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探偵ガリレオ 第一章 燃える 06
日期:2017-12-28 21:35  点击:349
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 その男がやってきたのは、一日分の仕事を終え、メインブレーカーを落とそうかと考えていた時だった。男がどこから入ってきたのか、いつ入ってきたのかわからなかったから、「ちょっとすみません」と声をかけられた時には、前島一之は心臓が止まるかと思うほど驚いた。
 男は大型機械を搬入するためのシャッターの内側に立っていた。長身だが、眼鏡をかけているせいで、線の細い感じのする人物だった。しかしよく見ると肩はがっちりしているし、上着の袖から覗く掌には、張りのある筋肉がついていた。
 なんですかと訊くかわりに、前島は警戒心を込めた目で見ながら軽く会釈した。すると男も頭を下げてきた。
 この工場に知らない人間が入ってくることなど初めてだった。経営者を含めて三人しかいない小さな町工場なのだ。今日はその社長は、得意先との付き合いで早々に出かけていった。おまけに頼みの綱の相棒は、風邪で寝込んでいる。
「仕事を頼みたいんだけどな。ここだとかなり精密な加工をしてもらえると聞いたものだから」男は感情のこもらない声でいった。不気味な感じがした。
 どうしようと、前島は思った。こんなふうに直接やってきた客にどう対処すればいいのか、全く見当がつかなかった。
 彼が返事をしないものだから、男はいつまでも彼のことを見つめて立っていた。何らかの答えを聞かないことには引き下がらないぞ、という決意が漂っていた。
 仕方なく前島は業務日誌を手に取り、今日の分の裏に『私は唖者です。口がきけません』と書いて男に見せた。
 だが男はそれについては何もコメントしなかった。先程までと変わらぬ表情でこういった。
「正式な発注は後日出すつもりなんだよ。ただその前に、こちらの希望通りの加工ができるかどうかを確認しておきたくてね。ええと、実際に作業するのは君なんだろう?」
 前島は頷きながら自分を指し、さらにその後で二本立てた。
「ああ、もう一人いるわけか。まあでもいいや、君がいれば。ええと、ちょっと機械を見せてもらってもいいかな」
 前島は頷いた。社長が時々客を案内しているのを見ていたからだ。それに、見られて困るものなど何もない。
 男は妙にゆっくりとした足運びで、まずそばに並んでいる機械に近づいた。
「ふうん、放電加工機が二台にワイヤカット機が二台ということだね。全部M社製か。一応NCも付いている」
 それを聞いて前島は、あわてて日誌の裏に走り書きし、男の顔の前に突きつけた。男は声を出してそれを読んだ。
 古い機種だからあまりむずかしい加工はできません――そこにはそう書いてある。
 男はかすかに笑ったようだ。わざわざこんなふうに断る謙虚さがおかしかったのかもしれない。
 だが前島としては、釘を刺しておいて悪いことはなかった。無理な仕事を引き受けて困るのは、自分たち作業者なのだ。
 時田製作所というのが、この町工場の名前だった。時田はいうまでもなく社長の名字である。ここにある機械はすべて、時田社長がかつて勤めていた重機メーカーから安く払い下げてもらったものだ。耐用年数なども、はるかに過ぎている。それでも小回りのきく部品加工業者として、時田製作所は各方面から重宝されていた。
「ワイヤは〇・四ミリか」ワイヤカット機を覗き込んで男は訊いた。
 前島は頷いた。よく知っている男だなと感心した。
 ワイヤカット機とは、いわば電気エネルギーを使った糸鋸《いとのこ》だ。糸鋸は刃で被工作物を切っていくが、ワイヤカット機の場合は、ワイヤから出る細かい放電電流で被工作物を溶断していく。放電電流を小さく絞ってやることで、ミクロン単位にまで精度をあげることができる。
「この加工はどうかな。できるかな」男が一枚の紙を上着の内ポケットから出した。それは方眼紙の上に、雑な線で部品の形を描いたものだった。しかし加工精度に関する書き込みや指示などは、この男が素人でないことを示していた。
 小さな部品だな、と図面を見て前島は思った。コーナー部分の条件がかなり厳しい。それを伝えたくて、図面上のその部分を指し、首を傾げて見せた。
「やっぱりそこが難しいかな。できなければ、できるレベルでということでもいい」
 男は室内をじろじろ見回しながら壁に沿って歩いた。そして棚のパレットに入っている部品に気づくと、手で取って眺め始めた。ある会社から注文された自動車部品の試作品だった。
 前島は近くの机を拳で叩いた。男は驚いた顔で振り返った。
 前島はパレットを指し、手で触る格好をした後、両手で×印を作った。それで男も彼のいいたいことがわかったようだ。
「あっと失礼。金属製品を素手で触るのは御法度だったね。塩分で錆びてしまう」男は手に持っていた部品を、あわてて戻した。「それでどうかな、やってもらえそうかな」
 前島は図面のいくつかの部分を指し、次に親指と人差し指を目の前に持っていき、三センチほどの間隔を作った。
「ああ、なるほどね。その部分の条件を緩めてくれるなら何とかなるかもしれない、と。ふうん」予想通りという顔で男は頷いた。「じゃあ、今日のところはいったんその図面を持ち帰って、明日また出直すとしよう」
 それがいい、という思いをこめて前島は頷き、男に図面を返した。
 だが図面を受け取った後も、男はすぐには帰らなかった。壁際に立ててあるガスボンベを眺めている。そこにはいろいろな種類のガスがあった。
「じつは、もう一つ教えてもらいたいことがあるんだがね」前島の視線に気づいたのか、男は人差し指を立てていった。
 前島は身構えた。
 男はいった。「妙なことを訊くようだけど、こういう放電加工機やワイヤカット機を使っていて、何か特殊な現象が起きたということは過去になかったかな」
 本当に妙な質問だった。前島としては首を傾げるしかなかった。
「つまり」男は右手をひらひらと動かして続けた。「プラズマが発生したとかだよ」
 前島は思わず目を見開いた。
「放電現象とプラズマとは密接な関係がある。それでこういうことを訊くわけだが」
 前島は例の日誌の裏に、『花屋通りの事故のことですか』と書いて、男に見せた。
「まあ、そういうことだ」男は苦笑を浮かべた。それから上着のポケットに手を入れ、今度は名刺を出してきた。「こういう者だけどね、例の事件が仲間うちでちょっとした話題になっているんだ」
 その名刺によると、この男は某有名大学の物理学助教授らしかった。前島は少し緊張した。
「それでテスト加工をお願いするついでに、何か参考になりそうな話を聞けないかと思ったわけだよ」
 前島は頷いた。それから日誌の裏に、こんなふうに書いて見せた。
『そんなものが出たことは一度もありません』
「プラズマが出たことはないという意味かい?」
 前島は首を縦に振った。
「そうか」男は少し残念そうな顔をした。
 前島はさらに文字を書いた。
『やっぱりプラズマですか』
「さあ、我々はそう考えているがね、今一つ決め手に欠ける」
 どういうことだろうと思い、前島は首を捻《ひね》って見せた。
「プラズマは同じ場所に発生しやすいという性質がある。だから、またあのあたりに同じような現象が起きれば、まず間違いないということになるんだろうけどね」男はガスボンベの頭を叩きながらいうと、前島のほうを向いた。「仕事の邪魔をして悪かった。じゃあ加工精度のことを少し検討してから出直してくるよ」
 お待ちしています、という気持ちを込めて前島は頭を下げた。自分に対し、全くふつうに接してくれた男の態度が嬉しかった。
 大学の物理学助教授は、片手を上げると、シャッターの横にある扉から出ていった。

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