悪い夢はそのさめぎわが最も悪い。むかしの詩人がこんなことを書いていたようだ。私の場合、おそらくほかの人びともそうなのだろうが、あけ方ちかくなると苦痛ともいえるほどひどくなる。いつものことなのだ。こんな時代になってしまったからなのだ。
料理の夢。美しく盛りあわせたオードブルとか、スープとか、魚や肉の料理とかが、つぎつぎとあらわれる。色はもちろん、においさえついている。時には温かさとか触感までともなっている。リアルなのだ。夢のなかでもアイスクリームはつめたく、マシュマロはふわふわしている。こうなると病的なのだろうか。
病的でもなんでもかまわない。私はそれを手当りしだい口に押しこむ。かみしめる。歯と歯とがむなしくこすりあわされ、歯ぎしりとなる。そのいやな鋭い音で、いつも目がさめるのだ。
「ああ、また夢を見た……」
私は自分にいいきかせてから、両手を腹にあてる。あわれな、やせた腹部。そのあたりを、やせた手のひらでそっとなでまわす。空腹感をまぎらそうとするのだが、内臓は承知してくれない。芸のない鳥が鳴くような、単純で悲しげな音を出す。
となりの部屋からは、四歳になる坊やの飢えに泣く声がひびいてくる。それをなだめようとする妻の声は、なかなか効果があがらないため、ヒステリックな調子を高めてゆく。これもいつものことなのだが、やはりいいものではない。
それらの物音によって、私は眠りから少しずつ抜け出す。なんだか胸のあたりが苦しいのに気がつく。毛布から出した手で、そのあたりをさがす。あった……。
|籠《かご》にはいった鶏の唐揚げ。私は手でつまんで口に入れる。反射運動とかいうのだろう。やわらかく、塩味の、微妙な歯ごたえ。ひとつではとてもがまんができない。三つほど口に入れてしまう。
私の指先はさらになにかを求めてあたりをさまよい、やわらかなものをとらえた。甘いブランデーで味をつけたケーキ。それは口のなかでとろけ、舌の上で踊り、のどをやさしくなぐさめ、幻の音楽をかなでながら食道をとおり、胃を訪れる。胃壁は歓声をあげて、それを押しつつむ。もみくちゃ。痛いほどの快感。食べ物が胃に入ったのだ。そのショックで、私の目ははっきりとさめる。
食ってしまった。食ってしまったのだ。とんでもないことをしてしまった。後悔の念が頭のなかをかけめぐり、理性がめざめ、私は飛びおきる。毛布の上にあったさまざまな食品が、ばらばらと床に散る。ベッドの枕もとの台の上には、濃いミルクがあり、新鮮なオレンジがある。
私はそれらをひっつかみ、半開きになっている窓から、庭へつぎつぎと投げ捨てる。にくしみをこめて投げ捨てるのだ。腹が立ってくる。もっと腹を立てなくてはいけないのだ。胸がむかむかすれば、食欲がそれだけごまかせるのだ。
しかし、そんなていどのことで食欲を完全に追い払えるものではない。いったんは退いても、食欲はすきをみて逆襲してくる。捨て残した食品が、ベッドの下とか室のすみなどで、まだそのへんににおいをまきちらしている。ホットケーキの蜜とバターのにおい、肉料理の油っこいにおい……。
これらのものを、ゆっくりと味わって食べたいものだなあ。そうしたら、ああ、どんなに楽しいだろう。空想すると、つばが口のなかにわき、それはむなしく胃へと消えてゆく。しかし、だめなのだ。食べてはだめなのだ。
さっき眠りからさめかけの、理性が朝もやに閉ざされている一瞬、その時にわれを忘れて口に食べ物を押しこんでしまったからだ。
それさえしなければ、いま好きなものをゆっくりとえらび、時間をかけて食べることができるのだが。後悔をかみしめながら、さっき口にした食品のカロリーを暗算してみる。食べていい余裕は残されていない。だめなのだ。
私はパイプにタバコをつめ、火をつけて吸う。ニコチンが空腹にしみこみ、胸がむかつく。からだによくないにきまっているが、食欲だけはちょっと逃げていってくれる。それに、パイプを口にしているあいだは、なにかを口に入れようという気にならないですむ。パイプの口にくわえる部分には、深くきざみ目がついている。無意識のうちに私が歯でかんでしまうからだ。
となりの部屋からの坊やの泣き声は、さらに高くなっていた。狂ったように火がついたように、全欲望をそれに集中させて泣きわめいている。私はそこへ行く。坊やは細い手でキャンデーの入った透明な袋をしっかりとにぎっている。もはや妻の手にはおえないらしい。私は言った。
「おい。そのキャンデーを捨てなさい」
「いやだ、いやだ。どうしてなの。ぼく、食べたいんだ。食べたいんだよ……」
ほっぺたの肉のない坊やの顔。涙をあふれさせつづけている目が、うらめしそうに私を見あげる。しかし、ここで妥協してはいけないのだ。私はどなる。
「親にむかって文句を言うな。食ってはいけないから、食ってはいけないんだ。これが理由だ。わかったろう。さあ、それをよこしなさい」
「いやだよ。食べさせてよ……」
必死の表情で哀願する坊やの手をねじあげ、それを取りあげた。その時、私は手をかみつかれた。痛い。
「口で言ってもわからないのなら、こうしてやる」
私は手のひらで何回もひっぱたいた。こうやって、坊やのからだにおぼえさせてやるのだ。痛いだろう、坊や。うらむのなら、うらむがいい。うらめば食欲をしばらくは忘れるだろう。坊やは一段と高く泣き叫びつづけていたが、やがてぐったりとなった。疲れたのだろう。このさわぎで私もまた、食欲をしばらく忘れた。妻が言った。
「どうしましょう、坊やを」
「このまま、そっと眠らせておきなさい。目をはなすんじゃないぞ、かくれて盗み食いをするかもしれない」
「ええ、よく見はってるわ」
妻はうなずく。私は家じゅうをくまなく見まわった。ほうぼうに食品が投げこまれている。このごろは、やつらの投げこみかたがうまくなった。灰皿の形をした砂糖菓子とか、電話機型のチョコレートなどが、机の上にさりげなくのせられたりしているのだ。ゆだんはできない。
それらを拾い集め、私は庭の穴に捨てる。その上に小便をかける。そんなことをしたって、しようがないんだ。やつらはすぐに補充として、すきをみて食品を投げこむのだから。
妻がコーヒーをいれてくれた。砂糖は入っていない。しかし、かすかにまざる甘味で、私の神経は少しおちつく。コーヒーのかおりはいいものだ。私は妻に言う。
「じゃあ、仕事に出かけるかな。子供への注意を忘れないようにな」
「いってらっしゃい。あなたも気をつけてね」
「ああ」
家のドアから出て、私は道を歩く。バスも動いているが、それには乗らない。歩いたほうがいいのだ。からだのためだし、長寿のためだ。
こまかい雨が降ってきた。傘をさすことも、雨やどりすることもない。ほどよいしめりけをもたらすといった程度の雨なのだ。雨は街路樹の緑をさらにあざやかにし、ビルや道路のよごれを落し、すべてを美しくいきいきとさせる。すがすがしさ。
健康感があたりにみなぎる。いいにおいがほのかに残る。雨の成分のせいなのだ。オゾンやらクロロフィルやらがまざっている。やつらがそのような操作をしているのだ。やつらは天候をコントロールし、一年中を初夏のようにしてしまい、毎日、定期的にこのような雨を降らす。消毒作用を持った雨を……。
やつらが地球へやってきてから、もうどれくらいになるだろう。思い出そうとしても頭に浮んでこない。日をかぞえるどころのさわぎではなかったのだ。その時以来、生活のぜんぶが欲望との戦いだった。毎日がその同じくりかえしなのだ。苦痛と単調のくりかえしのなかで、年月だけがいつのまにか流れ去っている。
やつらはゼビア星からやってきた。高度の文明と科学とを持ち、はじめは友好的だった。あまり好感の持てる外見ではなかったが、外見で判断するのもどうかとためらっているうちに、ずるずるとやつらの手中におちいってしまった。ゼビア星人たちはあらゆる点ですぐれており、強力だった。これに反し地球側は、あらゆる点で統一がなく、ひとがよかった。あがいてもだめだったし、どうあがいていいのかもわからなかった。
やつらは地球を占拠し、その好む体制にしあげてしまった。そして、運営が軌道に乗ったとみとめると、少数の人員を残して引きあげていった。つまり、現状なのだ。食料にあふれ、いつもいい気候で、殺菌作用を持つ雨が降るといった……。
各都市にあるゼビア星人の駐留支部の建物の前を通ると、やつらの姿を見ることができる。何回みても好きになれない。やつらの意図が察知できた今となっては、なおのことだ。やつらの足にはヒヅメがあるのだ。牛のような尻尾もある。顔は馬に似ている。ウサギのような耳がある。そして、受ける印象には豚のようなところがある。どことなく|貪《どん》|欲《よく》そうで……。
なにも直接に目にしなくても、その姿を頭に思い浮べるだけで、私は不愉快になる。不快感で頭が一杯になるのだ。しかし、それを頭から追い払うと、かわりに食欲を思い出してしまう。この矛盾を持てあましながら、私はつとめ先への道を歩く。うしろから声をかけてきた人がある。
「やあ、おはよう」
顔みしりの四十歳ぐらいの男。私の近くに住んでいて、小さな美術品店を経営している。血色がよく元気そうで、ふとっている。口を動かしてチューインガムをかんでいた。私は顔をしかめて話しかけた。
「あなたは、からだにもっと気をつけるべきですよ。元気そうにふとっている。ご自分の身がかわいくないんですか。注意なさるべきですよ」
「それはよくわかってますがね。わたしは意志が弱いんですよ。うまい物には、つい手がのびてしまう。ええ、もちろん注意はしてますよ。だから食べたいのをがまんして、チューインガムをかんでるんです」
彼としばらくいっしょに歩く。道ばたには、ところどころに食品が配置されてある。ポストのそばにおいてある果物の籠。街路樹につり下げられた籠のなかのサンドイッチ。どうぞ召し上って下さいという形なのだ。
それらを配置して行くのはゼビア星人のロボット。丈夫にできていて、ちっとやそっとではこわれない。初期の頃には破壊してしまうとの動きがあったが、こわすのは大変だし、こわしてもはじから補充されてしまう。そうわかってからは、だれもあきらめてしまった。家庭のなかに食品を投げこんでゆくのも、そのロボットたちなのだ。私は話題にした。
「あの、やつらのロボットたちを見ると、スコットランドの伝説を思い出してしまうんですよ。人が眠っている夜中に、小鬼がひそかに料理を作ってくれるとかいう。むかしは、そんなことになったらどんなに便利だろうなあと空想したものですが……」
「はあ……」
彼は気のない返事をした。私が見ると、彼は道で立ちどまり、消火栓の上にのっているケーキに手をのばしていた。私はあわててとめた。
「おやめなさい。食べたいという気持ちはよくわかりますが、ここです。がまんなさって下さい。よく考えて……」
「いや、ほっといて下さい。わたしは食べたいんです。この美味の林のなかにいて、それを拒否する生活なんて、もうたくさんだ。がまんをつづけて、なにが人生です」
「なにをおっしゃる。そんなだらしのないことで、どうなさるんです。負けてはいけませんよ」
いったんは私もひきとめるのに成功したが、長つづきはしなかった。つぎに彼は道ばたの花壇で足をとめた。花のあいだに、味のいい甘い酒のびんがおいてあったのだ。彼は私をつきとばし、それを飲む。
「ああ、うまい。あなたも飲んでみませんか。これが生きているということでしょう。そうじゃありませんか」
彼は満足の笑いを浮べ、歩きかけた。そして、それが最後だった。一歩ふみだしたとたん、その足の下の舗道の石がはずれ、穴となり、彼をのみこんだのだ。石はふたたびもとにもどり、なにごともなかったかのように舗道となった。
その手前の石の下に重量計がしかけてあり、それが彼の体重を測定したのだ。規定以上の重量に達していることを確認し、その連動作用でつぎの石がはずれ、おとし穴としての役目をはたしたのだ。
いまの石の場所をおぼえておこうかと私は思ったが、それはやめた。ここだけではないのだ。こういうしかけは至るところにあるのだ。いちいちおぼえきれるものではないし、時には場所も変る。そんなことをするより、体重をふやさないほうが安全で確実な方法なのだ。
それをおこたり、いま、ひとりの知人が消えた。私は暗い沈んだ気分になり、ちょっと手を合わせた。しかし、それ以上にどうしようもない。救出は不可能なのだ。私の責任ではない。また彼の責任とも言えないだろう。
これがさだめなのだ。
つとめ先につく。小さな出版社だ。私の職場は経理部。同僚たちにあいさつをする。
「おはよう。いま出勤の途中、いっしょに歩いてたやつが地下にのみこまれてねえ。いやなものだな」
「ふとっていた人か」
「そうさ。あの地下にのみこむしかけの体重計は、正確そのものだ。しゃくにさわるくらいにね」
「それなら仕方ないさ。当人も覚悟の上だったんだろう」
同僚は簡単に片づけたが、私の頭にはさっきの印象が残っており、聞くともなくつぶやいた。
「苦しいものだろうか、あの時は」
「たいしたことはないんじゃないかな。高圧電流で一瞬のうちにおだぶつ。それから地下のコンベアで運ばれ、洗われ消毒され、処理され、冷凍され、ゼビア星に送られる。おまちかね、清潔で美味の冷凍肉、いっちょうあがりだ」
同僚はニヒリスティックに笑った。死んだ者の自業自得を笑い、同時に、命がおしく、いくじなくやせている自分を笑ったのだ。
「そんなに地球人はうまいのだろうか」
「やつらにとってはそうなんだろう。だからこそ、それだけの手間をかけてやっているんだ。えさがこれだけうまいんだから、われわれの肉はその何倍かなんだろうな」
「ゼビア星人たち、どれだけ食えば満足するのだろうか」
「さあね、やつらはなんにも言わないから、総人口はわからんがね。しかし、問題は人口より食欲さ。やつら、まったく豚みたいに貪欲な感じだからな。満足するなんてことはないんじゃないだろうか」
雑談をしていると、小包がとどいた。差出人は書いてない。あけるとミート・パイが出てきた。ほかほかし、いいにおいが鼻に飛びついてくる。
「うまそうだ。ちょっと味をみるかな」
「やめろ。一口だけではすまなくなるぞ。せめてお昼の食事時間まで待て」
「そうだな」
同僚はうなずいた。がまんできる性格だからこそ、いままで生きてこられたのだ。私たちは雑談をつづけ、タバコを吸った。べつに仕事がそうあるわけではない。食料が完全に保証された世の中なのだ。なにも働かなくったっていいのだが、せめて仕事でもしていないことには、時間を持てあましてしまうのだ。無為の時間は食欲を育てる。
といって、仕事に熱中もできないのだ。かりに他人をだしぬいて昇進をしたとする。出世欲というか、支配欲、名誉心とかいったものに生きがいをみつけ、それへの集中でみたされない欲望を満足させようとする。それもひとつの生活の方法なのだが、やりすぎることはいけないのだ。
いつのまにか消されてしまう。いつのまにか消すぐらいは、やつらにとって簡単なことなのだ。危険思想の持主との判定が下されてしまうのだ。当然のことだ。そんなのを放任したりしては、反乱をたくらむのがふえると心配なのだろう。
私たちは、そのような欲望をも押えなければならない。助けあい、欲望の高まるのを注意しあい、かばいあい、その日その日をすごすのだ。知りあいが地下にのまれたり、消されたりするのは悲しいことだ。
やがて、待ちに待った昼食の時刻になる。なにを食べようか。会社の廊下には、さまざまな料理が並んでいる。やつらの食料係ロボットが運んできたものだ。
あれこれ迷ったあげく、私はニンジンのたくさん入ったサラダにした。好物だからではない。なるべくきらいな料理のほうがいいのだ。うまいものだと、つい食べすぎてしまう。しかし、このニンジンのサラダも悪くない味だった。やつらはわれわれをふとらせるため、研究をおこたらないようだ。私は心のなかで理性と争ったあげく、パンのひときれを口にした。だが、飲みこむのは半分にし、あとは吐きすてた。
こうして控え目にしておいて、ちょうどいいのだ。どこでなにを食べてしまうかもしれない。たとえば、エンピツをなにげなく口にくわえたとたん、その味のよさでついに一本を食べてしまうこともある。やつらが巧妙に作ったハッカ入りの菓子だったのだ。こんなことのつみ重ねが、からだをふとらせ、身をほろぼすもとになってしまうのだ。
べつに退社時間のきまりもないが、四時ごろに仕事をやめる。さわやかな気候。会社の近くの公園には、やつらの作った運動場がある。私はそこでテニスをした。ふとるのを防ぐには運動がいいのだ。汗をかいてから、私はプールで泳いだ。水をなるべく口に入れないようにした。プールの水には味がついており、飲んだりするとカロリーになってしまう。なんのために運動したのかわからない結果になってしまうのだ。
適当に泳ぎ、そこでやめた。あまり運動をしすぎるのもよくない。ほどほどにしておかなければならないのだ。だが、若い連中はそれをやりすぎたりする。筋肉がたくましくなり、いかにも強そうな男性的な体格となる。そうなると、やはり消されてしまうのだ。連れていって肉体労働用のどれいとして、他の星の開拓に使う。当然考えられることではないか。もっとも、そういうのを戦わせて見物するのだろうとか、肉がかたくて好ましくないからだろうとかの推測もあるが、どっちにしろ同じことだ。
私はプールのそばで椅子にかけて休む。目をなかばとじながら。目を完全にとじると、食欲がわいてきてしまう。また、完全にひらいていると……。
水着姿の若く美しい女がそばへやってきた。身をくねらせながら、なまめかしい声で話しかけてくる。
「ねえ、お話でもしない……」
「ほっといてくれ。疲れてるんだ」
「あたしが元気づけてあげるわよ。あそこの建物へ行きましょうよ」
飛びつきたくなるような美人で、じつは私も腰をあげかけた。だが、まだ私には理性があった。この女はゼビア星人のスパイなのだ。なにかを代償にもらい、魂をやつらに売り渡し、その手先になっている。ふらふらついて行くと、いっしょに飲みましょうとカロリーの高い酒をすすめられる。命をちぢめることとなるのだ。また、ベッドをともにしたりすると……。
子供ができるかもしれない。うまれた子はべつな星にすぐ運ばれ、そこでやつらに育てられ、ふとらされるのだろう。そんな運命になるのが自分の子かもしれぬとなると、いい気持ちではない。
かりに、そこを冷酷に割りきったとしても、女遊びにいい気になっていると、むくいが当人に及んでくる。いつのまにかみなのあいだから消されるのだ。タネウマ人間といった形で、べつな星に連行されるのだろう。
「またこんどにしよう」
私は首をふった。女はウインクして言う。
「残念ね。じゃあ、またね……」
あっさりとしていた。そのほうが魅力的と知っているのだろう。私は追いかけたくなったが、なんとか思いとどまる。これぐらいの誘惑に負けるようでは……。
しかし、誘惑をはねかえしつづけるのもいいが、心のなかの争いを持てあまして狂う者もある。それらしい青年がむこうを歩いてゆく。おぼつかない足どりで、なにか変な歌を叫んでいる。同情しながら目で追っていると、彼は消えた。やはり道にのみこまれたのだ。
悪い品種は処理しなくてはいけないのだろう。やつらにとっては当然のことだ。しかし、人類の身になると……。
よくこれまで無事に生きてこられたなと、自分でもふしぎなくらいだ。これだけ多くのワナのなかで、いままでひっかかることなく、なんとかやってきたのだ。この生活がはたして安全なのかどうかはわからないが、いままでのところはよかったのだ。これからも注意をおこたってはいけない。
そんなことに思考を使い、しばらく食欲も女性のことも忘れた。しかし、いつのまにかそばにグラスがおかれてあり、私はそれを半分ほど飲んでしまったことに気づき、はっとした。無意識になると、そのすきをのがさず誘惑の手がのびてきているのだ。
私はふたたび食品の林のような道を通って、家に帰りついた。そして、妻に言う。
「坊やはどうした」
「ずっと見張ってたわ。食べたいとわめいているけど、あなたが帰ってからと言ってがまんさせておいたわ」
坊やは室内のサクのなかで、悲しそうな顔をしていた。かすかな声で私に言う。
「なにか食べていい……」
「よし。少しだけだぞ。しかし、その前に賛美歌を五つ歌え。それからだ」
坊やはそうした。熱心に歌う。
「これでいいんでしょ」
「よし。おっと、手を洗ってからだぞ」
少しでも時間をのばさなければならない。坊やのためなんだ。おまえをふとらせ、若くして死なせたくないからだよ。もっと成長し、世を支配するしくみがわかってから、おまえの意志と判断とで食うのならかまわない。しかし、それまでは親の責任なんだ。
坊やはやっと食べ物にありつけた。カロリーの少なそうなのをえらんでやったが、たちまち食べ終って、また賛美歌をうたいはじめた。いじらしい。しかし、そんな感情に負け、ここで気をゆるめてはいけないのだ。
テレビをつけ、チャンネルをまわしてみる。クラシック音楽をやっていた。しばらくそれをながめる。ドラマはあまり見ないほうがいいのだ。食欲をそそるシーンとか、おいろけのシーンとか、支配欲をそそるストーリーとかが多いのだ。そうでなければ殺気にみちたシーン。そんなのに影響され、欲求不満のはけ口を求めてそとであばれると、やはり消される。他の家畜を傷つけるようなのは、除かれるにきまっているのだ。
私は書斎に入って、本を読む。その前に、あたりにほうりこまれている食品をそとに投げすてる。近くにあったら気が散って本が読めないからだ。
欲望を刺激するような内容の本はさけねばならぬ。哲学書か高等数学といったものがいい。おもしろいものではないが、じっくり読み、心を集中して時間をすごすと、なんとかおもしろさが奥のほうからわきあがってくる。そして、食欲も忘れられるのだ。
きょうは宗教の本にした。欲望を静め、心をなごやかにする役に立つ。なごやかにならなくても、一種のなぐさめにはなる。
人間は罪を重ねているのだ。あまりに利己的だった。そのために家畜をいじめ、自分勝手にあつかってきた。エサをどんどんやってふとらせ、あつかいにくいのや凶暴なのは処理し、好ましいのをそろえ、牧場でふやしてきた。そのむくいを、いま受けているのだ。罪ほろぼしなのだ。そう思えば、いくらか心が救われる。
その時、本のあいだからにおいが立ちのぼってきた。計略だ。食べられる紙で作られた本だった。よく調べてからにすればよかった。あわてて投げすてる。それを平然と読みつづけられるほど、私は強い性格の人間ではない。
ああ、苦しい生活だなあ。人間とはこうも手におえぬ存在だったのかと、つくづくなさけなくなる。死ぬこともできぬ、生きる本能が強すぎる。そのくせ、生きたいとの意志や理性は、欲望を押えるには弱すぎるのだ。ひとかけらのケーキを撃退するために、意志と理性とを総動員しなければならぬとは。
これから人類はどうなるのだろう。私はどうなるのだろう。いつまで生きられるのか。いや、負けてはいけないのだ。絶対に生きてみせるぞ。しかし、こんなことがいつまでつづくのだろう。この状態が、あとどれくらい……。
「あとどれくらいこの状態をつづけるんだ」
駐留支部の建物のなかで、ゼビア星人が仲間に言った。
「やっと計画が軌道に乗ったばかりじゃないか。この仕事がいやなのか」
「しかしね、この地球人というやつら、どうも虫が好かん。貪欲そうで……」
「そういうな。貪欲だからこそ、こうしてやらなければいけないんだ。それでも、いい方向には進んでいるじゃないか。慈善事業なんだ。あのままほっといたら、地球人は遠からず滅亡だった。おれたちがこんな荒療治でもやってやらなけりゃ、やつら自身にはどうにもできないのだ。やがてはみなの性格が変り、欲望をコントロールする性質が身につき、いい未来へ移行し、よかったと気がつき、われわれに心から感謝するよ。そう年月もかからないんじゃないのかな。大食いとか、好色とか、名誉心とか、われわれのいう七つの大罪のはびこりかたが、だいぶへってきている……」