ある日の午後。時刻は四時をちょっと回ったころ。場所はにぎやかな街なか。
ざわめきがわきあがり、流れていった。
「おい、見ろよ。あれ……」
「まあ、どういうつもりなんでしょう」
「正気のさたとは思えない。もっとも、ちかごろは、あんなこと珍しいとはいえないかもしれないな」
人びとが指さすところには、二人の人物がいた。いずれも二十歳ぐらいの男と女。それだけならなんということもないが、みながさわぐのには理由があった。二人とも、はだかだったのだ。
男も女も美しいからだをしていた。男はほどよく筋肉のついた健康そのものの肉体で、髪の毛がのび、ひげもあった。女の髪の毛も長かった。ウエストはひきしまり、バストもヒップもみごとだった。二人が歩くにつれ、ぴたぴたと舗道に音がした。つまり、彼らは|靴《くつ》もはいていなかったのだ。
といって、完全な全裸ではなかった。腰のあたりを、大きな葉っぱでおおっていた。この二人がどこから出てきたのか、それはだれも気づかなかった。ざわめきの中心に目をやったら、そこにいたというわけだった。なんとなく異様で、夢を見ているのではないかと思った者も多い。それぞれ自分のどこかをつねり、痛いことを確認していた。
「ターザンごっこだろうか」
「いや、よくある、人目をひきつけて喜ぶ、新しい芸術きどりの……」
そこまで言いかけた者は、口をつぐむ。そのたぐいではないらしい。なぜなら、はだかであることを恥ずかしがっており、人目をさけようとしている。しかし、この街なかでは、群衆の視線からのがれることなど、できっこない。
走れば、だれもいないところへ行けるのではないか。二人の動きにはそんなふうなものがあった。しかし、どこまで行っても人通りはたえない。道ばたの商店にでも飛びこみ、着るものを買うなり借りるなりしたらよさそうに思えるが、そういう方法は思いつかないらしかった。
二人が動くにつれ、ざわめきも動いた。しかし、やがて、それも終る時がきた。交番のなかから警官たちが出てきて、飛びつき、つかまえたのだ。よかった。ほっといたら、二人は信号を無視して走りつづけ、車にはねられたかもしれないという感じだった。
やじうまは、交番のまわりを動こうとしない。警官はレインコートを出し、二人に着せかけた。それでも、やじうまは立ち去ろうとしない。人びとがやっと散っていったのは、電話連絡でパトカーがかけつけ、二人を運び去ってからだった。
警察へ連行された二人は、ありあわせの下着と服とを貸してもらい、それを身につけた。二人はきわめて不器用であり、着せてやるのにてまがかかった。
やがて一室に入れられ、型どおりの取調べがはじまった。年配の警察官が言う。
「ああいう人さわがせなことを、やってもらっては困るね。どういうつもりなんだ。なぜ、あんなことをした」
男が答える。まのびした変な口調だった。
「わざとしたのではありません。あんなところへ出てくるつもりは、なかったのです。出てきたところが、たまたまあそこだったというわけで……」
「わけがわからん。で、きみたちの名はなんというのだ」
警察官はメモを手にした。男は言う。
「わたしはアダム」
女が言う。
「あたしはイブっていうの」
「ふむ。アダムとイブか。ちょっと待っていてくれ……」
警察官はしばらく席をはずし、戻ってきて言った。
「……若い者に聞いてまわったが、そんな名の歌手は知らないと言っていた。そういえば、エキゾチックなところもあるな。外国から来たというわけか。いったい、どういうつもりで、あんな人さわがせなことをやったのだ」
「ですから、そんなつもりは、なかったのですよ。禁断の木の実を食べたら、おこられ、追い出されてしまい、気がついたら、あんなところにいたというわけです」
警察官は机の上の電話で、だれかにこう告げた。
「いま取調べ中なのだが、どうやら麻薬がからんでいるようだ。そのうち禁断症状がおこるかもしれないから、あばれるのにそなえて、三人ほど待機させておいてくれ。外国人らしいのだ。追放されて、ここへ来たらしい。麻薬不法所持とも考えられるから、所持品の検査を……」
返事を聞きながら、うなずく。
「……そうか。はだかだったから、なにも持っていなかったことになるな。いや、待てよ。からだにつけていた、あの葉っぱが怪しい。よく分析させてくれ。薬がしませてあるかもしれず、種子がついているかもしれない。変な植物を国内で栽培されては、かなわんからな。うん、うん。どうも麻薬がからんでいるとしか思えんのだ。なにしろ、言っていることが、普通ではないのだ」
顔をしかめる警察官に、アダムと称する男が、ゆっくりした話し方で言った。
「あなたは、わたしたちにからかわれているとお思いのようですが、そうではないのですよ」
「変なことを言うなあ。麻薬でおかしくなっているにしては、いくらかまともみたいなところもある……」
机の上の電話が鳴り、警察官は言う。
「葉っぱの種類がわかったと。ただのイチジクの葉で、種子はなく、薬品の付着もみとめられないと。うむ、すると、麻薬の線の可能性はなしか……」
「だいぶお困りですわね」
とイブと称する女が言った。
「そりゃあ、そうさ。いつもの尋問の調子が、まるで出ない。仕方ない。まあ、順を追って、事務的に質問することにするよ。としはいくつだ」
「それが、あたしにもわかんないの。すごく若いようであり、すごくとしとってるようでもあるのよ。アダムだって同じことよ」
アダムはうなずく。警察官はメモをほうり出し、おてあげの表情になって言う。
「カレンダーのない国にいたというわけか。季節の変化のない、南の島かね」
「いいえ、エデンの園ってとこからよ」
「なるほど。そういうことになるんだろうな。きみたちアダムとイブは、そのエデンの園で楽しく暮していた。しかし、食べてはいけないと言われていた、木の実を食べた。そのため、神の怒りにふれ、追い出された。こう言いたいんだろう」
アダムがうなずく。
「すごい。よくおわかりですね、まだお話ししてないのに。あなたにも、ひとの心を読む能力があるようですね」
警察官は、反射的に机をたたく。
「ふざけるな。いいかげんにしろ。ここは警察なんだぞ。こんなところで芝居をしたって、意味ないじゃないか。だれも、さわいでくれたりしないぞ」
「わたしの言うことを、うそだとお思いですね。ひどい事件の処理を押しつけられ、運が悪いとなげいておいでだ」
「当り前だ。相手に同情されるなんてことも、警察に入ってはじめてだ。いいかげんにしてくれないかね。さて、どうせまともな答えはしてくれないだろうが、身もと引受け人はいないのかね」
「あります。神さまです。しかし、いまの場合、なんにもしてくれないでしょうね。わたしたち、おこられて追い出されたばかりなんですから」
「そうだろうね。で、エデンの園とやらへは帰りたいんだろう。それはどこにあるんだね」
「もちろん、帰れるものなら帰りたい。しかし、どうやれば帰れるのか、わからないのです。追い出され、気がついたら、さっきのところだったのです。わたしたちこそ、帰り道を知りたい。警察で教えてくれますか」
警察官は自分の頭を、手で軽くたたいた。メモは依然として白紙のままだ。イブが口を出した。
「警察をからかうとは、許しがたいことだ。そうお思いのようですわね。だけど、あたしたち、そんなつもりはありませんの。本当のことを、お話ししてるだけなんですわ。信じていただけないようですけど」
「こっちは、からかわれているような気がして、ならないがね。まあ、この件は大目にみよう。黙秘権というものがあるのだから、言いたくないことをごまかすのは仕方ない。しかし、街なかをはだかで歩いたことは、よろしくない。現行犯であり、交番の警官の証言もある。罰せざるをえない」
「罰って、なんですの」
「あつかいにくいね。つまりだ、法律できめられたことに違反したということだ」
「法律って、なんですの」
「それはだ、どう言ったものかな。うん、いい形容があった。あなたがた、食べてはいけない木の実を食べた。そして、そのむくいを受けた。それと同じようなものだ」
「おきてにそむいた、というわけですね」
「そうそう、よくおわかりだ」
「しかし、はだかがいけないなんて、知らされていなかった」
「弱ったね。とにかく、そうきまっているのだ。しかし、あなたがた、悪質な目的でやったとは思えない。凶悪犯罪をやったわけでもない。だから、罰といっても軽いものだ。罰金を払ってくれれば、すぐ釈放する」
「なんですの、罰金って」
「お金のことだ。うん、そういえば、お金もなにも持っていなかったわけだな。かわって支払ってくれそうな人は、神さまだけだが、それもみこみなしとくる。どうにもしようがないな。しばらく留置場に入ってくれ。ほかの者と相談して処置をきめる。おっと、留置場ってなんだなんて、聞かないでくれよ。入ってみればわかるのだから」
アダムとイブとを留置場に入れ、その警察官はため息をつき、同僚にぼやいた。
「あんな変なのは、はじめてだ。頭がおかしいらしいんだが、二人とも、いやに調子があっている。なんてやつらだ」
「最近の若い連中には、芝居気たっぷりのがいますからな。どうせ、そのたぐいさ。留置場で一晩すごせば、心境も変るだろうよ」
しかし、事態の変化は、一晩を待つこともなかった。テレビ局の者と称するのが、警察へやってきて言った。
「さきほど、はだかの二人をつかまえたそうで……」
「さすがはテレビ局、耳が早い。アダムとイブだと、当人たちは言っています。エデンの園から来たともね。世間知らずで、妙に理屈が通っているとこもありで、さっぱり正体がわからない。頭の変な、ふしぎな二人組です」
「興味ある存在ですよ。で、どうなさるおつもりです」
「罰金を払えばすぐにでも釈放しますが、金を持っていないのです。もっとも、また同じことをくりかえしたら、次回からは罪も重くなりますがね」
「いかがでしょう。罰金を立替えますから、渡してくれませんか」
「そう願えれば、こっちもありがたい。いささか持てあましぎみなのです。しかし、どうするつもりなのですか」
「すぐに出演させますよ。うちの局のナイトショーに“変った人たち”というコーナーがある。それに出てもらうのです」
「それだと、みすみす二人の計画に乗るようなものじゃありませんか。こんなことで名前が売れるとなると、まねするのが続出する。警察としても困る。局も利用された形になり、信用を失うでしょう」
警察官は当然の疑問を口にしたが、テレビ局員は言った。
「うちの、その番組をごらんになってないようですな。決して、そんなものではない。独自性のあるアイデアが、ねらいなのですよ。人まねは、絶対にとりあげません。竜宮の|乙《おと》|姫《ひめ》だなんてのがつづいたのでは、番組もあきられてしまう。ちゃんとしたゲストの人も出席していて、批判すべきは批判している。それにしても、エデンの園からやってきたアダムとイブとは、ちょっとしたものですよ。普通の人には考えつかない」
「そういうものですかね。まあ、同類が出ないよう注意して下さい。罰金を納入して下さい。これが領収書です。あ、それから、できうれば、彼らに貸してある服を、あとでかえしていただきたい」
「わかりました」
テレビ局員は二人をもらいうけた。自動車に乗せようとしたが、乗り方がよくわからないような感じだった。窓から珍しそうにそとをながめている。それでいて、おっとりとした点もある。局員はつぶやく。
「アダムとイブが現代に出現したら、かくもあろうか、だな。芝居もここまで徹底すべきだ。いい出演者をみつけたものだ」
「芝居じゃありませんよ。わたしたちは、本当にアダムとイブなのです」
「わかった、わかった。そうそう、服を買ってあげなければならないな。ちょうどいい、あそこに店がある」
車はとめられた。店に入る。アダムとイブはよりごのみをしなかった。しかし、着せるのは大変だった。はじめて着るかのごとく、ぎごちない。また、はだかになるのを恥ずかしがった。はだかで街なかに現われたというのに……。
そのほか、なんだかんだとさわぎがあったが、やがて本番の時刻となった。司会者が言う。
「きょうの出演者は、さきほど街なかにはだかであらわれた、若い二人組です。ご本人たちは、アダムとイブだと言っております。では、お話をうかがってみましょう。まず、アダムさんに。いつからご自分をそうだとお思いに……」
「もの心ついてからですよ」
「そうですか。では、イブさん。エデンの園からいらっしゃったそうですが、そこはどんなところでしたか」
「いろんな木のある土地で、美しい花が咲き、泉があり、小川がありましたわ。小鳥はさえずり、気候はよく……」
「いったい、どこの……」
「ヌーディスト・キャンプのことかとおっしゃりたいようですけど、あたし、それがどんなものか知りません。宣伝をたのまれたのでもありません」
「質問をみんな先取りされてしまいますな」
「エデンの園の中央には、善悪を知る木があり、その実を食べるなと言われてたのですけど、ヘビにそそのかされ、あたし食べてしまいましたの。そしたら急にこわくなり、アダムにも食べさせた。すると、はだかでいるのが恥ずかしくなり、たちまちそこから追い出された。気がついたら、あの場所にいたというわけですの」
司会者はゲストのほうに歩み寄って言う。
「どうお考えですか」
「エデンの園とは、人類のあこがれと郷愁の象徴です。そのお二人は、過密と公害とで住みにくくなる傾向をうれい、その防止キャンペーンを、身をもってなさったのではないでしょうか。また、こうも考えられます。先祖がえりという現象がありますが、その一種、精神的な先祖がえりの極端な形ともいえましょう。過密と公害から逃避したいという感情が高まって……」
きょうのゲストは、なんでも過密と公害に結びつけたがる人物だった。これでは番組が盛りあがらないと判断し、司会者はアダムにむかい、いじわるな質問をした。
「あなたがた、これでみごとにテレビ出演ができた。このチャンスを利用して、これから歌手になるおつもりですか、それともモデルに、あるいは喜劇的なタレントに……」
「どこでも、同じことを聞かれる。これからずっと、同じ質問ぜめにあうのだろうか。こんなことになろうとは。神の罰のおそろしさが、だんだんわかってきた」
「お芝居が徹底してますな。しかし、本当にエデンの園から出てきたばかりなら、言葉がこう簡単には通じないはずですがね」
司会者に言われ、イブが答えた。
「言葉をおぼえたのじゃ、ありませんわ。あなたの頭のなかのことが、しぜんにこっちに伝わり、あたしの心に浮かんだことが、相手に通じるような形で口から出るのです。こんな能力はないほうがよかった。なければ、ヘビにだまされることもなかった。あの実を食べると神のようになれると話しかけられ、そうかなと思ってしまったのです」
「ははあ、テレパシーの一種ですな。すると、わたしの考えていることも、おわかりになる」
「ええ、あなたは、あそこにいる女の人に熱をあげている。この番組が終ったあと、帰りがけにどうくどこうかと……」
イブは歌手のひとりを指さした。司会者は赤くなり、どぎまぎし、なんとかごまかした。音楽がはじまり、女性たちのおどりがはじまった。セミヌードの女もでてきた。アダムとイブは、手で目をおおった。
たまたま、ほかに大事件のない、ニュース不足の時期だった。これはいい材料とばかり、新聞社が動き、記者会見となった。アダムとイブに、質問があびせられる。
「なぜ、はだかで街のなかに……」
「またもその質問。自分で望んでやったことじゃありませんよ。神さまに聞いて下さい」
「あなたがた、もしかしたら、宇宙人じゃありませんか。つまり、ほかの星から、この地球へやってきた……」
「星といいますと、神さまが、天地創造の第四日目に作られた、空のあれですか……」
「宇宙人でもないようだな。で、神さまとは、どんなかたです」
「外見はわたしに似ております。わたしたちをお作りになり、例の木の実を食うなと命じられたあとは、お会いしておりません。わたしたち、エデンを追い出されたのですが、その時はお声だけ聞きました。怒りのこもった、きびしいお声でした」
「神さまは星々を作られたそうですが、そのお力はすごいものなのでしょうね」
「わたしたち、天地創造を見ておりませんから、なんとも言えません。わたしの作られたのが第六日目なのですから」
「こちらにいらっしゃって、なにに最も興味をひかれましたか」
「男や女、人間がかくもたくさんいるという点です。これだけは、生めよふやせよ地にみてよという、神さまのおぼしめしにかなっているようです。そのほかについては、まだよくわかりません」
きめてがない。あれぐらいのことは、旧約聖書の創世記を読んでいれば、だれにでもしゃべれる。しかし、答える表情からは、うそや芝居が感じられない。となると、自分をアダムとイブと思いこんだ、新種の精神異常ということになる。同じ|妄《もう》|想《そう》を二人で共有しているというのは、たしかに珍しく、新種にちがいない。
人びとの好奇心はかきたてられ、それを解決するためには、二人を病院に送りこみ、専門家の鑑定にゆだねる以外になかった。費用はマスコミ各社が負担し、アダムとイブは病院に移された。
妙なものを押しつけられたととまどいながらも、医師たちは一応のことをした。心理テストとして、インクのしみを示し、なんに見えるかと聞いた。イブは「ヘビ」と答え、アダムは「善悪を知る木」と答えた。
うそ発見機にかけ、前にもなされた質問がくりかえされた。二人がうそをついているという証拠はえられなかった。脳波測定をはじめ、さまざまな診察がなされたが、精神異常という点はみとめられなかった。
アダムの胸の皮膚には、傷あとがあった。レントゲン写真をとると、胸の骨の一本が不足していた。
どの結果も、アダムとイブが本物であることを示している。医師たちは頭をかかえた。本物とみとめざるをえないが、そう発表したら、病院の信用が失われる。頭のおかしい医者がいるとなり、患者たちが来なくなるだろう。
最後の手段、二人に暗示をかけ、アダムとイブではないと意識を変えてしまうことができれば、それに越したことはない。しかし、そのこころみは失敗だった。二人にはテレパシー能力があり、こちらの目的が察知され、暗示にかからないのだ。
困りはてていると、うまいことに二人が病気にかかってくれた。おかげで、治療中という理由がつき、診断結果の発表をひきのばすことができた。
病気はハシカ。この年齢でハシカをやっていないとは。本物であるという証明が、またひとつ加わった。あわてて二人のからだを調べてみると、種痘のあとがない。ためしに種痘をしてみると、ちゃんとついた。むし歯は一本もない。すべてのことが現代人でないことを示している。
医師たちは、二人に各種の予防注射をした。時間かせぎの役に立った。
新聞社のなかには、他社をだし抜こうと計画したところがあった。人びとのあいだには、そっとしておいてあげるべきだとの声が多かったのだが。
かりに本物であったら、現代に適応させるのに急激すぎては悪いのではないか。精神異常であったら、さわぎたてるべきではない。
しかし、その一方、事情を知りたいという強い要求もある。それにこたえなければならない。ある新聞社は、社の診療所の看護婦にいいふくめ、アダムとイブのいる病院に就職させた。インタビューをし、手記を独占するのがねらい。運動費が使われ、うまくその病室の担当になれた。テープレコーダーのスイッチを入れ、看護婦は聞く。
「退屈なさったでしょう」
「そんなことはありません。エデンの園よりは、はるかに変化のある毎日です」
「子供のころの思い出で、とくに印象に残っていることはございますか」
「ありません。少年時代というものが、なかったのです。いまのような形で作られ、ずっとそのままでした。これからは、としをとることになるのでしょうが」
「エデンの園の毎日は、どうでした」
「起きて、食べて、ぶらぶら歩きまわり、眠る。そのくりかえしです」
「イブさん。お二人のなれそめについて」
「あたしが作られ、気がついたら、そばにアダムがいたのです。それだけのことですわ」
「浮気についてどうお考えですか」
「ほかにだれもいなかったんですから、考えたこともありませんわ。これから、いろいろ知ることになるのでしょうが……」
どう引き伸ばしても、半生記になるような内容ではなかった。かくなる上はとばかり、その看護婦は大胆なことをやってのけた。医師の部屋にしのびこみ、二人についての診断書をあさって写真にとり、新聞社に持ち帰った。その報酬として大金をもらい、どこか外国へ遊びにいってしまった。
新聞社は発表にふみきった。人びとは知りたがっているのだ。真実を報道して、なにが悪い。不治の病気との診断なら問題もあろうが、これはちがう。それに、あの二人は、自分たちが本物だと主張したがっているのだ。大きな見出しが紙面にのった。
〈アダムとイブは完全に本物〉
病院側は驚いたが、べつに抗議もしなかった。むしろ、ちょうどよかった。診断書のすべてが新聞に出たことによって、結論をくだすという病院側の責任が、うやむやのうちに解消した。
病院側としては、こんな計画をたてていた。事件待望は、大衆の欲求である。それが無意識のうちにつみ重なり、集団幻覚としてのあの二人がうみだされた。あるいは、その大衆の欲求が二人に集中して作用し、アダムとイブだというふうに意識を変えてしまった。そんな説明で、なんとかつじつまをあわせようとしていたのだ。
それをやらずにすんだのだ。新聞報道のおかげで、本物であるということが、いつのまにかきまってしまった。
「本物のアダムとイブが、なぜ現代に出現したのでしょう」
その質問に、医師たちは答える。
「二人が肉体的、精神的に健全であることは、たしかです。すべては新聞報道のとおり。当方に秘密は、なにひとつ残っていません。しかし、なぜ現代に来たかとなると、医学上の問題ではありません。その方面にくわしい専門家にお聞き下さい」
話題は、原因究明のほうに移っていった。二人は病院内にいるのだが、当人に聞いても要領をえない。また、こんなことの専門家など、あるわけがなかった。しかし、やがてひとつの仮定が出た。
「ずっと、冷凍されてたのじゃないでしょうか。氷河に落ち、冬眠状態になっていた。それがめざめたのです」
「それはおかしい。アダムとイブは、カインやアベルという子を作ったはずです。あの二人、子供があるようにみえませんよ」
「そういわれれば、そうですな」
冬眠説は、あまり適切といえなかった。そのうち、ある物理学者がこんなことを言いだした。
「これは、タイムスリップ現象です」
「なんです、それは」
「時間を移動することです。ものすごく大きなエネルギーが作用すると、その力は空間的なひろがりだけではおさまらず、時間軸にも作用する。縦、横、高さという三つの次元におさまりきれず、時間という次元におよんだのです。それによって、アダムとイブが現代に飛ばされた」
「どんな大きな力が働いたのでしょう」
「それは、あなた、天地創造ですよ。これは大変なエネルギーだったはずです」
「そういうものですかねえ。なんだか、おかしい気がしてならないが」
「時間旅行には、パラドックスがつきものです。矛盾があって当然です。ないほうがおかしい。だから、わたしの説が有力ということになるのです」
ほかにこれといった説明も出ず、大衆は解説を求めている。いちおう、これがマスコミに流された。
その数日後、事件が発生した。
武器を持った一団が病院に侵入し、アダムとイブを人質にとり、その病室を占拠した。まさかという盲点で、警備が手薄だった。警官隊がかけつけ、呼びかける。
「無茶なことをする。人質をはなせ」
それへの応答。
「二人を助けたかったら、金を出せ……」
とてつもない大金が、要求された。警官側は、きもをつぶす。
「なんで、そんな大金を払わなければならないのだ。だれに出せと言うのだ。そもそも、あの二人には親類などない」
「いや、すべての人類が親類なのだぞ。二人は人類の祖先、これを殺すとどうなると思う。その瞬間、人類が存在しなくなるのだ。それでもいいのか」
「よく理屈がわからない。相談するから、しばらく待て……」
警官隊は例の物理学者に意見を求めた。そんなことが起りうるのかと。学者はむずかしい顔で言う。
「やつらの言うようなことに、なりかねません。アダムとイブが現代にやってきましたが、これは一時的なもので、やがて時間の引力とでも称すべき力により、もとの時点に戻るはずです。そして子孫を作る。だからこそ、いま、これだけの人類が存在しているのです。あの二人の安全は、絶対にまもらなければならない。あの二人、いや一人でも死んだら、ビルの土台石を引き抜いたように、人類の全部が崩れて消えます」
「すると、要求をのまないといけないわけですかな……」
深刻になりかけたところへ、広告代理店の人がやってきた。
「その身代金は、出しましょう。しかし、そのかわり、あの二人は、わが社の専属契約ということにしますよ」
「それで、金が回収できるのですか」
「できますとも。テレビの、どんなコマーシャルにでも使える。いいですか。まず、アダムとイブとがエデンの園にいるわけです。はだかということで、人目をひける。つぎに禁断の果実を食べ、楽園から追放される。とぼとぼと歩いてきて、なんとか印の既成服を拾いあげ、身につける。大喜び、エデンにいた時よりずっといいとなる。なにも既製服に限らない。食品、自動車、パソコン、どんな商品にも使える」
「なるほど」
「広告業界は、油断のできぬところ。このアイデアを、横取りしようと考える者もいましょう。普通の場合、そこが問題です。しかし、当社で現物を押えていれば、これは強い。迫力がちがいます。世界的な規模で使えます。番組より、このコマーシャルのほうを見たがる」
「いよいよとなったら、お願いするかもしれません。しかし、犯人の要求をそのままのむことはない。値切りましょう……」
そうこうしているうちに、アダムとイブとが、病院のなかから、のこのこ出てきた。あわてたのは警官たち。
「気をつけろ。むこうへ戻れ。うたれたら一大事だぞ」
人質にむかって、むこうへ戻れとの呼びかけは、前例のないことかもしれない。なにしろ、死なれたら大変なのだ。手に汗にぎる、気の遠くなるような一瞬だった。
そんなことにおかまいなく、アダムとイブは脱出してきた。犯人たちは一発もうたなかった。
「よく無事でしたね」
「あの連中の考えを察したのです。わたしたちを殺したら、人類が消滅すると思っている。つまり、自分だって消えるわけです。だから、だれもその気にならなかった」
「そうでしたか」
「それから、やつらにあんなことをやらせた黒幕がわかりましたよ」
「え、それはだれです」
「あの物理学者」
指さされ、学者はたちまち逮捕された。怪しげな学説を流し、それを利用して大金を手に入れようとした。成功していたら、まさに世紀の大犯罪になっただろう。だれかが言った。
「祖先を殺したら、その瞬間に子孫も存在しなくなる。存在しない子孫に、先祖を殺すことはできない。あの学者、この矛盾をごまかしていた。しかし、気になる問題だな。アダムさん、どうお考えです。かりにあなたがここで死んだ場合、人類が消えると思いますか」
「見当もつかない。やってみますか。死ぬのはいやですから、不妊手術でも受けてみましょうか。どうせ、神の怒りにふれたのです。こうなったら、やけだ」
「とんでもない。自重して下さい。あなたたち以外の全員が消えたなんてなったら、ことですよ。しかし、やけになるなんていう現代的な感情を、もう身につけたのですか。適応が早いですね」
あの物理学者の説は、陰謀にもとづくものだったと判明した。しかし、その一方、アダムとイブは本物。説明がつかないと、人びとはなんとなく不安になる。
例によって、出るべき議論が出る。
「なにかの謀略にちがいない。アダムとイブに気をとられているうちに、危険な事態へと巧妙にみちびかれてしまうのだ」
「で、どんな事態に……」
「わかるもんですか。だからこそ、謀略なのです」
この件について、アダムとイブに聞いた者がある。
「だれかの手先きじゃないんですか」
「知りませんよ。ああ、こうさわがれるのなら、あの実を食わなければよかった。のどのぐあいがおかしくなった……」
ごほん、ごほんとせきをする。エデンの園にくらべたら、空気のよごれははなはだしいはずだ。
二人を空気のいい地方へ移すことにした。病死されたらことだ。はたして人類が消えるかどうかはわからないが、安全を期すに越したことはない。
別荘が作られ、その準備がなされ、二人を乗せた車が出発した。
その途中、車が襲われた。護衛の車が同時に故障し、煙幕が張られ、スパイ映画によくあるような、巧妙な方法だった。
アダムとイブの車には、|拳銃《けんじゅう》を持った男が乗りこんできて、運転手に命じる。
「おれの言う通りに運転しろ。右へまがって広場に行くのだ。そこにヘリコプターが待っている。おれは、ある国の秘密情報部員。アダムとイブをさらうよう、指令を受けたのだ」
運転手はうなずく。
「どうりで手がこんでいた。まあ、お手やわらかに。さらわれるのは仕方ないが、お二人を、そちらの国でも大切にあつかって下さいよ。しかし、さらってどうするんです。なにかの役に立つのですか」
「立つからこそ、さらうのだ。この二人のテレパシー能力。それを活用したい。首脳会談のそばにひそませる。つかまえた敵のスパイの取調べにも使える。なにもかも、すべてわが方にわかってしまうわけだ。そのかわり、二人には最高のぜいたくをさせる」
「アダムとイブをスパイに使うのか」
「なにしろ、国際関係は微妙なのだ。なにがきっかけで大戦にならぬとも限らぬ。その防止は、人類のためでもある。二人にとって、ふさわしい仕事といえる」
あまりのことに、運転手の注意がおろそかになり、ハンドルを切りそこねて、車は道ばたの木に激突した。情報部員は、どこの国の者ともわからぬまま即死した。
救急車がかけつけてくる。運転手は重傷ながら、以上のことを報告した。
そして、アダムとイブ。けがはないが、気を失っている。病院に運ばれ、あらん限りの手当てがなされ、そのかいがあって、あいついで意識をとりもどした。アダムは、あたりを見まわして言う。
「おや、ここはどこだ。なぜ、こんなところにいる。どこからここへ来たのだろう」
イブも同様。二人とも、記憶をまったく失っている。二人はベッドから出る。身にまとっているものを、うるさそうに取ってゆく。はだかになってしまった。それを見ていた医者がつぶやく。
「や、こんなことがおこるとは。この世にやってくる前の状態に戻ったようだ……」
報告のため部屋を出て、ほかの人たちを連れて戻ってくる。しかし、その時、アダムとイブの姿はなかった。だれも、二人の外出を見ていない。あとかたもなく消えてしまったのだ。
「あの物理学者の言ったように、時間の引力でもとへ戻ったのだろうか」
「それだったら、出発した時点、禁断の実を食べた時に戻るはずだ。しかし、いまの消えかただと、そうは思えない」
「たぶん、アダムとイブは、ふたたびエデンの園に戻っていったのだろうな。善悪を知る木の実を食べたため、エデンから追放された。しかし、記憶をすべて失って、その能力がなくなれば、はだかも恥ずかしくないという、それ以前の状態だ。となると、この世にいる必然性もなくなり、エデンの園にいる資格と理由とを持てることとなった」
「そんなところでしょうね」
「うらやましいな。エデンに戻り、のんびりと毎日をすごすのでしょうな。生活苦もなく、不安もなく、としをとることもない。エデンがどこにあるのかは知らないが」
「しかし、なんだかひっかかるな。いずれにせよ、アダムとイブは本物だった。となると、二人が出てきて、また戻っていったエデンの園も存在することになる。神も存在することになる。それはまだいい。だが、まだなんの説明もついていないのですよ。アダムとイブは、はるかかなたの大昔の人でしょう。それがなぜ、こうもおくれて、現在にひょいとあらわれたのか」
だれかが言った。
「おくれてでなく、早すぎたのかもしれませんよ。そんな気がしてならない。なぜだれも、このことを考えなかったのだろう」
「どういう意味だ」
「ちょっと話しにくい……」
「いや、言ってくれ」
「つまりです。核戦争で、すべての人類が消滅する。だれも、いなくなってしまうんです。そのあと、またもと通りにするには、アダムとイブが必要じゃありませんか。そのために、いつでも出番に応じられるよう、神は二人をエデンの園において、待機させている。それを、ヘビのやつが神の目を盗み、ちょっと早めたんじゃないでしょうか。ヘビは悪魔の化身だそうだから、それくらいはやりかねない。しかし、神はうまくはからい、二人を記憶喪失にして、なんとか回収した」
「ヘビがちょっと早めたというが、それはどれくらいの日時だろう」
「わかるもんですか。それだけは、考えてみたくもない」