ケンタウルスが、長いあいだ地上を荒らしまわっていた。これほど強力で恐怖にみちた相手はなく、人びとは一撃で倒され、対抗しようにも、手のつけようがなかった。ケンタウルスというと、星座の名前としか思っていない、かたよった頭の持ち主もあるが、この場合、星座の名ではなかった。ギリシア神話の動物である。下半身が馬、上半身が人間に似ていた。
そんな伝説上の動物が、とつぜん出現してくるはずがないではないか。恐竜とちがって、化石も残っていない。とぼしい科学知識をふりまわし、口をとがらせて、こんな文句を言いかける人があるかもしれない。また、さては人馬の混血だな、男と牝馬のあいだだろうか、女と牡馬だろうかと、好色的な興味で、にやりとしかける人があるかもしれない。だが、事実、出現したのだし、混血の産物でもなかった。彼らは、ケンタウルスから来襲したのである。
ケンタウルスというと、ギリシア神話の動物としか思っていない、かたよった頭の持ち主もあるが、この場合、伝説上の動物の名ではなく、星座の名である。すなわち、ケンタウルスの方角からやって来た動物が、ケンタウルスと呼ぶべき形をしていたのであった。
人間は自分も動物のくせに、動物という言葉を見ると、一段劣った動物のことと考えるが、それは人間以上の動物が、ほかになかったからである。たしかに、彼らの来襲までは、地球では地球人が地球最高の動物であるというのが、地球人の常識であった。
しかし、いまや、ケンタウルスからケンタウルスが乗り込んで来た。こうなると、地球人は地球人の称号を返上し、地球上の一動物の地位に後退すべきであろうか。それとも、ケンタウルスからケンタウルスがやってきた瞬間において、地球はケンタウルスの一地方に転落したと考えて、地球人と称しつづけてもかまわないものであろうか。ただし、この場合は、地球人という語を、ケンタウルスの二流動物の意味に扱わなければならない。
さて、地球人たちは、このような状態におちいり、だれもかれも「畜生」と叫んだ。畜生とは、正確には四つ足をさす呼び名である。二本足の動物を畜生と呼んでこそ|蔑称《べっしょう》となるのだが、四つ足を畜生と呼んでも、蔑称にはならなかった。論理的に言えば、相手を相手より一段劣った動物、つまり「人間」とでも呼べば蔑称になるのだろうか、どうもそうはできなかった。人間は論理の動物ではなく、やはり感情の動物だからである。
ケンタウルスからのケンタウルスには、四つ足のほか、手まであった。数を合計すれば六本。正確、かつ論理的、感情的な蔑称は「虫ケラ」とすべきであった。だが、どうもそうはできなかった。相手は強大であり、そのような印象があてはまらないためである。さらに正確にいえば、人間のほうこそ虫ケラであった。人間対虫ケラの状態が、ケンタウルスからのケンタウルス対人間の状態に等しかったのである。
すべての点で、歯が立たなかった。もっとも、これは単なる形容であり、その頃の人間たちに、歯はなかった。人間の進化という現象が、人間の歯の退化という現象を、もたらしていた。歯ぎしりしてくやしがることも、できなかったのだ。数十世紀にわたるソフトで、清潔で、怠惰な生活は、人間の心身をすべての点で、ソフトで、清潔で、怠惰なものに変えてしまっていたのである。
たとえば、地球人は、どこへ行くにも乗り物を使わなければならないが、彼らはどこへでも行ける。公共的な交通機関と、個人用の乗り物の、燃料貯蔵庫を押さえられてしまい、どうにも動きがとれなくなった。反抗しようとすれば、足でけられ、一撃で倒される。まったく、お手あげとなった。もっとも、これは単なる形容ではなく、そのころの人間たちの手はまだ退化していず、その手を絶望的に上にあげたのである。人間どうし、おたがいの連絡はとれず、じわじわ迫る滅亡を待つばかり。
しかし、その時。ひとりの救世主が現れた。正確には真の救世主でなく、結果において救世主的な行動になっただけのことだが、いまは簡単に、救世主と呼んでおく。
いや、問題はそこではない。簡単に救世主が出現するという現象があまりに安易である、などと安易な文句をすぐに持ち出したがる、かたよった頭の持ち主があるかもしれない。だが、事実を記述する際に、ためらいは許されないのだ。まだなにか文句を言いたい人は、国乱れて忠臣あらわる、という古代からの歴史の原則に対し、実証的な反論を用意して出直すべきではなかろうか。そのあいだに物語りのほうは、自動的に佳境に進んでしまっている。
ところで、その救世主は男であり、学者であった。専門は古代からの歴史の研究。もっとも、大学者というほどのものではなく、また、地球の危機を見かねて、決然と立ったのでもなかった。この点は一般の物語りの定石に反しているが、事実を記述する際に、ためらいは許されない。第一、ソフトで、清潔で、闘争力まで失ってしまった怠惰な人類の一員に、立つことなどができるわけがなかった。くどいようだが、結果として救世主的なことになっただけなのである。しかし、成算が全然なかったのでもなかった。
彼はかつて発掘した、小型のタイムカプセルを所蔵していた。大むかしの地球、未開野蛮なる時代の人の手で埋められたものに、ちがいなかった。しかし、彼はまだ、その内容を知らなかった。あけて見なかったのだ。べつに、ふしぎではない。タイムカプセルの外側に文字が書かれてあり、彼にそれが読めたからである。大意はこうであった。
「宇宙から攻撃を受け、いよいよ最後という時にあけること。それまでは決してあけるな」
彼はそれに従ったまで。未開野蛮なる時代においては、あけるなと指示されると、すぐにあけたらしいが、この時代では、あけるなと指示されると、あけなかっただけのことなのだ。べつに、ふしぎではない。
彼は、いよいよ最後というべき時であろうか、まだ最後ではないのであろうかと、あれこれ考えたあげく、最後に、いよいよ最後と判断し、それをあけた。
なかには一枚の紙片が入っていた。「これを読め」とうながしている。一種の|呪《じゅ》|文《もん》のように思われた。彼はその簡単な文句を、くりかえし口にした。
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ……」
即座には、効能はあらわれなかった。呪文というものは、何回ぐらいくりかえせばいいのだろうか。彼はそれを知らなかったし、紙片にも、その指示はしるされていなかった。ばかばかしい気がしないでもなかったが、彼はつづけた。なぜなら、ほかに、どんな方法があるというのだ。彼は、呪文をとなえつづけた。未開野蛮なる時代においては、効果がないとすぐに中止してしまっただろうが、この時代では、そうでなかった。
そして、やがて、効能があらわれてきた。ケンタウルスからのケンタウルスたちが、あれほど猛威をふるっていたにもかかわらず、どことなく浮足だってきたのである。
彼はそれに勢いを得て、となえつづけ、ついに、ケンタウルスからのケンタウルスたちは、ケンタウルスへと撤退していった。
すべては、ケンタウルスからのケンタウルスの占領以前の状態に戻った。地球人は自分たち地球人を、だれはばかることなく地球人と呼べるようになった。畜生を畜生と呼べ、虫ケラを虫ケラと呼べるようになり、言語の混乱は消滅した。すべてとはいっても、完全にすべてではなかった。昔にくらべ、新しいことばがひとつ加わっていた。いまや、地球人の合言葉となった「なむあみだぶつ」のことである。
人と顔をあわせると「なむあみだぶつ」と、声をかけあう。子どもが生まれた時をはじめ、おめでたい時には「なむあみだぶつ」と、うれしそうに言う。もちろん、葬式のような不吉な場合には、使われなかった。
とくにケンタウルスからのケンタウルスの撃退記念日には、あらゆる人が、あらゆる場所で声をあわせ「なむあみだぶつ」と叫ぶ。大むかしにおいて、すでにこのことあるを予想し、このようなタイムカプセルを埋めておいてくれた人物、真の救世主、真の予言者への感謝をあらわすためである。
あのタイムカプセルを所蔵していた歴史学者が真の救世主ではなく、救世主的なものにすぎないと念をおしておいたのは、このためである。人びとは歴史学者に質問し、その真の救世主の名を知りたがった。学者はカプセルを調べて言った。
「まことに残念ですが、そのかたのお名前は、わかりません。謙虚なかたであったにちがいありません」
その真の救世主、あるいは物好きな人物と呼ぶべきであろうか、彼が天国でこれを知ったら、おそらく微笑したにちがいない。なぜなら、彼はカプセルのなかに、紙片とともに虫を封じこんだのであったからである。その思いつきのきっかけは、幼時にうけた虫封じの秘法からであった。だが、動機は、もっと深遠な慈悲の心からであった。彼は地球が清潔化の傾向をたどることを予想し、虫の絶滅するのをあわれみ、カプセルに入れたのである。人類絶滅のあとにおいて、ふたたび明るみに出られるようにと。さすが救世主となるだけのことはあって、心やさしい人物と言わねばならぬ。
ただ人類絶滅の時に開けるべしという指示が、指示どおりに行なわれたため、人類絶滅が人類絶滅でなくなり、人類絶滅を防ぐ結果になってしまったのは、唯一の誤算であった。しかし、救世主は神ではなく、あやまちをおかすこともある人間である。このことは、救世主の価値をそこなうものではない。
いっぽう、救世主の慈悲を理解せぬ虫たちは、カプセルの暗黒に閉じこめられ、うらみつらみを燃えたたせつづけていた。もし、ふたたび明るみに出ることがあれば、その時こそ、ただではすまさぬ。相手かまわず、ひとあばれしてくれよう。虫たちは数十世紀にわたり、おのれの能力を磨きつづけ、最高度に高めて、待ちかまえていた。
そして、その計画を実行したまでであった。もっとも、虫といっても、普通の虫ではなかった。虫から見て、虫ケラのごとき存在の虫であった。その名は水虫。水虫といっても、水に住む虫では……いや、こんなことは今さら説明の要もあるまい。また、人類は歯のみならず、足も退化し、この時代にはほとんど……いや、こんなことは今さら説明の要もあるまい。