8
翌日の午後、草薙はまたしても帝都大を訪れた。
前夜、彼は松田武久を逮捕していた。
松田は、成城にある木島文夫邸の駐車場に侵入し、逃げようとしたところを、見張っていた警察官に捕まったのだ。
その時松田が手にしていたのは、ビニールの袋に入れた金属の塊だった。大きさは、ちょうど掌に載る程度だった。逮捕された時、彼はそれを没収した警官にいった。
「それを絶対に水には近づけるな。一生後悔することになるぞ」
科学者としての良心が、そういわせたのだろう。
だがじつは松田の心配は無用だった。その金属の塊は、彼が思っているものとは違っていたからだ。彼が逮捕される二時間ほど前に、湯川学によってすり替えられていたのだ。
彼が木島邸の駐車場に忍び込んで盗み出したものは、ただの粘土に色を塗っただけのものだった。
「松田が藤川殺しを自供したよ」湯川の疲れた顔を見ながら草薙はいった。あまりいい気分ではなかった。「もうちょっと手こずるかもしれないと思ったけれど、木島さんの家で捕まった時点で観念していたようだ」
「抵抗したって無意味だと思ったんだろう」
「そうかもしれない。それはともかく、いろいろとわからないことがあるんだけどな。それで、おまえからも話を聞こうと思ってね」
「うん」
湯川は椅子から立ち上がると、こっちへ来いというように顎を動かした。それで草薙は後についていった。
机の上に菓子の缶が載っていた。その中に入っているのは水のようだ。
湯川は別の机の上から、油紙の包みを取り上げた。開くと、中には白い結晶のようなものが、耳かき一杯ほど入っていた。
「少し離れていてくれ」
湯川にいわれ、草薙は数歩下がった。
湯川は菓子の缶に近づくと、油紙の中身を素早く放り込んだ。そして自分も机から離れた。
反応は即座に起こった。缶の中から炎が出たと思うと、激しい音をたてて缶が跳ね上がったのだ。中に入っていた水も四方に飛び散った。そのうちの何滴かは、草薙のところへも飛んできた。
「すごいな」ハンカチを取り出しながら草薙はいった。
「なかなかの威力だろう。ほんのわずかな量で、これだからな」
「それが……」
「ナトリウムだ」と湯川はいった。「湘南の爆発の正体だよ」
「松田からも話を聞いたんだけど、今一つピンとこなかったんだよな」爆発のおさまった缶を、草薙はおそるおそる覗き込んだ。「これほどとは思わなかった。大体、ナトリウムっていわれても、よくわからんからなあ。水酸化ナトリウムとか、塩化ナトリウムっていうのなら、聞いたこともあるけど」
「ナトリウムは金属だ。だけど自然界では、単体金属の状態を取り続けることはできない。今君がいったような、何らかの化合物として存在している。今僕が水の中に入れたナトリウムにしても、空気に触れた部分は酸化していた」
「しかし金属が爆発するとはなあ」
「ナトリウム自体が爆発するんじゃない。今いったように、ナトリウムは反応性に富んでいる。特に水と反応すると、熱を発しながら水酸化ナトリウムになり、同時に水素を発生させる。その水素が空気と混合して爆発を起こすわけだ」
「マッチと火薬じゃなく、水とナトリウムというわけか」
「後に残るのは水酸化ナトリウムだけだ。だけどそれは簡単に水に溶けるから、湘南の海から爆発物の何の痕跡も発見されなかったのは当然といえる」
「だけど、さっきの実験によると、水に入れてすぐ爆発したじゃないか。犯人の藤川にしても、逃げる暇がなかったと思うんだけどな」
「いい質問だ。じつはナトリウムを使って爆発を起こそうとする時、ある仕掛けを施せば、一種のタイマー的な効果を得ることができる。しかも、これまた痕跡は残らない」
「どうやるんだ」
「金属ナトリウムの表面部分だけを、炭酸ナトリウムに変化させておくんだ。これは安定した物質だから、危険じゃない。ただし、これもまた水に溶けやすい」
「そうすると、どうなる?」
「水につけた直後は、炭酸ナトリウムがブロックしてくれているので、ナトリウムと水の反応は起こらない。だけど時間が経つにつれて、炭酸ナトリウムは溶けていく。やがて中のナトリウムが直接水に触れる時が来ると――」
「どかーん、というわけか」草薙は顔の前で掌を開いた。
「藤川は、そういう仕掛けを施したナトリウムを隠し持って、梅里律子さんに近づいたんだと思う。そうして、彼女のすぐそばに沈めたんだろう。あるいは、彼女はビーチマットに乗っていたという話だから、そのビーチマットに何らかの方法で取り付けたのかもしれない」
草薙は頷いた。理系オンチの彼でも、何となく理解できる話だった。犯人が死んでいるので、もはや真相を明確にすることはできなかったが。
「松田によると、ナトリウムが盗まれたのは、やはり八月の半ばに藤川が来た時だろうということだった」椅子に座りながら草薙はいった。
松田は、液体ナトリウムを使った熱交換システムの研究を行っていた。だからかつて同じ研究室にいた藤川としては、ナトリウムを盗み出すことは難しくなかったのだ。
「その時松田は、藤川とどんな話をしたんだろう」湯川は机の縁に腰掛け、宙を見つめながら呟いた。
「藤川は文句をいいに来た、というのが松田の話だよ。学生時代に横森教授の研究室に入ったことも、そのせいで松田の研究を手伝わされたことも、ニシナ・エンジニアリングなんていう会社に入らされてしまったことも、全部不本意だったとね。特にニシナで全く興味のない仕事をやらされることになったことが、それまでの鬱憤に火をつける結果になったのだろうと松田はいっていた」
湯川は、ゆらゆらと頭を振った。
「なんだか、根が深そうな話だな」
「深いぜ。じつをいうとさ、俺はまだ完全には把握しきれてないんだ」そういうと草薙は手帳を取り出して開いた。ナトリウムの仕掛けだけでなく、事件の背景についても、湯川のアドバイスが欲しかったのだ。
松田の話では、藤川は本来木島教授の研究室に進みたかったらしい。ところが、ある重要な単位を取得していなかったため、それがかなわなかった。その単位とは、木島教授の講義であり、三年生の段階で受講すべきものだった。
「藤川がその講義を受けられなかった理由は、ただ一つ。学生課に提出する受講プログラムに記入するのを忘れたからだ。藤川が気づいた時には、提出期限を過ぎていた。藤川はあわてて学生課に行き、訂正を希望したが――」
「認められなかったんだな」と湯川はいった。「うちの学生課が、そういう点で異様に厳しいことは、学生たちから聞いて知っている。僕自身も経験がある」
「その時藤川のことを冷たく突っぱねたのが、梅里律子だった」
「なるほど」湯川は大きく首肯した。
「そこで藤川は、木島教授に直接頼みに行ったらしい。どうか受講させてほしいってな。受講プログラムを提出し忘れたり、期限後に変更したい時なんかは、教授の許可がもらえれば認められるそうだな」
「うん。それで教授は?」
「許可しなかった」草薙はいった。「どういう理由かは松田にもわからないということだったが」
すると湯川は小さく首を傾げた。
「僕には何となくその理由がわかるような気がするな」
「どういう理由なんだ」
「いや、それは後にしよう。で、藤川はどうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない。結局その大事な講義を受けられなかった。したがって念願の木島教授の研究室に入ることもできなかった。それで仕方なく、横森教授のほうへ進んだというわけだ」
「その結果、不本意な研究しかできず、不本意な会社にしか入れず、不本意な仕事しかできなくなった。何もかも、あの二人のせいだ、となってしまったわけか」
「そう、あの二人。梅里律子と木島教授」そういってから草薙は頭を掻きむしった。
「しかし、殺そうと考えるか、ふつう? 一種のノイローゼにかかっていたようだというのが、松田の意見だけどさ」
「松田が?」湯川は目を見開いた。「藤川はノイローゼだったといったのか」
「ああ」
「ふうん……」湯川は天井を見上げた。何かを考えている顔だった。
「どうかしたか」
「いや」湯川は首を振った。「それで、藤川殺しについて、彼はどのようにいってるんだ」
「松田によると、湘南の事件を知った時に、爆発の状況と被害者の名前から、犯人は藤川に違いないと思ったらしい。その時実験室を調べてみて、ナトリウムの量が減っていることにも気づいたという話だった」
松田はすぐに三鷹にある藤川のアパートを訪ねていった。ことの真偽をたしかめるためだった。
藤川は否定しなかった。自分の犯行だと認めたらしい。それだけでなく、もう一人殺す計画があることまで打ち明けた。それが木島教授だった。
「ここから先、松田の話は、ちょっとわかりにくい」草薙は顔をしかめて続けた。
「もうこれであんたたちも終わりだと藤川にいわれ、かっとして殺してしまったというんだが、なぜ終わりなのか、なぜ殺したくなるほど松田が逆上したのかが、今ひとつはっきりしない。このあたりの説明になると、松田の話はどうもあやふやになるんだ」
「そういうことか」湯川は腰を上げ、窓のそばに立った。
「何か心当たりがあるか」
「まあね。しかし、そう難しい話じゃない。どこにでもある話だ」
「聞かせてくれよ」草薙は彼のほうを向いて座り直した。
湯川は腕組みをして窓の前に立った。逆光で、彼の表情が見えにくくなった。
「エネルギー工学科の前身の話からしよう。あそこは以前、原子力工学科といった」
「あっ、そうなのか」そのほうがわかりやすい、と草薙は思った。
「名前を変えたのはイメージが悪くなったからだ。それに伴って、研究内容も少しずつ方向転換していくようになった。だけど中には、以前のままの研究テーマも残っている。松田のしていた研究なんかも、その一つだ。液体ナトリウムを使った熱交換の技術というのは、極論すればただ一つの用途しかない。何だか知ってるか」
「いや」俺が知るわけないだろう、と草薙はいいたかった。
「プルトニウムを燃やすための原子炉、いわゆる高速炉から熱を取り出す手段として使われる技術なんだ。何年か前、高速増殖炉のナトリウム漏れ事故というのがあったのを覚えてるだろう?」
ああ、と草薙は頷いた。「それなら覚えてるよ。そういえば、ナトリウムがどうとかいってたなあ」
「あの事故以後、国のプルトニウム利用計画は、大きな方向転換を求められることになった。その後相次いだ、関連機関による事故隠しなどの不祥事も、それに拍車をかけることになった。その流れは当然、各方面にも影響を及ぼすことになる。まず反応が速かったのが、関連企業だ」湯川は二、三歩移動し、本棚からパンフレットのようなものを抜き取った。「じつをいうと、ニシナ・エンジニアリングにいる知り合いに、それとなく問い合わせてみた。結果は、思った通りだった。あの会社はプルトニウム利用時代に備えて技術蓄積を行っていたんだが、今年になって、それに関する研究からはすべて手を引いた。どうやら藤川も、その流れで配置転換されたらしい」
「そうだったのか。それなら、藤川がノイローゼになったのも、少し理解できるな」
多少は不本意ながらも自分の専門知識を生かした研究に取り組んでいたところ、それさえも取り上げられて、人生の方向を見失ってしまったのかもしれないと草薙は想像した。
「企業の次に原発見直しの影響を受けたのが研究者だ」湯川は続けた。「事実松田のやっていた研究なども、予算見直しの対象になっていた」
「なるほど……」
「松田はおそらく、戦々恐々としていたことだろう。もし大学としての研究テーマから除外されるようなことになれば、これまでの苦労が水の泡になる。当然、昇進も遅れるだろう」
湯川の話を聞き、松田がまだ助手だったことを草薙は思い出した。
「卒業生の藤川が殺人を犯したとなれば、決定的ということか……」
「それよりも松田が気にしたのは、殺害方法にナトリウムが使われたことだろう。ただでさえナトリウムは危険だというイメージがある。しかも大学の研究室から盗まれたものだとなれば……」
「決定的か」草薙は吐息をついた。
「藤川を殺して解決する問題でないということは、松田にだってわかっていたんじゃないか。だけど、とにかく目の前にいる男を何とかしなきゃならないと思ったんだろうな」それから湯川は小さくかぶりを振った。「彼は藤川のことをノイローゼだといったそうだが、彼自身もそうだったんじゃないのかな」
「それはいえてる」草薙は同意した。「松田は、雨が降るのを恐れてたそうだよ」
「彼はやはり、最初はどこにナトリウムを仕掛けてあるのか知らなかったのか」
湯川の問いに草薙は頷いた。
「例の駐車場の写真を見て、木島教授の車に仕掛けてあると気づいたんだそうだ。ところがその時すでに教授は、国際会議のため大阪に行っていた。雨が降ればナトリウムが爆発、じゃなくて水素が爆発か、とにかく大変なことになると思って、気が気でなかったらしい」
「その彼の良心がなければ、僕は未だに木島先生が狙われていたことに気づかなかっただろうな」湯川は窓の外に目を向けた。
「駐車場の写真などから、藤川は何らかの理由で横森先生の車を狙っているのだろうと思っていた。だけどそうじゃなかった。学生に、横森先生の車はどれかと訊いたのは、二台ある新車のうち、どちらが木島先生の車なのかを知るためだったんだな。そこで木島先生の名前を直接出したら、後で爆破が起きた時に、思い出されると考えたんだろう」
ナトリウムは、BMWの車体の内側に、瞬間接着剤を使って貼り付けてあった。それを湯川は偽物とすり替え、わざと松田に回収させるよう罠を仕掛けたのだ。
「一つ教えてほしいんだけどな」物理学者の横顔に向かって草薙はいった。「おまえはいつから松田が怪しいと思ってたんだ?」
この質問は、湯川の胸の何かを刺激したようだった。彼は顔を歪めた。
「藤川が湘南の事件に関わっているかもしれないと君から聞かされた時かな。ナトリウムが使われた可能性があることには、その少し前から気づいていたからね」
「だけどおまえは、それを俺に話してくれなかったよな。どうしてだ?」
「さあ」湯川は首を傾げた。「どうしてかな」
まさか庇《かば》うつもりだったのか――そういいかけた時、ドアをノックする音がした。どうぞ、と湯川が返事した。
入ってきたのは木島教授だった。草薙は思わず立ち上がっていた。
「やあ、この間はどうも」教授は草薙を見て頬を緩めた。
「こちらこそ」と草薙は頭を下げた。松田を罠にかけるため、車を成城の自宅に戻しておくなど、木島にはいろいろと協力してもらったのだ。
木島は事務的な会話を湯川と交わすと、部屋を出ていこうとした。それを草薙が、「先生」と呼び止めた。
振り向いた木島に、彼は訊いた。
「先生は、なぜ藤川の受講をお認めにならなかったのですか」
すると老教授は、彼の顔を見返して、にっこり笑った。
「あなた、何かスポーツをしますか」
「柔道を……」
「それならわかるでしょう」と木島はいった。「いかなる理由があるにせよ、エントリーを忘れるような選手は試合に出るべきではない。また、そんな選手が勝てるはずもない。学問も、やはり戦いなんです。誰にも甘えてはいけない」
それだけいうと、もう一度笑って教授は部屋を出ていった。
草薙は突っ立ったまま、首だけを湯川のほうに向けた。
湯川はかすかに笑い、窓から空を眺めた。
「雨だ」と彼はいった。