2
死体の見つかったきっかけを聞いて、草薙は現場に駆け付ける気が失せた。もちろんそれは同僚の刑事たちにしても同じことのようだった。誰もが、犯人も少しは考えたらどうだ、という顔をしていた。
現場は杉並区内にある六階建てマンションの一室だった。独身者向けの賃貸マンションで、最上階に2LDKの部屋がある以外は、すべてワンルームか1DKだということだった。死体の見つかった五〇三号室は、ドアを開けるとまず狭い廊下があり、その奥にダイニングキッチンと洋室が並んでいるという間取りをしていた。
死体は、その狭い廊下で倒れていた。黒いTシャツに、コットンのミニスカートという出で立ちで、化粧はしていないようだった。うつぶせの状態で、頭を玄関のほうに向けていた。その格好を見て捜査員の一人は、去っていく男にすがりつこうとして、殺されたんじゃないかといった。無論推理といえるほどのものではないだろうが、そういわれてみると、たしかに草薙にもそんなふうに見えた。
死体の身元はすぐに判明した。部屋にあったハンドバッグの中に、運転免許証が入っていて、どうやらその写真の人物と同一らしいと判断されたからだった。長塚多恵子というのが死体の名前だった。この部屋の住人であることは、すぐに確認がとれた。生年月日によると、先月二十八歳になったばかりのはずだった。
最初に異変に気づいたのは、隣に住むOLだった。彼女はほぼ毎日五〇三号室の前を通るのだが、昨夜帰ってきた時に、嫌な臭いがすると思った。だが五〇三号室の住人が女性であることを知っていた彼女は、一時的なことだろうと思い、そのまま自分の部屋に入った。ところが翌朝、つまり今朝になってみると、その臭いはますます強くなっているようだった。そこで彼女は、会社に行く途中、携帯電話でマンションの管理会社に電話して事情を話した。このマンションは管理人が常駐していないからである。
連絡を受けた管理会社からは、午後になって管理担当者がやってきた。来る前に一度、彼は五〇三号室に電話をかけているが、長塚多恵子は部屋にいないらしく、留守番電話に切り替わってしまうのだった。
旅行に出たか何かで長期留守にしており、その間に生ゴミが腐りだしたのだろう、と管理担当者は推測した。夏場にはよくあることだった。それで彼は部屋の合鍵のほかに、ゴミ袋とマスクを用意していた。これまでの経験から来る知恵だった。
結果的に合鍵とゴミ袋は必要なかった。五〇三号室のドアには鍵がかかっていなかったからだ。そして腐臭を発していたのは、生ゴミではなかった。
だが彼がマスクをつけてドアを開けたのは正解だった。もしつけていなかったならば、すぐその場で嘔吐し、後の捜査に支障をきたしていたに違いないからだ。管理担当者が胃袋の中のものを吐き出したのは、非常階段まで移動してからだった。
そんな状況だったから、いくら死体を見慣れているとはいえ、捜査一課の刑事たちにとっても、検視は苦痛以外の何物でもなかった。草薙はなるべく死体に近づかないで済むよう、専ら奥の部屋を調べた。それでもいつまでも腐臭が鼻につき、時折|嘔気《はきけ》を催した。
死体の首には扼殺《やくさつ》の痕が残っていた。ほかに外傷らしきものはない。室内で争った形跡も、調べたかぎりではなかった。
「やっぱり、男だよ」白い手袋をはめ、部屋のゴミ箱を調べている刑事がいった。「男は別れるつもりでここへ来たんだ。だけど女は別れたくない。あなた行かないで、と泣きつく。男はそんな女が鬱陶《うっとう》しくなる。男には女房がいるからな。子供だっている。もともと遊びで始めた不倫だ。女に泣きつかれても迷惑なだけさ。うるさいな、君とはもう終わりだ、とか何とかいう。すると女だって、いつまでも泣いてるだけじゃない。ふん、そんなに行きたいなら、行けばいいわ。あの鬼婆みたいな奥さんのところへ帰ればいいでしょ。でも覚悟しときなさいよ。あたしとのこと、全部ばらしてやるから。奥さんにだって、会社にだって。それで男は焦る。おい、待てよ。それだけはやめてくれ。知らないわよ。するといったらするんだから。女のヒステリーはピークに達する。きいいってな具合にな。今にもどこかに電話しそうな勢いさ。そこで男はかっとなって、女の首を絞める。どうせそんなところさ」
草薙よりも一つ年上の、この弓削《ゆげ》という刑事は、こんなふうに早口で思いつきをしゃべるのが癖だった。それが仲間たちの楽しみでもある。無駄口を嫌う上司の間宮にしても、苦笑しながら聞いている。
それに彼のいうことは全く無意味でもなかった。独り暮らしの女性が殺された場合、異性関係を真っ先に調べるのが捜査の常道だからだ。草薙にしても、特定の男性がいたのではないかという目で、書簡類を調べている。
その草薙の手が止まった。一枚の名刺を状差しから見つけだしたからだ。保険会社の外交員のもので、栗田信彦とある。だが何より草薙の目を引いたのは、名刺の空欄に書き込んである、『二十二日にまた伺います』という文字だった。
「係長」と間宮を呼んで、その名刺を見せた。
ずんぐりした体形の間宮は、太く短い指で名刺を摘《つま》んだ。
「ふうん、保険の外交員か。二十二日に……か」
「あのホトケさん、二十二日ぐらいに死んだんじゃないですか」草薙はいった。今日は二十五日だった。
「話を聞いてみる必要はありそうだな」といって、間宮は名刺を草薙に返した。
草薙が弓削と共に、栗田信彦の職場を訪ねたのは、死体が見つかってから二日目の夕方だった。すぐに会いに来なかったのには理由がある。栗田が名刺に書いた二十二日という日付は、その後の調べで重要な意味を持つことが判明したからだ。
まず二十二日の午前中、殺された長塚多恵子は、近くに住む妹と喫茶店で会っていた。近々定年退職をする父親に何をプレゼントするか、相談するためだった。予想外の出費だとかいいながらも楽しそうだったと、妹は涙をこぼしながら話した。
その時姉妹は、フルーツあんみつを食べた。双方の好物だったから間違いないと妹は断言している。
そのあんみつに入っていたと思われる小豆《あずき》等が、司法解剖の際に長塚多恵子の胃袋から見つかった。それらの消化状態から、彼女が死んだのは、妹と別れた午後一時頃から三時間は経っていないと思われた。つまり、二十二日の午後一時から四時までが、犯行推定時刻ということになる。
妹と喫茶店で別れる前に長塚多恵子は、「もうすぐ人が来るから」といっているらしい。それは栗田信彦のことではなかったか。
また長塚多恵子の会社の同僚が、興味深いことを述べている。多恵子は栗田信彦と、上司の紹介で見合いをして知り合ったというのだ。ところが多恵子のほうにその気がなく、とりあえずその話はご破算になった。だがその時の縁で多恵子は、栗田のところの保険に加入したというのだ。栗田も、かなりいろいろと便宜を計っていたらしい。
栗田は多恵子のことが諦めきれず、何とか繋がりを保ち続けたかったのではないか、というのが、その同僚の推理だった。
栗田の勤める営業所は、九段下の駅のそばにあった。中に入っていくとカウンターがあり、若い女性社員がにこやかに挨拶してきた。弓削は、警察だとは名乗らず、ちょっと相談したいことがあるので栗田さんに会いたいといった。女性社員は全く疑わず、少々お待ちくださいといって奥に下がった。
数分後、スーツをきっちりと着こなした小柄な男が、営業用の愛想笑いを浮かべて現れた。髪は七三に固め、眉までも手入れしているようだった。つるりとした肌を見て、草薙は何となく風呂上がりを連想した。
「ええと、わたくしが栗田ですが」草薙たちを交互に見ながら栗田はいった。その目に客を値踏みする色があるのを草薙は見逃さなかった。顔では笑っていながらも、栗田は明らかに警戒していた。
弓削が笑いながら、立ったままカウンター越しに顔を近づけていった。「警察の者なんですよ。ちょっとあなたに伺いたいことが」
根が小心なのだろう。この一言で栗田は顔を白くした。
いったん営業所を出て、近所の喫茶店に入った。弓削が事件のことを話すと、栗田はびくりと身体を痙攣させた。全く知らなかったといい、詳しい事情を知りたがった。その目は充血していた。演技ならば大したものだと、草薙は思った。
「あなたが最後に長塚さんと会ったのはいつですか」弓削は訊いた。
「ええと、あれは……」栗田は手帳を取り出した。その頁を開く手が、小刻みに震えていた。「二十一日です。金曜の夕方です。自動車保険の更新手続きがありましたので」
「金曜なら、長塚さんは会社があるでしょう」
「いえ、あの日は休みだったと聞きましたが」
この栗田の話は事実だった。長塚多恵子が勤める化粧品メーカーでは、七月二十日の海の記念日を出勤日にして、二十一日を休日にしていた。そうすれば金、土、日が三連休になるからだ。だがもちろんそのことを知っていたからといって、栗田を全面的に信用するわけにはいかない。
「本当に二十一日ですか。二十二日じゃなかったんですか」弓削は念を押した。
「二十一日です。間違いありません」自分の手帳を見ながら栗田はいった。
「それをちょっと見せていただけますか」
「あ、いいですよ」栗田は手帳を弓削に渡した。
草薙は横から覗き込んだ。すると、七月二十二日の欄に一旦長塚多恵子の名前が書き込まれているが、二十一日に訂正されていた。そのことを草薙が指摘すると、栗田は特に狼狽した様子も見せずにいった。
「最初は二十二日に行くつもりだったんです。……というか、元々は十五日の約束でした。それで十五日に伺ったのですが、留守だったので、二十二日にまた来ますと書いた名刺を郵便受けに入れておきました。すると後日長塚さんから電話があって、二十一日に来てほしいといわれたんです」
これまた話に矛盾はなかった。しかし刑事が来ることを予想して、筋の通った話を用意しておくことは、さほど難しくはない。
「この予定表によりますと」弓削が口を開いた。「二十二日の昼間には、予定が入っていなかったようですね。どちらにいらっしゃいましたか」
「二十二日ですか……」栗田は口元に手を当てて少し考えてからいった。「あの日は、狛江《こまえ》のほうにいました」
「狛江?」
「ええ、あの……」栗田はしきりに顔をこすった。「その前日、ちょっと深酒をしてしまいまして、どうも気分がよくなかったものですから、午前中お客さんのところへ行ったついでに、多摩川の近くに車を停めて、休んでいたんです」
「どれぐらい?」と弓削は訊いた。「何時から何時ぐらいまでですか」
「ええと、たぶん昼過ぎから三時ぐらいまで休んでいたと思います。あの、このことは会社には内緒にしていただけますか」
「ええ、それはもちろん」いいながら弓削は草薙のほうをちらりと見た。臭うな、とその顔はいっていた。
「車は、会社のものですか」草薙が訊いた。
「いえ、自分の車です」
「車種と色を教えていただけますか」
「赤のミニクーパーです……」
「へえ、お洒落な車ですね。後でちょっと見せてほしいんですが」
「それはかまいませんけど……」栗田は答えた。黒目が不安そうに揺れていた。
翌日、栗田に対して任意出頭を求めることになった。重大な証言が、現場付近の住民から得られたからだ。
その住民とは、長塚多恵子が住んでいたマンションの斜め向かいで、お好み焼き屋を経営している女性だった。彼女は日頃、マンションの関係者が自分の店の近くに路上駐車することに強い不満を持っていたが、二十一日と二十二日の二日続けて、同じ車が停まっているのを目撃した。ドライバーが現れたら文句をいおうと思っていたらしいが、たまたま客の相手をしている間に、車はいなくなったということだった。
どういう車だったかという質問に、今年で四十八歳になるその女性は、自信たっぷりにこう答えた。
「名前は知らないんですけど、小さい車ですよ。形は何だか昔の車みたいなのです」
そこで捜査員がいろいろな車の写った写真を見せたところ、彼女は迷わずにミニクーパーを選んだ。さらに、「赤色でした」と断言した。
栗田に対し、執拗な質問責めが繰り返された。捜査員たちの殆どが、彼が犯人に違いないと思い込んでいた。何度も質問に答えているうちに、いずれぼろを出すだろうと読んでいた。
だが栗田は犯行を認めなかった。刑事の攻撃に半泣きになっていたが、それでも否定し続けた。そして草薙や弓削に話したアリバイを主張し通した。
やむなく草薙たちは、狛江で聞き込みを行うことにした。もし本当に栗田が川縁に車を停めて休んでいたのなら、目撃者がいるはずだからだ。そしてもしそういう証人が現れたなら、事件をもう一度見直す必要があった。
「まあ、たぶん無駄骨だろうけどな」弓削などは、こんなふうにいった。
この先輩刑事の読みは正しいようだった。丸二日をかけて、栗田が車を停めたという場所の近くを歩き回ったが、赤いミニクーパーを見たという人間には、どの刑事も出会わなかった。その場所は川を挟んで食品工場があったりして、どこからも死角になっているのだ。
やはり栗田は嘘をついている、奴が本ボシだ、そんな空気が再び捜査本部内に漂いかけた頃――。
一通の手紙が捜査本部の置かれている杉並警察署に届いた。差出人は狛江に住む男性だった。
そこには、捜査本部が混乱を起こすほどの、驚くべき内容が書かれていた。