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なんでもない
日期:2017-12-30 17:44  点击:562
 その青年は、ある会社の社員だった。順調で活気にみちた企業だったが、青年そのものは、おとなしく平凡だった。精力的に動きまわるとか、なみはずれた才能をあらわすことなどないかわり、大失敗をやらかすこともなかった。
 しかし、会社において彼と机を並べている同僚は、やや性質がちがっていた。くだらない冗談が好きで、時には度を越した悪ふざけに至ることがある。
 そのたびに青年は腹を立てるが、絶交状態にはならず、仲はそう悪くないのだった。二人の性質のちがいが、一種の調和となっているせいかもしれない。共通点が多すぎると、ライバル意識ができ、かえって対立することにもなる。しかし、そんなことはどうでもいい……。
 その時も、そうだった。
 机にむかって青年が書類を作成していると、となりの同僚が、しきりになにか話しかけてきた。週刊誌をにぎわせている有名人の離婚事件をたねに、あくどい笑い話に仕上げたものだった。青年は適当に聞き流していた。
 同僚の話し声が、ふと、とぎれた。うるさいのも気になるが、不意に静かになったというのも、これまた気になる。青年はそっちを見た。同僚が電話の受話器を戻すところだった。応答をした声は聞かなかったようだが、短い用件だったためだろう。少し顔が青ざめ、だまってしまったままだ。異様な空気がそこにあった。青年は声をかけた。
「どうかしたのか」
「いや、なんでもない」
「知りあいに、なにかが起ったのか」
「ちがう」
「女性関係のことか」
「そんなことじゃない」
 いままではしゃいでいたのがうそのように、同僚は沈んだ表情になっていた。答える気力もないといった感じだった。あまり突っこんで聞かないほうがいいように思えた。青年はなぐさめの意味で言った。
「急用ができたのなら、帰ったらどうだい。仕事なら、かわってやるぜ」
「いや、急用なんかじゃないんだ」
 さっぱりわからなかった。同僚は退社までの時間、机にむかって考えこんだままだった。青年は気になってならなかった。
 それは、つぎの日にも持ち越された。その同僚はめっきり口数が少なくなり、青年のほうから話しかけることになった。こうなると、かえって気の毒になる。
「なんだか元気がないようだな。しっかりしろよ」
「ああ」
「帰りに、どこかで一杯やろう」
「ありがとう」
 まったく、たよりなかった。バーに寄っても同様だった。グラスを重ねても、いっこうに陽気にならない。ついに青年は言った。
「なにか心配ごとがあるのなら、打ちあけてくれ。ぼくにできることなら、なんとか力になるよ」
「いや、なんでもないんだ」
 だが、なにかあることは確実だ。ほっとけない気分。青年は同情した。しかも、事情がよくわからないとくる。話したがらないのは、きみひとりの手におえないことなのだ、という理由からかもしれなかった。
 周囲の者たちが、彼の気をひきたたせるようにしなければならない。青年はそう思った。まず、部長の耳に入れておくべきだろう。また、悩みをかかえこんでいる人間に、微妙な仕事をまかせてはことだ。それは一時的に、こっちへまわして下さい。そんなことを申し出るつもりだった。
 しかし、なかなかチャンスがなかった。部長が席にいて、その同僚が席をはずした時でないと、話がしにくくなる。それを求めて、青年は少しいらいらした。
 やっと同僚が外出した。しかし、部長のほうは、忙しがってさかんに電話をかけている。このままではしようがない。青年は部長の机のそばへ行って待つことにした。その電話が終る。部長は、立っている青年のほうをむいて言った。
「なんだ……」
 だが、その時。部長の机の上の電話が鳴った。それを取って耳に当て、なにも言わず、部長はもとへ戻した。それは、ほんのわずかな時間だった。しかし、変化がおこっていた。部長の顔は青ざめ、深刻そうな表情だった。そばに人の立っているのが、目に入らないようすだった。青年は軽くせきをしてみたが、反応はなかった。思い切って言う。
「いまの電話は、なにか重大なことだったのでしょうか」
「いや、なんでもない」
「仕事に関することでしたら、打ちあけて下さい。どんな努力でもします。それが社員としてのつとめです」
「そんなことではないんだ。気にしないでくれ」
 しゃべるのさえつらそうだった。さっきまでの勢いが、どこかへ消えてしまったかのようだ。こうなると、れいの同僚の件を切り出すどころではなかった。
 青年は席へ戻る。どういうことなのだ、これは。部長はなにを聞いたのだろう。気にしないでくれと言われたが、そうもいかない。あれは、ただごとではない。まるで、そう、先日の同僚の場合とそっくりだ。青年の感情は、同情からもうひとつ進んだものへと変化した。それは好奇心。
 いろいろと考えたあげく、青年はひとつの仮定にたどりついた。いずれも|恐喝《きょうかつ》のたぐいではなかろうかと。二人とも、なにか個人的な弱みをにぎられ、おどされたのかもしれない。他人に話したがらないのは、そのためかもしれない。
 となると、難問だ。警察へ行って相談すべきだろうが、弱みのたねによっては、へたをすると当人のためにならない場合だってある。どんな弱みで、どうゆすられているのか、まったく見当がつかなかった。
 青年は、学校時代の同級生で、いま弁護士になっている者のあることを思い出した。そういえば、優秀なうえに迫力のあるやつだった。彼に相談し、恐喝対処法の要領とでもいったことを聞き、それを、それとなく部長や同僚に話してみるとするか。
 会社の帰りがけに、青年はその弁護士事務所へ寄ってみた。あるビルのなかの一室で、かなり景気がよさそうだった。助手らしいのを二人ほどおいていた。お客も多かった。しかし、べつに急ぐことでもないので、青年は待つことにした。
 かなり待たされた。青年はやっと面会することができた。友人の弁護士は、大げさな身ぶりで言った。
「いやあ、待たせてすまない。しばらくだな。なにしろ忙しくてね。もっと大きな部屋に移らなければならなくなりそうだ。おかげさまでと言いたいところだが、こういう商売、それを喜んでいいのかどうかだね。しかし、そんなこと考えはじめたら、どんな仕事も成立しなくなってしまう。で、なにか事件かい。きみのことだ。大サービスでやってあげるぜ」
 貫録のある笑い方が、言葉の各所にちりばめられていた。青年は口ごもりながら、話しはじめた。
「ぼくについてのことじゃないんだ。よく説明しにくいんだが、じつは……」
 その時、机の上の電話が鳴った。それから先は、なにもかも同僚や上役の場合と同じだった。受話器を戻した時には、人が変ったようになっていた。青年は聞かずにはいられなかった。
「なにか急用でも」
「いや、なんでもない」
 と答えたきり、じっと考えこんでいる。これ以上は話しかけないでくれ、そんな印象を受けた。
「じゃあ、また来るよ……」
 青年は引きあげることにした。相手は別れのあいさつもしなかった。青年は帰る途中で考えるのだった。弁護士なら、社会の裏を見つくしていて、たいていのことには驚かなくなっているはずだ。
 それなのに、あのただならぬようす。いったい、なにを聞かされたのだろう。いまの世の中に、そんな重大なことがあるのだろうか。青年はふしぎでならなかった。
 気のせいか、青年の周囲に、そんな目に会ったと思える人がふえているようだった。これまでと、どことなく印象がちがうのだ。そして、原因はいっこうにわからない。弁護士でさえもああなるのだから、恐喝なんかではなさそうだ。
 残された仮定は、健康に関することぐらいだった。このところマスコミが、健康診断を受けるよう、さかんにすすめている。それを受け、悪い結果を知らされたのではないだろうか。それならそれで、なぐさめる方法だってあるのではないか。
 青年は演技をした。まちがい電話のかかってきた時を利用し、受話器を戻すと同時に急に沈んだ表情を作り、となりの同僚に言ってみた。
「いま、このあいだ受けた健康診断の結果の連絡があったんだが、どうも、それが……」
「ふうん」
 まるで手ごたえがなかった。じつは、ぼくも、と話が発展するかと期待していたのだが、そうはならなかった。健康とは関係のないことのようだ。
 そういえば、同僚も部長も、あれ以来べつに休みもせず、薬を飲んでいるようすもない。ますます気になってしまう。
 ついに青年は、勇気を出して新聞社へ寄ってみた。こういうことははじめてだ。かなりの勇気と決心がいる。
「ちょっと、ある事件について……」
 と受付に言うと、小さな応接室へ案内された。しばらく待っていると、社会部の記者というのが入ってきて、名刺を出した。活動的というのか、せかせかした動作と口調だった。しかし、なまじっかな話には驚かないぞという、冷静さのようなものも持っていた。
「なにか事件をお知らせにみえたとか……」
「はい。ふしぎでならないことなのです」
「よくおいで下さいました。事件があってこそ、新聞が成り立っているのです。読者も喜ぶ。このところ大事件がとぎれ、社会面がさびしくなっている。ふしぎなこととなると、ますますぐあいがいい。で、どんなことです」
「このところ、不幸の電話とでもいうべきものが、はやっているようなのです」
「なんですか、それは」
 記者は身を乗り出し、関心を示した。青年は言う。
「幸運の手紙とか、不幸の手紙とかいうのが、一時はやったでしょう。電話を使ったそれというわけです」
「なるほどねえ。そういえば、そんな手紙が流行しましたな。あの時、その対処法を紹介したのは、うちの新聞でしたよ。鏡の前で、レフレクトと三べんとなえて、そのハガキを破くのです。すると、のろいが発信人のほうへ戻ってゆくと。イギリスの有名な心霊術者が開発した方法でしたよ。なんという人だったかなあ……」
 記者は青年の気分をほぐそうとしてか、そんな話をし、タバコに火をつけ、さらにつづけた。
「……それ以来、流行がおさまった。あの対処法、どこまで本当かわかりませんがね。流行とは、そんなものですよ。その電話の一件も、うちの紙面でとりあげ、話題にし、静めることにしましょう。で、不幸の電話って、どんなことを話すのです」
「それがわからないのです」
 説明に困る青年に、記者は言う。
「しっかりして下さいよ。その点がわからないと、記事にしようがない。たしかに、電話とは新手だ。あっという方法だ。しかし、これはハガキとちがって、いやならすぐ切ることができる。その気になれば、逆探知で調べることも可能。録音にとれば、声紋を調べることもできる。だから、それだけ発覚しやすいことにもなる。そこがどうなっているかですよ」
「すぐに電話が切れてしまうらしいのです。ほんの短い時間。そのあいだに話がすみ、聞かされたほうはショックを受け、人が変ったようになってしまうのです」
 青年は自分でも、もどかしさを感じた。記者のほうはそれ以上だった。
「よく思い出して下さいよ。その電話を聞いた連中、そのあとすぐに、たとえば三十分以内にとか、どこかへ何回も電話をしましたか。短い言葉をしゃべって……」
「そうですね。そういえば……」
「ありましたか」
「そんなことは、しなかったようです」
「どうも困ったことですな。せっかく興味ある事件なのに。社会部の記者は、事件を大衆に伝える責任がある。提供する義務があるんですよ。なんとしてでも、うまく作り上げなくてはならない。その衝撃的な短い言葉。それを紙面に大きくのせたい。ヒントになるようなこと、なにかありませんか……」
 その時、室のすみにあった電話が鳴った。記者は受話器を取り、耳に当て、すぐに戻した。記者の顔は青ざめ、いままでの調子のよさがなくなり、沈黙だけが残っていた。
 青年は聞かずにいられなかった。
「なにか事件でも……」
「いや、なんでもない」
 ぶあいそな返事だった。しかし、青年は立とうとしなかった。気になるのは当然だし、これこそいい機会ではないか。おそるおそる口にしてみる。
「もしかしたら、いまの電話が、わたしのお話したものかも……」
 しかし、それもむだだった。
「いや、ちがう。べつなことだ」
 記者はそれ以上、口をきかなかった。青年はもっとねばってみようと思い、そこにいた。すると、記者はやがて力なく立ちあがり、応接室を出ていってしまい、戻らなかった。青年は帰らざるをえなかった。
 そのあと一週間ほど、青年はその社の新聞を、たんねんに読んだ。とくに社会面を。このあいだの記者が、あれを記事にするのではないかと期待したからだ。
 事件を報道する義務があるとか言っていた。それなら、ショックから立ちなおって、記事にしてくれてもいいはずだ。しかし、いくら待っても、それらしきものは紙面にのらなかった。
 とてつもないことのようだ、と青年は考える。なんなのだろう。あれだけの短い時間で、あれだけのショックを受けるとは。そんなにまで強烈なものが、いまの世にあるとは……。
 電話を聞いた連中に対しての、青年の感情は大きく変っていった。最初のころは同情だった。つぎは好奇心。それが、いまやあこがれともいえるものとなった。
 そんなにすごいものなら、一度は味わってみたいものだ。となりの同僚だって、その後、不幸な目にあったようすもない。命には別状のないことのようだ。
 あの電話、どこからかかってくるのだろう。なぜ自分のところにかかってこないのだろう。その資格がないのだろうか。なぜ、のけ者にされているのだろう。
 すごいショックのようだな。だれもが青ざめる。しびれるような感じになるんじゃないだろうか。それから、沈黙してしまう。口をききたがらないのは、その快感をかみしめるためではないだろうか。しばらくのあいだ、ひとりで楽しみたくなるもののようだ。
 そして、他人には絶対に話さない。この貴重な体験を、簡単に話したりできるものか。そんな心境になるらしい。体験者たちは、しばらく仕事が手につかなくなる。あの時の体験を思い出して、仕事どころではないというわけなのだろうな。他人に話すと、思い出が薄れるのかもしれない。
 あれは不幸の電話なんかじゃなく、幸運の電話にちがいない。青年はそう思うようになった。
 そうとしか思えないではないか。どうして自分のところへかかってこないのだろう。平凡な男だからだろうか。
 それならば、と青年は決心した。他人にかかってきたのを、横取りしてやる。
 電話が鳴ると、だれよりも先に手をのばす。いままでなら、少しはなれた机の上だとほっておいたのに、いまではそれに飛びつくようになった。しかし、いつも仕事に関する普通の電話だった。
 どうやったら、あれにありつけるのだろう。あきらめないことだろうな。そう自問自答しながら、青年はそれをつづけた。
 やがて、くせになった。レストランで食事をし、会計をしようとし、そこで鳴る電話にも手をのばしてしまうのだった。おせっかいなのか親切なのか、わからない人。そんな変な目で見られても平気だった。もし、それがあの電話だったら、後悔しきれないことになるではないか。
 電話の鳴るのがすべて気になった。遠くのほうで鳴っているのも気になった。それが鳴りつづけていると、ああ、もったいないと思う。かけ出していって、手にしたい衝動にかられる。
 夢のなかでも電話の鳴るのを聞くようになった。しかし、それを手にしたとたん、目がさめ、夢は消えてしまうのだ。
 ある夜、帰り道で、青年はそばで電話の鳴るのを聞いた。
 小さな商店の店先の赤電話で、たまたま店の人がいないためか、鳴りつづけている。その店の人がいたとしても、同じことだったろう。もはや、青年の反応は習慣となってしまっているのだ。
 どうせだめだろうとは思いながらも、期待に胸をときめかせて、そっと耳に当てて待つ。
 ついに青年は声にめぐりあった。理由も説明もなく、それはあきらかに自分への語りかけだ。そうわかるものが、その声にふくまれていた。
 ほんとに短い内容だった。ただ「あなたは狂っている」とだけ告げて、そして切れた。
 青年は青ざめ、口をきく気にもなれなかった。そのうち、店の人が出てきて言った。
「どうかなさいましたか。おみうけしたところ、ご気分でも悪いのでは……」
 その質問に、青年はうるさげに答えた。
「いや、なんでもない」

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