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探偵ガリレオ 第五章 離脱る 01
日期:2017-12-28 21:57  点击:391
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 エアコンは最悪のタイミングで故障した。梅雨明けから、すでに一週間以上が経っている。このところ連日、午前中に三十度を越している。今日もそうだ。そしてこれから、まだまだ気温は上がりそうだった。
 上村宏は左手に団扇《うちわ》を持ち、キーボードを少し叩いては顔を扇《あお》ぎ、傍らに置いた薄汚れたタオルで首筋の汗をぬぐった。窓を全開しているが、風は殆ど入ってこなかった。いつもはさほど気にならないパソコンの発する熱が、今日はいまいましかった。
 ダイニングへ行くか、と団扇を振りながら上村は考えた。エアコンは、仕事場を兼ねているこの洋室のほかに、寝室として使っている六畳の和室にも付けてある。その和室の襖《ふすま》を開け放てば、ダイニングキッチンもそこそこ涼しくなるのだ。
 だがやっぱりそれはできないな、と彼は思い直した。現在和室では、息子の忠広が寝ている。しかもふつうの状態ではなかった。
 生まれつき病弱な忠広は、小学校の二年になった今も一度風邪をひくとなかなか治らない。今回も、頭が痛いといいだしたのは四日前だが、その後も熱は上がるばかりで、少しも快方に向かってくれなかった。薬でいったんはよくなるのだが、夜になるとまたぶり返すという状態だった。昨夜も三十九度近い熱が出て、上村はその看病のために仕事ができなかったのだ。
 上村はフリーライターだった。現在は四つの出版社と契約しており、主に週刊誌向けの記事を書いていた。そのうちの一つの締切が、目前に迫っている。携帯電話を使った新しい遊び方について取材したものを、夕方までにまとめねばならないのだ。それさえなければ、今も息子のそばについているところだった。
 部屋を冷やしすぎるのはよくないが、暑さで眠れないようでは体力が余計に消耗してしまう。忠広には、適度に冷房のきいた部屋で、静かに眠らせてやりたかった。
 上村は机の上の時計を見た。午後二時を少し回ったところだった。約束の時刻まで、あと三時間ある。いつもなら、さほど厳しくはない。しかし、この蒸し風呂のような部屋で集中力を保つというのは、至難の業《わざ》といってよかった。窓の外から聞こえてくる騒音も、よりによって今日にかぎって大きいようだった。
 タオルを首にかけ、両手をキーボードの上に置いた時だった。玄関のチャイムが鳴らされた。上村はげんなりした顔をして立ち上がり、戸棚の引き出しから財布を取り出した。どうせ何かの集金だろうと思ったのだ。
 だがドアを開けてみると、そこに立っていたのは近所に住む竹田幸恵だった。幸恵は忠広のクラスメートである竹里亮太の母親だ。
「やあ、どうしたんですか」父母会の案内でも来てたかなと思いながら上村は訊いた。
「どうしたじゃないでしょ。忠広ちゃん、また風邪だっていうじゃない」
「ああ」上村は頷いた。「まあ、例によって、というやつです」
「何、のんびりしたこといってるのよ。ちゃんと看病してる? 仕事が忙しくて、ほったらかしにしてあるんじゃないでしょうね」
「ほったらかしというか、とりあえず寝かせてますけど」
「ちょっとどいて」幸恵はサンダルを脱ぎ、スーパーの袋を提げたまま部屋に上がり込んできた。「なによ、これ。どうしてこんなに暑いの? エアコンつけてないの?」
「壊れてるんです。でも、忠広の部屋のは大丈夫です」
 上村の話を最後まで聞かず、幸恵は和室の襖を開けた。
「忠広君、大丈夫? 気分はどう?」と声をかけているのが聞こえてきた。忠広は目を覚ましていたようだ。
 上村も和室に入っていった。エアコンの冷気が心地よい。ほっとしながら部屋の奥を見た。忠広は布団の上で寝ていた。
「大丈夫か?」と彼は息子に尋ねた。
 忠広は小さく頷《うなず》いた。その顔色は、昨日までよりは少しよくなったように見えた。
「おなかすいてない? おばちゃんが何か作ったげようか」布団の横に腰を下ろし、幸恵は訊いた。
「喉かわいちゃった」と忠広はいった。
「じゃあ、リンゴでもすったげようね。おばちゃん、買ってきてあげたから」そういって彼女は立ち上がりかけたが、「あら、これは何?」といって、布団のそばからスケッチブックを取り上げた。
 スケッチブックは、寝込むことの多い忠広が退屈しないよう、上村が買い与えたものだった。色鉛筆も常に枕元に置いてある。
 幸恵が見ている頁には、灰色の壁のようなものが描かれていた。中央に赤く四角いものがある。絵の得意な忠広にしては、何を描いたのかはっきりしなかった。
「何、これ?」と幸恵がもう一度訊いた。
 忠広は首を振ってから答えた。「わからない」
「えっ、どうして? だって、忠広君が描いたんでしょ?」
「僕が描いたんだよ。でも、わかんないんだ」
「えっ、どういうこと?」幸恵はもう一度尋ねてから、上村のほうを振り返った。
「さっきね、僕が寝ていたら、急に身体が浮くみたいな感じがして」忠広は上村と幸恵の顔を交互に見ながら続けた。「窓の外を見たら、こんなふうに見えたんだ。何だか、高いところに上ったみたいだった」
「何だって?」
 上村は幸恵の手からスケッチブックを奪い、その絵を凝視した。それから窓の外に目を移した。
 この部屋はアパートの二階にある。そして窓のすぐ正面には、カマボコ形をした食品工場の大扉が見えるだけだった。

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