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草薙が案内された建物のドアには、『高電圧研究室』と書かれていた。さらに黄色の文字で、『危険 関係者以外絶対立入禁止』とある。それだけで彼は気後れしたのだが、中に入ってみて、さらに足がすくんでしまった。
テレビか写真でしか見たことのないような巨大な碍子《がいし》が立ち並んでいる様子は、まるで発電所の一部をこの部屋に移したようだ。そして蛇の大群のように、無数のケーブルが床を走っている。
「なんか、こういうところに来ると、迂闊にものに触れないって気がするな」前をすたすた歩く湯川の背中に、草薙は話しかけた。「俺、電気ってのがどうも苦手だからな。すぐに感電しちゃうような気がするんだよ。実際には、そういうことはないんだろうけどさ」
すると湯川は足を止め、くるりと振り返った。
「いや、そういうことはあるよ」
「えっ」
「たとえばほら、君の横にある小さな箱だ。何だと思う?」
湯川にいわれ、右横を見た。大型のストーブほどの大きさの金属製の箱が置いてある。上に二つの突起があるだけで、何かの機械には見えなかった。
「わからんな。さっぱりわからん。何なんだ」
「コンデンサさ」と湯川はいった。「蓄電器ともいう。名前ぐらいは知ってるだろ」
「ああ、コンデンサね。理科の授業で習った覚えがある」答えながら、なぜ俺は愛想笑いをしているんだろうと草薙は思った。
「ちょっと触ってみるといい。その突起のあたりをさ」
「平気かい?」草薙は、おそるおそる手を出した。
「平気かもしれんが」湯川は淡々とした口調で続けた。「感電のショックで身体が吹っ飛ぶかもしれない」
草薙はあわてて手を引っ込めた。「冗談だろ?」
「原則として、ここにあるコンデンサはすべて放電しきった状態にしてある。だけど長時間放置しておくと、静電作用で徐々に帯電していくものなんだ。そのクラスのコンデンサが完全に充電されていたら、君の身体などはひとたまりもないだろうね」
草薙は飛び退いて、湯川に駆け寄った。
「なんだよ。だったら、触れなんていうなよ」
「心配するな。よく見てみろ。コンデンサの二つの突起が、ケーブルで繋がれているだろ。ああしておけば、電気がたまることはない」ふふんと鼻で笑って、湯川は再び歩きだした。
乱雑に散らかった実験室の中央に、四角い水槽が置いてあった。家庭の浴槽程度の大きさだ。透明アクリルで作られているので、水の入っている様子がよくわかる。そして水の中には、いろいろなものが沈められているようだ。そこからは電気コードも出ている。
湯川はその横に立ち、中を覗いた。
「ちょっとこっちへ来てくれ」
「また脅かすんじゃないだろうな」
「驚くかもしれんが、君の仕事のためには仕方のないことさ」
湯川に促され、草薙は中を覗き込んだ。思わず、「おっ」と声が出た。
まず目を引いたのは、水の中に沈んでいるマネキンの首だった。女性らしいが、カツラはつけられていない。その顔から数センチ離れたところに、例の薄いアルミ材がセットされていた。そしてそこからさらに数センチの距離をおいて、今度は電気コードが固定されている。コードはそのあたりだけ被膜が剥《む》かれ、中の導線も、ほつれて切れかけたようになっていた。
「ひょうたん池での状態を再現してみた」と湯川はいった。
「こんなふうになってたというのか」
「おそらく」
「これでどうやって、例の金属マスクができるんだ」
「それをこれから見せてやるんだよ」
湯川は水槽から出ている電気コードを辿《たど》って移動した。その先端は、明らかに手製と思われる装置に接続されていた。その装置の一部には、先程草薙が脅かされたコンデンサなるものも使われている。ただしこちらのコンデンサのほうが、かなり大きかった。
「簡単な、雷発生装置だ」と湯川は説明した。
「雷?」
「あそこに、向き合った電極があるだろう」三メートルほど離れた先を彼は指差した。
そこには、銅の丸い電極を数十センチ離して固定した装置が置いてある。よく見ると電極の一方は、水槽から出ている電気コードに繋がっているようだ。
「あそこで小さな雷を発生させるわけだ」
「そうすると、どうなるんだ」
「ひょうたん池で電気コードを拾っただろう?」
「ああ」
「あのコードは池の縁に落ちていた鉄骨材に絡まっていた。覚えてるか?」
「そうだったな」
「君が調べてくれたように、八月十七日、あのあたりを激しい雷雨が襲った。それだけでなく、大きな雷が一つ、池のそばに落ちたんだ」
「あの鉄骨に?」
「そう」湯川は頷いた。「避雷針の役割を果たしたわけだ。君も知っているように、雷の正体は電気だ。雷雲の中でたくわえられた電気エネルギーが、鉄骨に向かって一気に放出されたと考えてくれ」
草薙は頷いた。その様子を想像することは、科学オンチの彼でも難しいことではなかった。
「さて鉄骨に投入された電気エネルギーは、その後どうなるか。ふつうなら地面に吸い込まれるところだ。事実、一部はそうなっただろう。だが鉄骨には、もっと電気を通しやすい電気コードが絡まっていた。大部分の電気は、コードを通って、池の中へと放出されることになったはずだ」そういいながら湯川は、アクリルの水槽を指差した。
「それで?」と草薙は先を促した。ここまでの説明も、彼に理解できるものだった。
「しかし」と湯川はいった。「もしその電気コードが、それだけの電気エネルギーを通せるほど太くなかったとしたら、どうだろう。あるいは、一部細くなっていて、切れそうになっていたとしたら」
この問いに対して、二秒ほど考えてから草薙は首を振った。
「わからん。どうなるんだ」
「それをこれから実験する」そういうと湯川は白衣のポケットから、眼鏡を一つ取り出し、草薙のほうに差し出した。
「なんだい、これ」
「安全眼鏡だ。度は入っていない。万一のことがあっては大変だから、かけてくれ」
「万一のこと?」
「何かの破片が飛び散るおそれがある」
湯川にいわれ、草薙はあわててその眼鏡をかけた。
「では始める」湯川は、そばの機械のダイヤルを、ゆっくりと右に回し始めた。「現在、コンデンサに電気をたくわえているところだ。いわば、雷雲を作っているところだと考えてくれればいい」
「雷が、間違って俺たちのところに落ちる、なんてことにはならないだろうな」草薙は訊いた。無論冗談のつもりだった。
「それはない」
「そうか」
「配線が間違ってなければな」
えっ、といって草薙は湯川の真面目くさった横顔を見た。
「コンデンサへの充電が完了しつつある」と湯川は電極のほうを見ていった。「二つの電極の間には、何万ボルトという電位差が生じている。二極間を遮っているのは、空間という名の壁だ。だがその壁を破るほど、電位差が大きくなったら……」
彼がそこまでいった時だった。激しい衝撃音と共に、二つの電極間に閃光が走るのを草薙は見た。そしてそれとほぼ同時に、水槽の中で低い破裂音がした。
「なんだっ」
草薙が水槽のほうへ駆け寄ろうとするのを、湯川が腕を掴んで止めた。
「最後の詰めで感電死するのは馬鹿馬鹿しいだろ」湯川はいくつかの操作をしてから、草薙の背中を叩いた。「よし、見に行ってみよう」
二人は水槽に駆け寄った。中を覗き込んだ草薙は、あっと声を上げた。
「満足してもらえたようだな」
湯川は水槽の中に両手を突っ込むと、マネキンの首を引き上げた。その顔には、薄いアルミ材が、ぴったりとくっついていた。彼はそれを慎重な手つきで引きはがした。そして、「注文の品だ」といって、草薙のほうに差し出した。
草薙はそれを受け取り、しげしげと眺めた。見事にマネキンの顔の凹凸を転写した型になっていた。
「どういうからくりだ……」
「衝撃波さ」
「何?」
「あまりにも大きな電気エネルギーが投入されたため、電気コードが途中で溶断してしまったんだ。しかも瞬間的にね。ヒューズが切れるようなものだ」
湯川は水槽の中から電気コードを引き上げた。その先端は溶けて丸くなっていた。ひようたん池で拾ったコードと同じだと草薙は思った。
「その際、水の中に強烈な衝撃波が発生する。そばにあるものを、外側に押しやろうとする力が働く。当然のことながら、アルミ材はマネキンの顔のほうに押しつけられる」
「その結果、これができたわけか」金属マスクを眺めて草薙は呟いた。
「昔からよく知られた技術ではあるんだが、今はこれを使って何かを作るなんてことは、殆どないんじゃないかな。僕も実験したのは今回が初めてだ。いい勉強になった」
「不思議なこともあるものだなあ……」
「少しも不思議じゃない。当然の結果さ。前に君にもいったはずだ。世間で騒がれる不思議な現象のいくつかは流体の悪戯だとね。今回も、その一つさ」
「いや、俺が不思議だといったのは、そういう意味じゃない」草薙は顔を上げた。「例のマスクが見つからなければ、死体は発見されなかった。さらに、雷から事件発生の日を推定することもできなかった。そう思うと、柿本進一の無念さが、マスクになって現れたように思われるんだ。オカルト嫌いのおまえにいわせると、馬鹿げた話だということになるんだろうが」
どうせ湯川は嘲笑するだろうと草薙は思った。だが彼はそうしなかった。代わりに白衣のポケットから、折り畳まれた一枚の紙を取り出した。何かをコピーしたもののようだ。
「はじめて金属マスクの話を聞いた時、僕がライフルのことを尋ねたのを覚えてるかい? ひょうたん池の近くで、ライフルによる猟が行われているか、という質問だった」
「ああ、覚えている。なんで、あんなことを訊いたんだ」
「じつをいうと、あの時すでに水の衝撃波でマスクが出来たんじゃないかという考えは持っていたんだ。だがその衝撃波が発生した原因がわからなかった。それでまず、ライフルじゃないかと疑ったわけだ」
「ライフルでそんなことができるのか」
「水の中で銃弾を発射した場合、同じように衝撃波が発生する。ただし金属成形を行うとなれば、ピストル程度ではだめだ。最低でもライフルぐらいのパワーがいる」
「ふうん」イメージがわかず、草薙は曖昧に頷いた。「で、それが今の話と、どう関係してくるんだ?」
「この、ライフルによる衝撃波を使って、歯にかぶせる金冠を作る技術がある。ある大学で研究されたものだ」湯川は手に持っていた紙を草薙のほうに差し出した。「これはその論文のコピーだ。ちょっと見てみろよ」
「俺が見たって――」
「まあいいから」湯川は紙を持った腕を伸ばした。
草薙はそのコピーに視線を走らせた。予想通り、理解できそうなものではなかった。
「これがどうしたっていうんだ」
「発表者の名前を見てみろよ」
「発表者?」
草薙は鸚鵡《おうむ》返しにいってから、論文のタイトルの横を見た。そこには三人の名前が並んでいた。三番目の名前を見て、あっと叫んだ。
柿本進一と書いてあったからだ。
「学生時代、被害者は衝撃波による成形の研究をしていたようだな」湯川は面白そうにいった。「死体になって池に捨てられた後、彼の魂が、昔自分たちが研究していた技術を思い出し、例の金属マスクを作った、というストーリーはどうだい?」
草薙は一瞬ぞくりとした。だが次にはにやりと笑い、物理学者を見返した。
「科学者はオカルトなんか信じないんじゃないのか」
「科学者だって、冗談をいう時はあるんだよ」
そして湯川は白衣の裾をひるがえし、出口に向かった。