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凍った時間
日期:2017-12-30 18:01  点击:406
 ムントは夢を見ていた。
 ひどいめにあわされる夢だった。人びとに尻をけとばされ、こぶしで腹をつつかれ、手のひらで顔をたたかれる。また、冷えきった水のなかにも沈められた。無数の針でさされるような、痛さだった。
 つぎには、柱につながれ、まわりで火がたかれるのだった。炎はおどるように彼に触れ、皮膚を焼いた。変な臭気は鼻を襲い、煙は口にも流れこみ、舌の上にいやな味を残した。そのため、はきけがこみあげてくる……。
 
 ここで眠りからさめ、夢は終ってしまった。ムントはもっと見ていたかったのだが、これだけはどうしようもない。
 ムントはベッドの上に身を起こし、あたりを見まわした。いつもと変わらぬ、せまい殺風景な部屋のなかには、いまの夢のかけらさえ残っていなかった。
 ここがムントのすまいなのだが、台所、洗面所、ふろ場などはついていない。彼にとって、これらはみな不必要だった。また、鏡は一枚もおいてなかった。彼にとって、鏡ほどいやなものはない。
  鏡があると、そこに自分の顔がうつる。みにくくはないが、表情の浮かぶことのない顔なのだ。プラスチック製の顔では、泣いたり笑ったり、できるわけがない。目はガラス製のレンズだった。その奥には、小型のテレビカメラがおさまっている。耳の奥にはマイクロフォンが、口のなかには人工の発声装置が……。
 顔は見ないで過ごせたが、ほかの部分は、どうしても目にはいってしまう。両方の手は、合金製のマジックハンド。足もまた同様だった。からだのなかでは、モーターや歯車の規則正しい音が、かすかにつづいている。
 ロボット。だれでも第一に、こう考えるだろう。
 いや、ムントは高度のサイボーグなのだった。ロボットとは人間のような機械のことだが、サイボーグとは機械のような人間のことだ。ロボットだったら夢を見たり、むかしを思い出してなつかしんだり、できるわけがない。
 眠りからさめてしばらくのあいだ、ぼんやりと思い出にふけるのが、ムントの習慣になっていた。いたずら盛りだった子供のころを、社会へ出て希望に燃えていたころを、そして、二十八歳の冬までのことを。
 二十八歳の冬、ムントは勤め先の工場で、事故にあった。思わぬまちがいで、特殊な放射能を持つ薬品を、あびてしまったのだ。症状はしだいに、からだをおかしはじめた。
 むかしだったら、とても助からない事態だったが、ムントは科学の進歩した時代のおかげで、死をまぬがれた。脳だけを残して、あとのすべてを人工のものに換える、最新医学の方法によってだ。人工心臓のポンプで、合成血液を脳に送りこむ。それで生きているのだった。
 もちろん、人工器官をそなえた人は、ムントのほかにもいる。だが、それは胃とか耳とかの一部だけなのだ。ムントのように徹底的で、表情までも失ったものはいなかった。
 このような人間をサイボーグと呼ぶ。からだの大部分は機械なのだが、それでも人間にちがいなかった。こんなふうになっても、生きているほうがいいのだろうか。と、彼は時どき考える。しかし、いくら考えても答えはでなかったし、死ぬのは、やはりいやだった。
 それから十年、この殺風景な、窓のない部屋で、彼の生活はつづいている。窓がないのは、ここがビルの地下二階にあるためだ。窓のある部屋に住み、空や雲や町のにぎわいを眺めて暮らしたいとは思う。しかし、それは同時に、人びとに見られることをも意味する。また、強引なセールスマンなども、押しかけてくるだろう。
 ムントは人目をさけ、この地下二階という穴ぐらのような物置きで、ひっそりと暮らす以外になかった。
 だれでもムントを見ると、ロボットと思って、面白そうに笑いかける。だが、サイボーグと知ったとたん、表情を変えるのだ。彼は伝染性のある病人でも、特別な人種でも、危険な狂人でも、恥ずべき囚人でもない。しかし人びとは、それらを見るような、特殊な視線を集中してくる。それから、あわてて目をそらせるのだ。
 そのたびに、ムントは、いたたまれなくなってしまう。笑いかけようにも、プラスチック製の人工の顔では、表情が自由にならない。手を伸ばして握手を求めても、相手は避けてしまう。無気味な人工の声では、話しかけないほうがいいにきまっている。
 いっそのこと、よってたかっていじめられたほうが、どんなにいいだろう。そして、二度と戻らない、失われた感覚を味わいたかった。暑さ寒さ、痛み、におい、味。どんな苦痛でも、ゼロよりははるかにいい。しかし、いずれも不可能なのだった。時たま見る夢のなか以外では。
 一日じゅう、ムントは一歩も外出をしない。買い物や散髪など、外出の必要はなかった。訪れてくる人は、毎週一回、合成血液の缶を配達にくる男だけ。だがいつも、ドアの外に、そっとおいて逃げるように帰ってゆく。
 殺風景な部屋だが、テレビはあった。これが彼のただひとりの友。社会へ開いているただ一つの窓といえた。テレビなら、いかに見つめても、見つめかえされることはない。ただひとつの生きがいとも言えた。
 できるものなら、もっと社会に役立ち、人に喜ばれるような生きがいを持ちたい。彼はいつも、そう考える。しかし、いくら考えても、思いつかないのだった。人に見られ、相手に不快な気分を味わわせないよう、ここに閉じこもっているのが、自分にできる、ただ一つの役目なのかもしれない。
 ムントは義手を伸ばし、テレビのスイッチを入れた。明るくなった画面では、料理番組をやっていた。彼はそれを眺め、味を想像して、心ゆくまで楽しんだ。だが人工の口のなかには、|唾《だ》|液《えき》はけっしてわいてこない。
 ひとつ、喜劇映画でも見よう。ムントはべつな局にチャンネルを換えた。頭のなかには、テレビの番組表がすっかり暗記されている。喜劇を見つめているうちに、やがて彼は画面の中の主人公になりきり、自分がサイボーグであることを、いくらか忘れかけた。
 
 その時、画面が不意に、まっ白く変わった。なにも、うつらなくなってしまったのだ。音もとだえた。どうしたのだろう。せっかく面白くなってきたのに……。
 ムントはしかたなく、チャンネルをつぎつぎに切り換えてみた。だが、どの局でも同じことだった。画面は白いままで、音も出てこない。
 きっと、故障したにちがいない。修理店の人を呼ばなくてはならないようだ。修理店の人と顔をあわせたくはなかったが、このままでは完全なひとりぽっちだ。
 久しく使わず、ほこりをかぶったままの電話機をとりあげた。ムントは呼び出し音を聞きながら、他人をいやな気分にする人工の声で話さなければならないのかと思うと、気がめいるようだった。
 しかし、相手はなかなか出なかった。るすのようだ。ムントは電話帳でほかの修理店をさがし、かけなおしてみた。五軒ほど試みたが、どこも応答がなかった。どういうわけなのだろう。どこの修理店も、そろって電話に出てくれないというのは。
 ふしぎさは、やがて不安と変わった。なにが起こったのだろう。なにかが起こったにちがいない。思わず警察へかけてみた。しかし、これも同じだった。消防署も、新聞社も、また電話局そのものも、どこへかけても、呼び出し音が限りなくつづくばかり。
 もしかしたら……。
 そのさきは考えつかなかった。突発的な核戦争だろうか。しかし、それらしき地ひびきはなかったし、停電もしていない。とすると、暴動かなにかによる混乱が起こっているのだろうか。だが、それなら電話は、不通かお話中であるべきだ。テレビ局と電話局に、同時に事故が起こったのだろうか。
 まるで見当がつかなかった。しばらくして、またテレビのチャンネルをまわし、ほうぼうへ電話をかけてみた。やはり、事態は変わっていない。不安ではあったが、彼はあわてはしなかった。食料や水は不要なのだし、合成血液のストックはある。
 すぐに死ぬという心配はなかったが、テレビがうつらなくては、することがなかった。本を買っておけばよかったと後悔したが、こんな場合は予想もしなかったのだから、しかたがない。
 自動掃除器のスイッチを入れた。だが、五分ほどで室内はきれいになり、自動的に止まってしまった。眠れるものなら、夢でも見たいところだった。しかし、目がさめたばかりでは、そうもいかない。
 ベッドに横になっていると、不安にかわって好奇心が高まってきた。なにが外で起こっているのだろう。それを知りたいという欲望は、押さえきれないまでに強くなった。
 ムントはベッドからおり、服をつけ、くつをはいた。帽子をふかくかぶり、マスクをつけ、サングラスをかけ、最後に義手に手袋をはめた。他人の目に与える不快感を、少しでもやわらげるためには、こうしたほうがいいのだ。
 何年かぶりで、彼はドアをあけた。廊下は人影もなく静かだった。もっとも、地下二階はいつもこうなのだ。コンクリートの床に音を響かせて歩き、階段をあがった。地下一階へ、そして、一階の道路への出入り口へと……。
 久しぶりに眺める日光は、地下室の電灯の光とくらべものにならないほど、強いものだった。目についている絞りは、自動的に小さくなってそれに応じ、あたりの光景を彼に伝えた。
 ムントは、そこで立ちすくんだ。自分に残された最後の器官である脳、それまでが狂いはじめたのではないかと思ったのだった。信じられないような眺めがひろがっていた。
 動いているものが、なにひとつない。
 といって、無人の町というわけではなかった。大ぜいの人がいる。だが、だれもかれも倒れたままで、目を閉じて動かないのだ。彼のすぐそばの道ばたには、若い男が崩れでもしたような姿勢で倒れている。そのむこうには、子どもと老人とが並んで横たわっている。ふたりは、手をつないだままだった。また、美しい服を着た婦人も倒れている。その手はくさりを握っていて、その一端には犬がついていた。倒れて動かない犬が……。
 このような眺めが、限りなくつづいている。映画の機械が故障し、フィルムが動かなくなった時のようだ。
 自動車などの交通機関も、すべて停止していた。そばに止まっている一台の車をのぞくと、運転席で男が倒れていた。倒れると同時に、自動ブレーキが作用して止まったのだろう。
 どこからか音楽が流れてくるのに、ムントは気づいた。そこに行けば、倒れてない人に会えるかもしれない。その方角にむかって歩き、一軒の喫茶店にはいった。しかし、そこで発見したのはスピーカーだった。まもなく、それも終った。継続のボタンが押されないからだろう。
 屋外ばかりでなく、屋内の人びとも倒れて動かない。すべての人が、そうなってしまったのだ。なぜ……。
 ムントは椅子によりかかったままの男に近づき、さわってみた。気を失っているのだろうか、死んでいるのだろうか。その判断は下せなかった。さわってみても、人工の義手では、温度などの微妙な点を感じることができないからだ。
 生死を確かめるのを、ムントはあきらめ、少し歩いてみることにした。サイボーグである自分を気にすることなく歩けるのが、この異様な光景のなかでの、わずかな救いだった。しかし、町角をいくつも曲がってみたが、どこまで行っても同じことだった。死の世界だ。死んだのではなくても、原因を調べるものも、手当てをするものもいない。このままなら、いずれにせよ死の世界になってしまう。
 一瞬のうちに、こんなことになってしまった理由は、なんなのだろう。
 ムントは空を見あげてみた。円盤の大編隊でも舞ってはいないだろうか、と考えたのだが、そんなものはなかった。青い空には、おだやかに白い雲が浮いている。宇宙からの侵略ではなさそうだ。
 高空を、飛行機が一機だけ飛んでいた。倒れたままの人をのせて、自動操縦で飛びつづけているのだろうか。これもまた、知りようがなかった。飛行機は、見つめているうちに、雲のかなたへと消えていった。
 いくら歩きつづけても、静まりかえった町には、動くものがなかった。わずかな例外は、風にゆれる街路樹の葉、公園の噴水、|骨《こっ》|董《とう》店の飾り窓のなかの古風な振り子時計ぐらいだった。鳥獣店のなかも、すべてが停止していた。小鳥たちはみな、止まり木から落ち、鳥かごの底で動かなかった。|剥《はく》|製《せい》店にいるような気分だ。
 人間の生きていることを感じさせる音は、どこからも聞こえてこなかった。たとえようもない寂しさが、どこからともなく押し寄せ、ムントを包みはじめた。それを振りはらおうとし、ムントは叫んだ。
「だれかいませんか」
 単調な人工の声は、倒れている人びとの上を越え、通りのかなたへと、くりかえし消えていった。だが、答えてくれる声はなかった。ビルの壁にこだまして戻ってくる自分の声ばかり。
 ムントは、叫ぶのをあきらめた。これから、どうしたらいいのだろう。地下室でのいままでの生活は、自分から求めたひとり暮らしだった。だからこそ、なんとかがまんしてこられたのだ。しかし、これからは本当のひとりぽっちなのだ。
 人びとの視線を受け、消え入りたい思いになるのは、いい気分ではなかった。だが、そこには生きているという実感もあった。それなのに、いまはそれさえも味わえなくなった。
 おさえきれない感情がこみあげてきて、ムントはそばの店のショーウインドウをなぐりつけた。金属製の義手は、鋭い音をたててガラスを砕いた。ムントはそのなかに並べてあった食器のひとつを取り、べつの店めがけて投げつけた。しかし、何度くりかえし、いくら待っても、おこった顔つきで飛び出してきて、彼をどなりつける人物はいないのだ。
 ムントは、自分が町じゅうの商品の持ち主になったらしいことを知った。しかし、皮肉なことに、ムントにとって価値のあるものは、なにひとつない。ぜいたくな食料品、高級な酒やケーキ、服、香水、宝石など、サイボーグにとって意味がない。テレビセットにしても、放送が止まったいまでは、無用の長物だ。
 無理にあげるとすれば、書物ぐらいだろうか。しかしすべてが停止したなかでは、小説などを読んだところで、はたして面白いものだろうか。また、科学の本を読みあさり、この異変の原因を研究し、なにか解決の方法を見つけ出すには、何十年もかかるだろう。いや、それでも不可能かもしれない。
 ムントは、本屋をさがすのをあきらめた。といって、あの地下室へ、ふたたび戻って行く気にもならなかった。
 静まりかえった町を眺め、ただ立ちつくすだけだった。
 ふとムントは顔をあげた。物音を聞いたように感じたからだ。どこかで、なにかが動くような音がする。あたりを見まわしていると、その音の主は不意に出現した。
 少しはなれた町かどから、一台の自動車が走り出てきたのだ。ということは、まだ生きて動いている人間があったということを示している。
 こちらに気づいてくれればいいが。とっさに、ムントはそう祈った。すぐに声をあげる習慣は、長いあいだの地下室生活で失われていた。人工の声では、相手を驚かす場合が多いからだ。
 その祈りに応じたかのように、自動車はムントのほうへ近よってきた。どんな人間が乗っているのだろう。やはり、同じようなサイボーグだろうか。ふつうの人間なら、この異変からまぬがれることができなかったろう。しかし、だれでもいい。いまは、いっしょに驚き、寂しさをなぐさめあう、話し相手がほしかった。おそらく、相手も同じことだろう。
 自動車はムントのそばへ来て、停止した。ドアが少し開き、運転席にいたひとりの人物が首を出した。だが、その表情はわからなかった。宇宙服のようなものを、身につけているのだ。そして、相手はムントに話しかけてきた。
「こんな場所で、なにを、ぼやぼやしているのだ」
 人工の声ではない。ふつうの人間の声だった。ムントはすぐには答えられなかった。人工の声を出すには、まず、恥ずかしさをがまんする覚悟をしてからでなければならない。
 答えられない理由は、それだけではなかった。相手の声が落ち着きすぎていたからだ。こんな現象がおこったというのに、なぜ平気でいられるのだろう。そこが、ふしぎでならなかったのだ。
 
「服はどうした」
 と相手は言った。なんの服のことだろう。それに、怒られているような感じだ。ますます、答えにくくなってしまった。
「活動しにくいから、脱いでしまったのだな。それは、まだ早いぞ。マスクだけでは、完全ではない。服をつけろ」
 とまどうことばかりつづく。どう答えたら、相手のお気に召すのだろう。ムントは、呆然とするばかりだった。
「ははあ、どこかへ脱いで置いてきたのだな。よし、ここにおれの予備のが、もう一着ある。これをやろう」
 相手はこう言い、窓からムントのそばに投げてよこした。服ばかりでなく、一丁の銃も。
「さあ、それを着て、銃を持つんだ。そして、三十分後に、第一官庁ビルの前の広場に集合する。そこで、新しい指示が与えられるのだ。注意して行動しろ」
  こう言い残して、自動車は走り去っていった。結局、事情を知ることは、なにひとつできなかった。いまの人物は、なんだったのだろう。突然の事件で、頭がおかしくなっているのだろうか。しかし、それにしては冷静な口調だった。
 ムントは身をかがめ、残していった服を拾い、身につけてみた。宇宙服のように、外の空気をさえぎることができるように作られた気密服だった。なぜ、これを着なければいけないんだ。わからないことは、まだある。この銃だ。
 気密服をつけ、銃を手にして立つと、戦わなければならないような気分になった。しかし、その敵とは……。
 やはり、宇宙からの攻撃なのだろうか。警報がおくれて大部分の人たちはやられてしまったが、まにあったものがあった。その生き残った人たちが集合して、反撃に移ろうとしているのかもしれない。そうなると、参加するのが人類の義務だ。サイボーグであっても、人間であることにちがいはない。
 ムントは、第一官庁ビルをめざして歩きはじめた。道路には、どこも同じように人が倒れている。建物のなかでは、机にうつ伏せになったり、床に横たわったりしている。
 うしろから、声をかけられた。
「うまくいったな。こうみごとに成功するとは、思わなかったな」
 ふりむくと、そこにも気密服の男がいた。しかし、なんのことだ。このありさまが、なんでみごとなのだろう。人類がやられかけているというのに。それとも、この異変は宇宙からの攻撃ではないのだろうか。わからないながらも、ムントは首を動かし、うなずくまねをしてみせた。
「まもなく、われわれの天下だ。おたがいに、どんなぜいたくも望みのままだな」
 男はこう言い、急ぎ足でムントを追いこしていった。ぜいたくとはなんのことだろう。サイボーグにとって、そんなものはありえない。
 ムントは、命じられた場所へ直行することに、ためらいを感じた。どうも、すなおに従えない気持ちがする。自分だけ知らない、なにかが進行しているようだ。この点が面白くない。
 第一官庁ビルのむかい、広場をへだてたところにも、ビルがある。ムントはそのなかへはいった。倒れている人を踏まないように歩き、エレベーターをさがした。それで五階へあがり、窓ぎわへと寄った。そとの音を聞こうと、少し窓をあける。
 ちょうど、広場を見おろすことのできる場所だ。どこからともなく、気密服を着た人物が集まってくる。歩いてくるものもあったし、自動車で乗りつけたものもあった。また官庁ビルから出てくるものもある。数十人くらいになったころ、そのなかのひとりが台の上にあがり、話しはじめた。あたりが静かなため、ここでも、ことばを聞きとることができた。
「諸君。わたしの発明した薬品の効果は、まのあたりに見て、充分にわかったことと思う。ごく微量でも、一瞬のうちに、人体の筋肉をまひさせてしまうガスだ。早くいえば、新しく強力な眠りガスだ。これを飛行機からまいたのだ」
 そうだったのか、とムントは思った。筋肉のないサイボーグだから、その作用を受けなかったのだろう。さらに眺めていると、台の上の人物に、だれかが質問している。
「作用は、どれくらいつづくのでしょう」
「あと約二時間だ。それを過ぎると、もとに戻る。脳はおかさないし、もちろん、死ぬことはない。世のなかが動きをとりもどした時には、わたしたちの政権になっているというわけだ」
「しかし、いったんは成功しても、あとずっと支配しつづける方法のほうは、大丈夫なのでしょうね。それだけが心配です」
「もちろんだ。薬品の製法は、わたしだけしか知らない。いつでも使えるのだとおどせば、反抗するものなど、出るわけがない」
 これを聞いて、ムントには事件のすべてがのみこめてきた。筋肉を一時的にまひさせる、高性能のガスが発明された。その成功は、発明者の野心を刺激し、一味を集め、クーデターの動きとなった。政権さえ手に入れれば、あとは、いつ使われるかわからないそのガスの恐怖で、社会をおどし、永久に好き勝手なことをしつづけようという計画らしい。
 ひどいやつがいるものだ。ムントは、いかりがこみあげてきた。そして、手には銃がある。ムントは、台の上でとくいげに指示を与えつづけている男にねらいをつけ、引金をひいた。
 
 広場では、たちまち混乱がはじまった。かけよる気密服の人のむれ。連中はしばらく相談しているらしかったが、やがて散りはじめた。
 中心人物が死に、ガスの製法の秘密が失われては、クーデターを進める自信がなくなってしまったのだろう。それに、ぐずぐずしていると人びとが動きはじめ、気密服を着て集まっていると、怪しまれてつかまってしまうのを心配したからだろう。
 ムントは階段をおり、ビルの外へ出た。そして気密服を脱ぎ、銃とともに物かげに捨てた。指紋のないサイボーグは、こんな場合には便利だった。それから、人が多く倒れている場所をさがし、それにまざって身を横たえた。クーデターの残党にみつけられ、銃を撃ったのはおまえだろうと、しかえしされるのを警戒したのだ。ムントはじっと動かないでいた。しかし、近づいてくる足音もなかった。一味は完全に、陰謀をあきらめてしまったらしい。
 そのうち、あたりに、ざわめきと活気がよみがえってきた。森に朝が訪れた時のようだった。
麻酔ガスの作用が、終ったのだろう。人びとは立ちあがりはじめ、キツネにつままれたような顔を見あわせている。ムントもほっとし、いっしょに立ちあがった。
 しかし、ほっとした気分も、たちまち消えていった。人びとは顔を見合わせているが、その目がムントの顔にいくと、そのとたんに表情が異様に変わるのだ。ムントにとっていやでたまらない、例の目つきに……。
 サイボーグの人間に対する同情と、あわれみと、自分たちの前へ出てこなければいいのにという非難のまざった、無言の目つきに……。
 ムントはいたたまれぬ思いで、歩きはじめた。すれちがう人たちは、みな同じような目をムントにむける。ムントの心につきささる、数えきれぬ矢のようだった。ムントは、なるべく人通りの少ない細い通りを選び、こそこそと、あの殺風景な地下室へと急ぐのだった。

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