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その日もいつものように教室はがらがらだった。詰めれば百人は入れる部屋だが、座っているのは多く見積もっても二十人といったところだった。しかもその殆どの学生が、出欠を取り終えたら即座に退出できるよう、あるいは自分勝手な内職をできるよう、後方の席に座っていた。
数学科志望の学生は特に少なかった。石神以外には誰もいなかったといってもいい。応用物理学の歴史的背景ばかりを聞かされるその講義は、学生たちには人気がなかった。
石神にしてもその講義にさほど関心はなかったが、いつもの習慣で、最前列の左から二番目の席についていた。どの講義でも彼はその位置か、それに近い場所に着席することにしていた。真ん中に座らないのは、講義を客観的に捉えたいという意識があったからだ。彼は、どんなに優秀な教授でも、いつも正しいことを語るわけではないということを知っていた。
彼は大抵孤独だったが、その日は珍しくすぐ後ろに座った者がいた。しかしそのことについてさほど気には留めなかった。講師が来るまでの間、彼にはやるべきことがあった。ノートを取り出し、ある問題と取り組んでいた。
「君もエルデシュ信者かい」
最初、その声が自分に対して発せられたものだとは石神は気づかなかった。しばらくして顔を上げる気になったのは、エルデシュという名前を口にする人間がいることに興味がわいたからだ。彼は後ろを振り向いた。
髪を肩まで伸ばし、シャツの胸元をはだけた男が頬杖をついていた。首には金色のネックレスをつけていた。時々見かける顔だった。物理学科志望の学生だということは知っていた。
声をかけてきたのは、まさかこの男ではあるまい―――石神がそう思った直後、長髪の男は頬杖をしたままいった。「紙と鉛筆には限界があるぜ。まあトライすることには意味があるかもしれんが」
同じ声だったので、石神は少し驚いた。
「俺が何をしてるのか知ってるのか」
「ちらりと見えた。覗こうと思ったわけじゃない」長髪の男は石神の机を指差した。
石神は自分のノートに目を戻した。数式が書かれているが、それは全体の途中であり、ごく一部にすぎなかった。一目見て、何を解いているのかわかったとすれば、この間題に取り組んだ経験があるということだ。
「おたくもやったことがあるのか」石神は訊いた。
長髪の男はようやく頬杖を外し、苦笑を浮かべた。
「こっちは不必要なことはしない主義なんだ。何しろ、物理学科志望だからな。数学者が作り上げた定理を使わせてもらうだけだ。証明は君たちに任せる」
「でもこいつには興味があるわけか」石神は自分のノートを手にした。
「証明済みだからな。証明されたことは知っておいて損はない」彼は石神の目を見て続けた。
「四色問題は証明された。すべての地図は四色で塗り分けられる」
「すべてじゃない」
「そうだった。平面または球面上、という条件つきだったな」
それは数学界において最も有名な問題のひとつだった。『平面または球面上のどんな地図も四色で塗り分けられるかどうか』というもので、一八七九年にA・ケーリーによって提出された。塗り分けられることを証明するか、それが不可能な地図を考案すればいいわけだが、解決されるまでに百年近くを要した。証明したのはイリノイ大学のケネス・アッベルとウォルフガング・ハーケンで、ふたりはコンピュータを用い、あらゆる地図が約百五十の基本的な地図のバリエーションでしかないことを確かめ、それらすべてについて四色で塗り分けられることを証明したのだ。一九七六年のことだった。
「俺はあれが完全な証明だとは思っていない」石神はいった。
「そうなんだろうな。だからこそ、そうやって紙と鉛筆で解こうとしているわけだ」
「あのやり方は人間が手作業で調べるには膨大すぎる。だからこそコンピュータを使ったんだろうが、おかげでその証明が正しいのかどうかを完壁に判断する手段がない。確認にもコンピュータを使わなければならないなんてのは、本当の数学じゃない」
「やっぱりエルデシュ信者だ」長髪の男はにっこり笑った。
ポール・エルデシュはハンガリー生まれの数学者だ。世界各地を放浪しながら、各地の数学者と共同研究を成したことで有名だ。よい定理には美しく自然で簡明な証明が必ずある、という信念を持っていた。四色問題についても、アッベルとハーケンの証明はおそらく正しいだろうと認めつつ、その証明は美しくないと語っていた。
長髪の男は石神の本質を見抜いていた。彼はまさに「エルデシュ信者」だった。
「一昨日、数値解析の試験問題について教授のところへ質問に行った」長髪の男は話題を変えた。
「問題としてはミスはないんだけれど、得られる解答がエレガントじゃなかったものでね。案の定、ちょっとした印刷ミスがあったらしい。ところが驚いたことに、同様の質問をしてきた学生がほかにいたらしいんだな。正直いって悔しかった。あの問題を完壁に解けたのは自分だけだろうと自惚《うぬぼ》れていたからね」
「あれぐらいは……」そこまでいったところで石神は言葉を呑んだ。
「解けて当然、あの石神なら―――教授もそういってたよ。やっぱり上には上がいる。自分に数学科は無理だと思った」
「おたく、物理学科志望といったな」
「湯川だ。よろしく」彼は石神に握手を求めてきた。
変わった男だなと思いながら石神はそれに応じた。そして、なんだかおかしくなった。変わった男だといわれるのは常に自分だと思ってきたからだ。
湯川とは特に友達付き合いをしたわけではなかったが、顔を合わせた時には必ずといっていいほど言葉を交わした。彼は博学で、数学や物理学以外のこともよく知っていた。石神が内心は馬鹿にしている文学や芸能についても詳しかった。もっとも、その知識がどの程度に深いものかは石神にはわからなかった。彼自身が判断基準を持っていなかったし、湯川は石神が数学以外のことには興味を示さないと知ったのか、間もなく畑違いの話題は出してこなくなったからだ。
それでも石神にとって湯川は、大学に入って初めて出来た話仲間であり、実力を認められる人物だった。
やがて二人はあまり顔を合わさなくなった。数学科と物理学科というふうに進路がわかれたからだ。この学科間での転籍は、ある一定基準の成績に達していれば認められていたが、どちらも変更を望まなかった。それはお互いにとって正解だったと石神は思っている。どちらも自分に適した道を選んだのだ。この世のすべてを理論によって構築したいという野望は二人に共通したものだったが、そのアプローチ方法は正反対だった。石神は数式というブロックを積み上げていくことでそれを成し遂げようとした。一方湯川は、まず観察することから始める。その上で謎を発見し、それを解明していくのだ。石神はシミュレーションが好きだったが、湯川は実験に意欲的だった。
めったに顔は合わせなかったが、湯川の噂は時折石神の耳にも入ってきた。大学院二年の秋、彼の考案した『磁界歯車』を某アメリカ企業が買いにきたという話を聞いた時には、素直に感服した。
修士課程修了後に湯川がどうしたのか、石神は知らない。彼自身が大学を去ったからだ。そして会わないまま二十年以上の月日が流れていた。
「へえ、相変わらずだな」部屋に入り、書棚を見上げるなり湯川はいった。
「何がだ」
「数学|三味《ざんまい》だな、と思ったんだよ。うちの数学科の連中でも、個人的にこれだけの資料を揃えている者はいないんじゃないかな」
石神は何もいわなかった。書棚には単なる関係書籍だけでなく、様々な国の学会資料をファイルしたものも並んでいる。主にインターネットを利用して入手したのだが、生半可《なまはんか》な研究者よりも現在の数学界には精通しているという自負が彼にはあった。
「とにかく座れよ。コーヒーでも入れるから」
「コーヒーも悪くないが、こういうものを持ってきた」湯川は提げていた紙袋から箱を取り出した。有名な日本酒だった。
「なんだ、そんな気を遣わなくてもよかったのに」
「久しぶりに会うのに、手ぶらってのも何だからな」
「すまんな。じゃあ、寿司でも取ろう。食事、まだなんだろ」
「いや、そっちこそ気を適わないでくれ」
「俺もまだ食べてないんだよ」
電話の子機を手にし、店屋物を注文する時のために作ってあるファイルを開いた。しかし寿司屋の品書きを見て、少し迷った。いつも注文するのは並の盛り合わせだった。
電話をかけ、盛り合わせの上と刺身を注文した。寿司屋の店員は意外そうに受け答えをしていた。この部屋にきちんとした客が来るのほ何年ぶりだろうと石神は思った。
「それにしても驚いたな。湯川が来るなんて」座りながら彼はいった。
「知り合いからたまたま聞いて、懐かしくなったものだから」
「知り合い? そんな人間いたかな」
「うん、それがまあ妙な話でね」湯川はいいづらそうに昇の横を掻いた。「警視庁の刑事がここに来ただろ。草薙という男だ」
「刑事―――」
石神はどきりとしたが、それを顔に出さぬよう気をつけた。そして改めてかつての学友の顔を見た。この男は何かを知っているのだろうか―――
「あの刑事、同期なんだ」 湯川の口から出たのは、意外な言葉だった。
「同期?」
「バドミントン部の、さ。ああ見えても我らと同じ帝都大の出身だ。社会学部だけどな」
「ああ……そうだったのか」石神の胸に広がりかけていた不安の雲が急速に消えた。「そういえば彼、俺のところに来た大学からの封筒をじろじろ見ていたな。帝都大ってことにこだわっているように思えたのはそのせいか。でもそれなら、あの時にそういってくれればよかったのに」
「あの男にとって帝都大理学部の卒業生は同級生でも何でもないんだよ。違う人種だと思っている」
石神は頷いた。それはお互い様だと思った。同じ時期に同じ大学に通っていた人間が今は刑事になっているのかと思うと妙な感じがした。
「草薙から聞いたんだが、今は高校で数学を教えてるとか」湯川は真っ直ぐに石神の顔を見つめてきた。
「この近くの高校だ」
「そうらしいな」
「湯川は大学にいるんだろ」
「うん。十三研究室にいる」あっさりとした口調でいった。演技でなく、本心から自慢する気はないのだろうと石神は解釈した。
「教授か」
「いや、その手前でうろうろしている。上が詰まってるからな」湯川は屈託なくいった。
「『磁界歯車』の功績があるから、今頃は教授になっているとばかり思っていたが」
石神の言葉に、湯川は笑って顔をこすった。
「その名称を覚えているのは石神ぐらいだ。結局実用化されず、今じゃ机上の空論扱いってところかな」そういって彼は持参してきた酒の蓋を開け始めた。
石神は立ち上がり、コップを二つ、棚から出した。
「石神こそ、今頃はどこかの大学の教授におさまって、リーマン予想にでも挑戦しているんだろうと思ってたんだけどな」湯川はいった。「ダルマの石神が一体どうしたんだ。それともエルデシュに義理立てして、放浪の数学者を気取ってるのか」
「そんなんじゃあないさ」石神は小さく吐息をついた。
「まあ、とにかく一杯やろう」湯川は深く尋ねようとはせず、コップに酒を注いだ。
もちろん石神も生涯を数学の研究に捧げるつもりだった。修士課程修了後には、湯川と同様に大学に残って博士号を目指す決意をしていた。
それが叶わなかったのは、両親の面倒を見なければならなくなったからだ。どちらも高齢で、持病があった。アルバイトをしながら大学院に通うことはできても、両親の生活費までは捻出できない。
そんな時、ある新設の大学で助手を探しているという話を教授が教えてくれた。自宅から通える距離であり、数学の研究を続けられるのならと思い、その話に乗ることにした。結局それが彼の人生を狂わせることになった。
その大学では研究らしいことは何ひとつできなかった。教授たちは権力争いと保身のことしか考えておらず、優れた学者を育てようという意識も、画期的な研究を成し遂げようという野心もなかった。石神が苦労して書き上げた研究レポートは、いつまで経っても教授の引き出しに入ったままだった。おまけに学生のレベルは低く、高校数学でさえ満足に理解していない者の面倒を見るのに、石神の研究時間は割かれた。それほどの我慢を強いられるわりに賃金はあきれるほどに低かった。
ほかの大学での再就職を望んだが、希望は叶いそうになかった。そもそも数学科を置いている大学が少ないのだ。置いていたとしても予算が少なく、助手を入れる余裕がない。工学部と違い、企業がスポンサーについてくれることもないからだ。
人生の方向転換を迫られていた。彼は学生時代に取得していた教員資格を生活の糧とする道を選んだ。同時に、数学者として身を立てる道を諦めた。
そんな話を湯川にしたところで仕方がないと思った。研究者としての道を断念せざるをえなくなった人間には、大体似たような事情がある。自分の場合もさほど珍しいことではないと石神は理解していた。
寿司と刺身が届いたので、それを食べながらさらに酒を飲んだ。湯川の持参した酒が空になったので、石神はウイスキーを出した。めったに飲まないが、数学の難問を解いた後など、頭の疲労を取るためにちびちびと舐めるのが好きだった。
話が弾むというほどではなかったが、学生時代の思い出を絡めながら数学のことを語るのは楽しかった。ずいぶん長い間、こういう時間を失っていたことに、石神は改めて気づいた。大学を出て以来、初めてかもしれなかった。この男以外に自分を理解してくれる者はおらず、また自分が対等の人間として認められる者もいなかったのかもしれない、と湯川を見ながら石神は思った。
「そうだ、大事なことを忘れていた」湯川が不意にそういって、紙袋の中から大判の茶封筒を出してきた。それを石神の前に置いた。
「なんだ、これ」
「まあ、中を見てくれ」湯川はにやにやしていた。
封筒の中にはA4のレポート用紙が入っており、そこには数式がびっしりと書き込まれていた。一枚目にさっと目を通し、それが何であるかを石神は悟った。
「リーマン予想の反証を試みているわけか」
「一目で見抜いたな」
リーマン予想とは、現在の数学で最も有名だといわれている難問だ。数学者リーマンが立てた仮説が正しいことを証明すればいいのだが、未だ誰も成し遂げていない。
湯川が出してきたレポートの内容は、仮説が正しくないことを証明しようとしているものだった。そういった取り組みをしている学者が世界中にいることを石神は知っていた。もちろん、その反証に成功した者もまだいない。
「数学科の教授にコピーさせてもらってきた。まだどこにも発表されていない。反証には至っていないが、いいセンまでいっているようには思う」湯川はいった。
「リーマンの仮説は間違っているというのか」
「いいセンまでいってるといっただけだ。仮説が正しいなら、その論文のどこかにミスがあることになる」
悪戯小僧が悪巧みの首尾を確認するような目を湯川はした。それを見て石神は彼の狙いを察知した。彼は挑発しているのだ。同時に、「ダルマの石神」がどこまで衰えたかを見極めようとしているのだ。
「ちょっと見せてもらっていいか」
「そのために持ってきた」
石神は論文を目にした。やがて彼は腰を上げ、机に向かった。横に新しいレポート用紙を広げ、ボールペンを手にした。
「P≠NP問題というのは当然知っているよな」湯川が後ろから声をかけてきた。
石神は振り返った。
「数学の問題に対し、自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが簡単か。あるいはその難しさの度合いはどの程度か―――クレイ数学研究所が賞金をかけて出している問題の一つだ」
「さすがだな」湯川は笑ってグラスを傾けた。
石神は机に向き直った。
数学は宝探しに似ている、と彼は思っている。まずどのポイントを攻めればいいかを見極め、解答に辿り着くまでの発掘ルートを考案するのだ。そのプラン通りに数式を組み立てていき、手がかりを得ていく。何も得られなければ、ルートを変更しなければならない。そうしたことを地道に、気長に、しかし大胆に行うことによって、誰も見つけられなかった宝すなわち正解に行き着けるのだ。
そうした喩《たと》えを使うなら、他人の解法を検証するというのは、単に発掘ルートをなぞるだけで簡単なことのように思える。しかし実際はそうではなかった。間違ったルートを進み、偽の宝物に辿り着いている結果について、その宝が偽物だと証明するのは、時に本物を探すよりも難しい場合がある。だからこそP≠NP問題などという途方もない問題が提示されているのだ。
石神は時間を忘れた。闘争心と探求心、さらには誇りが彼を興奮させていた。彼の目は数式から一時も離れることがなく、脳細胞はそれらを操ることのみに使われた。
突然石神は立ち上がった。レポートを手にし、後ろを振り向いた。湯川はコートをかぶり、身体を丸めて眠っていた。その肩を揺すった。
「起きてくれ、わかったぞ」
湯川は寝ぼけ眼でゆっくりと身体を起こした。顔をこすり、石神を見上げた。
「何だって?」
「わかったんだよ。残念ながら、この反証には間違いがある。面白い試みだが、素数の分布について根本的な誤りがあって―――」
「ちょっと待った。待ってくれ」湯川が石神の顔の前に手を出してきた。「寝起きの頭で君の難解な説明を聞いたって、わかるわけがない。いや、頭が冴えてる時でも無理だ。白状すると、リーマン予想なんて僕にはお手上げなんだよ。君が面白がると思って、持ってきただけだ」
「いいセンいってるとかいったじゃないか」
「数学科の教授の受け売りだ。じつは反証にミスがあることはわかっていて、それで発表されなかったんだ」
「じゃあ、俺がミスに気づいても当然ということか」石神は落胆した。
「いや、すごいと思うよ。少々出来のいい数学者でも、即座にはミスに気づかないだろうとその教授はいっていた」湯川は腕時計を見た。「君はたったの六時間で見抜いた。見事だと思う」
「六時間?」石神は窓を見た。外はすでに白み始めていた。目覚まし時計を見ると、五時近くになっている。
「相変わらずだな。安心したよ」湯川がいった。「ダルマの石神は健在だ。後ろ姿を見ながらそう思った」
「すまん。湯川がいることを忘れていた」
「構わんさ。それより君も少し眠ったほうがいい。今日も学校だろ」「そうだな。でも興奮して眠れそうにない。こんなに集中したのは久しぶりだ。ありがとう」石神は手を差し出した。
「来てよかった」そういって湯川は握手してきた。
七時まで少し眠った。頭が疲労していたのか、精神的充足感が大きかったのか、その短い間に石神は熟睡した。目覚めた時にはいつもより頭がすっきりしていた。
石神が支度をしていると湯川がいった。「お隣さん、早いんだな」
「お隣さんって?」
「さっき、出かける物音がした。六時半を少し過ぎた頃かな」
湯川は起きていたらしい。
何かいったほうがいいだろうかと石神が考えていると、続けて湯川がいった。
「さっき話した刑事の草薙という男によると、お隣さんは容疑者らしいな。それで君のところにも聞き込みをしたそうだ」
石神は平静を装い、上着を羽織った。「彼は事件のことを湯川に話すのかい?」
「まあ時々はね。油を売りに来るついでに愚痴って帰る、というところかな」
「一体どういう事件なのかな。草薙刑事……だっけ、彼は詳しいことを話してくれなかったんだが」
「一人の男が殺された、という事件らしい。その男がお隣さんの別れた亭主だってさ」
「そういうことか……」石神は無表情を保った。
「君はお隣とは付き合いがあるのかい」湯川が訊いてきた。
石神は瞬時に考えを巡らせた。口調だけから推測すると、湯川は特に深い意図があって尋ねてきたわけではなさそうだ。だから適当に流すこともできる。しかし彼が刑事と親しいという点に石神はこだわった。こうして再会したことを彼は草薙に話すかもしれない。それを考慮して、ここでは答えなければならない。
「付き合いはないんだが、じつは花岡さん――お隣さんは花岡さんというんだけど、彼女が働いている弁当屋にはちょくちょく行く。このことはうっかりしていて草薙刑事にはいわなかったんだがね」
「ふうん、弁当屋さんか」湯川は頷いた。
「お隣さんが働いている店だから買いに行ってるんじゃなくて、たまたま行った店で彼女が働いていたというだけのことなんだ。学校の近くでね」
「そうか。でもその程度の知り合いでも、容疑者というのはいい気分がしないだろう」
「別に。自分には関係のないことだ」
「それもそうだな」
湯川は特に怪しんでいるふうではなかった。
七時三十分に二人で部屋を出た。湯川は最寄りの森下駅には向かわず、石神と一緒に高校のそばまで行くといった。そのほうが電車の乗り換えが少なくて済むらしい。
湯川は、事件や花岡靖子のことはもう話題にしなかった。先刻は、もしかしたら草薙に頼まれて何かを探りにきたのかと疑ったのだが、どうやら考えすぎらしいと石神は思った。そもそも草薙には、そんな手を使ってまで石神のことを探ろうとする理由はないはずだった。
「なかなか興味深い通勤コースだな」湯川がそんなふうにいったのは、新大橋の下をくぐり、隅田川に沿って歩き始めた時だった。ホームレスの住処が並んでいるからだろう。
白髪混じりの髪を後ろで縛っている男が洗濯物を干していた。その先には石神が『缶男』と名付けている男が例によって空き缶を潰していた。
「いつもと同じ光景だ」石神はいった。「この一か月間、何も変わっちゃいない。彼等は時計のように正確に生きている」
「人間は時計から解放されるとかえってそうなる」
「同感だ」
清洲橋の手前で階段を上がった。すぐそばにオフィスビルが建っている。一階のガラスドアに映った自分たちの姿を見て、石神は小さく首を振った。
「それにしても湯川はいつまでも若々しいな。俺なんかとは大違いだ。髪もどっさりあるし」
「いやあ、これでもずいぶん衰えた。髪はともかく、頭の働きは鈍くなったと思うよ」
「贅沢なことを」
軽口を叩きながらも石神は少し緊張を覚えていた。このままだと湯川は『べんてん亭』までついてくるだろう。花岡靖子と自分との関係について、この洞察力に優れた天才物理学者が何か感づきはしないかと少し不安になった。また、石神が見知らぬ男と一緒にやってきたことで、靖子が狼狽を見せないともかざらない。
店の看板が見えてきたところで石神はいった。
「あれがさっき話した弁当屋だ」
「ふうん。『べんてん亭』か。面白いネーミングだな」
「今日も買っていくよ」
「そうか。じゃあ、僕はここで」湯川は立ち止まった。
意外ではあったが、助かったと石神は思った。
「ろくな持てなしができなくて申し訳なかった」
「最高の持てなしをしてもらったさ」湯川は目を細めた。「もう、大学に戻って研究する気はないのか」
石神はかぶりを振った。
「大学で出来ることは自分一人でも出来る。それに、この歳からじゃあ引き取ってくれる大学はないだろう」
「そんなことはないと思うけど、まあ、無理にとはいわない。これからもがんばってくれ」
「湯川もな」
「会えてよかった」
握手した後、湯川が遠ざかっていくのを石神は見送った。名残惜しかったわけではない。自分が『べんてん亭』に入っていくところを見られたくなかったからだ。
湯川の姿が完全に消えた後、彼は踵を返し、足早に歩きだした。