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恋がいっぱい
日期:2017-12-30 18:04  点击:434
 ある春の日の午後。ひとりの女の子が、街を歩いていた。あたたかみをおびた風が、やさしく動きまわり、街路樹の芽がやわらかい緑を含み、ビルの壁もしっとりとした色になっている。
 しかし、彼女の表情は、あまり楽しそうではなかった。なぜなら、いっしょに歩く恋人がいなかったのだ。ほかの人たちはみな、腕を組んだり話しあったりして、あかるく笑っている。それなのに、あたしには恋人がいないの。さびしく、つまらなかった。
 彼女は、病院につとめている同性の友だちを、たずねた。そして、さんざんたのんで、一錠の幻覚剤をもらった。幻想の世界へさそいこんでくれる作用を持つ、薬のことだ。
 もっとも、友だちもすぐには渡してくれなかった。
「そんなもの、飲まないほうがいいわよ。からだにもよくないし、人工的に夢を見る薬なんて、不合理なものだと思うわ」
「でも、あたしには、恋人がいないのよ。世の中は乾いた灰色なの。だから、幻の世界へ入ってみたくて、しょうがないの。このままなら、死んでしまいたいぐらいよ」
「死にたいなんて、むちゃよ」
「だから、一回でいいから、幻覚を見たいのよ。ねえ、一錠でいいから、ちょうだいよ」
「しょうがないわねえ。じゃあ、一錠だけよ」
 友だちは負けて、一錠だけゆずってくれた。それから、飲む時の注意やなにやらを、くり返して告げた。
 というわけで、いま、この女の子のポケットには、幻覚剤が一錠はいっている。これを飲んだら、どんな気分になるのだろう。あたりが虹色に見えるのかしら、しあわせな霧に包まれたようになるのかしら。未知への期待とスリルとで、ちょっと胸がどきどきした。
 そんなことを考えながら歩いていたので、道を曲がる時、ビルのかどでひとにぶつかってしまった。軽くよろける。
「あら、ごめんなさい」
 あやまりながら見ると、ぶつかった相手はすてきな青年だった。スタイルも身だしなみもいい。彼女はなぜかひきつけられ、少し顔が赤くなった。
「いいえ、ぼくのほうこそ、ぼんやりしていて……」
 その青年も彼女を見つめ、口ごもりながら言った。まじめそうな感じだった。
「……ぶつかったおわびに、そのへんで、お茶でもおごらせて下さいませんか」
「でも、なんだか変だわ。悪いのは、あたしの不注意なのよ。べつに痛くもないし、おわびだなんて」
「本当のことをいいますとね、ぼく、あなたとこのまま、お別れしたくないんですよ。あなたみたいに感じのいいかたに会った幸運を、のがしたくないんです」
「あたしもそんな気分だわ。なぜ、こんなふうになっちゃったのかしら」
 彼女はなんだかおかしくなり、うれしくなり、思わず笑った。それは魅力的だった。青年は言う。
「春だからかも、しれませんよ。まず、ごいっしょに、公園でも散歩しましょうか。チューリップが咲きはじめているかもしれないし、気の早いチョウが舞っているかもしれない。噴水の虹は、きれいですよ」
「いいわねえ」
 二人はいっしょに、公園のほうへと歩いていった。歩きながら彼女は、ポケットから幻覚剤を出し、ぽいとほうりなげた。これにたよろうとしていた、さっきまでのしずんだ気持ちが、うそのように消えていた。もう、こんなものいらないの。持っていたら、飲みたくなるかもしれない、捨てちゃったほうがいいんだわ。
 一組の恋人がうまれた。いやにあっさりと、できあがった。考えてみると、簡単すぎるような気がしないでもない。だが、春という季節のせいだからではなかった。春の女神は自然のよそおいにいそがしく、とてもこんなところまでは、手がまわらない。
 本当の理由は、キューピットのせいだった。人びとの目にその姿は見えないが、そこの街角の赤と白の縞もようの日よけの上に、さっきからキューピットが腰かけていたのだ。
 そして、幻覚剤をポケットに入れた女の子が、通りがかるのを見つけた。ポケットのなかまで、見とおすことができるのだ。あれあれ、あんなものを使っちゃいけないな。なんとか、とめなくては……。
 といっても、キューピットにできることは、弓で矢を射る以外になかった。金色の弓に金色の矢をつがえ、うったのだ。矢は彼女に命中し、七色の粉となってくだけ散った。人を殺す武器ではないのだ。
 キューピットの矢は二本で一組になっている。もう一本を、早くだれかにむけて、はなたなければ……。
 あたりを見まわすと、ちょうどいいぐあいに、ひとりの青年がやってくる。独身で恋人もいないということは、キューピットにはすぐわかる。あいつにしよう。かくして、矢は青年に当り、二人はぶつかり、心をひかれあったのだ。
 公園へむかう二人を見おくり、キューピットは日よけの上でつぶやいた。
「うまくいったな。いつものことながら、この矢の力はすばらしい。二本で一組のこの矢を命中させると、当ったものは、それぞれ愛しあうことになる。さて、こんどは、どんな人をねらうとするかなあ……」
 その時、キューピットの口のなかに、なにか小さなものが飛びこんだ。あまり突然だったので、びっくりしたとたん、それを飲みこんでしまった。
「いま口に入ったのは、なんだったろう。まあいいさ、キューピットは、病気にはならないものなんだ」
 それは、女の子が投げ捨てた幻覚剤だった。病気にはならなくても、薬の作用は受ける。酒に酔っぱらう神さまだって、あるのだ。薬はききめをあらわしはじめ、キューピットを夢の国へとさそいこんだ。
 キューピットは、人間の夢のなかの世界の存在だ。そこでの夢というわけだから、この世のほうに出現してしまうことになる。普通なら人間の目には姿が見えないのだが、それがしだいに現実のものとなってきたのだ。
 通りがかりの婦人が、けはいを感じてふと上を見あげ、キューピットをみつけて叫び声を口にした。
「あれ、あそこにいるのは、だれなの」
 たちまち、何人かが集まる。日よけの上に、翼をつけた裸の坊やがいるのだ。手には金色の弓を持ち、背中には矢を入れたものをしょっている。ふしぎな光景だ。
「お店の、飾りの人形じゃないのか」
「いや、生きているよ。ほら、まばたきをした」
 などと話しあっている。小学生の男の子はこんなことを言った。
「どこかの星からきた、宇宙人だよ。宇宙人にきまっているよ」
 人だかりはますます大きくなり、警官もかけつけてきた。人ごみをかきわけながら、前へ出てきて呼びかける。
「おい、そんなところでなにをしている。いったい、だれなんですか」
「ぼくはキューピット」
 キューピットは答えた。幻覚剤がきいているので、ぼんやりした目つき、ものうげな口調だ。警官はばかにされたのかと思い、きつい声で言った。
「キューピットごっこもいいが、裸でそんなところへ乗ってはいけない。みながさわいで、通行人が迷惑します。おりてきなさい。むりにでも引きおろします」
「だって、ぼく、とてもいい気持ちなんですよ。しばらく、こうやっていたいんです。じゃましたりすると……」
 キューピットは矢をつがえ、警官をうった。やりつけている動作なので、薬がきいていても、これだけは早かった。警官はよけるひまもなく、拳銃を抜くひまもなかった。しかし、命中はしても痛みはなく、七色の粉が散っただけなので、彼は首をかしげる。
「さて、もう一本はだれにしよう……」
 キューピットは見まわし、道のむこう側の花屋の女の子にむけて、うった。そのとたん、彼女と警官とのあいだに愛がめばえ、さわぎをそっちのけで親しげに話しはじめた。手をにぎりあい、小声で歌をうたいだした。
 こんどは、若い女の人が前へ出てきた。小児科専門の女医さんだった。
「あらあら、この坊や、夢遊病の症状みたいだわ。ねぼけて、こんなところへ出てきてしまったのよ。おっこちたら危いわ。早くおろしてあげましょう。どなたか、手をかしてくださらない……」
「いいですとも。ぼくが、だきあげてあげましょう。そうすれば、とどくでしょう」
 と若い男がそばへ進み出た。だが、キューピットはその二人をもめがけて、つぎつぎに矢をはなった。たちまち、二人のあいだには愛がもえあがる。キューピットのことなど忘れて、語りあうのだ。恋する者にとって、ほかのことは目に入らないのだ。
「あら、すてきなかたねえ」
「あなたこそ」
「もっと人のいないところへ、行きましょうよ。あたし、お医者なのよ」
「そうでしたか。ぼくは薬品の研究をやっているんです。きっと、お話があうかもしれませんね」
 その急な変わりぐあいを見て、集まった人びとは、ささやきあった。
「どうやら、本物のキューピットのようだぞ。冗談やお芝居では、ああはできない」
「それがなぜ、こんなところに出現したのだろう」
 理由はだれにも、わかるわけがなかった。なかには「あんな矢に当ったら大変だ」と、あわてて逃げる者もある。すでに恋人のある人や、結婚している人たちだ。それた矢に当ったりしたら、ひとさわぎおこる。
 その一方では「ねえ、あたしをねらってよ」と押しかける人もある。もちろん、恋を得たい人たちだ。
 押しあいへしあい、その声は遠くまでひびく。外国から来ているスパイは、なにごとだろう、革命でもはじまったのかと、ようすをさぐろうとそっと近づく。キューピットの矢は、それにも当った。そして、組となっているもう一本の矢は、やはり別な国からの女スパイに命中した。
「おきれいなかたですね。一目で、好きになってしまいましたよ」
 と男のスパイが笑いかけると、女のスパイもにっこりと答えた。
「あなたも、感じのいいかたですわ。静かなところへ行って、二人きりでお話しましょうよ。じつは、あたしA国のスパイなの。面白い情報を、たくさん知ってるわよ」
「同業のかたとは、うれしいですね。ぼくはB国のスパイなんです。おたがいの国どうしは対立していても、愛には国境なんかありませんよ」
「ええ、あってはいけないわ。あたしの国の最高機密はね……」
 いまや恋人となった対立国のスパイは、情熱に燃えた目をみつめあい、語りあいはじめるのだった。
 
 キューピットの出現によってひきおこされたさわぎは、大きくなるばかり。だが、当のキューピットは首をふりながら、ぼんやりとつぶやく。
「うるさいなあ。みな、なにをさわいでいるんだろう。せっかく、いい気持ちになっているのに。面白くない。べつなところへ行こうかな……」
 人間ならふらふらと歩きはじめるところだろうが、キューピットは背中の翼でたよりなげに飛びはじめる。そして、飛びながら矢を射る。幻覚剤がさらに深くきいてきたので、ねらいが狂い、いつもとちがう変なものに命中する。
 道を走っている、自動車にも当った。一本は青い自動車に、一本はうすみどり色の自動車に命中。その自動車は速度をゆるめ、道路のまんなかで、おたがいに車体をよせあって、とまってしまった。
 青い自動車の男が言う。
「困りますよ。車をくっつけてきては」
 うすみどり色の自動車を運転していた女が、窓をあけて言う。
「あたしのせいじゃないわ。車がしぜんに、こうなっちゃったのよ。手におえないの。そっちはどう……」
「じつは、こっちも車が不意に、いうことをきかなくなっちゃったんです。へんですねえ。しかたありません。そっと車を動かし、同じ方向に進んでみましょうか。このままでは、ほかの車のじゃまですから」
 やってみると、二台の車はよりそったまま、ゆっくりと動きだした。
 いい気分のキューピットは、ぽんぽんと矢をうちまくる。こっちのビルと、あっちのビルに命中したのもある。こっちのビルには住宅建設会社の本社があり、あっちのビルには童話の本の出版社があった。矢のききめは、ここでもあらわれ、二つの会社の社長のあいだで、こんな電話がかわされた。
「こちらは住宅会社ですが、なぜだかわからないけど、これからの住宅は童話的でなければいけないと思いつきました。すぐに、そちらの会社のことが、頭に浮かんだわけです。どうです、合併をしませんか。うまくゆくと思いますよ」
「これはこれは、なんということでしょう。こちらでもいま、そう考えたところですよ。童話は、その表現技法を住宅の分野まで発展させるべきではないか、というわけです。会社の合併をいたしましょう。この試みは、世界でもはじめてのアイディアでしょうね」
「それにしても、なぜ急に、こんな名案が出たんでしょう」
 キューピットの矢は、サーカス小屋のなかにも飛びこんでいった。そして、一本はライオンに、一本はクマに命中した。
 サーカスの団長は驚いた。いつもは仲が悪くて困っていたライオンとクマが、急に仲よくなったのだから。しかし、大喜び。すぐに観客の前へと出した。お客たちは拍手をした。こんな珍しいショウはない。ライオンとクマとが手をとりあって踊るところなど、はじめて見たのだ。
 キューピットは高く飛んだり、低く飛んだり、キラキラと光りながら風に流されたりし、公園の上に来た。
 幻覚剤がきいているので、みさかいなく矢を射る。ブドウの棚とサクラの木に命中したのもある。ブドウがサクラにささやいた。
「サクラさん。そばにいながら今まではなんとも思っていませんでしたが、あなたが急に、好きになってしまいましたよ」
「あたしもそうなの、ブドウさん」
「サクラさん、あなたを、だきしめたくなってしまいました」
 ブドウは棚にからみついていたのをやめ、サクラの木に巻きついた。
「ブドウさんにこんなことができるとは、考えてみたこともなかったわ」
「愛の前には、不可能はないんでしょう。もっと愛しあったら、サクランボをブドウのようにみのらせることだって、できるはずだ」
 キューピットの矢は乱れ、どこへ飛ぶかわからないほどになった。一本は空を飛んでいる白いハトに命中し、一本は池のなかの金魚に命中したりもした。
 金魚は池から空中へ出て、ゆらゆらと泳ぎ、ハトと並んで話しかけた。
「あたし、ハトさんが急に好きになっちゃったの。そばへ行きたいと思いをこらしてやってみたら、こんなふうに飛べたのよ。愛って、すべてを可能にするものなのね。だけど、面白いわね、飛ぶのって」
「こっちもそんな気持ち。だったら、泳ぐことができるのかもしれないな。やってみようかな」
 ハトは舞いおり池の上へ来た。それから思いきって水にとびこんだ。泳げるのだった。金魚といっしょに、羽を動かし、水のなかを楽しく泳ぎまわった。
 キューピットは、さらに射る。噴水の虹に当ったかと思うと、もう一本は遠くのテレビ塔に命中する。すると、テレビ塔の上に美しい虹の輪が巻きつくのだった。
 しかし、やがて矢も残り少なくなってきた。
「やれやれあと二本か。よし、大きなことをやってやるぞ」
 幻覚剤で気が大きくなっている。キューピットはその一本を地面にむけてうった。そして、最後の一本を空にむけた。春の午後のうすく光った昼の月が、そこにある。それにねらいをつけ、弓を引きしぼった時、そばで声がした。
「とんでもないことをするやつだ。あの月に命中したら、地球と愛しあって落ちてくるぞ」
 その声の主は神さま。ようすがおかしいので、やってきたのだ。だが、キューピットはぼんやりした口調で言う。
「面白いじゃないの。どうしていけないの」
「ははあ、なにか変な薬を飲んだようだな。このごろの地上は、注意をしないと、どんなことに巻きこまれるかわからんな」
 神さまは手当てをし、キューピットのからだから薬を追い出す。作用はおさまり、キューピットの姿はもとのように、人びとの目には見えないように戻った。それと同時に、キューピットの夢も消えた。つまり、この異変がおさまったのだ。
 ハトは空に帰り、ブドウはもとの棚に帰り、なにもかも、白昼夢が終ったようにもとへ戻った。しかし、幻覚剤を投げ捨てた女の子の恋はそのまま。その時はキューピットもまだ、幻覚に入ってはいなかったからだ。

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