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品種改良
日期:2017-12-30 17:51  点击:476
 ある日の夕方。エヌ博士の研究所に、アール氏がたずねてきた。アール氏とは、この研究所の最大にして唯一の応援者だった。ていねいに応対しなければならない。
「これはこれは。わざわざ、おいで下さるとは。ご用でしたら、こちらから出かけましたのに……」
 とエヌ博士が迎えると、アール氏は早口でしゃべりはじめた。だいぶ興奮しているらしい。
「いったい、研究のほうは、どうなっているのだ」
「はい。順調でございます」
「そんな、のんびりしたことでは困る。いいか、きみはわたしと約束した。不老長寿の分野の開発については、確信があると。また、研究を十年間だけ応援してくれれば、必ず完成してごらんにいれますとも。わたしは期待し、きみを信用し、必要だという品の購入を、すべて無条件で許してきた。放射線照射器をはじめとする各種の装置から、さまざまな実験用の動物、植物、薬品などだ。いままでに相当な金額をつぎこんだことになる」
「はい。わかっております」
「さっき、とつぜん気がついたのだが、その十年がたった。そこで、急いでやってきたのだ。さあ、結果を知らせてもらおう。成功だったら、いくらでも報酬を払う。しかし、だめだったのなら、この研究所はただちに廃止だ」
 エヌ博士はすぐには答えず、ちょっと首をかしげた。すると、どういう順序で告げるべきか、最も適切な発表の方法が頭に浮かんできた。
「ごもっともです。わたしも約束をはたすべく努力してきました。そして、しばらく前に完成いたしました」
 この簡潔な言葉に、アール氏は目を丸くした。彼は深い息をついてから言った。
「そうだったのか。さすがはきみだ。わたしが見こんだだけのことはあった。しかし、ひとが悪いな。すぐに知らせてくれればいいのに」
「わたしの立場では、軽々しい報告はできません。作用の確実なことをたしかめてみる日時も必要でした」
「それもそうだな。いかに不老長寿の薬でも、有害な副作用があっては困る。いや、それがないからこそ不老長寿というべきなのだろうな。まあ、いい。その実物を早く見せてくれ」
「お待ち下さい」
 とエヌ博士は立ちあがり、そばの戸棚からビンを出してきた。なかには、茶色っぽい粒がいくつも入っている。アール氏はそれを見つめ、感想を口にした。
「なんとなく、うすぎたない丸薬だな。しかし、外観で判断すべきものではあるまい。問題は効果だ。はたして役に立つのか」
「わたしの理論にまちがいはありません。また“事実の裏付け”もあります。一年ほど前、わたしが研究に熱中しすぎたため、からだが弱ってしまった時のことをご記憶でしょう。いまのわたしとくらべて見て下さい」
 アール氏は、さっきの興奮から、いくらかさめていた。彼はエヌ博士をしげしげと眺めながら言った。
「うむ。たしかに、見ちがえるようだ。血色もよく、体重もふえたようだ。若々しくなっている」
「あのころは血圧も高く、心臓や消化器をはじめ、いたるところ故障だらけでした。医者の診断だと、そう長くはもつまいとのことでした。それでわたしも、一部の検討を省略し、大急ぎで服用したのです。はじめて飲むまでには、大変な勇気と決断がいりましたよ。しかし、みるみる回復にむかいました。医者に診察させたら、信じられぬ現象だと考えこんでしまいました。これが立派な証明になりましょう」
 エヌ博士は医者の診断書を二枚、机の上に並べた。ひとつは服用前、ひとつは服用後のだった。
「よくわかった。さっそく、わたしも飲むとしよう。きみの身をもっての実験のおかげで、わたしはべつに勇気も決断もなしに、楽しく飲むことができる」
 アール氏はビンの|栓《せん》をはずし、その一粒を口に入れ、コップの水で飲みこんだ。さらに何粒かを飲もうとしたが、エヌ博士はそれをとめた。
「一粒でおやめ下さい」
「なぜだ。たくさん飲んだほうが、効果も強いわけだろう。また、副作用はないという説明だった。それとも、服用法でもあるのか」
「いえ、一粒だけ飲めばいいのです。あとは永久に飲む必要がありません」
「わけがわからん。不老長寿の秘薬なら、もっとありがたみのある服用法となりそうな気がする。あまりに簡単だ。いったい、どんな作用なのだ。くわしい説明をしてくれ」
 エヌ博士の頭には、この場ですぐに説明しないほうがよさそうだ、との考えが浮かんだ。
「もちろん、ご説明いたします。しかし、長くなりますし、今夜は時刻もおそくなりました。明日ゆっくり、ということでは、いかがでしょう」
「それでもいい。研究は完成したのだし、もう、あわてることはないわけだ」
 アール氏は承知し帰っていった。
 そして、つぎの朝。待ちかねたようにやってきて言った。
「昨夜は、うれしくて眠れなかった。けさも早く目が覚めた。さあ、早く教えてくれ」
「そうでしたか。いかがでしょう、ご気分は」
「気のせいかもしれないが、非常にぐあいがいい。気のせいだけでないと知れば、さらにさっぱりするだろう」
 エヌ博士はうなずいた。もう説明に移ってもいいだろうとの判断が、頭に浮かんできたからだった。
「では、順を追ってお話ししましょう。人間の腸内には、役に立つ働きをする微生物が存在しています」
「そんな話は聞いたことがある。というと、乳酸菌製剤のようなものか」
「まあ、先走らずにお聞き下さい。わたしはそれにヒントを得て、品種改良を試みたのです。放射線を当てたり、薬品で刺激したりして、完全な新種を作るのに成功したわけです」
「どんな微生物だ」
 とアール氏は質問した。エヌ博士はためらいを感じた。だが、発表すべきだという意志が高まり、それに従った。
「微生物ではありません。回虫です」
「なんだと」
 アール氏は顔をしかめたが、ここで叫んではいけないとの考えが、それを押さえた。
「ええ、そうなのです。いままでの回虫は人体に害のみを与え、ろくなことはしなかった。これは回虫にとって損な、じつにおろかな行為です。わたしはかしこい回虫にすべく、品種改良をやったのです。犯罪者を更生させ、社会に参加させた偉大な教育者といった気分は、こんなものでしょう」
「まあ、感想はそれくらいでいい。で、そうすると、どうなるのだ」
「利口になれば、気がつくはずです。人体に害を与えて共倒れになるのは、結局は自分に不利だと。それどころか、できるだけ長く生かすための努力をするはずです。人体に故障した部分があれば、それを修理するために、適当な液を|分《ぶん》|泌《ぴつ》したりするはずです。いや、はずでなく、事実、それでわたしはこう若々しくなったのです」
「なるほど。われわれ人間が、自分の果樹園に肥料や殺虫剤や植物ホルモンなどを与えるようなものだな。いいアイデアかもしれぬ。その分泌液を|抽出《ちゅうしゅつ》し、集めて丸薬にしたというわけか」
「そうも考えましたが、それだと飲みつづけなければならず、不便です。もっとよい方法がありました。つまり、あの丸い粒はその卵です」
「なんだと……」
 アール氏は大声をあげようとしたが、思いとどまる力のほうが強かった。自分が果樹にされるという、|屈辱感《くつじょくかん》も、それほど高まってこなかった。彼はこう聞いた。
「……ひとつ、どんな回虫なのか見たいものだな」
「これです。成長が早く、卵は一晩でかえり、すぐこれくらいになります」
 エヌ博士はアルコールづけの標本を持ってきた。なかにはそれが入っている。細長く、みにくく、しわが表面をおおっていて、細かい|触手《しょくしゅ》のようなものが多く、うすぎたない色をして、グロテスクな形だった。静止していてこれだから、これがうごめく時の姿を想像したら、ふつうではとても正視できるものではない。アール氏の頭に、反射的に血がのぼってきた。しかし、その血は、これを|嫌《けん》|悪《お》してはいけないとの考えを運びあげてきたのだ。彼は言った。
「そう悪くないな」
 エヌ博士のほうは、もっと度が進んでいた。
「いまに、もっと好きになりますよ。美と完成の極致です」
「まもなくわたしも、そう思うようになりそうな予感がする。いずれにせよ、すばらしい発見だ。われわれだけの秘密にしておくことは許されない。その卵をふやし、できるだけ多くの人びとに広めなければならない」
 アール氏は目を輝かせて、力強く叫んだ。それはまさに心の底から、いや、腹の底からこみあげる衝動が、言葉となってあらわれたものにちがいなかった。

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