ラベンダーのかおり
「まあ! どうしたのかしら?」
和子はおどろいて叫んだ。さっきの人かげはまぼろしではない。目の錯覚なんかじゃない。たしかにかの女は見たのである。そしてたしかに、このついたてにかくれたのだ。
和子はためしに廊下へのドアに手をかけて引いてみた。かぎはかかっていた。すると、このドアから逃げたのでもない。では、いったいどこへ行ってしまったのだろう?
消えた?――まさか。そんなばかなことがあるはずはない。しかし、消えたとしかいいようのない、ふしぎな事件だ。和子は考えこみながら、またのろのろと、あの試験管のおいてある机の前にもどった。
さっきから、かすかに甘いにおいが実験室の中に立ちこめていることに、和子は気がついた。どうやら、割れた試験管の中にはいっていた液体のにおいらしかった。
「なんのにおいかしら?」
それは、すばらしいかおりだった。和子はそのにおいがなんなのか、ぼんやりと記憶しているように思った。――なんだったかしら? このにおいをわたしは知っている。――甘く、なつかしいかおり……。いつか、どこかで、わたしはこのにおいを……。
かの女は机の上にふたをとったままおかれている三つの薬びんのうちの一つをとりあげ、そのレッテルを読もうとした。だが、読めなかった。
不意にかの女の意識がうすらいだのである。甘いにおいが急に強くかの女の嗅《きゅう》覚《かく》をおそい、かの女はよろめいた。そして、ゆっくりと、くずれるように、床の上に倒れふしてしまったのである。
それから、一、二分して、一夫と吾朗は、もうすっかり帰りじたくをすませ、理科教室へもどってきた。
「おおい、芳山くん、帰ろう。君のカバンを持ってきてやったよ!」
吾朗が大声でガラガラと教室のとびらを開きながらはいってきた。だれもいない理科教室を見まわし、つづいてはいってきた一夫をふり返って、顔をしかめた。
「なあんだ。まだゴミを捨てに行ったまま、帰ってきてないんだよ。きっとまただれかと会って、おしゃべりしてるんだ。女の子ってのは、井戸端会議が好きだからなあ!」
「いや、そうじゃないだろう」
一夫は色の白い顔にとぼけたような表情を浮かべたまま、黒い瞳をくるくるまわし、開いたままの、理科実験室のドアをさしていった。
「実験室にいるんだよ。そうじ道具をしまってるんだ」
吾朗は一夫のことばには返事をせず、自分のと和子のと両手に持ったカバンをぶらぶらさせながら、実験室の中へはいっていった。
「やっぱり、いないぜ!」
吾朗は勝ちはこったように大声を出したが、その一瞬後、女のようにかん高い悲鳴をあげた。それが吾朗の悲鳴だということに気づくと一夫もあわてて実験室にとびこんだ。芳山和子が床に倒れていて、そのそばに吾朗が立ちすくんでいた。
「ど、どうしたんだろう! 死んでるのだろうか?」
吾朗がふるえ声で一夫にいった。
「ばかだなあ、そんなことがあるもんか」
一夫は和子に近づき、ちょっと手首をにぎって脈を調べてから、彼女の上半身をだき起こした。
「だいじょうぶだ。さあ、君は足を持ってくれ」
「ど、どうするんだい?」
「きまってるじゃないか、医務室へつれて行くんだ。どうやら貧血らしい」
一夫と吾朗は、和子のぐったりしたからだを医務室へ運んだ。医務室にはだれもいなかった。ふたりは和子をベッドに寝かせた。
「ぼくは、だれか先生をさがしてくる」
一夫は吾朗にいった。
「だから君は、そこの窓をあけ、それから芳山くんのひたいを水で冷やしてくれ」
吾朗はおどおどしながら、無言でうなずいた。一夫が出ていくと、吾朗は窓をあけはなし、自分のハンカチを水でぬらすと和子の白いひたいの上にそっとのせた。
「きっと疲れたんだ」
吾朗は、おろおろ声でそういった。
「あんな広い教室を、たった三人でそうじさせるなんて、むちゃだよ」
一夫はなかなか帰ってこなかった。吾朗はなん度もなん度も、ハンカチを水でぬらしては和子のひたいにあてた。
「早く気がついてくれよ、なあ、芳山くん」
吾朗は泣きそうになっていた。
やがて一夫が、まだ職員室に残っていた福島《ふくしま》先生をつれてもどってきた。福島先生は、三人の担任の理科の先生だ。
「うん、貧血だな」
先生は和子をちょっと診察して、そういった。
和子は注射一本で、すぐに気づいた。
「ああ……。わたし、どうしたのかしら?」
「貧血を起こして、倒れていたんだ。実験室で……」
一夫のことばで和子はさっきのできごとを思い出した。少し気分がよくなってから、かの女はあやしい人影のことを話した。
「へえ! そんなことがあったのか!」
一同は顔を見あわせた。
「でも、おかしいな」
と、一夫がいった。
「君が倒れているのを見つけたとき、机の上には、薬びんも試験管もなかったし、そんなにおいもしなかったよ」
「まあ、ほんと?」
和子はおどろいた。
「おかしいわね。わたしはたしかに……」
そういってから和子は、ベッドの上に起きあがった。
「じゃあ、もう一度行って、調べてみるわ。いっしょにきてちょうだい」
福島先生が、おどろいて手をあげた。
「おいおい。貧血はぜったい安静だよ。だいじょうぶかい?」
「ええ、だいじょうぶです」
「そうか。よし、それならぼくもいってみょう」
先生も立ちあがった。
四人は、ふたたび実験室へもどった。たしかに一夫のいったとおり、机の上には何もなく、床の上に散らばっていた試験管の破片も、きれいになくなっていた。
「おかしいわねえ……」
考えこんだ和子に、福島先生がたずねた。
「君のかいだそのにおいというのは、どんなにおいだったの?」
「甘いにおいですわ。なんていうのか……」
和子は、やっと思いだして手をうった。
「そう! あれはラベンダーのにおいよ!」
「ラベンダー?」
「そうです。わたし、小学生のときだったかしら? いちど母にラベンダーのにおいのする香水をかがしてもらったことがあるんです。そう、たしかに、あれと同じにおいだったわ!」
和子はそういってから、また首をかしげた。――それだけではない……。ラベンダーのにおいには、何か、もっとほかに思い出がある……。もっとだいじな思い出が……
だが、和子には思い出せなかった。