よいの口といった時刻。わたしは伯父の家にいた。わたしの住むアパートからさほど遠くないところにある家だ。酒をごちそうになっている。わたしは酒が好きなのだ。酒が飲めるのなら、どこへでも出かけてゆく。雑談をしながら、伯父夫妻もいっしょに飲む。十七歳になるこの家の息子は、まだ酒の味を知らない。つまみをかじりながら、ジュースを飲んでいる。
玄関のほうでブザーが鳴り、男の声がした。あいそのいい口調。
「ごめん下さいませ。ちょっとお話が」
おしゃべりと酔いをじゃまされた。伯母は玄関に行き、不快げに応対した。
「なんのセールスマンかしらないけど、まにあってるわよ。これ以上なにかを買ったら、こっちには置き場がないし」
「そのようなご心配のないものです」
「いったい、なんのセールスマンなの」
「売春公社から参りました」
男は答え、伯母はあわててあやまった。
「あら、そうだったの。失礼なことを言ったりして、ごめんなさい。いやにあいそがよくなったんで、あたし、かんちがいしちゃったのよ」
「公社ともなれば、利益をあげなければならない。お客へのサービスを心がけようということになったわけです。といっても、追い返せない法的な裏付けのあることは、これまでと同じですがね。だからこそ、お客さまにいやな感じを与えないよう、サービスを強調することになったのです」
「利用者にとっては、そのほうがいいわ」
「さて、奥さま。きょうはどんな相手がよろしいでしょう。バスで連れてきた連中のなかの、男性の写真のアルバムです。このなかからご指名を。ご主人には、この女性写真のアルバムを。それから、こちらにはお坊ちゃんがおいででしたね。お坊ちゃんのお相手は、このアルバムのなかからどうぞ。早いところおきめ願います」
いやもおうもないのだ。これを拒否したら重罪になり、へたをしたら強制収容所に送られることになっている。伯父一家は健全な常識の持主であり、それぐらいはわきまえている。
「きょうはこんなところにしておくかな」と伯父が言い、伯母は「あたしはこれ」息子は「ぼくはこれでいいや」と、それぞれアルバムの写真を指さす。義務だから仕方ないとの、無感動の口調。しかし、公社員もそこまでは文句もつけられない。
注文がきまると、公社員は道にとめてあるバスに戻り、それぞれの相手役を連れてまた室内へ入ってきた。室内を占領していては悪いので、わたしは帰ることにする。
「では、またきます。きょうはごちそうさま。このお酒のびんはもらってゆきますよ」
そとへ出ると、となりの家では仕事が終ったらしく、公社員が家人に請求書を渡しながら話していた。
「はい、これがきょうの代金の請求書です。この金額を、月末におたくの銀行口座から引きます。預金額不足なんてことがないようにね。ここにサインを。では、まいどありがとうございます」
自分のアパートへ歩いて帰りながら、わたしは思う。公社はずいぶん巨額な金を動かしているんだろうな。大金を吸い上げている。むかしは、おそらく有史以来だろうが、売春ぐらい課税しにくいものはなかった。まあ不可能と思われていた。それがいまや、売春の脱税はなくなってしまった。個人営業の売春が禁止されているのではないが、やるやつなどない。公社の押売り的な売春がこう間断なくおしよせているという、げっぷの出るような状態のなかでは、お客のつくわけがない。
公社はその巨額な利益を政府に提出し、おかげでだいぶ税金が安くなった。たとえば酒の税金もいくらか下り、わたしはうれしい。世の中もよくなった。暴力団など消滅してしまった。情欲産業を政府がとりあげてしまっては、暴力団の資金源はもはや断たれたにひとしい。夜おそく街をうろつく青少年もいなくなった。あまり留守をつづけると、売春公社を忌避しているとにらまれ、いい結果にならないのだ。公社からの押売りを買ったあとの外出は自由だが、そんな気にもならないのだろう。
わたしがアパートに帰ると、ドアのそとで公社員がひとりの女を連れて待っていた。
「いまお帰りですか。お留守なのであしたにしようかと思いましたが、ちょうどよかった。ほかの部屋のかたに配給してしまい、いま残っているのはこの女ひとりですが、これで片づけちゃって下さいませんか。わたしも助かるし、あなたも助かる……」
「よしきた」
わたしはその女を室内に引きいれ、ベッドの上で簡単にことをすませ、送り出しながらドアのそとで待っている公社員に言った。
「すんだぜ」
「早くすませていただいて、ありがたい。最近は長く時間をかける人がへり、助かりますよ。はい、これが請求書。こういう書類はなくさないよう願いますよ。税金の経費控除の時に必要ですから。では……」
この街区の仕事がすんだのか、売春公社のバスは去っていった。|淫《いん》|蕩《とう》なメロディが遠ざかってゆく。室の窓からそとをながめると、商品広告のネオンが|卑《ひ》|猥《わい》な図形を夜空にきそいあって点滅している。もっとも、淫蕩とか卑猥とか感じたのは最初のうちだけで、いまはだれもそんなふうに感じはしなくなっているのだろうが……。
わたしはベッドの上にもどり、伯父の家から持ってきた酒を飲みながら、ぼんやりと考えごとをする。なんということなしに、あの日のことを思い出す。
当時、わたしはあるテレビ局のディレクターだった。生放送のショー番組の担当だった。しかし、どうにも視聴率があがらず、それで頭を痛めていた。上部からは視聴率を高めろと強い命令。「それなら裸を出すしかありません」と答えると、それに対してはうやむや。それをやった場合の世論の反撃がこわいのだろう。いくじなしめ。だったら視聴率に文句をつけるなってんだ。
しかし、低視聴率は自分にとっても不快なことだ。やはり、さりげなく、いとも芸術的に裸のシーンを|挿入《そうにゅう》するのがてっとり早いんだろうな。出演者にリハーサルをやらせながら、わたしは台本をめくり、どこにそれを加えようかと考えていた。自己の責任で決行してしまおう。批難もあるだろうが、なかには、よくぞタブーに挑戦した、あれは芸術だと、進歩的紋切り型であってもほめてくれるやつがいるかもしれないものな。だが、こういうことは、なかなか勇気がいることなのだ。わたしは迷っていた。
その時だった。
スタジオのなかに、兵士たちがどやどやと乱入してきた。彼らの階級がどうなのかわたしには見当がつかなかったが、兵士たちであることはたしかだった。兵士姿のタレントであるか、本物の兵士であるかぐらいは、ディレクターであるわたしにわかる。みなが手にしている銃が小道具でないことも。|呆《ぼう》|然《ぜん》としていると、一隊の指揮者らしいのが腰の|拳銃《けんじゅう》をいじりながら言った。
「この番組の責任者はだれだ」
「わたしです。どんなご用ですか」
「われわれは社会の現状にあきたらず、同志が計画し、改革のために決起した。クーデターだ。すでに都市を制圧、政府の権限を掌握した。各マスコミ機関にむかっても同時に行動をおこし、このテレビ局はわれわれの部隊が完全に占拠したというわけなのだ」
「それは知りませんでした」
「電光石火で行動すれば、クーデターは成功するものなのだ。大衆は、だれしも命が惜しいものな。きさまはどうだ」
命を捨てるのが好きなやつなど、いるわけがない。わたしは言った。
「どうか、お手やわらかに。で、番組を中断して臨時ニュースを流せとでも……」
「いや、政府はすでにわれわれの手中にある。あわてることはないのだ。このショー番組を放送してもいいぞ。ただし、きさまが頭のなかで考えている形でな……」
「どういう意味でしょう」
わたしは相手の真意をはかりかねた。すると指揮官は言った。
「台本も音楽もそのままでいい。しかし、出演者全員を裸にしてやるのだ。いやならこの番組を中止し、われわれの用意のフィルムで代用するが、新政権には協力的なほうが身のためだぞ」
あと二、三の問答があったが、武装した兵士たちに対しては反抗しないほうがいい。しだいに、やけくそになってきた。出演者たちも強くは反抗しなかった。いまや世の中、いくじのないやつばかりなのだ。あるいはこのごろの出演者たち、裸になるのが平気なのかもしれない。われわれは要求に従い、そして、その通りの放映となった。もしかしたら視聴率の新記録となるかもしれない。わたしはちょっとそんなことを考えた。
まさしく革命的なことだった。この瞬間を境にして、古い秩序が崩れて時のかなたに消え去り、新しい世紀が出現したのだ。しかし、そんな認識どころか、その時は無我夢中、極度の緊張のうちに番組は終了した。そのへんの電話はひとつも鳴らなかった。交換台も占拠され、抗議電話の取次ぎが禁止されていたのだろう。
そのつぎの番組として、クーデター部隊の持ってきたフィルムが放映された。いわゆる、いかがわしいフィルム。温泉地などで、ひそかに高い金をとって上映されるという、あのたぐいのやつだ。それがいま、非合法から合法の世界に移ってきたのだ。
それは社会に対し、はなはだしく衝撃的な事態のはずであり、事実そうだったのだが、衝撃がそういつまでも衝撃的でありうるはずがない。なにしろ、それから連日連夜、そのたぐいが放映されつづけているのだから……。
テレビ局ばかりでなく、新聞社や雑誌社もクーデター部隊の支配下になった。いかがわしい記事やグラビアがどのページをも占めた。またクーデター部隊についての記事ものった。それによると決起の旗印は「情欲こそ愛であり連帯であり平和であり、原始生命力への回帰であり、文明の原点である」ということにあるのだそうだ。都会の東の郊外にある部隊のなかで、その新社会実現への計画がねられ、この行動になったという。
あまりに電光石火、あまりのことに人びとは驚き、ついで呆然となり、そのすきに政府は革命委員会の権限下に移り、呆然からさめた時は、だれもこの体制になれてしまっていたというわけ。個人財産尊重の公約はまもられ、そのため抵抗が少なかったともいえた。
革命委員会は「大衆の要求を先取りし、それを理想的な形で社会に提供し、奉仕しているのである」と張り切って仕事に熱中している。大衆はこれが好きなはずだとの固定観念にとりつかれた形。
わたしはテレビ局でのすなおな応対ぶりが気に入られたのか、引き抜かれ、いまは臨時革命司令部に直属する文化部長の地位にある。さほど収入がふえたわけではないが、移ってよかったと思っている。あの日以後、一時的なブームが過ぎると、テレビ界はいやに不景気になっている。番組がすっかりマンネリ化してしまったのだ。
朝の出勤。わたしも普通のつとめ人と同様に、八時ごろに家を出ることにしている。だが、これもいまやなれてしまっている。なれればなんでもなくなること、ラッシュもまた同じ。それに、車内での行事も……。
新しい法令で、だれでも外出の時は、十枚の小さなカードを身につけて家を出なければならないことになった。まさに文字どおり身につけてだ。皮膚と下着とのあいだに、それを入れておく。なんのために。もちろん他人にとらせるためだ。すなわち、人は他人のそれをとらなければならないのだ。
こんだ電車に乗ると同時に、わたしはそばの女性の下着のなかに手をさしこみ、カードをさぐる。カードがあった。それを引き出し、自分の胸のポケットにしまう。スリに取られないよう注意しながら、つづいて、もうひとり。早いところ、規定の枚数を集めてしまったほうが気が楽だ。事務的そのもの。美人かどうか、若いかどうかなど、かまっているひまはあるものか。もちろん、最初のうちは目もくらむような刺激と興奮の行事ではあったが……。
だれかがわたしの下着のなかに手を入れ、カードを抜き出していった。そのついでに、こちょこちょとくすぐりやがった。あははと笑わされる。この平凡化した行事になんとか変化をつけようという、こまやかな神経を持った女性だろう。どんな人か、ふりむいて顔を見るのはめんどくさかったが。
このカードは各個人がこうして集め、定期的に役所に提出し、そこでコンピューターによって集計される。それは革命政府への忠誠度の参考にされる。しかし、そういう堅苦しい面だけではない。たくさん集めると、その枚数によって景品がもらえるのだ。性の解放という目標のためには、こういった計画もまた必要なのだ。
ラッシュの車内で、男の声がした。
「あれ、この女、いま乗ったばかりなのに、カードを身につけてないぞ」
「あたしが魅力的なので、たちまちのうちになくなっちゃうのよ」
と女が弁解したが、男は不審げだ。
「おかしいな。以前なら魅力的な女性のがまっさきにねらわれたが、いまどきそんなことはないはずだ。はじめから身につけていなかったんじゃないのか。アンフェアーだ。おれは薄給のサラリーマン。カードを集めて景品をもらうのが楽しみなんだ。それなのに、こんなことってあるか……」
言いあいがはじまった。だれかが車内のベルを押し、車掌が人ごみをかきわけてやってきて、検札をはじめた。近くの人たちの集めたカードを調べたが、その女からのカードはなかった。車掌は女に言う。
「困りますね。カードを身につけず乗車するなんて、規則違反ですよ」
「すみません。忘れてきちゃったの」
青ざめて答える女を、車掌は許さない。
「忘れたじゃ、すみませんよ。通勤者はだれでも最も注意すべきことです。あなたはこの行事に反感を持っているのでしょう。純潔主義者の疑いがある。わたしはあなたを、鉄道公安官に引き渡す義務がある」
そして、つぎの駅で女を引っぱり下した。そのあとの車内、知りあいどうしか、こんな会話をかわしている人たちもある。
「あの女、有罪になるんでしょうね。そして、売春公社の監督下で、何年か働かされることになるんでしょうな」
「たぶんね。あるいは、もっと重刑でガス室送りとなるか……」
臨時革命司令部の文化部長というのがわたしの地位だ。テレビ局にいた時にくらべ、ずっと楽だ。テレビ局の時は、上役だのスポンサーだのタレントだの、周囲から文句のつけられっぱなしだったが、ここでは上は革命委員会だけとくる。そのごきげんを損じないよう気をつけていればいいのだ。あとは適当にいばっていればいい。酒を飲みながらでもやれる。いい気分だ。わたしは部下に言う。
「おい、ほうぼうの生産会社への通達はちゃんとやってあるか」
「はい。製品の形、容器、コマーシャル、すべてにわたってもっと卑猥にしろとの通達ですね。やってあります。しかし、工業デザイナーの不足とかで、実現はおくれているようで……」
「進行していればいいのだ。少年部隊の活動状況のほうはどうだ」
「はあ。順調です……」
部下が報告する。子供を組織し、おだて、旧思想の摘発をやらせるという方法。むかしのヒットラー・ユーゲント以来、強引な政権交代があるたび、よく使われた手だ。このたびもその陳腐な方法が採用されたというのは、ほかにそれ以上の名案が浮かばなかったせいだろう。子供というものは、おとなをやっつけたくてたまらないのだ。だから、それへの大義名分をもらうと、大喜びでそれに熱中する。それに熱中させておけば、ほかのよけいなことを思考せず、政権にとってこんなつごうのいいことはない。
少年部隊は街へくりだし、気にくわぬおとなをつかまえ「おまえは旧思想の持主だろう。純潔が好きそうな危険人物の疑いがある」と詰問する。愚連隊に因縁をつけられたのと同じで迷惑なことだが、公認の行為となるとすげなくもできない。「はい、旧思想の持主です」と答えるやつのあるわけがないが、それが形式なのだ。子供たちは「いや、そうにちがいない、自己批判を求める」と黄色い声で大さわぎ。あげくのはてピンク色の小冊子をつきつけ「忠誠心のある証拠に、これを大声で読め」と言う。
その内容は卑猥きわまる文句の|羅《ら》|列《れつ》。おとなは赤くなり、どもり、子供たちは大喜びではやしたてる……。初期にはそうだったが、いまや万事が形式化し儀礼的になってきた。何回もくりかえせば、いかに純情なおとなだって、そうそう顔の赤くなるわけがない。わたしの部下は、報告のあとにつけ加えた。
「各学校に配属してある将校たちからの要望ですが、このところ少年部隊の行動が形式的になってきた。ピンク色の小冊子の内容を、もっと刺激的にできないものかとの声があります」
「そうか。では、だれか作家をつかまえてきて、それをやらせてみろ。なるべくうぶな作家のほうがいいぞ。そんなやつのほうが妙にリアルな文章を作るだろう」
わたしの机の上には、婦人団体からの活動報告書もとどく。中年婦人たちが〈革命婦人会〉というのを組織し、その名入りのタスキをかけ街頭に立ち、和服姿の女が通ると、呼びとめてハサミですそをちょん切り、ぐっと短くしてしまう。「和服は伝統文化よ」と反論しても、容赦しない。高価な着物もめちゃめちゃ。女が同性に対して残酷なことを、あらためて知らされる思い。
しかし、いずれにせよ、生活と社会にひとつの目標ができたのはいいことだ。このあいだまでは、ぬるま湯のなかのてんでんばらばらのような形だった。革命政権は、少なくとも目標だけは大衆に与えたのだ。
もっとも、この新政策による被害者がないこともない。それらは手づるをたどって、わたしのところへ陳情にくる。たいてい代議士がいっしょにくる。代議士もいまではさほど権限がないのだが、身についた習慣なのだろう。きょうは映像産業の会社の連中がやってきた。
「ねえ、部長さま。ひどい大赤字なんです。このままだと、映像産業、軒並み倒産です。映像芸術の危機です。なんとか手を打っていただけませんか。少し引き締めをやっていただくとか……」
「ふん。検閲を復活し、テレビから裸を引っこめてくれというのだろう」
わたしは酒を飲みながら応対する。
「はあ、そんなようなわけで。どのチャンネルを回しても、のべつまくなし卑猥シーン。芸術に仕上げようがありません。映画館にもまるで客がこないのです」
「なにいってやがる。むかしのことを考えてみろ。芸術でござい、必然性でござい、だから裸を出すのだ、検閲反対とぬかしてたくせに。いまはそれが自由になったのだぞ。芸術的で必然性のあるのがいくらも作れる。大もうけできるでしょうに。あはは」
そのへんの心境は、わたしにはよくわかる。かつて自分もそう考えてたことがあったのだから。さっとテレビ局をやめておいてよかった。陳情団はぺこぺこ頭を下げる。
「ごもっともですが、そこをなんとか……」
「だめだね。しかし、革命政権の方針に協力的なものなら、いくらか補助金を出してもらうよう努力しましょう。うん、忠臣蔵なんかいい。四十七士を女にし、みんな裸になさい。新鮮で強力な卑猥な文句を、一分間に一回の割で出せ。政府推薦に指定してあげる」
「むりだ。できっこない。第一、新鮮な卑猥文句をそう作れる天才的脚本家なんか、いませんよ。わいせつのアイデアは、もう出つくした。わいせつとはかくも底の浅いものだったか。思い知らされた。過大な幻影を抱いていたむかしがなつかしい」
「ふん……」
「ですから、せめて、テレビについてだけでも検閲を……」
わたしは腹が立ってきた。
「くどいね。だまって聞いていると、いい気になりやがる。裸への検閲はだな、この革命の根本問題に関することだぞ。反革命の不穏な考え方だ。おい、あっちの部屋へ来い」
やつらを会議室に入れ、わたしは部下に命じ、革命委員会所属の御用学者を連れてこさせた。週刊誌だの、風俗営業だの、新体制になって困った陳情団の相手は、そいつにやらせることにしているのだ。わたしは学者に言う。
「こいつら、救いがたい旧思想の持主だ。よく説明し、わからせてやれ」
「はい……」
その細おもての眼鏡をかけた学者は、陳情団に解説しはじめた。
「……いいですか。性の解放はですな、人類の長いあいだの理想でした。この点はおわかりでしょう。偉大なる革命委員会は、それを実現して下さったのでございますよ」
「しかし、なにもこう急激にしなくてもいいでしょうに」
「なにをおっしゃる。理想実現におそいほうがいいだなどと。急激こそ正当なのです。これまでの性についてのなんやかやは、すべて金もうけか売名につながっていた。売らんかな以外の、なにものでもなかった。すなわち営業反タブー。性のタブーに挑戦するような顔をし、実情はタブーから金を吸い取る寄生虫。ところが、いまやその|宿主《しゅくしゅ》がなくなり、うまい汁が吸えなくなって、寄生虫どもが大あわて。えへへ。そんなところじゃありませんかね」
さすが御用学者だけあって、もっともらしく説明している。陳情団は頭をかく。
「お説はごもっともですが、そこをなんとかひとつ……」
「おなじ宿主を食いつぶすにしても、時間をかけて少しずつやるつもりだった。その予定が狂っちゃったんでしょう。頭を切りかえなさい。そのような、こすっからい、中間搾取的、社会の無駄的、プチブル的、あさましく、ものほしげな寄生虫的な芸術の時代は、もはや終幕なんですよ。うすぎたない手法が通用したむかしをなつかしんではいけない。われわれはいまや、それらを一掃したのです。これからは性のタブーを脱却した、真の芸術をうみ出さなければならない。|欺《ぎ》|瞞《まん》と退廃は過去のものだ。これこそあなたがたの神聖なる使命でしょう」
御用学者は手を振りまわし、演説口調で勢いがよかった。
「どんなふうな芸術を作ればいいんでしょうか。せめてヒントだけでも……」
「そんなことは、ご自分で考えなさい」
「ちっとも考え浮かばない。ああ、こうなったら首でもくくる以外には……」
「時代の進歩について行けず、企業家が倒産し、何人かが自殺なさっても、お気の毒だがやむをえない。これははっきり申し上げます。いや、わたしの説じゃないですよ。革命委員会の財政関係のおえらがたのお話です。うらむのならそっちを……」
陳情団のやつらはべそをかきはじめた。
「ああ、なんとひどい。むちゃだ。これこそ言論統制だ。弾圧だ。このままだと、遠からず戦争に突入する」
「困りますな、そういう不穏な意見は。この政策こそ平和の基礎なのですよ。戦争に進みかねない精神の余剰エネルギーを、これで消滅させているのですよ。平和達成には、ほかに方法はないのです。この原則については、科学者、歴史学者、社会心理学者、その他の連合会議で、はっきり結論が出たでしょう。ご存知のはずですがな。また、永遠の安定の基礎でもある。不穏なる反抗エネルギーも消されるからです。平和と安定、人類の長いあいだの理想でした。そう泣きなさんな。おめでたいことですよ、これは。あはは……」
まだ泣きつづけている陳情団のために、ついてきた代議士がとりなして言った。
「まあ、そうきついことをおっしゃられては、みもふたもなくなりますから……」
それにわたしは答えてやった。
「おいおい、先生。大衆のためを忘れ、こういうひとにぎりの反タブー業者の肩を持つなんて、選良の名が泣きますよ。大衆の大部分は喜んで適応している。革命政府のため、国会に委員会でも作って活躍して下さい。むかし、アメリカにいたそうですよ。非米活動調査委貝会とかいうのを作り、反政府的な連中を呼び出してつるしあげ、恐怖の旋風となって、そいつらをふるえあがらせたそうです。その新版をやって反対傾向者の摘発をやれば、名があがりますよ。あっはっは」
元気づけてやろうと、わたしは大笑いしてやった。しかし、連中は笑わず、力ない足どりで帰っていった。ひとりは帰ろうともせず、床にすわりこみ、うらめしげにこっちを見あげている。いやな感じだ。わたしは部下を呼んで命じる。
「おい、こいつはどうしようもない。地下の留置場にほうりこんでおけ。革命委員会に申し出て、ガス室送りに加えてもらう」
ガス室という言葉で、そいつはびくりとし、ますます泣きわめいた。それなら、はじめから協力的になればいいのだ。しかし、許すことはできない。こんなやつはみせしめにガス室に入れねばならぬのだ。
わたしは革命委員会の本部の建物へ出かける。一日に一回、連絡のために出むかなければならないのだ。酒気をおびてでは、ぐあいが悪いので、濃いコーヒーを二杯ほど飲んでからにした。
委員会を構成するおえらがたは、みな将校で働き盛りの年齢。それはまあ当然なのだが、わたしにはふしぎに思える点がひとつある。普通のクーデターだと、中心となるいささか神がかった指導者がいて、その統制のもとに進行することになっているが、ここではみな同格。合議制なのだ。よくこれで電光石火の政権奪取ができたものだ。新型のクーデターというべきか、だれか裏に黒幕の大物がひとりいるのか、そのへんになるとわたしにはわからない。しかし、どうでもいいことだ。
おえらがたたちは会議をしていた。わたしは部屋のすみで傍聴した。革命委員会の者はひげをはやし葉巻を吸うべきではないかとの件を論じあっていた。ひげも葉巻も性の象徴であり、そうするのが使命にそうのだとの論拠だった。笑ったりしたら大変なことになる。性の解放という革命の本質を愚弄したなと怒られることになるのだ。
会議が終るのを待ち、わたしは「ガス室送りの一人追加」を申し出た。それは受理され、すぐに開始するとのことだった。わたしは電話をかけ、さっきのやつをここへ連行してくるように命じた。
ガス室というのは、密閉されたコンクリートづくりの建物。ここ本部の中庭にある。きょうそれに入れられる数十人の男女は、兵の銃剣でおどかされ、その入口ちかくに集っていた。兵士たちは言っている。
「さあ、さあ。みな服をぬいで裸になるのだ。シャワーをあびるのだから、服をぬいでもらわなければしようがない」
銃剣で追いたてられては、反抗することもできない。みな裸になり、入口からなかに押しこまれる。そのあとでドアがぴっちり閉められ、合図によって、ボンベのボタンが押される。ガスの噴出する音がする。密閉された建物だが、内部にマイクロフォンがあり、外部に音が伝えられ、それを聞くことができるのだ。ガスの作用が人体に及びはじめたのだろう。やがて、男女のうめき声が流れてきた。それはしだいに大きくなり、野獣のごときわめき声になる。そとの兵士たちは、にやにやしながら時間の経過を待っている。
このガスには、性欲を極度に高進させる作用があるのだ。いかなる純潔主義者であろうと、それにたちうちはできない。そのうめき声はラジオで放送され、さらに内部の光景もテレビで中継されている。当初は好評だったが、いまやどれぐらいの人が関心を持っているだろうか。ほとんどいないんじゃないだろうか。音痴の歌を聞かされるようなもので、ちっとも面白いものじゃない。しかし、ガス室内の当人たちにとっては、非常な精神的苦痛。むかしの踏み絵のごとく、死に等しいことといえる。
数時間がたち、ガス室内の空気は入れ換えられ、ドアが開いて人びとが出てきた。みな廃人のごとく、息もたえだえ。兵士たちは言う。
「どうだ、シャワー室の気分は。石けんで脳のなかまできれいに洗い流したような気分だろう。ガスのシャワーで旧思想が消えさったことだろうな。そうあってほしいよ。あっはっは」
この効果はたしかにある。新しい体制を受け入れ、売春公社に適応して日常生活をおくるほうが、ガス室よりはまだいいとなっとくするのだ。よほどの異常体質でない限り、当り前のことだろう。
しかし、きょうはガス室から出てきたやつのなかに、まだねをあげないやつがいた。学者タイプの男だった。「このような非人道的なことは許せない」などと毒づいている。まだ元気が残っているらしい。あるいは反抗だけが生きがいという性格なのだろうか。どことなく気ちがいじみていて、薄気味わるい。それに対し、おえらがたの一人が言った。
「くだらぬ反革命的なたわごとをしゃべっちゃ困りますな。あなたは危険思想の持主ということで、大学から教職追放になっている。あなたのようなのを曲学阿世というんじゃないのかな。そうそう、あんたの著書は発禁になり、回収されて燃やされたのだったな。いいかげんでこりて、転向しなさいよ」
「いやだ、思想の自由はないのか……」
「無制限の自由なんてないのだ。核兵器を好きな時に発射する自由が許されないのと同じことだ。あっはっは。それにしても、あんたはしぶといね。こうなったら粛清委員会にまわされるよ」
「銃殺にされるのか」
「革命委員会はあまり流血が好きじゃないのだ。史上初の無血革命という記録をめざしている。だから、足をセメントでかためて海へほうりこむ方法かもしれないな。あるいは、古代中国の皇帝が学者を殺した方法、穴に生き埋めとなるかもしれない。早く改心したほうが身のためだぞ」
「勝手にしろ。あくまで反抗する」
その時、おえらがたのところに、兵士がやってきて報告した。おえらがたはうなずき、その頑固な男に言う。
「ちょうどよかった。生体実験用の施設が完成したそうだ。適当な実験材料を求めている。あんたをそれにさしむけることにする」
おえらがたはわたしをさそった。
「……ついでだから、見学して行かないか」
ついて行くと、それは小型のガス室といった感じのものだった。
「どんな生体実験をやるのですか」
「新種の強力ガスが開発されたのだ。オール生物ガスという。いままでのガス室のやつは、人間だけにしかきかなかった。しかし、この新しいガスは、人間ばかりか、|哺乳類《ほにゅうるい》すべてに同時に作用するはずなのだ。革命科学の偉大なる成果だ。ゴリラ、キリン、ブタ、ゾウ、すべてにきく。その実験をやろうというのだ。きょうは、動物はライオンとラクダとブタしかいないが、まあ、それでもいいだろう。それらといっしょに、あの男を押しこみ、ガスを噴射して効果をたしかめようというわけさ」
「テレビ中継もやるんですか」
「それはまだ検討中だ。外国が因縁をつけ、内政干渉的なことを言ってくるかもしれないからな。やつら、暴君ネロを連想するおそれがある。現実は有意義なことなのにな。で、見物するかい」
「疲れたので、音のほうを聞きながら、むこうの部屋で休ませてもらいます」
わたしは言った。疲れているわけでなく、じつはアルコールへの欲求が高まっているのだ。失礼してその補給をさせてもらいたい。見物したところで、どうってこともあるまい。いまのわたしには酒のほうが先決なのだ。
わたしは別室でポケットびんの酒を飲んだ。生体実験の音が聞えてくる。ライオンの|牝《めす》の悩ましげな声。まったく、科学の進歩はいろんなものを作り出すな。動物の種別という壁を破り、人類は情欲の世界をさらに拡大する。生体実験が重ねられ、やがて一般に実用化され、普及することになるのだろうな。家庭用の燃料ガスにまぜられて、送られてくるということにもなるのだろう。そうなったら、性の余剰エネルギーを消すというより、むりにしぼり出して捨てるといった形だな。なるほど、平和にもなるさ。なかには、体力がつづかず早死にするやつも出てくるだろう。しかし、それが自然|淘《とう》|汰《た》というものだ。優秀な人間だけが残ることになる。委員会のおえらがたも言っていた。かくして、わが民族は世界に冠たるものになるのだと……。
まあ、こんなところがわたしの毎日なのだ。しかし、いささかあきてもきた。できるものなら、もっと楽な部署に移りたい。その理由は、もっと酒に親しみたいからだ。わたしはある日、革命委員会に出かけたついでに、おえらがたに申し出てみた。
「ひとつ意見がございます。ここらあたりで、この輝かしい革命の歴史的記録を作っておくべきではないでしょうか。有史以来の画期的なことでしょう。後世に誤解をともなって伝えられては、残念でございましょう。ええ、もちろん、わたしがうまくまとめてさしあげます。ご満足いただけるよう、すばらしいものに仕上げますが……」
人間だれしも、こういうことに弱いようだ。おえらがたは言った。
「うむ、そうだな。社会改革の使命に熱中し、すっかり忘れてしまっていたが、それはたしかに重要なことだ。やっておかねばならぬ。いい進言をしてくれた。堂々たるものを作ってくれ。きみに一任する」
かくして、わたしは革命史編集部長という地位に移ることができた。これなら毎日、報告のため出頭しなくてもいいし、酒だって大っぴらに飲める。また、このクーデターの発生について、好奇心のようなものもあったのだ。いったい、なにがきっかけでこの運動に火がつけられたのか、できるものなら知りたいのだ。それに、さしたる抵抗もなく社会に定着してしまったことも。むかしの常識でおしはかると、いくらなんでも早すぎる気がする。これらの疑問点、この肩書きがあれば調べてまわることもできるというものだ。
最初の一週間ほど、わたしは構想をねると称し、酒を飲みながら事務室ですごした。仕事そっちのけでというわけではない。命令書の控えなどをとりよせそろえ、飲みながらそれをながめたりした。そのうち、それらのなかから、ひとつの傾向といったものが浮かびあがってきた。
都市の東の郊外にある部隊所在地。そこがすべての発生源なのだ。そこを中心として、木の年輪のごとく、水面の波紋のごとく、クーデターによる社会の変化がひろまっていったのだ。たとえば、そこから遠くはなれた地方では、はじめのころは反対運動もあったのだが、波紋が及んでくるにつれ、波動の共鳴に巻きこまれるようにそれもおさまってしまったというぐあい。なにかそこに、未知のものがありそうではないか。
その謎を知りたいという思いが高まり、ある天気のいい日、わたしは部下に車を運転させ、その部隊所在地へ視察に出かけた。いまの仕事の上からも、革命解放軍の発生の事情を知っておかねばならぬ。クーデター発生前ならそれらは極秘だったろうが、いまはその禁もない。また、わたしの肩書きもある。というわけで、その部隊関係者は内部を案内しながら、質問に応じて説明してくれた。
「そうですなあ。ええと、そもそものはじめはどうだったかな。そうだ。クーデター計画はむこうの将校たちの宿舎でまず動きがみられ、こちらの一般兵舎のほうに気運が波及してきたのでした。そういえば、ふしぎでないこともありませんな。わたしなんかも、こんな社会にしようなど、それまでは夢にも考えたことがなかった。それなのに、計画を打ち明けられた時、なんの抵抗もなく心が受け入れたのですよ。そして、いまに至るも後悔はない。世の流れというものでしょうかね」
「わかったような、わからないような話ですな。正しい記録を残すために、もう少しくわしく知りたいのです。将校団のうち、最初に言い出したのはだれで、つぎはだれでしたか……」
将校宿舎のほうをつぎつぎに訪問し、聞きまわり、おおよそを知ることができた。部隊周辺の地図にその順を記入し、考察しなおす。すると、ひとつの傾向がそこにはっきりしてきた。地図の等高線、天気図の気圧線、それらのように描いてゆくと、波紋の発生中心点があきらかになっていったのだ。だが、将校宿舎のそとの、少しはなれた地点となる。地図の上でその推定点を指さし、わたしは聞いた。
「ここになにがある」
「病院があります。民間の、長期療養患者をおもに扱っている病院です」
「やっぱりそうか。精神病院だろう」
「いいえ。ちがいます。普通の病院です」
わたしの予想ははずれたが、いずれにせよ、そこに謎のもとがあることはたしかだ。歩いて行ってみる。松林のなかの、きれいな病院だった。名刺を出し、院長に面会を求めて質問する。
「ここに頭のおかしな患者がいるはずだが」
「いや、ひとりもおりません」
またも否定的な返事だった。
「いるはずだがな。しかし、いちおう内部を見せてもらうよ」
「ご自由にどうぞ」
わたしの肩書きは強力だった。革命委員会の直属となると、どこでも通用する。病院のなかを一巡したが、とくに不審な患者はなかった。しかし、ひとり目にとまったのがあった。個室のベッドの上で、じっと眠ったままの三十歳ぐらいの男。わたしは看護婦に聞く。
「あの患者、寝たきりのようだが……」
「そうなんです。お気の毒なのです。かつては健康だったのですが、いまや目も耳も口も不自由。その三重苦どころか、からだも動かせない。神経と筋肉が|麻《ま》|痺《ひ》してしまったという症状です。すぐに死ぬという心配もないが、なおるみこみもない。それで、ずっとあのままというわけで……」
「頭もぼけているのだろうな」
「いいえ、脳波の検査によりますと、頭脳は正常だそうですわ」
「たしかに気の毒きわまる人だな」
わたしは同情した。まともなのは脳だけというわけか。わたしは病院の応接室に戻り、ひとりあの患者の心のなかを想像した。目も見えず耳も聞えぬという、そとの世界からまったく|遮《しゃ》|断《だん》された永遠の暗黒と静寂のなかで、正常な頭脳を持てあましながら生きつづけている。いっそ死にたいと思っているのじゃないだろうか。そうだろうな。しかし、からだも動かせず、口がきけないので、実行することもその意志を他に伝えることもできない。口から流し込まれる流動食を拒否することもできない。そんな患者の内心はどうなのだろう。ひたすら|妄《もう》|想《そう》を描く以外に、することはないのじゃなかろうか。で、どんな妄想をだろう……。
ここに至って、わたしの思考のなかで、二つが連絡しあった。この性の解放という革命の現象と、この患者の存在とが。この患者、脳のなかで妄想をくりひろげつづけ、妄想と遊ぶほかにすることはなにもないのだ。かつて健康だった時の体験か愛読した小説の記憶などをもとに、性的な妄想を追い求め、くりかえし、築きあげ、強め深めてゆく。それは行為となって発散することがなく、その不満は妄想の度をさらに強める一方となる。そのあげくはどうなるのだろう。決して行為となりえない代償作用で、やがては、思念の波となって目に見えぬ力を他に及ぼすようなことになるのでは……。
波紋のようになる。近くの部隊の人員をも巻きこみ、その思念の波紋とともにクーデターはひろがり、このような世の中を現出させてしまったのでは……。
わたしはこの仮定を、酒を飲みながら、心のなかでいじくった。そうであるようにも思えるし、そうでないのかもしれない。たしかめる方法は……。
たしかめる方法は、ないわけではなかった。あの患者の生存を停止させてみればわかる。それで世の変化がおさまれば、仮定の正しさが証明されることになる。しかし、その実行にはためらいがともなった。このようなことは許される行為だろうかと。わたしはしばらく考えた。しかし、好奇心は押えられない。それへの理屈づけがしだいにできてきた。あの患者も、むしろ死を望んでいるのかもしれない。安楽死の議論の、つごうのいい部分だけが思い出されてきた。それにだ、現実の問題として、わたしには革命史を編集するという、崇高にして絶対的な任務がある。それに必要な行為であり、委員会だって是認してくれるだろう。
決心までにかなり時間はかかったが、やがてわたしは応接室から出て、その病室へ行った。巻きぞえにしては悪いので、院長たちには黙って。患者は身動きもしない。わたしは手術室から持ち出してきたメスを振りあげ……。
通りがかりの看護婦がわたしに声をかけた。
「いま臨時ニュースで言ってましたが、ほうぼうで、革命委員会の内部でも、現状についてなぜか急に、反省の声があがりはじめたそうで……」
やはりそうだったのか。すべての現象は、わたしがいま殺したあの患者の妄想で作られていたのだな。その死とともに、|呪《のろ》いがいっぺんにとけたのだ。仮説が証明されたことで、わたしは満足し、うなずいた。しかし、看護婦はわたしを見て大声をあげた。
「……あら、その血はどこで」
「あの患者の血がかかったのです」
「それは大変。みなを呼びますから、決してお動きにならないように」
わたしはなんのことやらわからなかったが、そこに立っていた。看護婦の絶叫で、防護服のようなものを身につけた医師たちがかけつけてきて、わたしはとり押えられ、ベッドに固定された。
「なにごとです、これは。わたしをつかまえるのなら、革命委員会の指示がいりますよ」
「そんなことではありません。あの患者は伝染性の病気だったのです。ほっとくと、あなたもあんな症状になりかねない」
「なんですって。あの患者は交通事故のたぐいで神経がやられたのかと思ってました。それに、そんな危険な伝染病らしい扱いじゃなかったじゃありませんか」
「ええ、特殊な病気なので、普通では伝染しません。血液が危険なのです。血液のなかに伝染力のあるものがあると精密検査でそれが判明しました。しかし、あの患者は身動きできず、したがってけがをして血を流すこともない。蚊の警戒だけでいい。そのため、あの程度の扱いでもよかったのです。あなたは、とんでもないことをなさった。あの血をあびてしまったとは。いちおうの手当てはやってみますが、うまくゆくかどうか……」
ひどいことになった。わたしはここの病室に閉じこめられることとなった。革命委員会だって、助けてはくれないだろう。医師の心配どおり、手おくれであることがあきらかになった。症状が急速に、わたしのからだにあらわれてきた。もはやじたばたしても……。
じたばたしようにも、筋肉は動かず、口はきけず、やがて視力も聴覚も失われてきた。殺人のむくいだ。天罰なのかもしれぬ。しかし、死ではないのだ。意識がうすれてもくれない。それどころか、気の散りようがないためか、頭はさえる一方だった。そして、その頭の使いみちは……。
建設的なことを考えたって、意味がない。考えついたところで、それを世に伝える日はこないのだ。はてしない時間だけを持てあます。頭に浮かぶことは、妄想だけなのだ。妄想は夢につながり、夢は目ざめると妄想へと連続する。もちろん、わたしはここで妄想をするとどうなるか、その事情を知っている。くだらぬ妄想を作りあげ、社会に迷惑を及ぼすのだけは自制しようと努力した。いまになって静かに回想すると、あの性の解放という事態は、悪夢としかいいようがなかった。このへんで打ち切りにしてやるとしよう。それに、性の解放にはあきてしまい、妄想となってわきあがりようもないのだ。
しかし、死は訪れてこず、暗黒と静寂にとじこめられた時間は、いつ終るともしれずつづいている。頭脳は働きたがっている。世のために性的な妄想を避けることは、さほど苦痛ではなかった。べつなことに思考の重点を移せばいいのだから。
わたしは酒についての思い出をなつかしんだ。酒はよかったなあ。わたしはアルコールむきの体質なんだろうな。それへの熱望だけは、いまだになくならない。いや、ますます強くなるばかりだった。酒、酒、酒。世の中に酒があふれんばかりになればいいのに。みながたえまなく酔っぱらい、にぎやかに毎日をすごす社会なんて、いいじゃないか。悪いことはないはずだ。酒こそ人類の連帯であり、愛であり、文明の原点であり、機械化時代から人間性をとりもどす唯一のものだ。すべてがなごやかになり、戦争に突入する心配だってなくなるだろう。平和のためなのだ。クーデターでもやって、あらゆる飲食物にアルコールをまぜるよう指令し……。
わたしの頭のなかの図は、しだいに鮮明になってゆく。時どき反省もする。こんな妄想をいだいたら、思念の波がひろがって現実化するのではないかと。しかし、わたしの頭のなかでは、酒への妄想はすでに定着し、育ちつつあるのだ。それに、ほかにどんな妄想を楽しめばいいのか、わたしには考えもつかないのだ。もう、どうにでもなれだ。わたしは酒への妄想にひたり、それを追い求め、さらにリアルにし、はなやかにし、強め深める。社会では第二のクーデターが進行しているのだろうか。そうだったらいい。わたしは心からそれを祈りつづける。なぜって、もしかしたらそのうち酒革命の委員会が、病人用の流動食にも酒をまぜよとの強制命令を出すかもしれない。わたしの口に酒が入るようになるかもしれないではないか。