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探偵ガリレオ 第五章 離脱る 05
日期:2017-12-28 21:59  点击:429
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 死体発見から十日が経っていた。栗田信彦は依然として容疑を否認し続けていた。捜査側としても、彼を追いつめる材料が揃わず、苦悩していた。
 むしろ、栗田にとって有利といえる状況証拠が、いくつか出てきた。その一つが、殺された長塚多恵子の部屋に残る、男の痕跡だった。
 風呂の排水口から、ある特定の男の毛髪が見つかっていた。その毛髪は、部屋の絨毯、トイレのマット等からも発見されている。また安全|剃刀《かみそり》、シェービングクリーム、さらにはコンドームなどが、一つの紙袋にまとめて、押入にしまってあった。
 毛髪から判明した血液型はA型。しかし栗田はO型だった。
 無論長塚多恵子に交際している男性がいたからといって、栗田への容疑が弱まることにはならない。むしろ、彼女にそういう恋人がいたことを知った栗田が、逆上して殺したというセンもあり得る。
 だがその男の身元が全くわからないという点に、刑事たちは釈然としないものを感じていた。つまり多恵子はその男との関係を、親しい人間たちにも秘密にしていたということである。またその男にしても、恋人が殺されたにも拘《かかわ》らず名乗り出てこれない事情があるわけだ。
「不倫だよ。相手は妻子持ちの男だ」またしても弓削刑事がこんなふうにいって騒いだが、今度は誰も彼の意見に異を唱えたりはしなかった。
 さりげなく、そして虱《しらみ》潰しに、長塚多恵子の周辺が洗われた。特に職場の男性社員については、徹底的に調査が行われた。これはと思われた人物については、こっそりと毛髪が調べられたりしたが、多恵子の部屋で採取されたものと一致する人間はいなかった。
 殆ど手詰まり状態になった頃、捜査陣にとってじつに不愉快なことが起こった。ある週刊誌で、上村忠広の幽体離脱のことが記事になったのだ。記事を書いているのは、いうまでもなく上村宏だった。
「参っちまったなあ、おい」週刊誌を読んでいた間宮が呻《うめ》くようにいった。捜査本部の置かれた杉並署内の会議室で、草薙が報告書をまとめている時だった。「長いこと警察にいるけど、こんなことは初めてだよ」
「この週刊誌を読んだ市民から、ここにもじゃんじゃん電話がかかってきているそうですよ。警察はどうして少年の貴重な証言を取り上げないんだってね」自動販売機のコーヒーを手にした弓削が、下を指しながらいい、にやにや笑った。
「参ったなあ」間宮は顔をしかめた。「また課長の機嫌が悪くなるぞ」
 その課長は、現在別室で会議中だった。
 そこへ若い刑事が来て、テレビに上村親子が出ていますよといった。それで弓削が近くのテレビのスイッチを入れると、ワイドショー番組で上村宏と忠広が並んで映っていた。
「私が調べたかぎりでは、いわゆる幽体離脱というのは、外傷を受けた時などにしばしば起きるものらしいのです」上村宏が話している。「たとえば頭を殴られた時などです。ふっと身体が上に浮き上がる感じがしたと、体験者は語っています」
「それは殴られた弾みで、頭がどうかしてしまったんじゃないのか」間宮が呟いた。
 上村はさらに語る。「また臨死体験者は、ほぼ例外なく体外離脱を体験しています。つまり肉体的苦痛から脱するため、一時的に意識だけが身体から離れると考えられるのです。忠広の場合、高熱による苦しみから逃れたいという思いが、今回の奇跡を呼んだといえるんじゃないでしょうか」
「すると忠広君の体験は幽体離脱に違いないと上村さんは考えておられるわけですね」
 司会者が訊いている。
「というより、そう考えるしかないと思います。この分野での研究がもう少し進めば、せっかくの貴重な証言を警察が取り上げないというような、馬鹿なこともなくなるのでしょうがね」そういって上村は、真っ直ぐにカメラを見つめた。
 弓削が苦笑しながらテレビを消した。「好き放題にいわれてるなあ」
「草薙、ガリレオ先生のほうはどうなんだ。何かわかったのか」間宮が訊いてきた。
「それが、俺にもよくわからないんですよ。何とかしてくれるとは思うんですが」
「なんだ、頼りないなあ」間宮は頭を掻きむしった。
 そこへ二人の刑事が戻ってきた。どちらも汗だくになっている。
「ごくろうさん、何か掴《つか》めたかい」間宮が尋ねた。
「ミニクーパーのことでちょっと」一方の刑事が答えた。
「またミニクーパーか」間宮はげんなりした顔を草薙たちに向けた。「どういうことだ」
「長塚多恵子のマンションの近くに住んでいる男性が、例の赤いミニクーパーが停まっているのを見ているんです。ただ残念ながら、それが二十一日だったか、二十二日だったかは、はっきりしないらしいんです」
「それがはっきりしないんじゃ、どうしようもないなあ」
「でも一つ気になることがあるんです。そのミニクーパーを、妙な男が覗き込んでいたというんですよ。夏なのに背広をきっちりと着た、痩せた中年男だったそうです」
「ふうん……」
「その外見からすると、栗田ではないですね」草薙がいった。「誰かな」
「単なるカーマニアじゃないのか」弓削の意見だ。
「そういう感じではなかったというのが、目撃者の話ですがね」聞き込みをしてきた刑事が答えた。「車の持ち主を確認しているように見えた、というんですが」
「じゃあその背広男の知り合いに、同じ車を持っている人間がいたんだろう。だって、栗田と奴の愛車のことを知っている人間が、たまたま通りかかったとは考えられないぜ」
 弓削の言葉に、一同が考え込んだ。彼の意見はもっともなものではあった。
「ちょっと待てよ」間宮が口を開いた。「その背広男がそこにいたのは、たまたまではなかったとしたらどうだ?」
「どういう意味ですか」と弓削が訊いた。
「つまりだな、その男は長塚多恵子の部屋へ行くつもりだったんだ。ところが、近くまで行ってみると、見覚えのある車が停まっている。もし栗田信彦の車なら、栗田は多恵子の部屋にいるはずだ。となると、これから自分が行くのはまずい。それで誰の車かを調べていた……」
「待ってください」草薙が口を挟んだ。「だとすると、その男は長塚多恵子と栗田信彦の双方と親しい人間、ということになります」
「そうだな。そういう人間はいないか」
 全員が黙って顔を見合わせた。やがて弓削が呟いた。「あの二人は誰かの紹介で見合いをしたんだったな……」
 一瞬後、全員がほぼ同時に立ち上がった。
 
「なるほど、それで被害者の元上司が捕まったわけか」草薙の話を聞き、湯川は頷いていった。
「その吉岡という男は三年前に会社を辞めていたんだ。長塚多恵子とは、その前から関係があったようだな。多恵子が不倫していることまでは推測できたが、退職した人間まで当たらなかったのが俺たちのミスだった。吉岡は栗田とは、保険を通じて親しくなったらしい」草薙はそういってコーヒーを飲んだ。いつもながら事件が解決した後だと、インスタントでも旨かった。吉岡は刑事に追及されると、あっさりと白状したのだった。
「するとその吉岡なる人物は、栗田氏に自分の愛人を紹介したわけか」
「そういうことだ」
「やれやれ」湯川は頭を振った。「男と女の関係は不可解だね、全く」
「吉岡は多恵子との関係を断ちたかったから、そんなことをしたんだ。だけど多恵子に別れる気はなかった。平然と見合いをしたのは、たぶん、こんなことでは自分の気持ちは変わらないということを示すためだったんだろう。最近では、二人の関係を奥さんにばらすという意味のことを仄《ほの》めかしていたらしい。それで吉岡はビビった」
 吉岡は会社を辞めた後、妻が親から受け継いだリース会社の重役におさまっていた。それだけに多恵子との関係が妻に知れると、すべてを失うおそれがあった。
 吉岡はまず二十一日に、多恵子を説得するつもりで彼女のマンションへ出向いた。ところが栗田のミニクーパーを見て、出直すことにしたのだ。そして翌日、事前に電話してから多恵子の部屋に行き、自分と別れてくれるよう頼んだ。
 だが彼女は納得しなかった。今すぐ奥さんに電話する、とまでいいだした。
「あとはありふれた話さ。かっとなって気がついたら首を絞めていたというんだな。まあ計画性が全くないから、信用してやってもいいかなと思うがね」
「じゃあ、二十二日にミニクーパーが路上駐車されていたことはどうなるんだ。それは結局、栗田氏の車ではなかったわけだな」
 湯川に訊かれ、草薙はつい苦い顔をした。
「それに関しては、がっかりしたオチがついている。二十一日に停まっていたのは栗田のミニクーパーだが、二十二日に同じ場所に停められていたのは、吉岡の車だったんだ。何のことはない。お好み焼き屋の女将が勘違いしていたんだ。たしかに赤っぽい色ではあるが、車種はなんとビーエムだぜ。それをどうしてミニクーパーだと思い込んだのか……全く理解に苦しむ」
「人間の記憶というのはそういうものさ。錯覚する動物なんだ。だからこそ、オカルト話があとを絶たない」
「そんなことをいう以上は、例の問題は解決しているんだろうな。俺は今日、それを訊きにきたんだぜ」草薙は湯川の顔に人差し指を向けた。
「事件が解決したから、あの件はもういいんじゃないのか」
「そうはいかない。あの後もおかしな問い合わせが来たりして迷惑してるんだ。捜査一課の連中からも、ガリレオに頼んで何とかしろといわれて困っている」
「ガリレオ?」
「頼むよ、何とかしてくれ。おまえならできるだろう?」椅子から立ち上がり、草薙は拳を振った。
 湯川は椅子に座ったまま、身体を大きく後ろに反らした。
「一つ調べてくれるか」と彼はいった。
「調べる? どんなことだ」
 すると湯川は白衣のポケットから何か取り出した。見るとそれは先日拾った、スニーカーの破片だった。
「この貴重なサンプルが語ることを確認してほしいんだ」
「へええ……」それを手に取り、草薙は首を捻った。
 
 この夜、草薙は湯川の部屋に電話した。
「おまえのいうとおりだったよ。例の食品会社の工場長を問い詰めてみたところ、やはりあの日、大扉を全開したそうだ」
「思った通りだ」湯川はいった。「すると、事故もあったわけだな」
「そういうことだ。こっちが事故のことを知っていると思って、工場長もごまかしきれないと観念したらしい。どうか穏便に、といわれたが、そうはいかない。しかるべき部署に連絡するつもりだ」
「あの会社もついてなかったな。妙な幽体離脱騒ぎさえなければ、事故のことは内密にできたのに」
「そのことだが、あの工場の事故と幽体離脱と一体どういう関係があるんだ。いくら考えてもわからないんだけどな」草薙はいったが、じつは考えてすらいなかった。考えようにも、バックグラウンドが何もない。
 少し沈黙した後、湯川がいった。
「では種明かしといこう。だけど観客が必要だな」
「観客?」
「そう。是非連れてきてくれ」と湯川はいった。

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