おれは私立探偵。ある冬の朝、ベッドのなかで眠っていると、枕もとで電話のベルが鳴った。やれやれ、こんな早くからだれだろうと思いながらも、受話器をとって言った。
「もしもし……」
身を起こしながら窓のそとを見ると、雪がつもっていた。美しく白く輝いている。
「どうも、朝っぱらから気の毒だが……」
その声で、電話の相手はエヌ氏とわかった。彼は工場をいくつも持つ会社の社長で、おれによく仕事をまわしてくれるのだ。時どき妙な事件がまざるが、金払いはいいし、いい依頼主といえる。しかし、けさの口調は、なぜかあわただしい。
おれは聞いた。
「どうかなさいましたか。雪がきれいに降りつもった朝だというのに」
「どうもこうもない。昨夜、わたしの家に泥棒が入ったのだ。午前二時ごろだったかな、わたしをしばりあげ、ゆうゆうと室内を荒らし、窓から逃げていった」
「それは大変でしたね」
「わたしは苦心さんたん、やっとナワをほどき、きみに電話をかけているというわけだ」
「わかりました。すぐ、おうかがいしましょう。手がかりをなくすといけませんから、そのへんをいじらないで待っていてください」
おれは服を着かえ、さっそくエヌ氏の家へ出かけた。大きな家だ。門から玄関まで、きれいな雪の上に、おれは足あとをつけながら歩いた。
エヌ氏はおれを待ちかねていた。
「いや、ひどい目にあったよ。わたしはしばられ、目かくしをされて床にころがされ、あけっぱなしの窓から吹きこむ寒い風にさらされ、どうしようもなかった」
部屋を見まわすと、さんざんに荒らされていた。戸棚のなかのものも、机のひき出しの品も、床の上に散らばっている。おれは窓を指さしながら聞いた。
「ここから逃げていったのですね」
「そうだ。玄関から出てゆくか、窓を閉めてゆくかしてくれればいいのに、あけっぱなしだ。おかげで、わたしはかぜをひいた」
エヌ氏はクシャミをし、鼻をかんだ。おれは窓から外を見た。話の通り、窓の下から足あとが雪の上に点々と残っている。おれは一応、足あとの形を写真にとった。
目で足あとのゆくえを追っているうちに、おれはあることに気がついて言った。
「どうも変ですね」
「なにが変なんだね」
「足あとが、途中でとぎれています」
「本当か、それは……」
本当だった。広い庭の中央あたりまでつづいていた足あとが、そこで終っているのだ。なんとも異様な印象だった。
「近くまで行って、よく調べてみましょう」
おれとエヌ氏とは、庭へ出て、その足あとをたどっていった。足あとの終るへんまで来ると、少しこわくなった。犯人が透明人間かなにかで、そこにじっと立っているのではないかとも思えるのだ。
おれはためしに、雪をにぎって、そのあたりにぶつけてみた。もちろん、それはすどおりした。透明人間ではないらしい。エヌ氏は言った。
「いったい、こんなことがありうるのだろうか」
「ありえないといっても、げんに目の前でそうなっているのですから、しょうがないでしょう。もっとも推理小説には時どき出てきますが」
「どう説明してあるのだね」
「犯人はここまで歩いてきた。それから、うしろむきに自分の足あとをたどりながら、あとへ戻ったというわけです。それなら、こうなる場合もあるでしょう」
おれが話したら、エヌ氏は笑った。
「ばかばかしい。なんで、そんなことをする必要がある。まあ、かりにそうだったとしても、犯人は家に戻っていなければならぬ。しかし、けさはたまたま、家にはわたしひとりだった。それだから、簡単に侵入できたのかもしれないがね」
「なるほど……」
家のまわりに、出ていった足あとはほかにない。しかし、おれは推理小説にこだわりながら言った。
「家にだれもいないとは、断言できないでしょう。あなたがおいでだった。つまりですね、あなたがねぼけて夢遊状態になり、部屋のなかであばれ、庭へ出てもどってきたという可能性だって、考えられます」
「ますます、ばからしい。わたしは、しばられたんだぞ。自分で自分を、ぬけ出すのに苦心するほど、どうやって、しばることができるんだ」
「そういえばそうですね。では、べつな仮説を立てましょう。犯人はここで棒高飛びをしたか、スキーを利用したか。どちらかです」
「冗談じゃない。逃げる途中でそんな遊びをする犯人など、あるものか。第一、棒のあとも、スキーのあとも、雪の上になにも残っていないではないか」
エヌ氏は、異議をとなえた。なんでおればかりが、頭をひねらなければならないのだ。それが商売の探偵だからか。
「では、もっと単純に考えましょう。犯人はここで空へ逃げたのです。たとえば、ヘリコプターから下がったナワバシゴへつかまったとか、気球で浮かんだかしたのです」
「それも無茶だ。このそばには、あの通り高圧線の電柱がある。あの電線に触れれば、即死だ。いくらなんでも、そんな危険をおかすことはない。歩いて逃げたほうが、よっぽどいい」
たしかにそうだった。
「おっしゃる通りです。では、さらに単純に考えてみましょう。犯人はなんらかの原因で、ここで本当に消えたのです。たとえば、いま流行の蒸発です」
「おい、気はたしかかい。本当に蒸発したのなら、雪だって少しはとけるはずだが、そんな形跡もない。ほかに、どんな原因が考えられるというのだ」
「たとえば、タイムマシンで過去なり未来なりへ……」
「いいかげんにしてくれ、SFの読みすぎだ。タイムマシンがあれば、こんなけちな泥棒なんか、しないでもいいだろう。万一そうだったとしても、タイムマシンのあとが残っていなければならん」
「それでは、犯人が宇宙人だったというのは、どうでしょうか。宇宙人なら、これぐらいのことは……」
「しっかりしてくれよ。宇宙人がなんで、わたしの家などにやって来る。盗んだ上にしばってゆくなど、そんな安っぽい宇宙人などあるものか」
おれの旗色は、よくなかった。こんな議論をしていてはいかん。考え方を振り出しにもどし、根本的に考えなおすべきだ。おれは質問した。
「いったい、なにをとられたんです」
「さて、金だろうと思うが……」
「いくらぐらいです」
エヌ氏は家のなかを調べはじめた。そのうち、紙入れを手にしていった。
「いや、金はちゃんと残っていた。証券類も残っている。となると、べつな物のようだな……」
床にちらばっている品々を片づけながら、エヌ氏はいった。
「わかった」
「なんだったのです」
「ある装置の試作品だ。わが社で開発したものだ。高性能人工造雪機だ。水のタンクが付属しており、いとも簡単に雪ができる。これを大規模にすれば、スキーシーズンを大幅にのばせるというものだ」
それを聞いて、おれはへなへなとなった。
「なんで、それを早く言ってくれなかったのです。それを使って足あとを雪で埋めながら逃げたんでしょう。試験をして目ざす品物だったかどうかをたしかめながらです。それを知らないでいたため、あなたからばかげているの、どうかしているのと、さんざん文句をいわれたんですよ」
「すまん、すまん。費用はいくらでも出す。なんとか取りかえしてくれ。他社の手に渡ったら一大事だ」
「わかりました」
産業スパイのしわざとわかれば、あとは簡単だ。おれはその種の製品を扱いそうな会社に網をはり、すぐにつかまえた。
かくのごとく、エヌ氏は景気のいい依頼主なのだが、まったくあわてもので困ってしまう。