その名はケン・ソゴル
「というわけで、ぼくは、この時代に、もとからいたということにして、生活をはじめたんだ。この学校にずっと通っていて、あの家に、ずっと住んでいたということにして……」
「あの家!」
和子はとつぜん、深町一夫の両親のことを思い出した。
「じゃあ、あそこにいる人たちは、あなたの家族じゃないわけなの?」
「そうさ。あの人たちには子どもはなかったんだ。ぼくは自分があの人たちの子どもなのだという記憶を、あの善良で植物の好きな中年のご夫婦にうえつけた。なぜ、あの家庭を選んだかというと、あの人たちは温室に、ラベンダーを育てていたからだ。ぼくはあの花からクロッカス・ジルヴィウスを作り、未来へ帰るつもりだったんだ」
そういって一夫は、へやの中にある、薬のはいった試験管を、ちらっとふり返った。
「その薬も、きょう、やっとできた……」
「そうすると、あなたの名まえも、ほんとうは深町一夫っていうんじゃないのね?」
「そう。深町一夫っていうのは、この時代のぼくの名まえだ。未来には、未来のぼくの名まえがある」
「その名まえは?」
「その名まえは……」
一夫は、ちょっとロをつぐんだ。
「きみには、おかしな名まえに聞こえるだろうね。ぼくのほんとうの名まえは、ケン・ソゴルっていうんだ」
「ケン・ソゴル?」
和子はその名を、二、三度ロの中でかみしめた。
「とても、いい名だわ」
「ありがとう」
「でも、どうしてもっと早く、そのことをわたしに教えてくれなかったの? あなたはずっと、わたしがひとりで苦しんでいるのを、そばでみていたくせに……」
和子の、恨みを含んだ目にあって、一夫は少し困った表情をしてみせた。
「きみがあの薬のにおいをかいで気を失った時、ぼくはきみに何も説明せず、きみからあの能力が消えてなくなるまで、そっ[#「そっ」に傍点]としておこうと思ったんだ。こんなややこしい[#「ややこしい」に傍点]説明で、おとなしいきみを混乱させたくなかったからね。だけどきみは、思いがけずあんな交通事故に出会い、タイム・リープ(時間跳躍)とテレポーテーション(身体移動)をやってしまった。そのうえ自分から進んで過去へと跳躍しはじめた。このぼくに会うためにね――。だからぼくも、これ以上きみを悩ませたくなかったもんだから、時間をさかのぼって、ここまでやってきたんだ。すべてのことを、きみに話すために……」
疑問はすべてとけた――和子はそう思った。これで何もかも、はっきりした……。
だが一夫は、まだ話し続けていた。
「だけどぼくは、ほんとうはきみに、こんなことを話しちゃいけなかったんだ。原則として、過去の時代の人に、未来のことを話しちゃいけないんだよ」
「あら、どうして?」
「歴史が混乱するからだ。社会的にも悪い影響があるんだよ。だってそうだろう? 現代の人に、たとえば、あとなん年かしたら、この国に戦争が起こりますよなんて教えてやれば、たちまち大騒ぎになってしまう。だってその時代の人には、どうすることもできないんだものね」
「でも、戦争をやめるかもしれなくてよ?」
「だめだよ。基本的には、歴史を変えることはできないんだ。もし変えられるとすると、それを利用しょうとする悪い人が出てきたり、騒ぎは大きくなるばかりだもの」
「すると、過去の人間に未来のことを教えるなというのは、あなたの時代の法律なのね?」
「うん。まあ、そうだね」
「と、したら、あなたはその法律を犯したことになるんじゃないの? ぜんぶ、何もかもわたしに話してしまったんだもの」
「例外は認められているんだ」
「例外ですって? それは何?」
一夫は、しばらく話すのをためらい[#「ためらい」に傍点]、やがて嘆息した。
「ぼくが話したとしても、その人が記憶していなければいいわけだ。つまり、ぼくに関する記憶を、きみの頭から消してしまえば、いいわけなんだよ」