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魔神
日期:2017-12-30 18:00  点击:422
 いまやエヌ氏は、非常な窮乏の状態におちいっていた。ある程度の教育もあり、最初は親ゆずりの財産がいくらかあったのだが、うまれつき世渡りがへたであり、それに加えて労働意欲なるものを持ちあわせていなかったため、かくのごとくなってしまった。
 彼は粗末なアパートの一室にねそべっていた。机も椅子も売り払ってしまったので、ねそべるよりほかに姿勢のとりようがなかったのだ。正座をしたのでは、かっこうがつかない。
 なにもかも売り払ったり質に入れたりしてしまったため、部屋のなかには、なにもなかった。徹底的に、なにもなかった。もっとも、正確にいえば皆無ではなかった。本が一冊だけ残っていた。古い外国の本だった。といって、とくに大切にしていたためではない。
 質屋に持っていっても「これは値のつけようがありません」と、どこでも断わられてしまったためだ。一方、エヌ氏のほうも、これがなんの本なのかわからず、価値の説明をすることができなかった。
 エヌ氏はいま、ねそべったままで、その本を開いてのぞきこんでいた。読んでみようというのではない。テレビはもちろん、ラジオもなく、新聞もこのところ配達されない。つまり、ほかにすることがなかったのだ。
 彼は、なにか奇跡でも起こってくれないものかと念じながら、開かれたページの文字を発音してみた。意味はまるでわからないが、発音することはできた。
 その時、奇跡が起こった。部屋の片すみに、見知らぬ男があらわれたのだ。それに気づき、エヌ氏は驚いた。しかし、そいつが強盗だったとしても、持っていかれる品はなにもない。彼は落ち着きをとりもどし、そして言った。
「だれだ、おまえは……」
「なぜお聞きになるのです。おわかりになっておいでの、はずですが……」
「まあね……」
 とエヌ氏はあいまいに答えた。なにも知らぬと言うのは、なんとなくふさわしくないような空気だった。
 しかし、相手の出現はあまりに突然であり、首をかしげて眺めずにはいられなかった。すると、相手はひとりでうなずきながら言った。
「ははあ、あまりわたしの出現が早いので、驚いておいでなのですな。しかし、呪文を耳にしたらすぐ参上する。それこそ、魔神のモットーなのでございます」
「なるほど……」
 エヌ氏には少しずつ事態がのみこめてきた。この本は魔法の本であり、さっきなにげなく発音したのが、魔神を呼び寄せる呪文だったということらしい。
 なんという幸運であろう。偶然とはいいながら、哀れな生活とはこれでお別れとなりそうだ。思わずこみあげる笑いを押さえながら、エヌ氏はしかつめらしい顔をするよう努力した。いまは威厳を示すべき時のようだ。
 魔神は頭を下げ、さいそくするように言った。
「なにをいたしましょう。わたしは、持って来るのが専門の魔神でございます。すでにご存知のこととは思いますが……」
「もちろん、わかっているとも。持って来るからこそ、魔神としての価値があるのだ。そうだな、手はじめに、まずビールを持ってきてくれ。ちょっと飲みたい。会話をなめらかにしたいしね」
「かしこまりました」
 魔神は一瞬、煙のように消えたかと思うと、すぐに現れた。その手には、ビールの入った大きめのグラスがあった。
「よし、ごくろうだった」
 エヌ氏は差し出されたそれを取り、飲んだ。空腹にしみるようだった。そこで、つぎの命令を口にした。
「おれは腹がへっている。なにか食べる物が欲しい。それに飲み物の追加もだ……」
「かしこまりました」
 魔神は消え、また現れ、エヌ氏の前に料理のかずかずを並べた。スピードがモットーというだけあって、驚嘆すべき早わざだった。エヌ氏はこのところ空腹つづきだったので、たちまち平らげ、おかわりを命じた。もちろん、それもすぐに運ばれてきた。
「さて……」
 とエヌ氏が言った。魔神はすぐに頭を下げて応じた。
「はい、なんでございましょう」
「この部屋は、どうも殺風景でいかん。壁になにか絵が欲しいところだ。マチスの小品などがいいな。だが、複製はいかん。本物でなければならぬ」
「はい、お安いご用でございます……」
 そのとおりになった。エヌ氏はきげんよく酒を飲みながら、思いつくまま、つぎつぎに命じた。ロダンの彫刻も置かれたし、豪華な家具もそろった。
「そうだ。スポーツカーも必要だ」
「はい、ただいま……」
 それは瞬時に、窓のそとの道路に置かれた。形のいい新車だった。車の鍵はエヌ氏の手に渡された。ひととおり手に入れると、エヌ氏はつぎの欲望を考えついた。
「こんどは女性だ。若く上品な美人がいい」
「はい、おまかせ下さい」
 それも同じくあらわれた。たしかに注文どおり、若くて上品な美人だった。想像していた以上のすばらしさだった。エヌ氏は話しかけた。
「まあ、そばへ来てすわってくれ。一杯やろう。お楽しみは、それからゆっくりということにして……」
 表情や声に、エヌ氏は笑いを押さえきれなかった。しかし、女の答えは意外だった。
「なによ、いやらしい。こんなことをして、ただですむと思っておいでなの……」
 と叫び、勢いよくドアから出ていってしまったのだ。しばらく呆然としたあとで、エヌ氏は魔神に言った。
「なんで、あんなことになったのだ」
「それは、ご存知のはずですが……」
 と言われても、エヌ氏にはわけがわからなかった。そのうち、パトカーの音がし、近所がさわがしくなってきた。
「どうしたのだろう」
「いまの女が警察に知らせたのでございましょう」
「なぜだ……」
「ご存知じゃないのですか。魔神は魔神でも、わたしは泥棒魔神です。よそから持って来るのが、専門なのでございます。あの本に書いてあったはずでございますが……」
 それを聞いて、エヌ氏はあわてた。
「知らなかった。というと、この部屋に運んできたのは、みな盗品なのか。絵も彫刻も、家具も車も、それにさっきの女も……」
「もちろんでございます。無から有を瞬時に作るなど、いくら魔神でもできるわけがございません」
「そうだったのか。それは大変だ。ここにある品物を、早くどこかに持っていってくれ。こんなのがあると、とんでもないことになる」
「それはできません。よそへ運ぶのは、義賊魔神の役目でございます。分担がちがいます」
「そんなかたいことは言わず、たのむよ。持てる物だけでいいから運んでくれ」
「はい……」
 魔神は本を手にし、消えてしまった。そして、もう戻ってこなかった。
 エヌ氏の耳に、警官たちのドアをノックする音が聞こえた。

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