているだろう。その怪奇現象の現場へだよ」
草薙は湯川の顔を少し眺めてから、勢いよく立ち上がった。
「オーケー、案内しよう」