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門のある家
日期:2017-12-30 17:51  点击:2119
 午後の五時半ごろ、ひとりの青年が落胆したような足どりで歩いていた。三十歳。順一という名で、つとめ先からの帰宅の途中だった。正確にいうと、会社の帰りに|伯《お》|父《じ》の家に寄り、そこを出てきたところだった。
 彼は一昨日の夜、友人たちと盛り場で飲み、大いに遊んだ。その結果として、金がまるでなくなってしまった。給料日まで、まだ何日もある。といって、会社から前借りをすると、あいつは金銭にルーズらしいと思われかねない。すでに、たびたびそれをやっているのだ。そこで、伯父の家に寄ったというわけだった。
 しかし、金策は不成功。それどころか、反対に説教された。
「そういう心がけではいかんな、順一。若いうちならまだしも、三十歳という、いいとしになって、そんなことでは。下宿のひとり暮しというのがよくないのだ」
「はあ……」
「いいかげんで、身をかためるべきだ。独身でいるから、くだらぬことに金を使ってしまうのだ。真剣に今後の生活設計を考えてみろ」
「はい。そうしますから、きょうのところは、少しでもいいからお貸しを……」
「だめだ。金を貸すと、おまえがまた安易な気分になる。たまには苦しんでみろ。苦しみのなかから、真剣さがうまれてくるのだ。これも、おまえのことを思えばこそだ」
「はあ、では、そういたします」
 結局、金を借りられなかった。まだ明るい時間なのに、下宿をめざさなければならなかった。わかりきった説教を聞かされるぐらい、いやなことはない。反論ができないので、胸にもやもやがたまり、面白くない。どこかで一杯やって発散させたい気分だが、そんな金はないのだ。なにやら口のなかでつぶやく以外に、できることはなかった。
 そんな精神状態だったせいか、青年は駅へ曲る道をまちがえ、これまであまり来たことのないところへ歩いてきてしまった。
 そのあたりは住宅地だった。かなり高級な住宅地。こういったところに住む人びとは、おたがいあまり近所づきあいなどせず、それぞれ独自な余裕のある生活をしているのだろう。そんな生活も、世の中には存在しているのだろうな。
 そう考えると、ちょっとしゃくだったが、散歩するにはいい一帯だった。静かで、ごみごみしたところがなく、想像力をかきたてられる。団地などだと、住人たちの生活が紹介されすぎているせいか、内部を知りたいとの気がおこらない。だが、高級住宅となると、どんな生活がおこなわれているのか、まるで見当がつかない。なぞの密度が高いのだ。
 そんな一軒の前で、青年は足をとめた。それだけの価値はあった。まさに、これこそ|邸《てい》|宅《たく》という感じだった。とくに豪壮というわけではなかったが、古く、どっしりとしていて、大地に根をおろしているようだった。二階建てで、外見は洋風だった。
 資材を好きなように選べ、手間をたっぷりつぎこむことが可能だった時代に作られた建物。合成材料を使用した実用だけが目的の新しい家とは、本質的にちがっていた。どう形容したものか。貫録の差とでも呼ぶべきだろうか。
 へいはそう高くなく、青年は背が高かった。かなり広い庭には、何本も樹があった。そのうちの一本は、とくに大きかった。葉がしげっていて、そのため建物はあらわに日光を受けることなく、陰影にとんだものとなっていた。時の流れは、建物と樹とをぴったり調和させていた。樹はここにこれだけの大きさで存在しなければならぬのだし、建物はこのような形でここになければならない。そうとしか思えなかった。
 門の柱には、西という姓をしるした門標がついていた。門の扉は鉄格子でできていた。そのため、へい越し以上になかをよく見ることができた。掃除がゆきとどいている。建物のそばを、黒っぽいネコがゆっくりと歩いていた。人の声はしていなかった。
 門の鉄格子は、少しだけ開いていた。犬を飼っていないようだな。犬がいるのだったら、ここから出ていってしまうだろう。また、ネコもああ歩いてはいられまい。そんなことを考えながら、青年は門のなかに一歩だけ入ってみた。こういう屋敷の内側なるものを、からだで感じてみたかったのだ。そう誘惑するなにかがあった。
 ふと、いいかおりがした。少し先の小さな木に咲いている白い花のものらしかった。それにつられ、思わず三歩ほど進む。どこからともなく、女の声がした。
「あら……」
 青年がそっちをむくと、二十五歳ぐらいの女がいた。清潔なふだん着を身につけていた。派手とか品のなさとか悪趣味とか、そういうものがまるでなく、この建物の光景にぴったりの服装だった。細おもてで色の白い顔には、親しげな表情を浮かべていた。
 青年は立ちどまった。あわててはいけない。急いで逃げたりすると、怪しまれるだけだ。落ち着いて、なにか話しかければいいのだ。ここでなら、いかにも育ちのよさを感じさせるといった会話が、自分にもできそうな気がした。しかし、どうあいさつしたものかまでは思いつかなかった。すると、女のほうが言った。
「あなた、どこへ行ってらっしゃったの」
「え、つまり、その……」
 予想もしなかった応対に、青年はとまどった。女はいたずらっぽく笑う。
「うまいいいわけの言葉が思いつかないのじゃございませんの……」
 軽く走るように近よってきた女は、青年の手を引っぱって、玄関のなかへと導いた。
「ほら、スリッパよ、真二郎さん……」
 広い廊下も、よく掃除がされていた。
「さあ、着がえをなさって……」
 上着がとられ薄いセーターを着せられた。
「さあ、ここでゆっくりなさって……」
 洋風の居間の|椅《い》|子《す》は、やわらかく彼のからだを迎えた。ぴったりのすわりごこちだった。住みなれたところ。そんな思いが、彼の緊張を少しずつほぐしていった。
「紅茶をいれてきましたわ」
 女はそれを彼の前のテーブルの上におき、自分もまた飲んだ。なにもかも、なれた口調と動作だった。女はだまったまま、うれしそうに笑っていた。芝居めいたところは、まったくなかった。その目には、近視らしいところも、狂気を感じさせるものもなかった。そのあと、女は洋酒を持ってきた。
「お夕食まえに、お酒をあがるんでしたわね。あたしも少しいただこうかしら。でも、どこへ行ってらっしゃったの……」
「それが、じつは……」
 どう答えればいいのだろう。しかし、女はその質問を取り消した。
「いいのよ、おっしゃらなくても。べつに、あなたを困らせるつもりはありませんの。あなたに帰ってきていただければ、あたし、それでいいの……」
 テーブルの上には、どうぞ一服といわんばかりに、タバコのセットがあった。青年はそれを手にして吸う。自分が指示してそこにおかせておいたような気分だった。
「お食事でございます」
 女中があらわれ、ていねいな口調でそう告げて戻っていった。青年は女のあとについて廊下を歩き、洋間の食堂へと入った。|天井《てんじょう》から古風なシャンデリアがさがっていた。それは明るすぎも暗すぎもせず、部屋にぴったりだった。六十歳ほどの婦人が、さきに食卓の椅子のひとつにかけていた。それにむかって女が言った。
「おかあさま、真二郎さんが帰っていらっしゃいましたの」
「それはよろしゅうございました……」
 老婦人はうなずき、青年に言う。
「……しかし、真二郎さん。あまりはめをおはずしになっては困ります。あなたは、この友子と結婚して、この西家の養子となった人です。心のなかには、いろいろとご不満なこともございましょう。それについては、わからないでもありません。でも、できれば、ほどほどになさって下さい」
「はい。そういたします」
 答えながら、青年は自分のなすべき役を知った。どうやら、若い女は友子という名で、老婦人はその母。友子と結婚し、この西家の養子となったのが真二郎。それが自分の立場のようだ。
 青年はともに食事をした。上品な食器ばかりだった。高級な料理とはいえないが、どれもすなおな味で、お義理でむりに口に押し込まなければならないといったものはなかった。あまり会話はなかった。この部屋においては、食事中のおしゃべりは不作法で、似つかわしいものでないのだ。
 といって、かたくるしい空気もなかった。青年は自分が異分子でなく、この家族の一員のような気になってきた。それは願望のあらわれかもしれなかったが。
 いずれにせよ、きょうは下宿に帰っても、金がなく、どうしようもないのだ。だが、ここには酒があり、ごちそうがあり、それに好奇心をくすぐるものがある。
 食事のあと、青年は居間に戻り、友子に言った。
「もっと酒を飲んでもいいかい」
「お好きなだけ、おあがりなさいませ。もっとお酔いになりたいんでしょう。いま氷を持ってまいりますわ……」
 友子は酒をつぎながら言った。
「……さっきは、おかあさまがあんなことを口にしましたけど、気になさらないでね。あなたのことを、本当の|息子《むすこ》のように心配なさっているからなの。あなたはここの当主なんですものね。だから、つい……」
「わかってるよ……」
 青年はグラスを重ねた。じつは、なにひとつわかっていない。わかっているのは、時間がたてばたつほど、いごこちがよくなってしまうという点。この魔力のようなものは、なんなのだ。
 巧妙にしくまれた、わななのだろうか。しかし、手間をかけて自分を没落させようとするやつがあるとは思えない。しぼり取られるほどのものなど、持っていない。となると、なにかに利用されているのか。それだったら、ことが終るまでは安全といえるだろう。友子や老婦人から、計画的なものを感じとることはできないが……。
 青年はもっとここにいたかったのだ。わからないまま酒を飲み、酔いつぶれた。友子が介抱してくれた。
「さあ、寝室へまいりましょう」
 なにもかも自然のうちに進行した。二人はベッドをともにした。結婚しているのだから、どうこういうことではない。そんな印象だった。そのあと、青年は眠った。不安にうなされることのない、やすらかな眠りだった。
 
 つぎの朝、青年はめざめる。時計を見て、あわてておきあがる。友子が言った。
「なにをそわそわなさっていらっしゃるの」
「出かけなければ……」
「いやですわ、そんなの。きのう帰っていらっしゃったばかりじゃないの。しばらく、うちにおいでになってよ。真二郎さんはここの当主、あまり軽々しく出歩いたりなさらないほうがいいの。どうしても行かなければならないご用事なら、べつですけど……」
 友子の顔には、行かないでとの願いがこもっていた。青年はうなずく。どうしても行かなければならない用事か。なるほど、そんなものはないのだと気づいた。会社とここの家とをくらべれば、ここのほうがどんなに魅力的なことか。自分はここにいるべきなのだ。その思いがからだのなかにひろがっていった。
「そうだったな。当分でかけないよ」
「うれしいわ……」
 かくして、青年はここの家の一員となった。テレビはあったが、つける気になどならなかった。この家の空気に似つかわしくないのだ。レコードをかけ、美しい音楽を聞くほうがよかった。
 書棚にはたくさんの本があった。そのなかの一冊を抜き出し、書斎のがっしりした机で読むのもよかった。外国の古典の長編小説だが、しぜんとその世界に入ってゆけた。頭を休めたければ、やわらかな長椅子に横になればいい。時間は静かに流れてゆく。
 気分を変えたければ、庭を歩けばいい。広大な庭というわけではなかったが、池だの|築《つき》|山《やま》だの樹の配置によって、空間のひろがりを感じさせられる。
 ゆっくりと歩いていると、そばに木の枝が落ちてきた。軽い叫びをあげてそれをよけると、上のほうで人のけはいがした。樹にたてかけてあるはしごをおりてきた五十歳ぐらいの男が、頭を下げて言った。
「申し訳ございません、旦那さま。樹の手入れに気をとられ、下のほうまで注意が……」
「いいよ、そうあやまらなくても」
 青年が家に入りかけると、女中が言った。
「下男の島吉が、なにか失礼なことでも……」
「いや、たいしたことじゃ……」
 答えながら青年は、あれが下男だったのかと知った。これだけの家だ。たえず手入れをしていなければ、たちまち荒れはててしまうだろう。しかし、いまどき下男をやとっているとは、ぜいたくなものだな。それにしても、よく下男になる気の人がいたものだ。それを察してか、女中が言った。
「あの島吉のおやじさんが、この家の建築をむかしやったのです。そんな縁で、ここに住みこんでしまいましてね。この家には、死んだおやじの|面《おも》|影《かげ》が残っているなんて申してまして、よく働いてくれています。そのあいまに小説を書くのだとか言ってますが、そのほうはちっとも進まないみたい。小説の筋を考えてか、時どき、ぼんやりしたりして……」
「そういうことも、あるだろうな」
 彼には島吉の気分がわかるような気がした。この家には、人をひきつけるものがある。世の中には、都会をのがれて海や山へ行きたがる者も多い。しかし、行った先でまた混雑というのなら、もっとべつな脱出先を考えたほうが利口というものだ。
 たとえば、ここだ。空間的な脱出でなく、時間的な、いや、それともちょっとちがう。なんというか、ここは住みごこちのいい小宇宙なのだ。
 島吉の生き方が、青年にはいやに高尚なものに思えてきた。あとで島吉から聞いて知ったのだが、あの女中にも、ここにいるそれなりの理由があった。やはりこの環境を愛しているのだ。
 それは自分にも許されていることではないか。青年はここの生活を楽しむことにした。書棚にある画集をながめたり、中国の古い詩の本を開いたりした。時間をかければ、すぐれたもののよさは解説不要で伝わってくる。そして、その時間なら、ここにはたっぷりあるのだ。
 妻の友子も好ましかった。養子だという立場を意識して、青年はいばることなどしなかった。その内心を察しているかのように、友子もやさしさのこもった従順さでつくした。それがあいまって、二人の仲はこまやかだった。感情が|嵐《あらし》のようになることはなく、春の細い雨のように、しっとりと心がかよいあっていた。
 いごこちのよさへの適応はたやすい。青年はここにいついた。ずっと前から、養子となってここにいるような気がしていた。自分を順一でなく、西家の真二郎だと思うことのほうが多くなっていた。そうなっていけない理由が、どこにある。ぼろを出すまいとの注意も不要。すべてが自然と身についた。
 この家は名門で、あくせく働かなくても生活していけることがわかってきた。また、そう金を使うこともなかった。旅行へ出かけなくてもいい。ここには、すばらしいやすらぎがある。新奇な流行を追って買物をすることもない。家のなかにあるものは、すべてぴったりで、買いかえる必要などない。他人への虚栄心のための出費もない。ここにいれば他人に会うこともないのだ。この家、それ以上の友人など、ないのではなかろうか。
 事件らしい事件もなく、日がすぎていった。
 ある日、老婦人が言った。
「おとうさまの墓参りに出かけてきます。るすをよろしくたのみますよ」
「はい。いってらっしゃいませ」
 と青年は送り出す。老婦人は外出していった。しかし、その日の夜になっても帰ってこなかった。
 そのつぎの日も同様。三日目の朝になって、青年は気がかりな口調で友子に言った。
「なかなか帰っていらっしゃらないけど、どうなさったのだろう。なんとなく心配だな」
「でも、こういうこと、まえにもあったじゃないの。そのうち帰っていらっしゃるわよ」
「そうだったな」
 そんなような気になってくるのだった。しかし、青年は落ち着かなかった。この家には、友子の母の老婦人がいなければならないのだ。当然、存在すべきもの。それが欠けていることからくる、いらいらした気分だった。飾りのない|床《とこ》の|間《ま》、|鯉《こい》や金魚のいない池、そんなような感じだった。
 五日ほどたった午後、玄関のほうで友子の声がした。
「おかえりなさいませ……」
 それから、青年を呼ぶ声。
「……あなた、おかあさまがお帰りになりましたわよ」
 青年は玄関へ行った。老婦人がそこにいた。友子が手を貸し、いたわりながら部屋へ連れていっていた。墓参へ出かける前にくらべ、白髪がへり、背もいくらか低くなり、顔つきもちがっていた。出かけたのとはちがう人だった。
 しかし、別人だからどうだというのだ。不在中、空白による不安感を味わわされたのだ。青年は老婦人に言った。
「こんなことを申しあげたくはないのですが、わたしたち心配のしつづけでした。困ります。よそへおとまりになる時は、ご連絡ぐらいしていただかないと……」
「でも、いろいろつごうがあってね……」
 口ごもる老婦人に、友子が言った。
「それはわかります。なさりたいようになさるのは、けっこうです。だけど、留守中あたしたちが心配していることも、考えて下さらないと……」
「これからはそうします」
 老婦人は、しばらく恐縮していた。自分のいたらなかったことを反省しているのだろう。しかし、日がたつにつれ、貫録をとり戻していった。そうでなければならないのだ。
 ある日、来客があった。老紳士だった。老婦人の夫、すなわち友子の亡父と生前に親しかったという人で、三人にむかって思い出話をしていった。
「立派なかたでしたな。経営者として一流でいらっしゃりながら、教養がおありだった。なにしろ、気骨といったものが一本、ちゃんと通っておいででした。静かななかに、強いものをひめたかたでしたな。このお屋敷は、ほんとになつかしい。いろいろなことが思い出されます。あ、これは旅行先で買ってきた、お菓子です……」
 と包みを出し、ひとしきりしゃべって帰っていった。友子はあとで青年に言う。
「あのかた、いついらっしゃっても、おんなじお話ばかりね。まじめでいい人なんですけど」
「ああ。そのお菓子、ひとつ食べようかな」
 平穏な毎日がすぎていった。老婦人はいい母であり、友子はいい娘であった。青年はいい養子であり、友子にとってはいい夫だった。女中も下男もまじめに働き、すべてがいい家風を作りあげていた。家風がみなをそのようにしているともいえた。だれもが家を愛していた。
 友子が青年に言った。
「あたし、出かけてきていいかしら。高校の時の同窓会があるの。行くなとおっしゃるのなら、やめますけど……」
「行きたいのなら、とめはしないよ。しかし、気をつけてくれよ。家を忘れないでもらいたいな」
「なにおっしゃるのよ。変な冗談はおよしになってよ」
「悪かった。あやまるよ。おそくなるようだったら、連絡してもらいたいな」
「ええ、わかっておりますわ」
 友子は出かけていった。青年の心配は現実となった。夕食の時になっても、帰宅しなかった。青年は老婦人と二人だけで食事をしなければならなかった。彼は言った。
「友子の帰るのがおそいようですね。なにかあったのでは……」
「いずれ帰りましょう。あの子には、ちょっとわがままなところがあります。家つき娘ですからね。そのことで、真二郎さん、あなたにいやな思いをさせているのではないでしょうか。そうだとしたら、母であるわたくしから、あらためておわびいたします」
「いいんですよ。そんなことはございません」
「それにしても、友子は勝手すぎます。帰ってきましたら、真二郎さん、少し強く言ってやって下さい」
「しかし……」
「それがいけないんじゃないでしょうか。たまにはきつく言って下さい。あのとしになって、親のわたくしが注意するのは、ちょっとおかしいことですものね……」
「そういたしましょうか」
 青年と老婦人とは笑いあった。その夜、彼はひとりですごした。さびしかった。友子は、この家になくてはならぬ存在なのだ。
 つぎの日も、友子は帰らなかった。空虚さにたえられなくなり、彼は夕方から酒を飲みつづけだった。夜、夢を見た。わけのわからない夢だった。それで目ざめ、友子はいないのだと気づき、また酒を飲んだ。
 そのため、その翌日は二日酔いのきみだった。午後、門に人のけはいがした。首をかしげながら入ってくる女を、青年はぼんやりみつめていた。それにつづいて、老婦人の声がした。
「なんということです。結婚していながら、勝手に家をあけるなんて。よその家の者ならともかく、この西の家で、そのようなことは許されません」
「ごめんなさい。おかあさま。つい……」
「ついなんて言葉で、すむことではございませんよ。早く真二郎さんのところへいって、あやまるのです」
「はい。もう決して、こんなことはいたしません」
 友子が青年のところへやってきて言った。
「あなた、帰るのがおそくなってしまって、ごめんなさい」
 青年は迎えた。髪が長くなり、笑ってもえくぼができなくなり、そのかわり目の横に小さいほくろがくっついていた。同窓会へ行くと言って出ていった友子とはちがっていた。しかし、ちがっていたっていい。とにかく、友子が帰ってきさえすればいいのだった。この家に帰ってきたからには、友子なのだ。
「あやまることはないよ。もちろん、いろいろと文句を言うつもりでいた。しかし、ぶじで帰ってきたのをみたら、もうなにも言えなくなってしまったよ」
 その夜、青年は友子とベッドをともにした。
 数日は、気まずい空気もいくらかは残っていた。夫にだまって家をあけ、帰ってきたのだから当然だろう。しかし、それもやがておさまり、老婦人、友子、青年のなごやかな日常が戻ってきた。
 それからひと月ぐらいたった日だったろうか。ひとりの訪問者があった。三十歳ぐらいの貧相な男。女中が青年にとりついだ。
「|旦《だん》|那《な》さま。花五郎さんがみえ、また、お金を少し貸していただきたいとか。ほんとに、困った親類のかたでございます」
「そうか。そういえば、そんな話を聞いたことがあったな。友子の|叔《お》|母《ば》にあたる人の、義理の弟の子とかいってたな」
「はい……」
「どこの家にも、困った親類というのはいるものだ。はっきりさせておいたほうがいい。ぼくが話してみる……」
 青年は玄関に出て言った。
「……あなたは、友子の叔母の夫につながるかただそうですな。このあいだ、古い書類を出して見てみました。友子の父が死んだ時、妹である叔母のほうにも遺産の一部が渡されている。ここで問題は片づいているはずです。そのあと、その叔母もなくなり、その金をもとに、あなたの父上がなにか事業をやられたとか……」
「はい。その仕事については、いろいろな事情もありまして……」
「それは、なにかあったかもしれません。しかし、それに関してここへ泣きついてこられては困ります。あなたは、西家とは血のつながりのないかたです。おわかりいただけますか。養子となってこの家に来たからには、いまはぼくがこの西家の当主です。この家をまもる責任ある立場にあります。そのようなお話にいちいち応じていたら、ここは没落の道をたどってしまいます。もっとも、なにか請求なさる正当な根拠がおありでしたら、べつですが……」
「いえ、そんなつもりはありません。だけど、どうにも金のつごうがつかなくて、ほかに行くあてもなく……」
 その花五郎という男に、青年は声をひそめて言う。
「いまお話ししたのは理屈です。しかし、つめたく追い返したとあっては、西家の評判にもかかわりましょう。ぼくのポケット・マネーをいくらかあげます。妻と母には内緒です。これでお帰りねがいます」
 青年はいくらかの金を包んで渡した。花五郎は頭を下げる。
「ありがとうございます。あなたは、よくできたおかただ。これなら、西家はいつまでも安泰です。わたしだって、こんな話をしには来たくなかった。どうにもならなくて……」
 くどいほどお礼をくりかえし、帰っていった。そのあと、青年は友子と老婦人とに、花五郎の件は片づいたと報告した。彼女たちはほっとし、あらためて彼をみつめた。その目には、たのもしい人だとの尊敬の念がこもっていた。このことがあってから、友子の外泊以来かすかに残っていた感情のすきまも消え、みなのあいだは一段と親密になった。
 青年は外出しなかった。する必要もないし、する気にもならなかった。女中の作る料理は口にあっているし、下男は庭や家の手入れをつづけ、住みごこちのよさをたもってくれている。
 窓からさしこむ日の光は、ほどよい明るさで、内部にぴったりとあっていた。読むべき本はいくらもあった。運動不足だなと感じたら、庭へ出てゴルフのクラブを振ればよかった。
 数か月おきに、財産管理人というのがやってくる。近くに住む弁護士で、六十歳ぐらいの男だった。報告書を出して青年に言う。
「こういうことになっております。お使いになってよろしいお金は、これだけございます」
「ぼくはよくわからない。おいおい勉強することにしましょう。しかし、先生におまかせしておけばまったく安心となると、なかなかその気になれなくて……」
「ご信頼におこたえ申していることは、いうまでもありません。わたしは、ご当家とは、先代からのおつきあいです。そのことは、息子にもよく言ってきかせてあります。息子も弁護士の資格をとりまして、最近はなかなかよくやってくれています。では、お金をお渡しいたします。ここに印をお押し下さい」
「印鑑ね。どこだったかな。そうそう、机のひきだしだったな。はい、これでよろしいでしょうか」
「けっこうでございます。では、またそのうちまいります」
 その男は帰っていった。青年はおいていった金の一部を机にしまい、あとは友子に渡す。家計の支出をやるのは妻なのだ。机にしまった金は、花五郎のようなのにそなえてのものだった。小遣いといっても、外出しないのだから、まるで不要だった。
 報告書なるものをのぞいてみる。かりに有価証券や不動産を処分するとしたら、かなりの額になる。しかし、それは仮定の話で、そんな気にはならなかった。さしせまって大金が入用ということはなかった。この家、この生活、それを捨てて大金を手にしたって、いま以上の使い道などあるわけがない。現状こそ、最良の形のわが財産なのだ。
 女中が出ていって戻らず、二日ほど友子が料理を作った。母の老婦人といっしょに、楽しげに作った。西家の伝統の味の料理だった。女中が戻ってきた。別人ではあるが、むかしからこの家にいる女中なのだ。
 住込みの下男が帰ってこないこともあった。しかし、これも三日ほどすると、ちょっと開いている門から戻ってきた。もちろん顔やからだつきは出て行く前と変っているが、この家を建築した大工の息子で、この建物と庭とに限りない愛情を持っている島吉という男である点に変りない。
 平穏で優雅な日々だった。これでいいのだろうか。そんな思いが青年の心をかすめたが、すぐに消えていった。
 
 ある日、青年は書斎の机の位置を少しずらした。そのほうが自分の好みにあうようだったからだ。それに気づいて、友子が言った。
「あら、だめよ。もとの場所にしておかなくては……」
「こう変えたほうがいいと思うがな」
「いけませんわ。この家のしきたりというものがございます」
「しかし、これぐらいのことは……」
「これぐらいということをみとめたら、とめどなく変りはじめてしまいます。守るべきことのけじめは、はっきりさせておかなくてはいけません」
 おたがいにゆずらず、口論になった。ほかのことではすなおな友子も、これについては強硬だった。
「真二郎さんも、西家の人となったからには、そうしていただかないと……」
「どうも不満だ。ちょっと酒を飲みに出てくる」
 話が養子という点におよんだので、つい反発したくなった。なにかで気分を変えなければならない。青年は久しぶりに、ほんとに久しぶりに門を出た。
 しかし、あいにくとこのあたりは住宅地。そのような店はなかった。歩きつづけ、商店街を抜ける。ふりかえっても、もう家も樹も見えなくなっていた。
 やっと小さなバーをみつけて入る。一杯の酒を飲み、青年は気づく。自分は西家の真二郎などではなく、順一という名の、つまらない会社づとめの、たいした月給をとっていない独身の男なのだということに。もう、あの家の持つ、目に見えぬ力からみはなされてしまったことを知る。
 つぎの日から、彼は順一としての以前の生活に戻った。無断で長期欠勤をしたことをとがめられたが、記憶|喪《そう》|失《しつ》症にかかっていたと答えたら、それ以上の追及はされなかった。人手不足の時であり、べつに会社に損害をおよぼしたわけでもなかったので、もとの仕事につけた。もっとも、昇給がおくれ、ボーナスがへらされることにはなるだろうが。
 時どき、あの家での生活を思い出す。どういうことだったのだろう。夢としかいいようがない。なにかにとりつかれていたのだろうか。しかし、あのほうが正常なのではないかとも思えるのだった。
 あそこには秩序があった。すべてに存在の価値と、存在する必要性とがあった。建物も、庭も、庭の樹も、内部の家具にも。また、住んでいる人たちも、それぞれ、自分がどういう立場にあり、どうあるべきか、それを知っていた。だから、なにもかもうまくいっていた。
 誇りがあり、けじめがあり、礼儀があった。美しいといっていいほどの、みごとな調和があった。必然性のあるものばかりで構成された集合体……。
 そんなことまで青年は考えもしなかった。なつかしく思い出すだけ。ずいぶんと本を読んだり名曲を聞いたりしたようだったが、なにもかも忘れてしまった。教養めいたものは、服をぬがされたように、どこかへ消えてしまっている。残っているのは、なつかしさだけなのだ。
 あの生活へ、ふたたび戻ることはできないものだろうか。それが不可能なことは、説明なしで彼にわかっていた。家や樹の見えた商店街あたりで引きかえせば、戻れたかもしれない。だが、さらに離れて、自分が順一だと気づいてしまっては、もはや終りなのだ。
 青年はあきらめきれず、なつかしさがつのるたびに、その家の前まで行ってみる。しかし、いつも門はしまっていた。入ることを拒否するかのように。それがたび重なり、彼はあきらめなければならないことを思い知らされた。
 数か月がすぎ、青年は金に困った状態におちいった。伯父のところへ行ったが、断わられた。
 だめとは思いながらも、つい足は西家のほうにむいてしまった。なんとか、たのんでみよう。友子も、自分のことを少しはおぼえていてくれるのではないだろうか。へいを乗り越えてでも入ってみよう。
 その日、門はいつかのように少しだけ開いていた。彼はなかへ入ることができた。玄関へたどりつき声をあげる。
「ごめん下さい」
 女中が出てきた。記憶にない顔だった。
「しばらくお待ち下さい」
 待っていると、男があらわれた。三十歳ぐらいで、落ち着いていた。そして、言った。
「花五郎さんでしたね。友子の叔母のほうの親類のかたとかうかがってます。わたしが真二郎です……」
 そう話しかけられると、青年は自分が花五郎なる人物のような気になってしまうのだった。その会話をすることが、ここちよかった。頭がしぜんにさがり、声が出る。
「すみません。ここにうかがう以外に、ほかに方法がなくて……」
「ぼくのポケット・マネーで、少しだけお貸ししましょう……」
 金をもらって、門を出る。しばらくのあいだ、青年は花五郎だった。しかし、下宿へ帰りつくと、順一となった。手ににぎりしめていた金は、消えずに残っていた。それによって、どうにもならない借金を、なんとかかえすことができた。
 
 一年ほどたち、青年は婚約した。分不相応な野心はあきらめ、平凡な人生をたどることにきめた。婚約者は感じのいい女だった。うまくやってゆけるだろう。
 その婚約者に、彼はあの説明しがたい体験を話した。
「なんだか、いまだに夢のようなことさ」
「ふしぎねえ。とても信じられないわ。幻覚かなんかじゃないの。人間には、しなかったことを、したような気分で思い出に作りあげてしまうことがあるわ。あたし、子供のころに川のそばに住んでたような気がするんだけど、事実はそうじゃないの」
「そういうのともちがうんだな、ぼくの場合は。本当にそこで暮したんだ。だからこそ、いまだに奇妙でならないのさ」
「どこの家なの。連れてって見せてよ。ちょっと好奇心がそそられるわ」
 青年は婚約者といっしょに、そこへ行った。家はあのころと少しも変ることなく、そこにあった。なにもかも昔と同じに。
「この家さ。あそこが玄関。あそこが食堂。あの樹のむこう側に築山があって……」
 青年はくわしく説明し、つけ加えた。
「……だが、もう入れないわけさ」
「あら、入れるわよ。ほら、ちょっとだけのぞかせてもらいましょうよ」
 門の鉄格子は、少しだけあいていた。それを押しあけ、彼女は入った。青年もあとにつづいた。
 二階の窓からのぞいていた女中が言った。
「あら、奥さま」
 玄関の戸が開き、老婦人が出てきて言った。
「どうしたのです、友子。同窓会に行くといって出て、二日も家をあけるとは。しかも、男の友達に送ってもらうなんて、許しません。あなたには、真二郎という夫が……」
 そして、なかへ連れこまれてしまった。青年はあとを追おうとしたが、玄関の戸はしめられた。むりに入ろうとしたが、庭のほうから、下男が歩いてきた。この家と家族とに忠実な下男が。
 青年の知らない顔だった。しかし、この家をたてた大工の息子の島吉であることにまちがいはないのだ。この家に愛着を持ち、秩序をまもるためには、どんなことでもするだろう。青年にはなにもかもわかっていた。
 彼は門から出た。門の鉄格子のとびらはしまり、いかに押しても、もはやあかなかった。

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