医者のところへ、ひとりの男がやってきた。五十歳なかばぐらい。どことなく表情がおかしかった。もっとも、おかしいところがあるからこそ、人は医者をおとずれるのだ。男は思いつめた口調で言った。
「先生。わたしの話を聞いて下さい」
「聞きますとも。病人を治療するのが商売なのですし、どうぐあいが悪いのか話を聞かないことには、診断のしようがありません。で、お名前は……」
と聞く医者に、男は名を告げてから言った。
「おかしくなったのは、会社を停年でやめて、しばらくしてからでした」
「なるほど。停年退職というやつは、たしかに、生活のリズムを大幅に変えますからな。からだにも影響がおよびますよ。急にふけこんだりしてね。しかし、あなたは見たところ、非常にお若い。とても、停年退職をした人には見えない」
「ええ、問題はそこにあるのですよ。わたしも、まさかこんなことが、わが身の上におころうとは。いったい、こんなばかげたことになろうなどと……」
わけもなくしゃべりつづける男を、医者はなだめた。
「まあ、そう興奮なさらずに。その問題点をお話し下さい」
「その先を話すと、精神異常と思われ、それで終りです。ここだって、どうせそうにきまっている」
「そんなことはありません。わたしは医学の各分野について、まんべんなく学んだ。だから、総合的な診断と手当てができるのです。精神的な障害なら、それなりの手当てをしてあげます。ご安心下さい」
「そうでしたか」
「さあ、気を楽に、なにもかもお話しになって下さい。いったい、いつごろからおかしいと思うようになったのです」
「おかしいと思うでなく、事実おかしくなったのです」
「そう、表現は正確なほうがよろしい。で、いつごろからですか……」
しばらくの緊張した沈黙ののち、男は言った。
「じつは、五年後からなのです」
「なんですって……」
「ほら、先生もほかの医者と同じだ」
「いや、確認のための質問ですよ。何年です。もう一回おっしゃって下さい」
「五年後から、ずっとなのです」
と男は言った。医者も、いまとなっては笑うわけにいかなくなっていた。内心はともかく、職業的な冷静さを示して言った。
「では、その発病の時のもようを、もう少しくわしく話してくれませんか。まだ病気ときまったわけではありませんから、発病という言葉が適当かどうかわかりませんが」
「会社を停年退職し、しばらくたった、ある日のことです。いつものように、自宅でひとり夕食をとり、そのあと、ラフラを食べた。栄養をつけておいたほうがいいと思いましてね」
「なんです、その、ラフラというのは。聞いたことがない」
「そうでした。先生がご存知ないのも、むりはない。いまから五年後に流行する食品ですからね。しかし、その副作用ということはないはずですよ。味とかおりはすてきですが、べつに特殊な成分が含まれているわけではありませんから……」
「で、食後どうなさったのです」
「二時間ほど読書をし、眠りました。朝までぐっすりです。その眠りの途中、変な夢を見ました。あんな変な夢は、はじめてだ」
「どんな夢です」
「正体不明なのです。ぼんやりとはしているが、たしかに存在している。ようするに、わけがわからないものです。しかし、言うことははっきりしていた」
「なんと言ったのです」
「まわれ右と、わたしに言ったのです。そこだけは、いまでもはっきりおぼえている。それから、目がさめ、朝になっていた。だが、なにかおかしい。そのうち、気がついたわけです」
「なにがどうなったというのですか」
と医者は好奇心をもって聞いた。
「いいですか。何回も話すのはいやですから、はっきり、ゆっくり申しあげますよ。普通ならですね、夜に眠って、目がさめて朝になると、翌日です。しかし、その、わたしの場合はちがったのです。目がさめてみると、前日になっていたのです」
「ううん……」
「作り話をしにきたわけじゃありませんよ。他人をだまして面白がる性格など、わたしにはありません。新聞の日付け、曜日、すべて一日前になっていた。その新聞の記事も、すでに読んだものでした。天気も同じ、前日をふたたび体験させられたというわけです」
「気のせいだとは思いませんでしたか」
「思いましたとも。夢の延長か、幻覚のようなものだろうとね。ほかに考えようがありません。その日はずっと、そう思いこむようつとめました。そして、夜になって眠り、朝になって目がさめた。すると、さらに前の日になっている……」
「ううん……」
医者は、またうなった。ほかに言いようがなかったのだ。男はつづけた。
「それから、ずっとなのです。つまり、夜になって眠ると、前の日の朝につづいてしまうのです。しかし、こんな話、信用して下さらないでしょうね」
「いや、信じますよ。じつに興味がある。もっと先を聞きたい気分ですよ」
医者は内心、相手にさらにしゃべらせ、つじつまの合わなくなる点の出るのを待つつもりだった。
「そう言われると、話しやすくなります。たしかに異常にはちがいなかった。しかし、決して悪い事態じゃありませんよ。いやおうなしに老いや死にむかって流されるのとは、逆なのですから。速度はおそいが、確実に若くなってゆく……」
「なるほど。停年退職したあとにしては若く見える。そのせいでしたか。うむ。これはすばらしい研究テーマだ。うまくゆくと、若がえりのワクチンの完成が……」
「かんちがいなさってはいけません。若がえっているのではない。時をさかのぼっているのです」
「未来から戻って、ここにやってきた、そういうところですな」
つぶやきながら、医者は首をかしげた。男はうなずく。
「そうなんです」
「だったら、未来のことをおぼえているわけでしょう」
「理屈の上ではね。いや、事実おぼえてはいますよ。しかし、先生、あなたはどうですか。きのうなさったことを、一週間前、一年前になさったこと。それをはっきり思い出せますか」
「ううん。それはむりだな。しかし、メモをつけておけば……」
「だめですよ。つぎの朝は、メモを書いた前の日になっているのですから。メモは白紙になってしまっている。そうだ。メモといえば、わたしの気分は、日記帳をおわりのほうから読みかえしているようなものです。読んだあと、破り捨てながらね。ある日、ふと外出して、デパートに行ったりする。そこで気がつくのです。そういえば、前にこれと同じことをやったっけなと……」
「そういうものでしょうかね。わたしには想像もつかないが……」
医者は考えこみ、男は話しつづけた。
「やがて、わたしは就職しました。変な顔をなさらないで下さい。停年退職前の自分に戻ったわけです。会社へ出勤する毎日となりました。いいものですな、毎日、仕事にうちこめるというのは。また、のんきなものです。なにしろ、一般の人にとっての翌日のことを心配しなくていいのですから」
「その、会社での仕事は、うまくやれるのですか」
「かつての、その日の自分に戻るわけですよ。からだのほうが、しぜんに動き、その日にふさわしいようなぐあいになるのです」
医者は質問をひとつ思いついた。
「たしかに奇妙な現象です。しかし、さっきからのお話だと、あなたはそれに適応なさっているようだ。老化もせず、死からは遠ざかりつつある。発病、といっていいのかどうかわかりませんが、五年もその生活をつづけている。なにか困ったことになったのですか」
「ええ……」
「ははあ、普通だったら昇進のところを、時がたつにつれて格下げになるとか……」
「それは平気です。前の日へ、前の日へと戻ってゆくのです。格下げになっても、だれもばかにしません。格下げになった日など、まわりでお祝いをしてくれます。あしたは昇進だといってね。うらやましがられもする」
「それも理屈ですな。それなら、それでいいじゃありませんか。ただならぬ感じで、ここへかけこまなくても……」
医者はその点をふしぎがり、男は話した。
「じつは、申しおくれましたが、わたしは妻に先立たれたのです。それが大変な悪妻でしてね。正直なところ、死んでほっとした。そんな女でしたよ。それを思い出したのです。日、一日と、妻の命日が近づいてくる。ほどなく、その日が来ます。となると、あのいやな日の連続がはじまるわけでしょう。それを考えると、死にたくなる。だから、あわてて、一大決心をして、ここにうかがったのです」
「そんな事情があったとはね。しかし、どうしたものか。あなたは、運命というか、時間|軸《じく》というか、それが百八十度、変ってしまったわけですな」
「そんな、説明とか解説などは、どうでもいいのです。早くなおしていただきたいだけなのです。ゆっくり研究して、なんて言ってるひまはありませんよ。あしたになれば、わたしは、先生にとってのきのうに戻ってしまうのです。だから、一刻も早く……」
男にせかされ、医者はしばらく考えこみ、それから言った。
「療法となるとねえ。強力な電磁場発生装置がある。それを使用すれば、あなたをふたたび未来へはねかえせるかもしれない。強力な新しい薬品がある。潜在意識に作用するやつです。それを注射し、まわれ右の暗示をかけるのも、ひとつの方法かもしれない。しかし、へたをすると……」
「その心配はしないで下さい。きのう、わたしは生きていた。つまり、先生にとっての明日、わたしは生きているわけです。すなわち、生命は保証されている。ところで、先生にとってのきのう、ここでわけのわからない死者が出ましたか」
「そんなの、出ませんでしたよ」
「それなら、治療のかいなく、わたしがここで死ぬということもない」
「わけがわからない気分だが、そういうものかもしれませんな。やってみるとしますか」
どっちへころんでも大丈夫らしいと、医者は治療をこころみた。思いつくかぎりの、ありとあらゆる方法がとられた。医者のほうも疲れたが、男もさすがにぐったりとし、ついにベッドの上に横たわったままとなった。
翌日、医者は病室をのぞいた。消えているか、死んでいるかと、好奇心と不安をもってのぞいた。
男はベッドの上にいた。医者はゆりおこし、声をかける。
「おい、目をさませ……」
「あ、先生。きょうは何日です」
医者はカレンダーつきの腕時計を示して言う。
「きのうの翌日だ。わしにとってのな」
「あ、すると、わたしはなおったわけだ。ありがたい。お礼の申しようがない。で、治療代はどれくらいでしょうか」
「それを気にすることはないよ。たのみがある。思い出せる範囲のことだけでいい。未来のことを、少しずつ教えてくれ。それだけでいいし、それが|唯《ゆい》|一《いつ》の望みだ。そのために、手をつくしたようなものだ」
「いいですとも。ご要望にそいましょう」
男は数日の入院ののち、退院し、ふたたび会社へ通勤するようになった。医者は未来を知る期待で胸をおどらせながら、一日おきぐらいに、男の会社へ出かけて聞く。
「教えてくれよ。あした、どんな事件がおこる。一週間後でもいい。なにしろ、あなたは二回も同じ体験をしているのだ。予想のたたないはずはない」
「あいにく、わたしは株式や競馬に興味がなかったのでね。それに、どうも少しおかしいところがあるのです」
「ごまかしちゃ困るよ。なにも、わたしにかくすことはないじゃないか。自分だけ、うまいもうけをしようというのだろう。けち。この恩知らず。だれのおかげで正常に戻れた……」
口論にもなる。男はやがて、|閑職《かんしょく》へおいやられた。へんな客が一日おきぐらいにやってきて、わけのわからない会話をし、言いあいになっている。ほかの者たちの、仕事のさまたげになる。それが理由だった。
医者はそこへもたずねてくる。
「なにか思い出して、教えてくれ」
「どうも未来がうまく思い出せない。なにかおかしい。第一、こんな閑職へ移るはずじゃなかったのに。やはり、過去を変えたのがいけなかったのかもしれない。治療していただいたことは感謝していますよ。しかし、それで先生との関連ができた。わたしの人生に、先生という要素が加わったのです。だから、わたしの人生も変ったものになったのです。つまり、べつな未来へ進んでいるというわけですよ」
「こっちのせいにしやがる。こんなことなら、苦心してなおすんじゃなかった。ばかをみた」
医者はもう行く気にならなくなった。一か月ほどし、反対に、男のほうが医者を訪れた。
「ごぶさたしました。じつは、あれからいろいろと考えてみたのですが……」
「なにか未来を思い出したか」
「それについては、だめです。きょううかがったのは、べつなことで……」
「なんだ」
「人体に寿命というものがあるからには、人生が変っても、よほどの不運にあわない限り、それまでは生きるわけでしょう」
「まあ、そういっていいだろうな」
「すると、わたしは、まだ五年は確実だ」
「けっこうなことだよ。いいじゃないか」
「しかし、発病しやすい体質というものもあるわけでしょう。五年ばかりのちに、また夢のなかで、あの“まわれ右”の声を聞くのではないでしょうか。それを考えると、心配で、心配で……」
「勝手に心配するんだな。もう、わたしは知らないよ。知ったことか」