太郎という青年があった。父親は財産家であり、こづかいに困ることもない。したがって、毎日きちんと勤めに出かける必要もなかった。彼は独身の気楽さもあって、なんということもなく遊びまわっている。
これでハンサムであって頭がさえていたら、一般人にとってしゃくにさわる存在となるところだが、うまいことにというか、あいにくというか、そうではなかった。どこか抜けた表情で、頭の内部もまたそうだった。
しかし、金に不自由しないので、やることは豪勢だ。買いもとめたヨットを操縦し、ひとり海へ乗り出したりする。さわやかな潮風を深呼吸し、彼はつぶやく。
「いい気分だなあ。女遊びよりはるかにいい。女の子というやつは、どうもいかん。金をばらまけばばかにされ、金を使わないといっこうにもてない。船は女性の象徴とかいうが、こっちのほうはじつに従順。あやつる|舵《かじ》の通りに動いてくれる……」
そのうち、遠い水平線に小さな島が見えてきた。なにげなく双眼鏡でのぞいて、太郎はびっくりする。
「やや、なんということだ。ひとりの若い女がいるぞ。人の住めるような島じゃないのに。ということは、乗っていた船が難破してあそこにたどりつき、救いを待っているにちがいない。近づいてみよう。美人だったら助けてやろう。そうすれば、心から感謝してくれるにちがいない」
ヨットをその島にむけて進める。そして、大声で呼びかける。
「もしもし、おじょうさん」
「なんですの……」
女はこっちをむく。なかなかの美人だ。
「助けてあげましょうか」
「そうねえ。べつに助けてもらわなくてもいいんだけど、あなたがお望みなら、助けてもらってあげようかな」
わけのわからない返事だったが、太郎はもう夢中だった。なにしろ、その女、輝いているように美しく、見れば見るほど上品。ひとの好意を受けたくないのなら勝手にしろと、ほっておく気にはとてもなれない。
「ぜひ助けさせて下さい。お願いです」
「そうねえ。そんなにおっしゃるのなら、助けられてあげてもいいわよ」
「ありがたい。ばんざい」
太郎は飛びあがって喜び、ヨットを島につけ、美女を乗せる。こう近くで見ると、一段とすばらしい。お化粧もしていないのに、|肌《はだ》はきめこまかく大理石のごとく白く、からだの均整はとれ、やせてもいず、ふとりすぎてもいず、非のうちどころがない。身にまとっているのは島に流れついた帆布かなにかで、その点はみすぼらしかった。しかし、ヨットのなかのありあわせのガウンに着がえさせると、さらに魅力がました。太郎は言葉を押えきれない。
「さっそくこんなことを言うのは、なんですが、ぼくと結婚して下さい。お会いした瞬間から、ぼくの心は活火山になった。あなたに、生活の苦労はかけません。必ず、しあわせにしてあげます」
「どうしようかなあ……」
「ぜひ、ぜひ。したいことは、なんでもさせてあげます。あなたを大切に扱います。結婚して下されば、どんな条件でものみます。あなたに手荒なことは、決してしません」
太郎はここをせんどと必死だった。絶世の美女。ほかの男の目にふれたら、横取りされかねない。世の中にはもっと金があり、もっとハンサムで、もっと秀才の男だってたくさんいるのだ。ここで約束をとりつけておかないと、後悔することになる。その熱意が通じたのか、女はうなずいてくれた。
「すごい好条件ね。でも本当なんでしょうね。海の神に誓ってくださる……」
「もちろんですとも。海神ネプチューンだろうが、なんだろうが、ありとあらゆる神に誓ってもいい決意です。ついでにコンピューターの神に誓い、原子力の神に誓い、宇宙の神に誓い、山の神に誓い……」
「誓いの大安売りね。いいわ。じゃあ、ご希望にそってあげるわ」
「わあ、ばんざい。すごいことになったぞ。待てば海路とは、このことだ……」
かくして、太郎は陸へと帰りついた。
太郎は父親に結婚の許可を求める。
「お父さん。じつは、ぼく結婚しようと思うんです。すばらしい女性をみつけたんですよ。ぼくにふさわしい女性を……」
話を聞いた父親はにがい顔。
「なんだかいやな予感がするな。どうせ、変な女にとっつかまったんだろう。なにしろおまえは、ぼんぼんだからな。金めあての女に、だまされたにちがいない。その結婚は許さない」
「そうおっしゃるだろうと思ってましたが、独断はいけませんよ。まあ、本人をごらんになって下さい」
太郎は女を連れてきて、この人ですと父親に紹介する。父親は、美しさにまぶしそうな目つきをし、驚きの声をあげる。
「とても信じられん。おまえが、こんなすごい女性を見つけてくるなんて。美しく、気品がある、おまえには、もったいないほどだ。むしろ、わたしにふさわしい気がする……」
「お父さん。冗談は困りますよ。つまり、結婚していいというわけですね」
「許可しよう。しかしだ。おまえもこれで身を固めたからには、いままでのように、ぼやぼやと遊んでいてはいかん。なにか仕事をみつけ、毎日きちんと出勤して働くのだ。どうだ、それができるか」
「もちろんですよ。ぼくがだらしない生活にもどったら、彼女を取りあげられても、決して文句を言いません。あらゆる神にかけて誓いますよ」
太郎は各種の公約と誓いとを連発し、めでたく結婚することができた。ハネムーンの天にものぼる心地については、くどくど説明することもあるまい。普通の人の場合の、何倍何十倍であったと形容するにとどめておく。
二人はマンションの大きな一室を新居とした。事態はすべて順調に進展しているかのように見えた。太郎は職をみつけ、毎日まじめに出勤する。これまでのんびりと育っていたので、きびしいビジネスの世界、あれこれと苦労が多かったが、がまんできないことではなかった。なにしろ帰宅すれば、絶世の美女が夫人として存在しているのだ。こんなすてきな女を妻としている男は、ほかにいないだろう。その喜びが支えとなっているので、昼間の仕事など、なんということもない。
そして、ある日のこと、太郎はいつものごとく帰宅した。
「いま帰ったよ」
「おかえりなさい」
美しい夫人が迎える。ここまではいつもと変りなかったが、そのうち太郎はなにか物音を聞いた。夫人の衣装|戸《と》|棚《だな》のなかで変な音がしているようだ。太郎は夫人を別室にかくれさせ、ゴルフのクラブを持ち出して身がまえた。
「このなかにネズミがいるようだな」
すると「チュウ、チュウ」と鳴き声。
「しかし、ネズミが出るとも思えぬ。ネコじゃないかな」
すると「ニャア」と鳴き声。
「いや、犬かもしれぬ」
戸棚のなかから、犬のほえる声がした。
「小話で読んだことがあるような現象だな。しかし、いまの動物の鳴き声、いずれも真に迫っていた。動物がひとそろい、本当にかくれているようでもある。それとも、録音装置を応用した、新しいオモチャだろうか。おもしろいことになってきたぞ。いずれにせよ、たしかめてみずにはいられない」
太郎は戸をさっとあける。ライオンのほえる声がし、びくりとしたが、なかには三十歳ぐらいの見知らぬ男がいた。シャツとパンツだけという、ふしぎな姿。太郎は聞く、
「いったい、おまえはなんだ」
「もうおわかりと思いますが、声帯模写、物まねをとくいとする者です」
「なるほど、そうか。いまのネコの鳴き声なんか、すばらしかった。しかし、こんな戸棚のなかで、なにをしている」
「あなたのお留守中、物まねをやって、奥さまを楽しませてさしあげていました。なんて申しあげても、信用しては下さらないでしょうなあ」
「信用できぬと言ったら、なんと答える」
「弱りましたなあ。ごらんの通りで……」
戸棚の男はそわそわし、消え入りたいようなようす。こうなると、いささか抜けたところのある太郎も、ことの重大さにうすうす気がついてくる。
「うむ。外国漫画に時どき、こういう図があるぞ。亭主の帰宅で、あわてて戸棚にかくれる人物というやつだ。すなわち、その名は|間男《まおとこ》。どうだ。この推理にまちがいはないだろう」
「はあ。狂いのない神のごときご明察。おそれ入りました。名探偵の目から逃れることは、できないようでございますな」
「名探偵と呼ばれると、いい気分だ。これは財産権を侵害し、社会の秩序を乱す、許しがたい犯罪行為だ。待てよ、おれは探偵であるばかりでなく、この事件の被害者であり、目撃した証人でもあるというわけだ。おまえに有罪を求刑してやる。つまり、おれは検事の立場でもあるのだぞ。どう処置してくれよう。おれは判事として宣告する。とてつもない罰金を申し渡してやる……」
太郎の声は大きくなり、相手はふるえる。
「どうか、お手やわらかに」
「よけいな口を出すな。巨額な罰金を、むりやり取り立ててやる。これをたねに、おまえを一生|恐喝《きょうかつ》しつづけてやる。そこまでやると、これは犯罪になるかな。すると、おれは犯人でもあるということになるな。しかしだ、こういう精神的なショックと損害を受けたのだから、それぐらいは許されていいはずだ。すなわち、これは弁護人としてのおれの発言だ」
「お腹立ちはごもっともです。しかし、途中でまた口を出すようですが、なぜ妙なことをそう並べ立てておいでなのですか」
「推理小説には一人何役というのがあるが、その新記録を作れるのじゃないかと思えてきたのだ。これで一人何役になったかな。もっとほかに、なにか加えられないかな。そうだ、拷問係に死刑執行人でもあるというのが盛りこめそうだぞ」
「冗談じゃありませんよ。しかし、一人何役の新記録とは、エドガー・アラン・ポーでさえ気がつかなかったアイデア。こういう非常の際に、そんなことが頭にぱっとひらめくなんて、天才というか、なんというか、たぐいまれなる頭脳の持ち主でございますな」
頭のよさをほめられたのは、太郎にとって生まれてはじめてのこと。まんざらでもない。
「いや、それほどでもないがね」
「いかがでしょう。そのすばらしい構想に、わたしもお手伝いさせて下さい。死刑執行人であると同時に、特赦を発令する政府高官でもあるというのはどうでしょう。あるいは、つかまえはしたものの、相手に逃げられてしまう間抜けな警官の役というのは……」
「それもいいな。それを加えると、一人何役ということになるかな……」
太郎は指を折って熱心に数えはじめた。そのすきを狙っていたごとく、戸棚の男は大変な勢いでかけ出し、ドアから逃げていった。太郎が窓から見おろすと、その男は道路を全力疾走し、どこかへ行ってしまった。
間男をとり逃してしまっては、怒りを夫人にぶつけるしかない。太郎はまっ赤になり、大声で夫人にいった。
「いったい、おまえはおれの留守に、なんということをしてくれたのだ」
だが、美しい夫人は、あどけない表情。口にした言葉もまた、あどけなく単純だった。
「あら、なぜいけないの」
「なぜって、それは……」
太郎は絶句した。根源的な問いかけというやつに、こんなところでぶつかるとは。まさに大問題。太郎はあれこれ考え、考えつづけているうちに、立腹もどこかへ行ってしまった。最初は堂々と説得できそうな気がしていたのだが、どう言ったものか、いっこうに思い浮かばない。
「つまりだ、昔からきまっていることなのだ。聖書の十戒にもあったはずだ」
「十戒なんて知らないわ」
天衣無縫というか、うぶというか、世間知らずというか、どうにも手がかりがない。太郎は大汗をかき、口をぱくぱくさせたあげくに言った。
「おれもどこか抜けているが、おまえもどこか、かんじんの点が抜けているみたいだな。しかし、要するにいかんことなのだ。亭主の留守に間男を家に入れて浮気をするのは、よくないことなのだ。一と一を足すと二になる。これと同じ、証明不要の公理なのだ。わかったか。わかっておくれ」
「わかったことにしてあげてもいいけど、あなたがあたしに結婚を申し込んだ時の、約束ってものもあるのよ……」
「つまらん約束をしてしまったな」
太郎は頭をかいた。好きなことをさせ、乱暴はしないという約束があった。しりをひっぱたくこともできぬ。それに、離婚を言い渡して追い出すには、あまりに惜しい女なのだ。これを理由に追い出してもいいのだが、どこかの男が待ってましたとばかり結婚してしまうだろう。それを考えると、ますます面白くない……。
ことはうやむやになった。しかし、太郎は不祥事が二度と起らぬよう、当分は外出をするなと夫人に申し渡した。好きなことをやるのは、部屋のなかだけにしろ。そして、出勤の時にはドアの外側から鍵をかけた。つまり、夫人を家にとじこめることにしたのだ。
これで万事解決というわけにもいかなかった。何日かし、太郎が帰宅すると、またも戸棚のなかで、なにやら物音。とんでもないことだ。もう断じて許せぬ。一人十役でしめあげてやろう。
太郎は勢いよく戸棚をあけた。しかし、そこにいたのはいつかの男ではなく、ふしぎな服装の人物。古風な服装に帽子、口ひげをはやしマントをはおった外国の男。太郎は聞く。
「あなたはどなたです。どこかで見たような気もするが……」
「そうお感じになるのも、ごもっともです。わたしはルパン。アルセーヌ・ルパンの孫にあたります。シックである点、怪盗である点、すべて祖父そっくりです。そういったようなわけです。どうぞよろしく」
「よろしくもないもんだ。ひとの留守中に、間男として入りこむなんて……」
「まあまあ、お待ちを。とんでもない。わたしは、あくまで泥棒です。ルパンであることが、なによりの証明。ご理解下さい。ここへ泥棒に入りこんだが、ご主人の帰ってくるけはい。見つかっては大変と、戸棚にかくれるのも当然でしょう」
「それもそうだな。なるほど、ルパン三世ならば、鍵のかかった室内にしのび込むのも朝飯前といえそうだ。わかったよ。泥棒と知って、安心したよ。疑って悪かった。あなたはいい人だ、えらい人だ。せっかくおいでになったのだから、まあ酒でも一杯いかがです。あなたの自慢話などうかがいたい」
太郎はルパン三世をもてなした。話がはずみ、そのうち太郎は聞いた。
「さっきから気になってならない点がある。いったい、なにを盗もうとして、ここに入ったのです。ここにはべつにあなたのような、大怪盗がねらいたくなるような品は、ないはずだ。考えてみると、だんだんふしぎになってきた」
「いやあ、これは恐れ入った。その疑問に気づいたとは、あなたは頭の鋭いかたですな。ルパン三世も敬服いたします」
またも太郎はうれしがった。
「あなたにほめられると、本当に頭がいいような気になり、ぞくぞくしてきます。しかし、その先が思いつかない。なにをねらったのです。教えて下さい」
「じつはですな。わたしのねらったものは、あなたの奥さんの愛です」
「なんだと、このやろう。結局は間男ということになるじゃないか。酒をごちそうして損した。ただではすまないぞ」
太郎は飛びかかろうとしたが、なにしろ相手はルパン三世。ひらりと身をかわし、ドアをすり抜け、たちまちのうちに逃走してしまった。
戸棚さわぎは、これで終らなかった。
そのつぎに、物音に気づいた太郎が戸棚をあけた時には、なんと小さな男の子がいた。
「おやおや、男の子か。ませたやつだな。しかし、子供だからといって容赦はしないぞ。いままで、なんだかんだとごまかされ、間男を二人もつかまえそこねた。そいつらへのうらみを、おまえで晴らしてやる。悪く思うな。窓からそとへほうり出してやる」
太郎は美しい夫人を愛しており、その夫人には当りにくい事情がある。間男のほうに当る以外にない。たとえ相手が少年であってもだ。しかし、戸棚のなかの少年は言った。
「まあ、待って下さい。わざわざほうり出さなくても、自分で窓から出て行きますから。さよなら、おじさん」
そして、窓からさっと出て行った。すなわち、少年の背中には翼があり、それで空中を飛び、どこかへといってしまった。それを見送りながら、太郎はつぶやく。
「あれあれ、いまのはなんだ。天使なのだろうか。天使なら間男をするはずはないがな。キューピッドというやつかな。しかし、キューピッドなら恋愛をつかさどる係のはずだ。自分が間男となるとも思えんし……」
いずれにせよ、間男をとり逃したことだけは事実だった。こうなると、太郎は意地になってくる。野球のバットから飛出しナイフ、手錠や催涙弾まで用意して待ちかまえた。こんどこそ、たたきのめしてやる。そうしないことには、腹の虫がおさまらない。
会社を休んで待ちかまえていれば、間男の来襲も未然に防止できるのだが、永久にそうしているわけにもいかない。また、毎日出勤するというのが父親との約束。それを破ると金銭の援助が打ち切られ、あわれな生活におちぶれる。待ち伏せ作戦もやれないのだ。
あんのじょう、つぎの日に帰宅すると、またも戸棚のなかで物音。太郎は用意の器具すべてをそろえ、ぶちのめしてやるぞと勢いよく戸棚をあけた。しかし、ふりあげたバットをおろし、こう言わなければならなかった。
「これはこれは、寝ぼけてお部屋をおまちがえになったのでございましょう。出口はあちらになっております。どうぞ……」
と太郎はあいそ笑い。戸棚のなかにいたのは、フランケンシュタインの怪物。大きく、いかにも強そう。バットでなぐってもききめはなく、刃物は刃が折れるだろう。へたしたら、大あばれされ、部屋はめちゃくちゃ、こっちの背をぺきぺき折られかねない。おとなしくお帰りいただくに越したことはない。
そいつはゆうゆうと戸棚から出て、歩いて帰っていった。たしかにフランケンシュタインの怪物だったのか、それに似たやつだったのか、そこまでの確認はできなかった。太郎は|呆《ぼう》|然《ぜん》とし、ふるえあがっていたのだから。
それにしてもだ、なぜこの戸棚に、つぎつぎとかくも変なのばかり出現するのだろう。なぞだ。太郎は腕組みして考える。もしかしたら、この戸棚は|呪《のろ》われているのかもしれぬ。あるいは、次元のゆがみかなにかで、戸棚の奥が妙な場所へと通じているのかもしれぬ。そうとしたら、引越さねばなるまい。絶世の美女と結婚したはいいが、こういう目にあったのでは、さんたんたるものだ。
太郎は長い縄を持ってきて、からだに結び、戸棚の探検をこころみた。しかし、大げさな装備をしたにもかかわらず、なんということもなかった。戸棚はただの戸棚にすぎず、次元のゆがみもなく、呪われているようなようすもなかった。いったい、どういうことなのだ。
つぎに太郎が戸棚のなかに見いだしたのは、学者風の男。ひげをはやし、ふとい黒ぶちの眼鏡をかけていた。こういうやつなら、なんとかやっつけることもできそうだ。
「やいやい、もっともらしい顔つきをしやがって。なんだ、おまえは。こんどこそただではすまさない。覚悟しろ」
太郎がどなったが、相手は平然たるもの。
「まあまあ、お静かに。これは重要なことですぞ。わたしは精神分析医。その方面ではいくらか名を知られた学者です。たとえば、あなたの内面の悩みなど、すぐわかる。あなたは、この戸棚のなかにつぎつぎと男が出現する原因を、知りたくてたまらないという思いにとらわれている」
「これは驚いた。まさにずばりだ。教えて下さい」
「しかしねえ、あなたは乱暴そうだ。わたしに手荒なことをしないと約束すれば、ご説明しないこともありませんが……」
「約束するから、ぜひたのむ。さあ……」
太郎はせかし、相手は話しはじめた。
「では、お話ししましょう。そもそもの原因はですな、この戸棚にではなく、あなたの奥さんのほうにある。そして、これはきわめて大変なことで……」
「妻がなんだというのだ。もったいをつけずに早く言ってくれ」
「奥さんが美人すぎるとは思いませんか」
「美人すぎて、なにが悪い」
「いいですか。あなたの奥さんはですな、ビーナスなのです。海の|泡《あわ》から生まれたという、ギリシャ古代の女神。といって、はるか昔からずっと存在しつづけたわけではない。ある時期には海の泡に還元し、ある時期には、ふたたび形をとりもどして実在となる。そういう宿命というか、そういう体質というか、つまりそういうわけなのです。このあいだまで精霊の形で海をただよっていたが、金星が太陽と月に対し特定の位置に来た。その金星の光を受け、また姿をあらわし、小島の上に出現していたということです」
「たしかに小島の上で見つけたが、とても信じられん……」
ため息をつく太郎に、相手は言った。
「しかし、奥さんの美しさと上品さとは、人間ばなれしているでしょう」
「ああ、事実、われながらそう思うよ。となると、やはりビーナスなのかな。おれはビーナスと結婚した男というわけか。しかし、まだ実感がわかないな。また、妻がビーナスであることはありがたいが、こうひっきりなしに浮気をされ、間男が押し寄せてくるのはたまらないな。こんな場合に使う形容じゃないだろうが、まさに、ありがた迷惑だ」
「それは、いたしかたないことです。ビーナスの魅力には、だれも抗しえない。いけないことだと思っても、自制心もなにもなくなり、ふらふらとここへ引き寄せられてしまうのです。そして、あまりの美しさに別れがたく、ご主人がまもなく帰宅される時刻とわかっていても、引きあげそびれ、やがてご主人の足音を耳にし、冷静さをとりもどし、あわてて戸棚のなかに飛びこむ。こういうわけです」
「さすが学者だけあって、よくわかるな」
「わたしも同様だったというわけで」
学者の答えに、太郎は立腹した。
「けしからん。結論は、おまえも間男だということだ」
「まあまあ、約束でしたよ。乱暴なことはやめて下さい。しかし、ご主人。ビーナスといえば美の女神。これは万人のものでしょう。美を愛するのは、人として当然のこと。あなたが独占なさるべきではない。公益優先という原則をお考え下さい。たとえば、芸術史的に価値のある建造物に住んでいる人があったとする。その人が、ここは自分の家だ。だれであろうと入ってはならぬと主張したら、あなたもその不当さを攻撃するでしょう。それと同じです。美の独占は、許しがたい行為と言うべきでしょう。反省しなさい」
「まことに正論。申しわけないしだいで、これからは……。いや、そうはいかん。とんでもない話だ。おれは結婚しているんだぞ。それなら、おれがおまえの奥さんと浮気しても、かまわないというのか」
「わたしの家内は美しくもなければ、女神でもない。とても公共的価値はありません。だから、個人の所有物です」
「どうもなっとくできんな」
「まあ、これについては、ゆっくりお考えになって下さい。では、わたしはこれで。料金の請求はいたしませんから、その点はご心配なく……」
学者風の男は帰っていった。
そのあと、太郎は夫人に話しかける。
「おまえはビーナスなのか」
「早くいえば、そういうことね」
「驚いたなあ。前に聖書の十戒なんか知らないって言っていたが、ギリシャの神なら他の神の束縛は受けないというわけか。しかし、浮気は困るなあ。神通力があるのなら、なんとかそれを活用し、変な男がやってこないようにできないのかい」
「あたしの立場になって考えてよ。あたしの美を崇拝し、敬慕してやってくる人を追いかえすなんて、できないわ。女神なんですものね」
「弱ったなあ。こっちの気持ちにもなってくれよ。ここは人間世界なんだよ。なんとかならないものかな」
「あたしだって、あなたを苦しめたくはないわ。離婚してあげましょうか。あたしが別な人と結婚し、あなたが間男としてやってくればいいのよ。気楽でいいんじゃない」
「それもいやだよ。別れる気はない。きみを愛しているし、ビーナスと結婚したという、すごい幸運を手放したくないし……」
またもや議論はうやむやとなる。ビーナスと結婚できた幸運を誇り喜ぶべきなのか、持てあますべきなのか、太郎にはわからなかった。
というわけで、戸棚に変な男が出現するという現象は、依然として終らなかった。いかに防ごうとしても、どこからともなくやってくる。ビーナスの発散する美と愛の放射線を、とめることはできないのだ。恋の防止装置なるものは、どこにも売っていないようだ。そして、その放射線を感じた男は、ビーナスの魔力で一瞬のうちに引き寄せられるというしかけらしい。
とても太郎の手におえる事態ではない。女神をコントロールする力など、平凡な人間にあるわけがない。彼は毎日、帰宅すると戸棚をあけ、そこにひそんでいる男をみつけ出し、追い出す。なさけないことだが、それが日課となってしまった。ちょうど美術館の管理人のよう。さあさあ、きょうはもう閉館ですよと追いたてる係。めんどくさいからといって、美術館を売りとばすこともできぬ。金銭にかえられないものの所有者なのだ。面白くない、もんもんたる日常。
戸棚のなかから、幽霊が飛び出してくることもある。黒ずくめの服、黒いマント、色の青白い人物が出現したこともあった。どなたですと聞くと、そいつはドラキュラ伯爵と答え、ゆうぜんと帰っていった。太郎は、血を吸われなくてよかったと、ほっとする。
戸棚のなかにサンタクロースがひそんでいたこともあった。「クリスマス・シーズン以外はひまでしてね」とあいさつをし、換気孔から帰ってゆく。変なのばかりが出てくる。変なやつのほうが、ビーナスの魔力に敏感なのかもしれないし、変なやつのほうが人間界の道徳にしばられていず、ぱっとやって来やすいのかもしれない。ピノキオだの雪ダルマなどがいたこともあった。
「いくらなんでも、これはひどい」
「なぜいけないんです。ビーナスは人間だけのものではない。万物の美の女神でしょう。人間の独占と考えるのは、勝手すぎます。そもそもビーナスとは、ファンタジーの国の仲間。わたしが夢の国から飛び出してやってきたって、かまわないじゃありませんか。理屈でしょう。うるさいこと言わないで下さい」
ピノキオならまだしも、そのうち戸棚のなかにピンクの象があらわれた。アル中患者の|妄《もう》|想《そう》の世界からぬけ出して、ここへやってきたらしい。いくらビーナスかもしれないが、こんなのを相手に浮気することもないだろう。太郎はいささか悲しくなった。
時には普通の男も出現する。くみしやすしと判断し、日ごろのうらみを晴らしてやるかと太郎がバットをふりあげると、そいつはとつぜんオオカミに変身した。窓のそとに満月がのぼりはじめていたのだ。オオカミ男とあっては、銀製の|杖《つえ》かなにかでないと、たちうちできない。あきらめざるをえなかった。
頭に鳥の羽飾りをつけたインディアンの大|酋長《しゅうちょう》が戸棚のなかにすわっていたこともあったし、みどり色の宇宙人がいたこともあった。
「太陽系を通りがかったら、魅力に引き寄せられてしまいました。地球という星は、じつにすばらしい。いい経験をしました。あなた、わたしの星においでの時は、わたしの妻をお貸ししますよ。あなたの奥さんにはとても及びませんが」
と宇宙人は言い、窓のそとに浮いている円盤に乗って飛び去っていった。
つぎからつぎへと出現。考えようによっては、テレビよりよっぽど面白いといえた。毎日毎日の意外の連続で、太郎の心にも微妙な変化がおこりはじめた。つまり、きょうはどんなのが戸棚のなかにいるかなと、それが楽しみになってきたのだ。以前は帰宅すると、むかっ腹で戸棚をあけたものだったが、このごろは胸の奥がぞくぞくする。世界最高のびっくり箱ではあるまいか。
一方、ビーナス夫人のほう。太郎のこの変化に気づいた。以前は「いま帰ったよ」と言っていたのに、このごろは物も言わず、にこにこと戸棚に飛びつく。こうなると、浮気も楽しくなくなる。この人、あたしより間男たちのほうに興味を持ってしまったわ。あたしを無視している。なんということなのよ。美の女神の誇りと自尊心を傷つけられた。浮気がばからしく思えてきた。むなしい気分ね。そろそろやめようかしら。
そして、まともな生活をしましょう。人間の世界にいるのだから、やはり人間のルールに従い、人間らしい生活をすべきだわ。亭主である太郎にあやまり、あなた以外の男に今後は決して心を移さないと告白し、誓い、喜んでもらおう。
ビーナス夫人は決心をした。精神を統一して邪念を払い、愛の放射線の発信を止めた。これでだれもやってこないだろうし、やってきても追いかえそう。亭主に喜んでもらうことが、これからのあたしの喜び……。
そんなことは知らない太郎。いつものように帰宅し、まっすぐ戸棚にむかい、そこをのぞきこんで大喜びした。大喜びの点ではビーナス夫人の期待どおりだったが、彼のあげた叫び声の内容は、それと少しちがっていた。
「わあ、すごい。きょうは透明人間か。おれはずっと前から、こいつを見たくてたまらなかったんだ」