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七月二十二日の午後に栗田信彦がいたと主張している場所は、狛江からやや多摩川よりのところだった。堤防が整備され、一部、車が川縁まで近づける場所がある。そこにミニクーパーを停めて休んでいたと彼はいっているのだ。
「仕事をさぼっているわけだから、その栗田という人物としては、なるべく人目につかないところに車を停める必要があったわけだ。しかしそれがあだになったわけだ」今は何もない川縁に立って、湯川はいった。
「栗田が本当のことをいっているとはかぎらないぜ」草薙は反論した。
「しかし、嘘にしてはよくできているじゃないか。実際にこういう場所があるわけだからな」
「栗田は何度もここで昼寝をしていたのかもしれない。だから、アリバイを訊かれて、咄嗟《とっさ》にこの場所のことをいったのかもしれない」
「なるほど」湯川は頷き、しげしげと草薙の顔を見た。「その通りだ。なかなか論理的なことをいうようになったじゃないか」
「馬鹿にするな。こんなこと、刑事にとっちゃ常識だ」
「それは失礼。ところで、あの建物は何だい」そういって湯川は、川の反対側に見える黒い建物を指差した。
「あれは、ええと……」草薙は拡大地図を広げた。「食品会社の工場だ」
「ここに停まっていた車を目撃するとなると、あの工場からの角度がベストのようだな」
「そうだな。おや……」地図を見て草薙は、あることに気づいた。
「どうした?」
「上村宏の住むアパートを探していたんだが、どうやらあの工場の向こう側らしい」
「向こう側?」湯川は工場を見上げた。「ということは、アパートの窓からここを見通すのは不可能のようだな」
「とにかく行ってみよう」と草薙はいった。
玄関のチャイムを鳴らすと、中で誰かが小走りで近づいてくる音がした。間もなくドアの鍵が外され、よく日焼けした男の顔が現れた。
「ええと、先程電話をいただいた……」
「草薙です」といって彼は頭を下げた。
「あ、どうも、上村です。お待ちしていました」男は晴れやかといっていい笑顔を見せた。これほど歓待されたのは、刑事になって初めてだなと草薙は思った。
「ちょうどよかったですよ。今朝、電器屋が来ましてね、エアコンを修理していってくれたんです。これが壊れてるともう、仕事にならなくて」
さあどうぞどうぞと、上村は草薙と湯川を室内に招いた。ダイニングテーブルの上が奇麗に片づいているのは、急いで掃除をしたからか。二人を椅子に座らせると、上村は冷蔵庫から麦茶を出してきた。
どうぞおかまいなく、と草薙はいった。
「男所帯なものですから、汚くてすみません。おまけについこの間まで仕事に追われていたものですから、全然片づいてなくて」上村は慣れない手つきで、二人の前に麦茶の入ったグラスを置いた。
「奥さんは?」
「今はいないんですよ。離婚しましてね。もう三年になります」屈託なく上村は答えた。草薙はさりげなく室内を見回した。装飾品めいたものが全くなく、棚なども機能性を重視したものばかりだ。スチール製のキャビネットが置いてあるところなどは、ダイニングというより事務所という感じだった。食器棚の中の食器も、異様に少ない。
上村はとなりの部屋の襖を開け、中に声をかけた。「刑事さんが見えたから、おまえもちょっとこっちへ来なさい」物音がして、半ズボンを穿《は》いた少年が出てきた。痩せていて、顔色もあまりよくない。少年は草薙たちを見て、「こんにちは」と挨拶した。
忠広という名前だと、上村が紹介した。
「早速ですが、例の絵の実物を見せていただけますか」草薙はいった。
「あ、はいはい」上村はもう一つの部屋のほうに入っていき、一冊のスケッチブックを持って出てきた。そして草薙たちの前に置いた。「これなんですよ」
「ちょっと失礼」湯川が手を伸ばした。
草薙は横から覗き込んだ。写真で見たのと同じ絵だった。灰色の背景があり、手前に白っぽい道と赤い車が描かれている。車はツーボックスタイプで屋根が白く、タイヤが小さかった。たしかにミニクーパーに見えた。
「あの堤防の近くの景色に似ていないことはないが、これだけでは、あそこだと断定はできないな」湯川が呟《つぶや》いた。「単に赤い車を描いたというだけのことだ」
「本人は、あの場所を描いたつもりなんですよ」上村が、少しむっとしたようにいった。
「本人に訊く必要があるな」湯川は草薙にいった。それで草薙は、この男が小さな子供と話をするのが嫌いだということを思い出した。
草薙は、俯《うつむ》いて座っている忠広に訊いた。「これは、どこの場所を描いたものだい?」少年が下を向いたまま、何かいった。だが声が小さすぎて聞こえない。
「もっと大きな声で、はっきりというんだ」上村が叱った。
「川の……向こう」と少年はいった。
「川の向こう? 間違いないかい」
草薙が訊くと、少年は小さく頷いた。
「すると……この部屋からだと、どちらの方角になるのかな」草薙はあたりを見回した。
「あっちのはずだ」といって、湯川が和室のほうを指した。
「そうです。ちょっとこっちへ来てください」上村が立ち上がった。
和室もまた殺風景な部屋だった。テレビと組立家具が置いてあるだけだ。窓のそばに布団が一組敷いてあった。
上村が窓を開けた。すると眼前に、例の食品会社の工場が迫っていた。そのおかげで、景色らしきものは何も見えない。
「御存じだと思いますが、この工場の向こう側に川があるんです」上村はいった。「息子は、その川のさらに向こう側の景色を見たといっているんです。二十二日にミニクーパーが停まっていたかどうかが問題になっているのは、そこの場所だと思うのですが」
「おっしゃるとおりですが、ここからあの堤防が見えたというのは、どうも……」
「ですから、ここから見たわけじゃないんです。ここからだと見えませんから。息子は、もっと高いところから見たんです」そういって上村は忠広のほうを見た。「あの時のことを刑事さんに話しなさい」
父親にいわれ、忠広は、ぼそぼそと口を動かし始めた。このところ風邪で家からは一歩も出ていないこと、二十二日も朝から寝ていたことをまず話し、続いて肝心の内容に移った。寝ている時、突然身体が浮くような感じがしたと思ったら自分は空中にいて、遠くの景色が見えた、と彼はいった。
「どのくらいの高さまで浮いたのかな」湯川が草薙の耳元で囁《ささや》いた。つまり、それを質問しろということらしい。
「浮いた高さはどれぐらいだい? 天井ぐらいまで?」
「ええと……」忠広はもじもじした。
「はっきりと答えるんだ」上村が横からいった。「本当のことなんだから、正直にいえばいいんだ。窓から飛び出したんだろう?」
「えっ、窓から?」草薙は驚いて少年を見た。「本当かい?」
「うん……」忠広は腹のあたりを掻きながらいった。「身体がふわふわ浮いて、窓の外に出ちゃったんだ。裏の工場よりも高く上がって、それで川のほうまで見えたんだ」
「それから?」と草薙は訊いた。
「おかしいなあと思っていたら、今度は下がりだして、また部屋の中に入ってきた。気がついたら布団の上で寝ていて、スケッチブックがそばにあったから、上で見た景色を絵に描いたんだ」
「それが午後二時頃だったんですよ」上村が口を挟んだ。「間違いありません。ちょうどその頃、近所のタケダさんという女性が来ていて、一緒にこの絵を見ましたから、彼女に確認していただいてもかまいません」
草薙は頷き、窓から外を見た。到底信じられる話ではなかった。しかし、少年の描いた絵は存在している。
「あの工場に確認してみる必要があるな」食品工場を見て湯川がいった。「正面に大扉が見えるだろう? 大きな設備なんかを搬入する時に開けるはずだ。七月二十二日の午後に、あの大扉を開けなかったかどうかを調べたほうがいい」
「開けたとしたらどうなんだ」
「さっき堤防のほうから確認したんだが、工場の川に面している側にも大扉が付いていた。ということは、両方を同時に開ければ、工場全体がトンネルのようになって、こちらから向こう側を見通せるということになる」
「あ、なるほど。よし、早速確認してみよう」草薙は手帳にメモしようとした。
「ちょっと待ってください」上村が少し強い口調でいった。「あなたがたは、あの時たまたま工場の大扉が開いていて、それで見通せた景色を、息子が幽体離脱して見たと勘違いしているというのですか」
「一つの可能性として考えられます」
湯川の言葉に、上村は首を振った。
「ありえない。いいですか、ミニクーパーの停められていた場所は、工場よりもずいぶん下がったところにあるんです。仮に工場の大扉が開放されていたとしても、この窓から見通せるのは、堤防よりもずいぶんと上の位置だけです。疑うのなら、測量でも何でもしてみるといい」大きくゼスチャーを交えながら話すところに、彼の苛立ちが現れている。
「そう、簡単な測量はするべきでしょうね」湯川が、さらりといった。相手が感情的になっても、自分のペースを決して乱さないのが、この男の特徴だった。
上村はダイニングに行くと、さっきの絵を持って戻ってきた。
「この絵を見てください。車の白い屋根がはっきりと描かれている。こんなふうに描くということは、かなり上から見たとしか考えられないんじゃないですか」
湯川はスケッチブックに目を落としたまま黙り込んだ。彼の頭の中では、この現象を合理的に説明するためのいくつかの仮説が、めまぐるしい勢いで組み立てられているはずだった。またそうであることを草薙は祈った。
その時部屋のどこかで電話が鳴りだした。ちょっと失礼、といって上村は部屋を出た。
「どうだ、湯川」草薙は声を落としていった。「何とか解明できそうか」
しかし湯川はこの質問には答えてくれなかった。その代わりに彼は、隅で小さくなっている忠広に、「こういうことは、前にもあったのかい?」と訊いた。
子供嫌いの彼が、こんなふうに話しかけるのは珍しいことだった。忠広は小さく首を振った。それから怯《おび》えるように、父親の後を追うように出ていった。
「ええ、今警察の人間も来ているんですよ。かなり関心があるみたいでしたね。……ええ、もちろんスペースさえいただければ、いくらでも原稿は書きますよ。すでに日記形式でまとめてはあるんです」上村の話し声が聞こえてきた。「杉並のほうの情報は、そちらで何とか……ええ、お願いします。それから、こういうことに詳しい人を誰か紹介してもらえませんか。超常現象研究家というか、まあその道のプロの人です。……ああ、それは都合がいい。よろしくお願いします。……はい……はい。わかりました」
電話を終えて上村が戻ってきた。鼻歌を歌いだしそうな表情に、草薙には見えた。
「このことを、どこかで記事にされるんですか」と彼は訊いた。
「付き合いのある雑誌にね」と上村はいった。「ああ、そうだ。そこの雑誌の編集者にも訊いてもらえるといいです。この絵を見せたのが、杉並の事件で警察が騒ぎだす前だということが明らかになるはずです」
「それより上村さん、このことを公表するのは、もう少し待っていただけませんか」
「ほう、なぜですか」
「なぜって……」
「警察が息子の話を捜査の参考にする、なんてことはどうせないんでしょう? あなた方がここへ来たのも、忠広が何か錯覚していることを確認したかっただけじゃないんですか。だったら、僕がどこで何を書いたって構わないじゃないですか。それとも、息子の話を他の証言と同等に扱ってくれますか。それなら、少しは考えてもいいですけど」
「いや、それは自分には何とも。上司に相談しませんと」
「相談しても同じことですよ。結果はわかっている」上村は窓をぴしゃりと閉め、草薙と湯川の顔を交互に見た。「ほかに何か質問は? 息子の話を信じた上での質問なら、いくらでもお答えしますが、ペテンか何かだと決めつけておられるのでしたら、今すぐにお帰りください」笑みを浮かべているが、その目には挑戦的な光が宿っていた。
「女性が一緒にいた、とおっしゃいましたね」湯川がいった。「たしかタケダさん、とか。その方の連絡先を教えていただけますか」
「もちろん教えますよ。このすぐ近くだから、今から行くといいです。いくらでも聞き込みをしてください」そういうと上村は、そばの棚からメモ用紙とボールペンを取り、雑な地図を描き始めた。
「参ったな。すっかり敵に回しちまった」上村の部屋を出ると、草薙は顔をしかめていった。
「気にすることはないさ。あの男は元々、警察が本気で取り合わないことを知っている。それでも手紙を出したりしたのは、とにかく警察も注目した、という実績が欲しかったからだ。そのほうが、幽体離脱の記事を書くにも、華やかになるからな」湯川が冷めた口調でいう。
「利用されたってことか?」
「はっきりいうと、そうだ」
湯川の言葉に、草薙は歩きながらうなだれた。
「なあ、幽体離脱ってのは本当にあるのかな」
「さあね。僕はデータが揃うまでは結論を出さない主義なんだ」
「データは揃ってるぜ。上村親子の部屋から、ミニクーパーの停まっていた場所を見ることはできなかった。そして上村忠広は最近一歩も外に出ていない」
「そのデータが正しいのかどうかを、まず検証しなくちゃな」湯川が足を止めた。そして右手の親指を横に向けた。
彼が指しているのは食品工場だった。周りに塀が巡らされているが、トラックが一台、通用門らしきところから出ていくのが見えた。
「もし大扉が開いていたとしても、アパートの部屋から堤防は見通せないという話だったじゃないか」
草薙がいうと、湯川は小さく吐息をついた。「だから情報を収拾する必要はないというのかい?」
「わかったよ。調べりゃいいんだろ」草薙は通用門に向かって歩きだした。
守衛室らしきものがあったので、そこで身分を名乗り、工場の責任者に会いたいのだがといった。もう老人といっていい年齢と思われる守衛は、あわてた様子でどこかに電話した後、「御用件は?」と尋ねてきた。
「ある事件の捜査でね」と草薙は答えた。「殺人事件なんだけど」
殺人という言葉が効いたのか、守衛はそれまでやや曲がり気味だった背中を、ぴんと伸ばした。
守衛室の前で待っていると、五十歳ぐらいの太った男が現れた。工場長の中上と名乗った。クリーム色の帽子の縁に、汗が滲《にじ》んでいた。
七月二十二日に工場の大扉を全開放しなかったか、と草薙は訊いた。この質問に対し、中上は眉を寄せて訊いてきた。「なぜそんなことをお尋ねになるんですか。殺人事件とどういう関係があるんですか」
「それは捜査上の秘密なんですよ。いかがです、開けましたか?」
中上は、すぐには答えなかった。刑事の真意がどこにあるのかを考えている顔だった。やがて彼は答えた。「いいえ、開けてません」
「本当ですか」
「はい。表のほうは大抵開いていますが、裏の大扉は、特殊な生産機械を搬入する時ぐらいしか開けないんです」中上は落ち着いた口調でいった。
「そうですか。お忙しいところを、どうもすみませんでした」草薙は守衛にも礼をいって工場を出た。
門を出ると湯川の姿が消えていた。塀に沿って歩いてみると、物理学者はゴミ箱を漁《あさ》っていた。正確にはゴミ箱ではなく、食品工場の廃棄物置き場だ。
「何をしているんだ」と草薙は声をかけた。
「面白いものを見つけた」そういって湯川は手に持っていたものを見せた。
それはスニーカーだった。ただし何かで切断したのか、後ろ半分がなくなっている。
「それのどこが面白いんだ。切ってあるところか」と草薙は訊いた。
「よく見ろよ。切ってあるんじゃないぜ。といって、引きちぎってあるわけでもない。じつに興味深い破断面になっている」湯川は落ちていたコンビニの袋を拾うと、その壊れたスニーカーを中に入れた。
「おまえの研究のために、こんなところまで来たんじゃないぜ」そういって草薙は歩きだした。次は竹田幸恵に会わねばならなかった。
竹田幸恵は自宅でパン屋をしていた。構えは小さいが、近くに行くと焼きたての匂いにつられて入ってしまいそうになる店だった。幸恵は二歳下の妹と二人で、製造と販売をこなしているということだった。夫は五年前に事故で亡くなったらしい。
「あの日のことはよく覚えています。でも、絵を見た時は、そんなには驚かなかったんです。上村さんは興奮していたけれど、たぶん忠広ちゃんが寝ぼけたんだろうと思っていたんです。あの子にしては、下手な絵だったし」
ところが、と幸恵は続けた。次の週になって、店に刑事が来て、おかしなことを尋ねていった。二十二日に堤防の近くで、赤い小さな車が停まっているのを見なかったか、というのだ。ミニクーパーという車で、屋根は白だという。知らない、と幸恵は答えた。だが同時に、あることを思い出していた。例の忠広が描いた絵のことだ。あそこに描かれていたものこそ、赤い車ではなかったか。そこで彼女はそのことを上村宏に話したのだった。
事の成りゆきがこれでわかったと草薙は思った。息子の幽体離脱を何とかアピールしたいと考えていた上村は、絶好のチャンスだと思って、あの手紙を書くことを思いついたのだろう。
「ねえ、刑事さん、魂が身体から抜け出るなんてこと、本当にあるんでしょうか」話し終えた後で幸恵が尋ねてきた。
「さあ、それは……」返答に困り、草薙は湯川を見た。だが湯川は話を聞いていないのか、店頭に並べられたパンを眺めている。
「そういうことが本当にあるのかどうか知らないけど、あたしはね、上村さんがこのことで、妙にはしゃいじゃってるのが気に入らないんですよ。こんなことで有名になったって、仕方がないと思うんだけど……」幸恵はしんみりといった。
上村に気があるのだな、と草薙は思った。年回りも合うかもしれない、とも考えた。
その時湯川が、「すみません、このカレーパンを一つください」と横からいった。