1
午前七時三十五分、石神はいつものようにアパートを出た。三月に入ったとはいえ、まだ風はかなり冷たい。マフラーに顎《あご》を埋めるようにして歩きだした。通りに出る前に、ちらりと自転車置き場に目を向けた。そこには数台並んでいたが、彼が気にかけている緑色の自転車はなかった。
南に二十メートルほど歩いたところで、太い道路に出た。新大橋通りだ。左に、つまり東へ進めば江戸川区に向かい、西へ行けば日本橋に出る。日本橋の手前には隅田川があり、それを渡るのが新大橋だ。
石神の職場へ行くには、このまま真っ直ぐ南下するのが最短だ。数百メートル行けば、清澄庭園という公園に突き当たる。その手前にある私立高校が彼の職場だった。つまり彼は教師だった。数学を教えている。
石神は目の前の信号が赤になるのを見て、右に曲がった。新大橋に向かって歩いた。向かい風が彼のコートをはためかせた。彼は両手をポケットに突っ込み、身体をやや前屈みにして足を送りだした。
厚い雲が空を覆《おお》っていた。その色を反射させ、隅田川も濁った色に見えた。小さな船が上流に向かって進んでいく。それを眺めながら石神は新大橋を渡った。
橋を渡ると、彼は袂《たもと》にある階段を下りていった。橋の下をくぐり、隅田川に沿って歩き始めた。川の両側には遊歩道が作られている。もっとも、家族連れやカップルが散歩を楽しむのは、この先の清洲橋あたりからで、新大橋の近くには休日でもあまり人が近寄らない。その理由はこの場所に来てみればすぐにわかる。青いビニールシートに覆われたホームレスたちの住まいが、ずらりと並んでいるからだ。すぐ上を高速道路が通っているので、風雨から逃れるためにもこの場所はちょうどいいのかもしれない。その証拠に、川の反対側には青い小屋など一つもない。もちろん、彼等なりに集団を形成しておいたほうが何かと都合がいい、という事情もあるのだろう。
青い小屋の前を石神は淡々と歩き続けた。それらの大きさはせいぜい人間の背丈ほどで、中には腰ぐらいの高さしかないものもあった。小屋というより箱と呼んだほうがふさわしい。しかし中で寝るだけなら、それで十分なのかもしれない。小屋や箱の近くには、申し合わせたように洗濯ハンガーが吊されており、ここが生活空間であることを物語っていた。
堤防の端に作られた手すりにもたれ、歯を磨いている男がいた。石神がよく見かける男だった。年齢は六十歳以上、白髪混じりの髪を後ろで縛っている。働く気は、もうないのだろう。肉体労働をするつもりなら、こんな時間にうろうろしていない。そうした仕事の斡旋《あっせん》が行われるのは早朝だ。また、職安に行く予定もないのだろう。仕事を紹介されても、あの伸び放題の髪のままでは、面接に行くことすらできない。無論、あの年齢では、仕事を紹介される可能性もかぎりなくゼロに近いだろうが。
塒《ねぐら》のそばで大量の空き缶を潰《つぶ》している男がいた。そうした光景はこれまでにも何度か見ているので、石神はひそかに『缶男』という渾名《あだな》をつけていた。『缶男』は五十歳前後に見えた。身の回り品は一通り揃っているし、自転車まで持っている。おそらく、缶を集める際には機動性を発揮するに違いない。集団の一番端、しかも少し奥まった場所というのは、この中では特等席に思われる。だから『缶男』はこの一団の中では古株だろうと石神は睨《にら》んでいた。
青いビニールシートの住居の列が途切れてから少し行ったところで、一人の男がベンチに座っていた。元々はベージュ色だったと思われるコートは、薄汚れて灰色に近い。コートの下にはジャケットを着ているし、その下はワイシャツだ。ネクタイはたぷんコートのポケットに入っているのだろうと石神は推理した。石神は彼のことを『技師』と心の中で名付けていた。先日、工業系の雑誌を読んでいるのを見たからだ。髪は短く保たれているし、髭も剃られている。だから『技師』はまだ再就職の道を諦《あきら》めてはいないのだ。今日もこれから職安に出向くつもりなのかもしれない。しかしおそらく仕事は見つからないだろう。彼が仕事を見つけるには、まずプライドを捨てねばならない。石神が『技師』の姿を初めて見たのは十日ほど前だ。『技師』はまだここの生活に馴染んでいない。青いビニールシートの生活とは一線を画したいと思っている。そのくせ、ホームレスとして生きていくにはどうすればいいかわからず、こんなところにいる。
石神は隅田川に沿って歩き続けた。清洲橋の手前に、三匹の犬を散歩させている老婦人がいた。犬はミニチュアダックスフントで、赤、青、ピンクの首輪がそれぞれに付けられていた。近づいていくと彼女も石神に気づいたようだ。微笑み、小さく会釈してきた。彼も会釈を返した。
「おはようございます」彼のほうから挨拶した。
「おはようございます。今朝も冷えますね」
「全く」彼は顔をしかめてみせた。
老婦人の横を通り過ぎる時、「行ってらっしゃい。気をつけて」と彼女が声をかけてくれた。はい、と彼は大きく頷《うなず》いた。
彼女がコンビニの袋を提げているのを石神は見たことがある。袋の中身はサンドウィッチのようだった。たぶん朝食だろう。だから彼女は独り暮らしだと石神はふんでいる。住まいはここからさほど遠くはない。以前、彼女がサンダル履《ば》きだったのを見ているからだ。サンダルでは車の運転はできない。つれあいをなくし、この近くのマンションで三匹の犬と暮らしているのだ。しかもかなり広い部屋だ。だからこそ三匹も飼える。また、その三匹がいるから、ほかのもっとこぢんまりとした部屋に越すこともできないのだ。ローンは終わっているかもしれないが、管理費はかかる。それで彼女は節約しなければならない。彼女はこの冬中、とうとう美容院には行かなかった。髪を染めることもしなかった。
清洲橋の手前で、石神は階段を上がった。高校へ行くには、ここで橋を渡らねばならない。しかし彼は反対方向に歩きだした。
道路に面して、『べんてん亭』という看板が出ている。小さな弁当屋だった。石神はガラス戸を開けた。
「いらっしゃいませ。おはようございます」カウンターの向こうから、石神の聞き慣れた、それでいていつも彼を新鮮な気分にさせる声が飛んできた。白い帽子をかぶった花岡靖子が笑っていた。
店内にはほかに客はいなかった。そのことが彼を一層浮き浮きさせた。
「ええと、おまかせ弁当を……」
「はい、おまかせひとつ。いつもありがとうございます」
彼女が明るい声でいったが、どんな表情をしているのかは石神にはわからなかった。まともに顔を見られず、財布の中を覗き込んでいるところだったからだ。せっかく隣に住んでいるのだから、弁当の注文以外のことを語そうと思うのだが、話題が何ひとつ思い浮かばない。
代金を支払う時になってようやく、「寒いですね」といってみた。だが彼のぼそぼそと呟《つぶや》くような声は、後から入ってきた客のガラス戸を開ける音にかき消されてしまった。靖子の注意もそちらに移ったようだ。
弁当を手に、石神は店を出た。そして今度こそ清洲橋に向かった。彼が遠回りをする理由、それは『べんてん亭』にあった。
朝の通勤時間が過ぎると『べんてん亭』は暇になる。しかしそれは来店客がいなくなるというだけのことだ。実際には、店の奥で昼に備えての仕込みが始まる。契約を結んでいる会社がいくつかあり、そこへは十二時までに配達しなければならない。客が来ない間は、靖子も厨房を手伝うことになる。
『べんてん亭』は靖子を入れて四人のスタッフで成り立っていた。料理を作るのは、経営者でもある米沢と、その妻の小代子《さよこ》だ。配達はアルバイトの金子の仕事で、店での販売は殆ど靖子一人に任せられていた。
この仕事に就く前、靖子は錦糸町のクラブで働いていた。米沢はそこへしばしば飲みに来る客の一人だった。その店の雇われママである小代子が彼の妻だと靖子が知るのは、小代子が店を辞める直前のことだった。本人の口から聞かされたのだ。
「飲み屋のママから弁当屋の女房へ転身だってさ。人間、わかんねえもんだなあ」そんなふうに客たちは噂していた。しかし小代子によれば、弁当屋を経営するのが夫婦の長年の夢で、それを実現するために彼女も飲み屋で働いていた、ということらしい。
『べんてん亭』が開店すると、靖子も時々様子を見に行くようになった。店の経営は順調のようだった。手伝ってくれないか、という申し出を受けたのは、開店から丸一年が経った頃だ。何もかも夫婦だけでこなすのは、体力的にも物理的にも無理が多すぎるということだった。
「靖子だって、いつまでも水商売をやってるわけにはいかないでしょ。美里ちゃんも大きくなって、そろそろおかあさんがホステスをやってることについて、コンプレックスを持ったりしちゃうよ」大きなお世話かもしれないけれど、と小代子は付け足した。
美里は靖子の一人娘だ。父親はいない。今から五年前に離婚したのだ。小代子にいわれるまでもなく、今のままではいけないと靖子も考えていた。美里のことももちろんあるが、自分の年齢を考えると、いつまでクラブで雇ってもらえるか怪しかった。
結局一日考えただけで結論を出した。クラブでの引き留めもなかった。よかったねといわれただけだ。周りも年増ホステスの行く末を案じていたのだと思い知らされた。
昨年の春、美里が中学に上がるのを機に、今のアパートに引っ越した。それまでの部屋では『べんてん亭』まで遠すぎるからだ。これまでとは違い、仕事は早朝から始まる。六時に起きて、六時半には自転車に乗ってアパートを出る。緑色の自転車だ。
「例の高校の先生、今朝も来た?」休憩している時に小代子が問いかけてきた。
「来たわよ。だって、毎日来るじゃない」
靖子が答えると、小代子は亭主と顔を見合わせてにやにやした。
「何よ、気持ち悪いなあ」
「いや、べつに変な意味じゃないんだって。ただね、あの先生、あんたのことが好きなんじゃないかって、昨日話してたのよ」
「えー」靖子は湯飲み茶碗を持ったまま、身をのけぞらせてみせた。
「だってさ、昨日はあんた休みだったでしょ。そうしたら、あの先生、来なかったんだよ。毎日来るのに、あんたがいない時だけ来ないって、おかしいと思わない?」
「たまたまでしょ、そんなの」
「それが、そうじゃないんじゃないかって……ねえ」小代子は亭主に同意を求めた。
米沢が笑いながら頷いた。
「こいつによるとね、ずっとそうだっていうんだよ。靖子ちゃんが休みの日には、あの先生は弁当を買いに来ない。前からそうじゃないかと思ってたけど、昨日確信したってね」
「だってあたしなんて、定休日以外は休む日はばらばらよ。曜日だって決まってないし」
「だから余計に怪しいんだってば。あの先生、隣に住んでるんでしょ。たぶんあんたが出ていくのを見て、休みかどうかを確かめてるんだと思うな」
「えー、でも、家を出る時に会ったことなんてないわよ」
「どっかから見てるんじゃないの。窓からとか」
「窓からは見えないと思うけどなあ」
「まあいいじゃないか。本当に気があるんなら、そのうちに何かいってくるよ。とにかくうちとしちゃあ、靖子ちゃんのおかげで固定客がついたわけだから、ありがたい話だ。さすがは錦糸町でならしただけのことはある」米沢が締めくくるようにいった。
靖子は苦笑を浮かべ、湯飲み茶碗の残りを飲み干した。噂の高校教師のことを思い出していた。
石神という名字だった。引っ越した夜に挨拶に行った。高校の教師だということはその時に聞いた。ずんぐりした体型で、顔も丸く、大きい。そのくせ目は糸のように細い。頭髪は短くて薄く、そのせいで五十歳近くに見えるが、実際はもっと若いのかもしれない。身なりは気にしないたちらしく、いつも同じような服ばかり着ている。この冬は、大抵茶色のセーターを着ていた。そのうえにコートを羽織った格好が、弁当を買いに来る時の服装だ。それでも洗濯はまめにして いるらしく、小さなベランダには時々洗濯物が干してある。独身のようだが、おそらく結婚経験はないのだろうと靖子は想像している。
あの教師が自分に気があると聞かされても、ぴんと来るものがまるでなかった。靖子にとっては、アパートの壁のひび割れのように、その存在を知りつつも、特別に意識したことはなく、また意識する必要もないもの.と思い込んでいたからだ。
会えば挨拶するし、アパートの管理面のことなどで相談したこともある。しかし彼について靖子は殆ど何も知らなかった。最近になって、数学の教師だと知った程度だ。ドアの前に、古い数学の参考書類が、紐で縛って置いてあるのを見たのだ。
デートなんかに誘ってこなければいいけれど、と靖子は思った。しかしその直後にひとりで苦笑した。あのいかにも堅物そうな人物がデートに誘ってくるとしたら、一体どんな顔をして切り出すのだろうと思った。
いつものように昼前から再び忙しくなり、正午を過ぎてピークになった。一段落したのは午後一時を回ってからだ。それもまたいつものパターンだった。
靖子がレジスターの紙を入れ替えている時だった。ガラス戸が開き、誰かが入ってきた。いらっしゃいませ、と声をかけながら彼女は客の顔を見た。その直後、彼女は凍りついた。目を見開き、声を出せなくなっていた。
「元気そうだな」男は笑いかけてきた。だがその目はどす黒く濁って見えた。
「あんた……どうしてここに」
「そんなに驚くことはないだろう。俺だってその気になれば、別れた女房の居場所ぐらいは突き止められる」男は紺色のジャンパーのポケットに両手を突っ込み、店内を見回した。何かを物色するような目つきだった。
「今さら何の用?」靖子は鋭く、しかし声をひそめていった。奥にいる米沢夫妻に気づかれたくなかった。
「そう目くじら立てるなって。久しぶりに会ったんだから、嘘でも笑ってみせたらどうなんだ。ああ?」男は嫌な笑みを浮かべたままだった。
「用がないなら帰って」
「用があるから来たんだよ。折り入って話がある。ちょっとだけ抜けられないか」
「何馬鹿なこといってるの。仕事中だってことは、見ればわかるでしょ」そう答えてから靖子は後悔した。仕事中でなければ話を聞いてもいい、という意味に受け取られてしまうからだ。
男は舌なめずりをした。「仕事は何時に終わるんだ」
「あんたの話を聞く気なんかないよ。お願いだから帰って。もう二度と釆ないで」
「冷たいな」
「当たり前でしょ」
靖子は表に目を向けた。客が来てくれないかと思ったのだが、入ってきそうな人間はいない。
「おまえにそんなに冷たくされたんじゃ仕方ないな。じゃあ、あっちに行ってみるか」男は首の後ろをこすった。
「何よ、あっちって」嫌な予感がした。
「女房が話を聞いてくれないなら、娘に会うしかないだろ。中学校はこの近くだったな」男は、靖子が恐れていたとおりのことを口にした。「やめてよ、あの子に会うのは」
「じゃあ、おまえが何とかしろよ。俺はどっちだっていいんだ」
靖子はため息をついた。とにかくこの男を追い払いたかった。
「仕事は六時までよ」
「早朝から六時までかよ。えらく長く働かされるんだな」
「あんたには関係ないでしょ」
「じゃあ、六時にまたここへ来ればいいんだな」
「ここへは釆ないで。前の通りを右に真っ直ぐ行ったら、大きな交差点がある。その手前にファミレスがあるから、そこへ六時半に来て」「わかった。絶対に来てくれよ。もし来なかったら―――」
「行くわよ。だから、早く出ていって」
「わかったよ。つれないな」男はもう一度店内を見回してから店を出た。立ち去る時、ガラス戸を乱暴に閉めた。
靖子は額《ひたい》に手を当てた。軽い頭痛が始まっていた。吐き気もする。絶望感がゆっくりと彼女の胸に広がっていった。
富樫慎二と結婚したのは八年前のことだ。当時、靖子は赤坂でホステスをしていた。その店に通ってくる客の一人だった。
外車のセールスをしているという富樫は、羽振りがよかった。高価なものをプレゼントしてくれるし、高級レストランにも連れていってくれた。だから彼からプロポーズされた時には、まるで『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツになったような気がしたものだ。靖子は最初の結婚に失敗し、働きながら一人娘を育てるという生活に疲れていた。
結婚当初は幸せだった。富樫の収入が安定していたから、靖子は水商売から足を洗うことができた。また彼は美里をかわいがってもくれた。美里も彼を父親として受けとめようと努力しているように見えた。
しかし破綻は突然やってきた。富樫が会社をくびになったのだ。原因は、長年に亘る使い込みがばれたことだった。会社から訴えられなかったのは、管理責任を問われるのを恐れた上司たちが、巧妙に事態を隠蔽《いんべい》したからだ。何のことはない。富樫が赤坂でばらまいていたのは、すべて汚れた金だったのだ。
それ以来、富樫は人間が変わった。いや、本性を現したというべきかもしれない。働かず、一日中ごろごろしているか、ギャンブルに出かけるかだった。そのことで文句をいうと、暴力をふるうようになった。酒の量も増えた。いつも酔っていて、凶暴な目をぎらつかせていた。
当然の成り行きとして、再び靖子が働きに出ることになった。しかしそうして稼いだ金を、富樫は暴力で奪った。彼女が金を隠すようになると、給料日に彼女よりも先に店へ出向き、勝手に受け取るという行為にまで及んだ。
美里はすっかり義父を怖がるようになった。家で彼と二人きりになるのが嫌で、靖子の働く店までやってきたことさえあった。
靖子は富樫に離婚を申し出たが、彼はまるで聞く耳を持たなかった。しつこく食い下がると、またしても暴力をふるわれるという有様だった。悩んだ末に彼女は、客に紹介してもらった弁護士に相談した。その弁護士の働きかけで、富樫は渋々離婚届に判を押した。裁判になれば自分に勝ち目はなく、さらに慰謝料を請求されるだろうということは、彼にもわかっていたようだ。
しかし問題はそれだけでは解決しなかった。離婚後も富樫はしばしば靖子たちの前に姿を見せた。用件は決まっていて、自分はこれから心を入れ替えて仕事に励むから、どうか復縁を検討してくれないか、というのだった。靖子が彼を避けると、彼は美里に近づいた。学校の外で待ち伏せすることもあった。
土下座までする彼の姿を見ていると、芝居とわかりつつ、哀れに思えた。一度は夫婦になった仲だけに、どこかに情が残っていたのかもしれない。つい、靖子は金を渡した。それが間違いだった。味をしめた富樫は、さらに頻繁にやってくるようになった。卑屈な態度をとりつつも、厚かましさは増していくようだった。
靖子は店を移り、住所も変えた。かわいそうだと思いながらも美里を転校させた。錦糸町のクラブで働くようになってからは、富樫も現れなくなった。それからさらに引っ越しをし、『べんてん亭』で働き始めて一年近くになる。もはやあの疫病神と関わり合うことはないと信じていた。米沢夫妻には迷惑をかけられない。美里にも気づかれてはならない。何としてでも自分一人の力であの男が二度とやってこないようにしなければ――壁の時計を睨みながら靖子は決意を固め
た。
約束の時刻になると、靖子はファミリーレストランに出向いた。富樫は窓際の席で煙草を吸っていた。テーブルの上にはコーヒーカップが載っていた。靖子は席につきながら、ウェイトレスにココアを注文した。他のソフトドリンクならおかわりが無料だが、長居する気はなかった。
「それで、用件というのは?」富樫を睨みながら訊いた。
彼はふっと唇を緩めた。「まあ、そう急《せ》くなよ」
「あたしだっていろいろと忙しいんだから、用があるなら早くいって」
「靖子」富樫が手を伸ばしてきた。テーブルに置いた彼女の手に触れようとしているらしい。それを察知し、彼女が手を引くと、彼は口元を曲げた。「機嫌、悪いな」
「当たり前でしょ。一体何の用があって、あたしのことをつけ回すのよ」
「そんな言い方しなくたっていいだろ。こう見えても、俺だって真剣なんだぜ」
「何が真剣なのよ」
ウェイトレスがココアを運んできた。靖子はすぐにカップに手を伸ばした。早く飲み終えて、さっさと席を立とうと考えていた。
「おまえ、まだ独りなんだろ?」富樫が上目遣いした。
「どうでもいいでしょ、そんなこと」
「女一人で娘を育てていくなんてのは大変だぜ。これからますます金だってかかる。あんな弁当屋で働いてたって、将来の保証なんかないだろ。だからさ、もう一度考え直さないか。俺だって、昔とは違うんだ」
「何が違うの? じゃあ訊くけど、ちゃんと働いてるの?」
「働くさ。仕事はもう見つけてあるんだ」
「今の時点じゃ働いてないってことでしょ」
「だから仕事はあるといってるだろ。来月から働くことになってる。新しい会社だけど、軌道に乗ったら、おまえたちにも楽をさせてやれるはずだ」
「結構よ。それだけ稼げるんなら、ほかの相手を探したらいいでしょ。お願いだから、もうあたしたちには構わないで」
「靖子、俺にはおまえが必要なんだよ」
富樫が再び手を伸ばしてきて、カップを持っている彼女の手を握ろうとした。触らないでよ、といって彼女はその手をふりほどいた。その拍子にカップの中身が少しこぼれ、富樫の手にかかった。熱《あつ》っ、といって彼は手を引っ込めた。次に彼女を見つめた目には憎悪の色があった。
「調子のいいこといわないで。そんな言葉をあたしが信じるとでも思ってるの? 前にもいったけど、あたしにはあんたとよりを戻すつもりなんて、これっぽっちもないからね。いい加減に諦めて。わかった?」
靖子は立ち上がった。富樫は無言で彼女を見つめている。その目を無視し、彼女はココア代をテーブルに置くと、出口に向かった。
レストランを出た後は、そばに止めてあった自転車に跨《またが》り、すぐにこぎだした。ぐずぐずしていて富樫が追ってきたら面倒だと思った。清洲橋通りを直進し、清洲橋を渡ったところで左折した。
いうべきことはいったつもりだが、あれで富樫が諦めるとは思えなかった。近いうちにまた店に現れるだろう。靖子につきまとい、やがては店に迷惑がかかる事態を引き起こすことになる。美里の通う中学校にも現れるかもしれない。あの男は靖子が根負けするのを待っているのだ。根負けして金を出すとたかをくくっている。
アパートに戻り、夕食の支度を始めた。といっても、店でもらってきた惣菜の残りを温め直す程度だ。それでも靖子の手はしばしば止まった。嫌な想像ばかりが膨らみ、つい上の空になってしまうからだ。
そろそろ美里が帰ってくる頃だった。バドミントン部に入った彼女は、練習の後、部員仲間たちとひとしきりおしゃべりをしてから帰路につくという。だから家に帰るのは、大抵七時を過ぎている。
突然ドアホンが鳴った。靖子は訝《いぶか》しく思いながら玄関に出ていった。美里は鍵を持っているはずだ。
「はい」靖子はドアの内側から訊いた。「どなた?」
少し間があってから声が戻ってきた。「俺だよ」
目の前が暗くなるのを靖子は感じた。嫌な予感は外れなかった。富樫はすでにこのアパートも嘆ぎつけていたのだ。たぶん、『べんてん亭』から彼女の後をつけたことがあるのだろう。
靖子が答えないでいると、富樫はドアを叩き始めた。「おい」
彼女は頭を振りながら鍵を外した。しかしドアチェーンはつけたままにしておいた。
ドアを十センチほど開けると、すぐ向こうに富樫の顔があった。にっと笑ってきた。歯が黄色かった。
「帰ってよ。なんでこんなところまで来るのよ」
「俺の話はまだ終わっちゃいないんだよ。おまえは相変わらず気が短いな」
「もうつきまとわないでっていってるでしょ」
「話ぐらい聞いたらどうなんだよ。とにかく中に入れてくれ」
「嫌よ。帰って」
「入れてくれないなら、ここで待ってるぜ。そろそろ美里が帰ってくる頃だろ。おまえと話ができないなら、あいつとするよ」
「あの子は関係ないでしょ」
「だったら入れてくれ」
「警察に連絡するわよ」
「しろよ、勝手に。別れた女房に会いにきて何が悪い。警官だって、俺の味方をしてくれるさ。奥さん、部屋に入れてやるぐらいのことはいいじゃないですかってな」
靖子は唇を噛んだ。悔しいが富樫のいうとおりだった。今までにも警官を呼んだことはある。しかし彼等が彼女を助けてくれたことは一度もない。
それに、こんなところで騒ぎを起こしたくなかった。保証人なしで入居させてもらっているだけに、少しでも妙な噂がたてば追い出されるおそれがあった。
「すぐに帰ってよ」
「わかってるよ」富樫は勝ち誇った顔になった。
ドアチェーンを外した後、改めてドアを開けた。富樫はじろじろと室内を眺めながら靴を脱いだ。間取りは2Kだ。入ってすぐのところが六畳の和室で、右側に小さな台所がついている。奥に四畳半の和室があり、その向こうがベランダだ。
「狭くて古いけど、まあまあいい部屋じゃねえか」富樫は図々しく、六畳間の中央に据えられている炬燵《こたつ》に足を入れた。「なんだよ、スイッチが入ってねえぞ」そういうと勝手に電源スイッチを入れた。
「あんたの魂胆はわかってるわよ」靖子は立ったまま富樫を見下ろした。「なんだかんだいってるけど、結局はお金でしょ」
「なんだよ。どういう意味だい」富樫はジャンパーのポケットからセブンスターの箱を出した。使い捨てライターで火をつけてから周辺を見回した。灰皿がないことに気づいたようだ。身体を伸ばし、不燃物用ゴミ袋の中から空き缶を見つけ出すと、それに灰を落とした。
「あたしに金をたかろうとしてるだけでしょってこと。要するにそうなんでしょ」
「まあ、おまえがそう思うってんなら、それでもいいけどさ」
「お金なんて、一円も出さないから」
「ふうんそうかい」
「だから帰って。もう釆ないで」
靖子がいい放った時、ドアが勢いよく開き、制服姿の美里が入ってきた。彼女は来客の存在に気づき、一旦立ち尽くした。それから客の正体を知り、怯《おび》えと失望の混じった表情を浮かべた。
その手からバドミントンのラケットが落ちた。
「美里、久しぶりだな。大きくなったじゃないか」富樫が能天気な声を出した。
美里は靖子をちらりと見ると、運動靴を脱ぎ、無言で部屋に上がってきた。そのまま奥の部屋まで進むと、仕切の襖《ふすま》をぴったりと閉じた。
富樫がゆっくりと口を開いた。
「おまえがどう思ってるのかは知らないが、俺はただやり直したいだけなんだ。それを頼むのが、そんなに悪いことかね」
「あたしにはそんな気はないといってるでしょ。あんただって、あたしが承知するなんて思っちゃいないでしょ。ただ、あたしにつきまとう理由にしてるだけじゃない」
図星のはずだった。しかし富樫はこれには答えず、テレビのリモコンのスイッチを入れた。アニメ番組が始まった。
靖子は吐息をつき、台所に行った。流し台の横の引き出しに財布を入れてある。そこから一万円札を二枚抜いた。
「これでもう勘弁して」炬燵の上に置いた。
「何だよそれ。金は出さないんじゃなかったのか」
「これが最後よ」
「いらねえよ、そんなもの」
「手ぶらで帰る気はないんでしょ。もっと欲しいんだろうけど、うちだって苦しいんだから」
富樫は二万円を見つめ、それから靖子の顔を眺めた。
「仕方ねえな。じゃあ、帰ってやるよ。いっとくけど、俺は金はいらないっていったんだからな。それをおまえが無理に渡したんだ」
富樫は一万円札をジャンパーのポケットにねじ込んだ。煙草の吸い殻を空き缶の中に放り込み、炬燵から抜け出した。だが玄関には向かわず、奥の部屋に近づいた。襖をいきなり開けた。美里の、ひっという声が聞こえた。
「ちょっとあんた、何やってんのよ」靖子は声を尖《とが》らせた。
「義理の娘に挨拶ぐらいしたってかまわねえだろ」
「今は娘でも何でもないじゃないの」
「まあいいじゃねえか。じゃあ美里、またな」富樫は部屋の奥に向かっていった。美里がどうしているのかは靖子には見えない。
富樫はようやく玄関に向かった。「あれはいい女になるぜ。楽しみだな」
「何、くだらないこといってるのよ」
「くだらなくはねえぜ。あと三年もすれば稼げるようになる。どこでも雇ってくれるよ」
「ふざけないで。早く帰って」
「帰るよ。今日のところはな」
「もう絶対に釆ないで」
「さあ、それはどうかな」
「あんた……」
「いっておくがな、おまえは俺から逃げられないんだ。諦めるのはそっちのほうだよ」富樫は低く笑った。そして靴を履くために腰を屈めた。
その時だった。靖子の背後で物音がした。振り返った時には、制服姿の美里がすぐそばまで来ていた。彼女は何かを振り上げていた。
靖子は止めることも、声を出すこともできなかった。美里は富樫の後頭部を殴りつけていた。
鈍い音がして、富樫はその場に倒れた。