「おい、ワトソン。いいところへ来てくれたな」
退屈まぎれにホームズをたずねてみると、彼は情けない声で、こう呼びかけてきた。私はあいさつがわりに質問した。
「なんです、不景気な顔をして」
「問題はそれだ。どうも金まわりが悪くてかなわねえ。どうだ、持合わせがあったら、少し貸さんか」
「とんでもない。こっちだって、ご同様ですよ。金さえあれば、こんなところへなんか、来やしませんよ。金がなくて退屈がしのげるところといったら、ここぐらい。それだから、やってきたんでさ。察して下さいよ。あなたの推理力も、少しにぶったかな」
私が手を振りながらこう答えると、ホームズは、
「なんてこった」
と叫んで、あとは押し黙り、頭をかかえて椅子に深々とからだを埋め、パイプの煙をやけにふかしはじめた。そのかっこうは、どことなくユーモラスだ。いずれ彼を主人公にして漫画映画を作り、ホウレンソウ会社へでも持込んでみるつもりだ。
しかし、そのうち事務所の前をぶらつく足音がした。彼は椅子からとび上がり、パイプをくわえたまま、ごきげんな声をだした。
「おっ、いいカモがきたらしい。おれさまの判断に、狂いはない」
「どうしてわかります」
「足音が往復しているのは、ここに入ろうか、入るまいか、思案しているからだ。それに、あの足音は金に困っているにちがいない。ふところの寒いやつはひょこひょこ歩く、ふところのずしりと重いやつは、荘重な足音を響かせるものだ」
「やはり、すごい推理ですなあ。だが、金に困っているやつが、どうしていいカモなんで」
「そこだよ、ワトソン。金持ちというものは、とかくけちだ。なかなか金を出したがらぬ。そこへゆくと、金に困っているやつは、金に気をとられ、すきだらけだ。それに一攫千金をねらって、かっかとしている。そこにつけこめば、ひとたまりもない」
「おおせの通りだ。まったく、すごい推理だなあ」
「おれさまがうまく扱ってみせるから、よけいな口出しをしないで、見ていろ。ほら」
ドアにノックの音がして、ひとりの若い男があらわれた。一目で貧乏貴族とわかった。まったく、ホームズの推理に狂いはない。来客は、おどおどした声を出した。
「あの、こちらは、あの有名なホームズ先生の事務所でございましょうか」
「さよう。わたしがホームズだ。後世には有名になるだろうが、いまはまだ、それほどでもない」
「じつは、折り入ってお願いしたいことが、ありまして」
「よろしい。ただいま売り出し中のところです。なにかむずかしい事件なら、献身的な大サービスでつとめますよ」
「お恥ずかしい話ですが、わたしはジョン・クレーという貴族のはしくれ。しかし、金に困って、にっちもさっちもいかなくなり、貴族の体面が保てるかどうかのせとぎわ。なにか、いいお知恵が拝借できればと」
まったくあわれな話だった。ホームズは私と目を見合わせ、落ち着いたそぶりでそれに答えた。
「いや、政府が悪いせいか、いまや、どこも大変な不景気。お苦しみ、お察し申します」
「ぜひぜひ、なにかご指導を」
この時、ホームズはにやりと笑って、ずばりと言った。
「ここまできては、泥棒以外に方法はありませんなあ」
「えっ、泥棒……。いや、それでも結構。平民ならロンドン塔の掃除人にもなれようが、貴族となると、夜逃げもできぬ。だけど、わたしに泥棒など、とてもできそうに……」
「まあ、元気をお出しなさい。わたしがついています」
「それはありがたい。先生にご指導ねがえれば、大舟に乗ったようなもので」
「そうですとも。さっそく、秘法をご伝授いたしましょう。わたしの頭には、前人未踏のすばらしい犯行方法がいくらでもあります。しかし、こちらも商売。教授料をいただかなくては」
「ははあ、教授料がいりますので」
「もちろんですとも。お金がなければ、わたしがいい質屋をご紹介しましょう。ウィルスン質店です。さっそく、そこへおいでなさい」
「ところで、教授料はどれくらいで」
「それは巧妙な犯罪になればなるほど、高くなります。仕方がありませんね。そのかわり、その方法の巧妙なことは、保証いたしますぞ」
「では、さっそく」
貧乏貴族のクレーは、さっきより少し元気づいて出ていった。落ちぶれたといっても、そこは貴族、質草まで無一物ではなかったとみえ、しばらくすると戻ってきて、こう言った。
「やっと少しばかり、調達できました。あのウィルスン質店は、なかなかしぶいですな。ところで、これくらいでいかがでしょう」
クレーはポケットから、百ポンドを出した。
「まあ、いいでしょう。さて、あなたがいま行ってきた質屋ですがね」
「あの赤毛のおやじの質屋ですか」
「さよう」
「では、あそこに押し入るので」
「まあ、お待ちなさい。わたしもホームズ。教授料をとった上は、そんなチンピラのやるようなことは、お教えいたさぬ。まず、新聞広告をお出しなさい。赤毛組合補欠募集、収入多大とね」
「なんです、その赤毛組合とは」
「話は終りまで聞きなさい。あなたも、きょうでウィルスンと顔見知りになった。そこでその広告を持って行き、留守番をしてあげますから行っていらっしゃいと、そそのかす。万一、あの赤毛がカツラだったら、発毛の新薬完成被験者を求む、として、打ち合わせておいた友人の家に十日ばかり通わせる」
クレーは大喜びで手を叩いた。
「なるほど、なるほど。その留守中は、盗みほうだいか。いや、さすがはホームズ先生。これはうまい方法だ。百ポンドは高いようだが、たちまちもうかりますな。資金の回転は、早いほうがいい。すぐにも、取りかかるといたしましょう」
クレーはいそいそと立ち上がり、ドアにむかったが、ホームズはそれを呼びとめた。
「まあ、そう急ぎなさるな。もう少しお出しになるつもりなら、もっともうかる方法があるのだがな」
「えっ」
とクレーは足をとめた。
「いや、無理におすすめするわけではありません。教授料をお出しになれないのなら、わたしとワトソンとでやってもいいんだから。なあ……」
とホームズは急に私に呼びかけた。私はうまくあいづちをうった。
「え、もちろんですとも。わたしも退屈しのぎに、なにかやろうと思っていたところですから」
「その妙案はいくらぐらいで」
と、クレーは手をポケットに入れて思案した。ホームズはそのようすから、まだしぼれそうだと判断して、こう答えた。
「では、あと二百ポンドいただきましょう」
クレーはしばらくためらっていたが、思いきって二百ポンドをさし出した。
「そうそう、そうですよ。投資が多くなれば利益も多くなる。この原則をお疑いなら、アダム・スミス先生のお弟子たちをご紹介しますから……」
ホームズはしゃべりながら、さっきのと合計三百ポンドを、すばやくポケットにしまった。
「いや、経済学の勉強は、いずれ金でも手に入れてから。ところで、その計画とやらは」
と、クレーはいささか心配そうだった。
「ご心配なさるな。それだけの教授はいたします。そこで、あの質屋だが、あの質屋の裏はシティ・アンド・サバァーバン銀行だ。質屋の地下室から穴を掘れば、銀行の地下室に直通というわけだ。クレーさん、あなたは質屋と銀行とで、金はどっちに多いか、ご存知かな」
「わあ、そうだ。すごい。さすがは先生。二百ポンド追加したねうちは、たしかにある。では、さっそくに……」
クレーは飛び上がって喜んだが、そのうち疑問をひとつ提出した。
「……穴を掘るのはいいが、山のような土がでます。これをどう処置しましょう」
この質問で、ホームズは目を白黒させた。
「や、そんな問題があったか」
「困りますね。そんなことでは。さあ、二百ポンドは返して下さい」
「いや、待ちなさい……。そうだ。むかし、エドモン・ダンテスという男が毎日、牢番の目を盗んで地下牢の中で穴を掘り、となりの牢のじいさんに会いにいった話がある。そいつは後年、出世してモンテ・クリスト伯と名のるようになった。それを調べて、その方法でおやんなさい」
私は、どうなることかとはらはらしていたが、ホームズはうまく切り抜けた。まったく彼の頭はすばらしい。クレーはふたたび元気をとりもどした。
「では、どうもいろいろ、ご教示いただき、まことにありがたかった。これでわたしも、貴族の体面を保てるというもの」
と立ち上がるクレーに、ホームズは言った。
「クレーさん。ところでものは相談だが、どうでしょう、あと三百ポンドお出しになりませんか。すばらしい名案があるんですがねえ」
「いや、これだけお教えいただければ、もう充分です」
「そうでしょうかねえ。お出しになったほうが、おためと思いますがねえ」
「いや、これでけっこう」
クレーはドアから、かけ出していった。ホームズはそれを見送っていたが、舌うちして、私に言った。
「ちきしょうめ。三百ポンドを、惜しみやがった」
「まあ、いいじゃないですか、三百ポンドは手に入ったのだし」
「だが、あんなカモは、めったにこない。あいつが出し惜しむなら、意地でも取ってみせる」
さかんに憤慨するホームズに、私は手を出した。
「忘れないうちに、早いとこ分けましょうや」
「おお、そうか。きみにしゃべられると困るからな。まあ、これくらいで我慢してくれ」
ホームズはわたしに、百ポンドを渡した。
何日かたった。私はまた、ホームズを訪れた。
「ワトソン、さあ、出かけよう。大捕物だぞ」
「なにかあわただしい話ですが、どの犯人をつかまえるんです」
「あの三百ポンドを惜しんだ、貧乏貴族のクレーのやつだ。思い知らせてやろう」
「なんとなく、気の毒ですなあ」
「悪に同情はいらん。あんなようなやつは、金を握ったら、ひとりじめにするにきまっている。お礼などに、くるものか。さあ」
ホームズは私をせきたてた。まったく彼の頭の働きと、悪をにくむ精神には、常人以上のものが感じられる。そして、彼は警察と銀行とに連絡し、銀行の地下室で待ちかまえた。
「静かに。もうそろそろ、はじまります」
「よくおわかりですな」
銀行頭取のメリーウェザー氏は、感心した声で言った。
「そこが、わたしの推理力です」
そのうち暗い地下室のなかに、ちらと灯がみえ、壁の石がはずれ、一人の男があらわれた。
「そらきた。御用だ」
その男、クレーはあたりを見まわし、ようすのおかしいのに気づいた。
「や、さてははかられたか」
「逃げるな、待て」
警部は大声をあげた。クレーはもはや貴族の体面もなく、
「ずるいや、ずるいや」
と泣き叫び、拳銃をホームズにむけた。だが、ホームズの動作のほうが、一瞬はやかった。
「往生ぎわの悪いやつだ」
この声と弾丸を受けては、クレーはひとたまりもない。彼はばったり倒れた。
「先生、おけがは……」
警部とメリーウェザーが声をかけた。
「いや大丈夫だ。ホームズは、そう簡単には死ぬわけにはいきません」
ホームズは得意げに胸をはり、ここに至る推理をとくとくと話した。クレーがのびてしまったので、もうどこからも文句はでない。
「いや、聞けば聞くほど、悪知恵のあるやつですな、このクレーという男は」
警部はすっかり感心してしまった。こんなすばらしい犯罪を考え出せるのはホームズ以外にありえない、という疑問はぜんぜん持たないようだった。メリーウェザー頭取は、警部につづいてこう言った。
「そのクレーにもましてすばらしいのは、ホームズさんだ。おかげで、わたしの銀行も、無事に難をまぬかれました。いくらお礼をさしあげていいやら」
「三百ポンドもいただけば、けっこうです」
かくしてホームズと私は、意気ようようと事務所にひきあげた。
「さすがはホームズ。まったくすばらしい頭ですなあ」
私はもみ手をしながら、おせじを言った。彼は気がつき、私に百ポンドを出した。
「さあ、ワトソン。よろしくストーリーにまとめといてくれよ」
「はあ、わたしも商売ですから、なんとかまとめますが、肝心なところをごまかして作り変えるのには、もう百ポンドいただかないと。けっこう頭を使いますので」
「ひどいやつだ。まあいい、やろう。そのかわり、うまく書いてくれ」
「それはもちろん」
かくて私はこの日、二百ポンドをせしめた。
もちろん、私がホームズを悪く書くはずがない。なにしろ二人は、切っても切れぬ仲なのだ。ホームズがつかまれば、私も困る。それに私だって英国国民、大英帝国の恥をさらけ出し、植民地の統治のさまたげになるような、へまなことはやらない。では、軽く一杯やってから書きはじめるとしよう。題は『赤毛組合』とでもするか。