夜さまよう町かど
一瞬和子のからだはふわりと宙に浮かんだ。和子自身にはそのふしぎな感覚は、完全にすくんでしまって自由のきかなくなった自分の五体が、なにものかの手で、すっとだきあげられたように感じられたのである。
――早く、福島先生や吾朗や、一夫のいる車道のほうへ逃げなければ、わたしは鉄骨の下敷きになる!
逃げよう! そう思った和子の、いわば精神の力が、かの女自身のからだを宙に浮かせたようでもあった。
目の前がサーッと暗くなった。耳がジーンと鳴り、つぎになにも聞こえなくなった。
気がついたとき、あたりは深夜だった。一時間前までは、まだ夕ばえが建物の壁を赤く照らしていたのに、いま、和子の目にうつる空には冬の星座が冷たくきらめいていた。
「福島先生……!」
みんなの名を呼ぼうとした和子は、それだけいうとあとのことばをのみこんでしまった。あたりにだれもいなかったのだ。
いつのまにか、和子は、和子がそう願ったとおりちゃんと車道にいた。歩道を見ても、そこには落ちてきたはずの鉄骨は見あたらなかった。
――ああ……。
和子は声にならない悲鳴をあげ、両手で顔をおおった。車道をひっきりなしに走っていた車も、いまは一台も見えず、福島先生や吾朗や一夫はもちろん、通行人の影さえないのだ。そこはあきらかに、深夜のさびしい町の道路だった。
――そうだ! わたしはタイム・リープしたのだわ。きっとそうだわ。
和子はまた顔をあげ、あたりを見まわした。夜の町には、星明かりに光る車道と、黒い建物のシルエットがあった。夜の風は冷たかった。和子はカバンをだきしめ身ぶるいした。からだが冷えてきて寒かった。
――ほんとは、鉄骨なんか落ちてこなかったのだ。わたしにタイム・リープさせようとして、福島先生がわたしをおどかしたんだわ。和子はやっとそれに気がついた。
――でも、いまはいったいなん時なのだろう? いや、なん日なのだろう? もし過去へもどったとしたら、いったいわたしはなん日前まで跳躍したのだろう?
福島先生は、わたしが、あの大型トラックにひかれそうになったときと同じ状態になれるように、わざとおどかして、わたしの気持ちをゆさぶったのだ。しかし、先生はわたしがなん日前にまで跳躍できるのか知っていたのだろうか?
和子は考えつづけた。そうだ! ――かの女はやっと思いついた。このカバンの中にはノートがはいっている。その日の授業の内容が書かれている。それを見れば、きょうがなん日なのかわかるではないか。
和子はすぐにカバンをあけ、ノートを開いた。街燈の明かりで見たノートのページからは和子自身が書きこんだはずの、きょう[#「きょう」に傍点]ときのう[#「きのう」に傍点]の授業の内容が消えてしまっていた。
――すると、きょうは二日前、つまり十七日の月曜日の夜か、あるいは十八日の火曜日の明けがたということになる。空気の冷たさから、和子はいまが火曜日の午前中らしいことを、ほぼ確信した。
――すると、わたしはまだ自分のへやのベッドで、ぐっすりと眠りこんでいるはずだ。
そう思った和子は、青ざめて街燈の下に立ちすくんだ。
――わたしはここにいる! 家にもわたしがいる! するとわたしはこの瞬間、この世界にふたりいることになるのだろうか! へやにもどると、そこにはもうひとりのわたしがいて……そんなバカなことが……。
和子はあわてて首を左右にふった。 ――しかし、そのバカなことが、信じられないようなことが、先日からしきりに起こっているではないか……。わたしはこれからどこへ行けばいいのだろう? 家にもうひとりのわたしがいるとすれば、わたしは家に帰れない……和子は泣きそうになって顔をゆがめた。
寒かった。朝になるまでこんなところでウロウロしていてはこごえてしまう。いや、その前にパトロールのおまわりさんに見つかって、家出娘かなにかとまちがえられ、警察へ連れていかれてしまうだろう。どうしよう?……
和子の足は、しぜんとかの女の家のほうへ歩き出していた。
――そうだわ。とにかく一度、家まで帰ってみよう。わたしのへやを窓からのぞきこめば、わたしが同時にふたりこの世に存在するのかどうかがわかるはずだ。たとえ窓ごしにでも自分の寝顔を見るなんてあまり気持ちのよいものではない、とも思った。かの子はトボトボと夜の町を歩きつづけた。
寒さにふるえながら、和子は家に帰った。当然のことながら玄関にはカギがかかっていたので、かの女は裏庭にまわってしおり戸をあけ、そっと窓ぎわによった。そんなようすを見られたらきっとドロボウだと思われただろうが、さいわいパトロールの警官にも見つからず、犬にもはえられなかった。
和子はいつも、夜のあいだうす暗い常《じょう》夜《や》燈《とう》をつけて眠るくせがあった。あまりまっくらだときみがわるくて眠れないのだ。
自分のへやの窓の下にたたずんだ和子が、背のびして室内をのぞきこむと、そこにはいつものとおり常夜燈がついていて、へやの中をぼんやりと照らしだしていた。和子は、おそるおそる自分のベッドをながめやった。