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双眼鏡の焦点を結んだ先に、ブルーの水着姿があった。
女は上半身を起こしていた。安っぽいビニールシートの上に座っているのだ。顔には濃い色のサングラス。シャネルかもしれなかった。
隣に男が横たわっている。やはりサングラスをかけ、仰向けになっていた。日焼けオイルをたっぷりと塗っているらしく、全身がぎらぎらと光っている。肋骨の浮いた胸が、少しだけ赤い。
女のほうは肌を焼く気はないようだった。ビーチパラソルが作る日陰の動きに合わせて、自らの位置を頻繁に変えている。時折手足に塗っているのも、日焼け防止のクリームだろう。
それでも今日は日差しが強い。女が思い出したように水着のストラップをずらすと、早くも白い線が浮かび上がっていた。
女は眉を寄せ、男に何かいった。こんなところに長時間いると、肌が傷《いた》んで仕方がない、とでもいっているのかもしれない。男は寝転んだまま、笑って何か答えている。だって、おまえが海に行こうっていいだしたんじゃないか、だから連れてきてやったのに――というところか。
こんなに日差しが強くなるなんて思わなかったのよ、だってもう九月なのに。
何いってるんだ、これからの時期のほうが紫外線は強くなるんだぜ。
双眼鏡を覗きながら、『彼』がそこまであてレコした時だった。女が肩にかけていたタオルを置き、サングラスも外して立ち上がった。代わりに、そばに置いてあった空気で膨らませる方式のビーチマットを手にした。
あたし、泳いでくる。あなたは?
俺はいいよ。君一人で行ってこいよ。
女はビーチサンダルを履《は》き、海に向かって歩きだした。
彼は双眼鏡を下ろし、自分の裸眼で女の位置を確認した。九月だというのに、日曜日の湘南の海には、まだカップルや家族連れが溢れかえっている。ましてや今年はブルーの水着が流行だ。彼は女の姿を見つけだすのに、少し苦労した。
彼女は波打ち際でサンダルを脱ごうとしているところだった。素足になると、ビーチマットを抱えて、海に入っていく。
彼は、脇に置いてあるクーラーボックスの蓋を開けた。中には、ビニール袋で防水した『あれ』が入っている。彼はそれを取り出すと、ゆっくり腰を上げた。
梅里律子は泳ぎが得意ではなかった。しかし海は好きだった。ビーチマットに掴まって、波に揺られていると、自然の恵みをたっぷりと浴びているという実感がある。時間の流れさえ、ゆったりとしているように感じられる。
結婚前も、よくこうして海に連れてきてもらったものだった。夫である尚彦は、その頃藤沢に住んでいた。それで横浜でデートすることが多かったのだが、律子が「海で泳ぎたい」というと、尚彦は即座にすべての予定を変更し、自分のパジェロで海水浴場を目指してくれたものだ。だからパジェロの後部には、いつも二人の水着が積んであった。
こんなふうに二人だけでのんびりできるのも、そう長いことではないかもしれないと律子は思った。結婚して約一年、子供を作らずにきたが、そろそろ本気で考えなければいけなくなってきた。双方の親がうるさいし、自分たちの年齢という問題もあった。律子は今年、二十九になっていた。
ボディボードやスキューバダイビングなども始めたかったが、子供を持つことを考えると、当分は我慢せざるをえなかった。仕方がない、と彼女は諦めていた。今はとても幸せだし、そのうえに子供を持とうとしているのだから、楽しみの一つや二つは犠牲にしなければならないと思った。
それにしても今日はなんていい天気なんだろう――律子はビーチマットに上半身だけを乗せ、瞼を閉じた。巨大なウォーターベッドの上にいるようだった。濡れて冷たくなった肌も、忽《たちま》ち暖かくなっていく。
不意にマットの下に何かが当たる感覚があった。彼女は目を開けた。自分のすぐ下に、誰かが潜っていた。
小さく水しぶきを上げ、一人の男が顔を上げた。髪の短い、若い男だった。目にゴーグルをつけていた。
「ごめんね」
男は短くそういうと、また水の中に潜った。そしてどこかへ泳ぎ去った。
律子は、今一瞬自分の脳裏をよぎったことを思い起こし、苦笑した。若い男が現れた時彼女は、自分をナンパしようとしているのではないかと思ったのだ。たしかに数年前までは、そういうこともないわけではなかった。だが二十五歳を過ぎてからは、まず声をかけられることはなくなった。
もういい加減、落ち着かなきゃいけない年齢なんだ、と彼女は自分にいいきかせた。
だから子供を作るとするか――。
気がつくと、ずいぶん沖まで流されていた。周りには人も少ない。律子は足を動かし、方向を変えた。
その時だった。
何かが彼女を襲った。
梅里尚彦は、その瞬間を目撃していた。
彼はその少し前に身体を起こし、海に浮かんでいるはずの妻を、目で探していたのだ。律子の姿はすぐに見つかった。ピンク色のビーチマットが目印なのだ。相変わらず彼女はマットにしがみついた格好で、ぷかりぷかりと波間に揺られていた。
彼はキャスターマイルドを一本くわえ、ジッポライターで火をつけた。灰皿は、ついさっき飲んだコーラの空き缶だ。
煙草を吸いながら、彼は妻の姿を眺めていた。一人の男が彼女に話しかけたようだが、すぐにどこかへいなくなった。
馬鹿だな、あいつ――そう思ったのは、律子があわてた様子で方向転換するのを見た時だ。どうやら自分一人だけ沖に出てしまったことに、ようやく気づいたようだ。
尚彦は煙草を吸い、煙を吐き出した。その瞬間――。
突然、轟音と共に妻の姿が火柱に変わった。
それは黄色い火柱だった。海の中から突き出るように、姿を現したのだ。その衝撃力は、周囲の水を一瞬真っ白に染めた。さらに小さな火柱が、弾けるように水の中から飛び出してきた。
最初の爆発で、海水浴場全体がストップモーションになった。海水浴客たちは、何が起こったかわからず、ただ呆然と火柱を眺めていた。
だが次の瞬間にはパニックが訪れた。誰もが競うように海から上がり始めたのだ。悲鳴、怒号、叫び。梅里尚彦は、スティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』という映画を思い出していた。あの映画では人々は鮫から逃げていたが、今は火柱から逃げていた。
そんな映画のことを考えていたのは、彼が状況を全く把握できず、まともな思考力を失っていたからだった。彼はビーチマットに腰かけたまま、そして指に火のついたキャスターマイルドを挟んだまま、つい先程まで妻が浮かんでいた海面に目を向けていた。そして彼女の姿を探していた。
その海面上では、爆発はおさまっていた。ただ白く細かい泡が、幾重にも同心円を描いているだけだ。
周りの人々は、口々に何か喚《わめ》いていた。だが尚彦の耳には入っていなかった。
彼はようやく立ち上がった。それからふらふらと海に向かって歩きだした。何が起きたのか、今でもまだわからなかった。ただはっきりしていることは、誰もが海から上がったはずなのに、彼の妻だけが戻ってこないということだった。
「律子は……どこだ?」
やがて尚彦の目は、海面上に浮かぶものを捉えた。ピンク色をしたビニールのようなものだった。
その瞬間律子が乗っていたビーチマットの色を、彼は思い出していた。