曇った夜。その|闇《やみ》にまぎれて次郎吉は|塀《へい》を乗り越え、大名家の屋敷へと忍びこむ。なれた動作。動作ばかりでなく、精神的にもなれきっている。何回もくりかえしていると、面白くもおかしくもなくなってくるものだ。
こんなことをはじめてから、もう八年にはなるだろうか。もちろん最初のうちは、刺激と興奮のきらめきを感じたし、緊張でからだがふるえるほどだった。そのため時には失敗もあった。だが、体力の若さがそれをおぎなってくれた。つまり、逃げのすばやさ。二十代の終りになると、やや体力がおとろえたが、それは気力でおぎなうことができた。
そして、いまは三十歳ちょっと。なれがあるだけだ。体力も気力もない。自信という肩ひじを張ったものでもない。惰性とでもいうのか、からだが自然に動き、最も安全な道を選んでいる。どんな仕事でもこんな経過をたどるのではなかろうかと、次郎吉はふと考える。
塀の内側におり、植込みのかげに身をかくす。暗さのなかで目をこらし、建物に近づく。小窓の雨戸を音をたてることもなくはずし、なかへと入る。
上品な香のかおり、髪油など化粧品のにおい、女のにおい。それらが彼の鼻をくすぐるが、べつになんとも感じない。この建物は屋敷のなかの|中奥《ちゅうおく》という部分。男子禁制の場所。ここに入れる男性は殿さまと、その子息である幼児以外にない。奥方、側室、それらの侍女たち、奉公人など、すべて女性ばかりの世界だ。
静まりかえっている。どこかの座敷の燭の光が障子ごしに廊下にもれ、くすんだ金色のふすまに反映し、わずかだが明るさとなっている。次郎吉は廊下のはじをそっと歩く。中央を歩くとみしりという音がたつからだ。ふすまの引き手、柱の天井の金具、それらは金ぴかであり、一種の道しるべとなっている。
大名家の中奥の構造には、どことなく共通点があり、どこになにがあるかを、次郎吉はこれまでの体験で知っている。不用意に近づいてはならない場所についても。
それは殿さまの寝所のことだ。殿さまが正室あるいは側室と寝ているのをのぞき見ることは、たしかに好奇心を刺激する。しかし、そこに近よるのは最も危険なのだ。寝所のつぎの間には侍女が少なくとも二人、不寝番として控えている。少しでも不審な物音をたてたら、たちまちさわぎだす。不寝番としてのつとめだから当然だ。それに、その殿さまの護衛役である侍女の強いこと。普通の男など、たちうちできない。
大名家にとって貴重なものは一つしかない。お家の血すじ、すなわち殿さまとあとつぎの生命だ。これに事故があったら、えらいことになる。殿さまが死亡し、あとつぎがなければお家は断絶となる。あとつぎがあったとしても、|曲《くせ》|者《もの》に殺されたり毒殺されたり、殿さまが不審の死をとげれば、やはり同様。取締り不行届きだの、武士にあるまじきことだの、お家騒動は好ましからずだの、幕府の役人は待ってましたとばかり因縁をつけてくる。そして、おとりつぶしにされたら、江戸屋敷どころか藩の家臣たち何百人が|禄《ろく》を失って浪人となる。したがって殿さまの命だけは、なににかえても護衛しなければならぬ。
すべての警備体制は、殿さまのためにある。殿さまという中心にむかって、注意は内側に集中しているのだ。だから、その外側はすきだらけとなる。
このことを実感で知ってしまうと、ばかばかしいほど簡単だ。次郎吉は廊下を進む。時たま、手洗いに行く女、見まわりの女などがあらわれる。しかし、それらはみな手燭を持っている。あかりが動けば、それは人がやってくる前ぶれ。彼にとっては安全のための警報のようなものだ。身をかくすか、光の限界まで戻るかすればいい。
老女のお座敷へ侵入する。中奥の事務長の執務室とでもいうべきところで、夜はだれもいない。だが、あまりに暗い。厚手の布の風呂敷のなかで火うち石を使い、火なわに火をつける。布で音が防げると知っていても、この一瞬だけは神経がたかぶる。
しかし、そのあとはきまりきった作業、錠のついた箱をさがし、細い|釘《くぎ》でそれをあけ、なかの金を手にすればいい。きょうの収穫は二十両。商店にくらべて、なんという容易さ。次郎吉はかつて商店に忍びこんで、ひどい目にあった。まず戸締りが厳重すぎる。箱の錠も複雑だし、あけたとたん大きな音をたてるしかけのもある。内部の者の使いこみへの警戒のためかもしれない。物音と同時に、店じゅう、はちの巣をつついたようなさわぎとなりかねない。
商店から金を奪うには、数人で組んだ力ずくでの強盗以外にない。しかも、それだって確実とはいえぬ。金銭は商店の生命。主人や番頭が死んでも、金銭さえあれば店はつづく。もし番頭が死ねば自分が昇格できるかもしれない。その期待と、倒産失業への恐怖から、だれかがそとへ飛び出して大声をあげないとも限らない。そうなったら収拾がつかぬ。また、数人で組むと仲間割れもあるし、発覚もしやすい。強盗などは頭の悪いやつのすることさ、と次郎吉は思う。
二十両を風呂敷に包んでからだに巻きつけ、次郎吉はふところから紙片を出し、箱のなかに残す。〈ね〉の字を書いたもので、ねずみの形にも見える。ねずみ小僧が盗んだのだとの証明。これを残しておかないと、あとで内部のしわざと、だれかが疑いをかけられる可能性もある。奥女中独特の陰にこもった責任のなすりあいがあり、ひとのいい女が犠牲にされたりしては気の毒だ。疑われた女が、身の潔白を示すために屋敷の井戸へ身を投げ、亡霊が出はじめたりしたら、義賊としてのねずみ小僧の名に傷がつく。
引きあげようとし、彼は鼻をぴくつかせた。きなくさいにおいがする。いま消した火なわのにおいともちがう。それをたどってゆくと、あかりのついた座敷があった。のぞくと、火鉢にもたれた女中が居眠りをしている。夜中に殿さまがお茶を飲みたくなった場合の、その係の女かもしれない。退屈のため眠くなったのだろう。読みかけの|草《くさ》|双《ぞう》|紙《し》が火鉢のなかに落ち、くすぶっている。ほっておくと火事になりかねない。ねずみ小僧が犯行をくらますため放火したなどとのうわさが立っては、これまた困る。彼は近づいて肩をたたく。
「もしもし、お女中」
女ははっと目ざめ、くすぶっている草双紙に気づき、あわてて消しとめる。それから、ほっとして言う。
「出火となったら重い罰を受けるところ。ご注意いただき、助かりました。なんとお礼を申しあげたものか。ご恩は決して忘れません。ぜひ、お名前を……」
「ねずみ小僧です」
「ねずみ小僧さま……」
つぶやいているうちに、ねむけと火事への驚きが消え、女の頭は正常に働きだした。黒い布で顔を包んだ男を見て、大声をあげる。
「……あ、泥棒の……」
飛びついて口を押えるひまもなかった。
声は静かさを破り、各部屋でざわめきが起る。泥棒よ、との声が伝わってゆく。だが、あわてることはない。寝巻姿というあられもないかっこうで、女たちが飛び出すわけがない。
服装をととのえた警備の女たちは、十何人かが起きている。そして、くせものの叫びとともに、訓練どおりに行動する。殿さまの寝所の応援に何人かが、奥方や世つぎの部屋へと何人かが。だから、声の発生地へむかってくるのは三人ほど。むしろやっかいなのは、口入れ屋からやとった下働きの女たちだ。寝巻姿も平気だし、賊をやっつけるのが第一と思いこんでいる。なかには次郎吉に飛びついてくるのもある。だが、ねぼけているので身をかわせる。適当にあしらい、雨戸をあけて庭へ出る。内側からなら雨戸はすぐあく。
警備の女が三人、|長《なぎ》|刀《なた》を振りまわしてあとを追ってくる。逃げまわるが、板塀のところへ追いつめられる。背の高さぐらいの板塀だから、飛び越すのは簡単だ。次郎吉はそうする。しかし、女たちはそこで止らざるをえない。この板塀は中奥と他の部分との境界線。塀を越えれば女人禁制の区域。男の侍が中奥へ一歩でもふみこめば謹慎になるが、それと同様、女もここは越えられないのだ。
中奥と他の建物をつなぐ出入口は、殿さま専用の通路、そこはお錠口といい、ふだんは戸が締めてある。中奥側の女の連絡係が鈴を鳴らし、むこう側の侍に伝え、戸があけられ「曲者が侵入、お出合い下さい」と言い、それからはじめて屋敷じゅうが大さわぎとなる。しかし、その時まで次郎吉がぐずぐずしているわけがない。塀ぎわの木にのぼり、道へと出る。あとはゆうゆうたるもの。家臣の一団がおっとり刀で追ってくるはずがない。そんなことをしたら、深夜に不穏な行動であると、幕府の役人にこっぴどくしかられる。殿さま一族の安泰が判明すれば、これ以上さわぎを大きくしないほうがいいのだ。
次郎吉は帰宅する。「ねぼう屋」という屋号の、小さな古物商。朝っぱらから店をあける必要のない商売。ふざけすぎているかもしれないが、決して他人に警戒心をおこさせない屋号だ。彼は今夜の収穫である金をしまい、酒を飲む。これでまた一仕事おわった。酔い心地のなかで、これまでのことを回想する。
次郎吉は歌舞伎のある一座の木戸番のむすことして生れた。だから、ものごころがついてから、いやその前から、芝居の世界を知っていた。白く美しく顔を作り、きらびやかに装い、たくさんの燭台の光を受け、名文句をしゃべり、演技をし、虚構の宇宙を作りあげ、観客たちをうならせる。幼い次郎吉にとって、魂を奪われるような、あこがれの世界だった。そして、また舞台裏の世界も知った。舞台で緊密なまとまりを示す役者たちも、それがすめば普通の人物。欲望や感情に生きている。そのことを知っても、いや知ってから一層、彼は芝居の世界が好きになった。見事さと平凡さとの、いさぎよい転換。そこがいいのだ。楽屋と舞台とを往復するたびの、役者たちの変身ぶり。どちらが真実なのかわからぬ。そこに彼はあこがれたのだ。
次郎吉はひとりで、あるいは近所の子を相手に、芝居のまねごとをして遊んだ。父親はそれを見て、いい気分ではなかった。変に器用なところがある。木戸番をしていると、高度の批評眼がそなわっている。下手くそでもなく、大物になる素質もない。そういうのが一番しまつに悪いのだ。この子は早く芝居の世界から遠ざけたほうがいい。地道な人生を送らせるべきだ。
そして、次郎吉は|建《たて》|具《ぐ》|屋《や》へと修業に出された。不満ではあったが、父に反抗できる年齢ではない。しかし、親方はいい人だった。星十兵衛という、|苗字《みょうじ》を許された大名家お出入りの建具屋だ。仕事の上ではきびしいが、人徳のある人だった。次郎吉は修業にはげんだし、器用さもあった。
あるていど技術を身につけると、次郎吉は親方に連れられ、大名屋敷へ行って仕事をするようにもなった。はじめて大きな屋敷のなかを目にし、彼は親方に言った。
「立派なものですね」
「われわれとは身分がちがうものな」
そう親方が答えたのを、いまでも次郎吉はおぼえている。あのころのことが、いま役に立っているというわけだ。大名屋敷のなかがどうなっているのか、くまなく知ることができたのだから。中奥へも入ることができた。女の職人のいるわけがないから、修理する箇所ができれば、男子禁制といってもいられない。もっとも、仕事の時は人払いをし、監督の係の中年女がつきっきりではあったが。
建具屋という仕事のため、雨戸、障子、ふすまなど、自分のからだの一部と同じぐらい知りつくした。暗やみのなかで音をたてずに雨戸をそとからあけられるのも、戸締りの方法を知っているからこそだ。ふすまを見ただけで、軽くあくか音をたてるかわかるし、このような絵のふすまのむこうは、大体どんな座敷でどんな用途かもすぐわかる。仕事に関連し、錠のとりつけもたのまれ、錠前屋ともつきあいができ、その方面にもくわしくなってしまった。
十六歳の時に一人前の職人となり、親方のもとをはなれ、自分で注文をとって仕事をするようになった。腕がよく、あいそがいいので、収入も悪くなかった。
しかし、次郎吉の心のなかには、なにか満たされないものがあった。あまりに平凡すぎ堅実すぎる。あの、幼時にあこがれた芝居の世界とは、あまりにちがう。いくら仕事をしても、雨戸や障子をあけるたびに、おれの名を思い出して賞賛してくれる人などいないのだ。
彼は建具職をやめ、|町《まち》|火《び》|消《け》しの|鳶《とび》となった。それを知った父親は、怒って意見をした。
「これまでの修業がむだになる……」
それに対して次郎吉は、あれこれ弁明した。若いうちに各種の体験をしておくのはいいことだ。火災において建具はどうあるべきか、実際に知っておきたい。見聞もひろまるし、友人が豊富になる。父親は言った。
「仕方ない。しかし、二年たったら、またもとの建具屋に戻ることを約束しろ。戻らなかったら勘当するぞ」
かくして、次郎吉は火消しの鳶になれた。もともと身が軽く、動きのすばやいところのあった彼は、その才能を発揮しはじめた。しかも、望んでなった火消し、熱心に練習し、はしご乗りの名手となった。垂直のはしごをかけのぼり、その上で|軽《かる》|業《わざ》的な動作をやってのける。正月の|出《で》|初《ぞめ》式では、その派手なのをやってみせ、かっさいをあび、彼はやっといくらかの満足感を味わった。
火消しには気の荒い、けんか早いやつが多かった。父親が反対した理由のひとつだ。しかし次郎吉は、芝居ごころがあり、周囲の連中とうまくつきあった。けんかをしかけられると、彼はたちまち近くの家の屋根にかけあがる。これでは相手もどうしようもない。
快感をおぼえるのは、現実の火事の時だ。火の粉をあびながら屋根から屋根へ渡り、防火につとめる。刺激があり、生きがいがあり、わけもなくぞくぞくする。消火したあとも気持ちがいい。みなは上を見あげ、働きに対して感謝の声を送ってくれる。そんな時、やはり役者になればよかったと、つくづく思う。役者なら、毎日がこれなのだ。しかし、いまからではやりなおしもできない。
まったく、おやじのおかげで、おれは人生をあやまった。性格にあわない人生を押しつけられた。子供のときから、おやじに怒られつづけだ。あの、こっぴどく怒られた時のことなど、いまだに忘れられない。
まだ建具屋へ修業にやらされる前のことだ。お祭りの日、おれはもらった小遣いを落してしまった。なんにも買えず、にぎわいのなかで、ひとりさびしく物かげで泣いていた。その時、通りがかった若い侍がやさしく声をかけてくれた。
「坊や、どうしたんだい」
おれがありのまま話すと、その人は金をくれた。いくらだったか忘れたが、子供にとってはかなりの額だった。
「ありがとう。おじちゃん、名前なんていうの」
「ねずみこぞうだ」
侍は|和泉《いずみ》甲蔵と答えたのだが、次郎吉には、ねずみこぞうと聞こえた。うれしくなって金を使っていると、父親があやしんだ。
「そんな金、どうしたんだ。拾ったのか」
次郎吉は事実を説明したが、父親は信用しなかった。
「拾ったなら拾ったでいい。もらったらもらったでいい。しかし、ねずみ小僧だなんて、ふざけた話をでっちあげることは許せない。親をばかにしている。うそは泥棒のはじまりと言う。よく反省しろ」
母や弟妹の前で、さんざん怒られ、食事抜きで押入れに一昼夜とじこめられた。その悲しさ、くやしさは、金をくれた侍の顔とともに、心の底に焼きついている。
そのあとで、おれは建具屋の親方にあずけられたのだ。あのことがなければ、おれは役者になれてたかもしれない。あそこで人生の道が狂ったのだ。建具屋の親方はいい人だったので、修業中は忘れかけていたが、火消しとなってからは、なにかにつけて次郎吉は思い出し、しきりにくやしがった。
そんな時、ばくちをしないかと彼は仲間からさそわれた。はじめてやったのだが、いくらかもうけることができた。ひとつ景気よく飲むかと思いながらの帰り道で、あわれな子供たちを見かけた。どうやら、火事で焼け出された子供たちらしい。火消しの一人として、気がとがめる。よし、あいつらにめぐんでやるか。
その気まぐれを次郎吉は実行した。腹のすいている子供たちは、喜びを顔にあふれさせ、感謝の視線を集中した。信じられぬほどの親切にとまどった表情。甘美な感覚が、その瞬間、彼をしびれさせた。そして、思わずひとつの言葉が口から出ていた。
「おれは、ねずみ小僧って名だよ」
どうだ、ざまあみやがれ。ねずみ小僧は、いまや確実に存在するのだ。この時を境に、次郎吉の人生が確立した。およそ趣味道楽のなかで、金をめぐむということほど、豪華にして|傲《ごう》|慢《まん》、楽しく強烈なものはない。彼はその味をしめてしまった。
ねずみ小僧という、あわれな子供に対して気前のいいやつがいるそうだ。そんなうわさが回り回って、次郎吉の耳に入ってくる。その満足感もまたすばらしい。
しかし、ばくちでいつも勝つというわけにはいかない。勝った時に金をとっておくのならまだしも〈ね〉と書いた紙に包んで、あわれな子供のいる家にほうりこむのだから、たちまち金がなくなる。知りあいから金を借り、それも使ってしまう。
ついに借りる先がなくなり、次郎吉は妹のことを思い出した。このじと言い、大名の前田家の中奥へ奉公にあがっている。面会に出かけたが、門番に追いかえされた。
「だめだ。ここは商家ではないのだぞ。しかも、中奥の女はきめられた宿下りの日以外は、たとえ兄妹でも面会は許されぬ。用件があるのなら、手紙ですませろ」
よし、それなら勝手に会うだけだ。なにしろ、ほかに金を借りるあてがない。次郎吉は夜になるのを待ち、塀を越えて乗りこんだ。火消しの体験で高所も平気になっている。屋根を伝い、前に聞いていた妹の部屋へ行き、そとから小窓をあけて声をかける。
「おい、このじ。おれだ、次郎吉だ」
「まあ、兄さん。よく来られたわね。もっとも、大名屋敷って、内部の警備はわりといいかげんなものよ。で、なにか急用……」
「すまんが、少し金を貸してくれ。困ってるんだ。少しでいい。すぐ返すよ」
「だけど、これ一回きりよ。もう来ないでね。男が入ってきたと知れると、あたし大変な罰を受けるわ」
「わかったよ」
まもなく次郎吉は、父親から勘当される。次郎吉に貸した金を返せという連中に押しかけられ、このじの手紙で兄が屋敷に来たことを知らされ、父親はきもをつぶした。大名家へ侵入したとなると、ただごとではない。発覚すれば知らなかったではすまず、家族まで連座で処罰されることになる。いまのうちに公式に縁を切っておいたほうがいい。債権者への言いわけも簡単になる。
一方、次郎吉はここしばらくつきが回り、順調だった。ある日、ばくち仲間にさそわれた。
「おい、次郎吉。変ったところでばくちがあるが、いっしょに行かないか」
「どんなところだ」
「ある大名屋敷のなかだ。武家屋敷のなかは、町奉行の管轄外。同心や目明しが手入れにやってくる心配もない。絶対安全、ばくちを楽しめる」
「うむ。そういう方法があったのか。ひでえ世の中だが、名案は名案だな」
興味を持って行ったはいいが、その晩、次郎吉はさんざんに負けた。ついに着ているものまではがれ、追い出された。いくらなんでも裸では町を歩けぬし、第一ころがりこむあてもない。勘当と同時に、町火消しもくびになっている。
もう彼はやけだった。せめて着物だけでも取りかえそう。ひらりと塀を越え、さっきの部屋にとってかえす。勝手はわかっている。連中はばくちに熱中していた。手入れの心配もなく、まさか大名屋敷に侵入するやつがあるとも思わず、なんの警戒もしていない。つぎの間には、ばくちのかたに取ったものがつみあげてある。次郎吉はそれらをごっそり抱えこみ、屋敷を抜け出した。
品物を調べると、高価そうな|印《いん》|籠《ろう》や羽織、財布もあったし、刀もあった。驚いたことに、そのなかに十手もまざっていた。
あれが盗みのはじめだったな、と次郎吉は思い出す。やがておれは小さな古物商を開き、それをかくれみのとし、大名屋敷あらしを専門にし、現在に及んでいるというわけだ。ばくちは、もうほとんどやらない。つまらなくはないのだが、金をめぐむほうがずっと面白いのだ。
盗むのは簡単なことだし、いまや型にはまった行動。しかし、めぐむ方法となると、つねに頭を使わなければならない。第一に発覚への警戒。金をめぐんだことから足がついては、こんなばかげたことはない。第二に、死に金になってはつまらない。たとえば、大酒飲みや女道楽で貧乏になった家に金をやるべきではない。そんなとこへ金をほうりこんだって、酒や女に消えるだけのことだ。
一番いいのは、まじめで貧しい子供にやることだ。このお金で寺子屋へ入り勉強しなさいと書き〈ね〉と署名した紙に包み、条件にあった家へほうりこむ。その調査は大変だが、それなりの効果はあるはずだ。その子供たち、学問をすることのできたのはだれのおかげか、一生忘れまい。
寺子屋の先生たち、収入がふえて喜んでることだろう。いや、困ってるかな。盗みはいかんと教えねばならぬし、その金は奉行所へ届けろとも言えない。苦しまぎれに、学問は大切であり、大名から盗むのは例外だとか声をひそめ、子供の期待と、道徳の原則と、自己の利益とを、むりに調和させた妙な理屈をこねあげてるにちがいない。
しかし、そこまではおれの知ったことじゃない。おれはめぐむこと自体が楽しいのだ。それにしても、どの大名家も被害届けを出さないのには驚いた。お家の不名誉だからだろう。大さわぎを予想していたのに。手ごたえ、つまり行為の確認感がない。これは面白くないことだった。そこでおれは、年に二回、収支の計算書を江戸の数カ所にはりだすことにした。名はあげないが、大名家から何十件の盗みをした。一方、これだけの金をめぐんだと、双方の金額をぴたりと一致させた。この点は良心に誓って真実だ。生活費はどうなってるんだと思う人もあろうが、それはついでに持ち出した物品を売った金さ。
この計算書をはりだすようになってから、ねずみ小僧の人気は爆発的となった。町人たちは、自分たちは安全地帯にいて楽しめるのだと知った。話に尾ひれがついて広まる。口から口への伝達というものは、妙な迫力があるものらしい。伝達する当人も楽しいのだ。おれは満足だった。遊興よりはるかに面白い。金より名声だ。金なんかむなしい。
ついに生きがいをみつけた。しかし、おれは舞台裏だけで演技をする役者だった。舞台の表では、そしらぬ顔をしていなければならない。あこがれていた芝居の世界、それにたどりついてみると裏がえしのそれだった。しかし、まあいいさ。この新形式を完全なものに仕上げる。それは先駆者の喜びでもあるのだ。
大名屋敷に忍びこんで盗みをはたらく時、いつも次郎吉はものなれた動作だった。といって、なにもかもいいかげんにやっていたわけではない。準備には入念だった。目標の屋敷をきめると、侵入の前にくわしく調査をした。塀のまわりを何回も歩き、人通りがたえると飛びあがってなかをのぞきこむ。いつだったか、うろついているのを目明しにとがめられたこともあった。
「おい。さっきから屋敷のなかをうかがってるな。怪しいやつだ。わけを言え」
しかし、次郎吉はあわてない。
「お話ししますとも。しかし、内密にお願いしたい。じつは、あだ討ちなのです。五年前にわが父を討った、にくむべきかたき。それがここに仕官しているのをつきとめた。あとは出てくるのを待ち、名乗って討ち果せばいいのです。こんな町人姿に身をやつし、やっとここまできたわけです。これがその、あだ討ちの証明書です」
物語をでっちあげ、かねて用意の書類を出す。ある大名家で、盗むついでに白紙に印鑑を押してきた。それをもとに作ったものだ。目明しは感心する。
「こういう証明書を見るのははじめてだ。あだ討ちという大望をお持ちとは知らなかった。ひとつ、お手伝いしましょうか」
「いえ、大丈夫です。だが、かんづかれたら苦心も水のあわ。ぜひ、内密に」
「わかってますよ。ご成功を祈ります」
「ご声援、ありがとうござる」
芝居ごころがあるだけに、次郎吉の応答はもっともらしい。調査がすむと実行だが、雨の日だと屋根がすべる、月が明るいと見つかりやすい。天候にも注意する。
侵入の前には、その近所の常夜灯の油をへらしておく。逃走の時に、ちょうど油がきれ消えるようにしておくのだ。
また、道すじの三カ所ほどに、火の用心のチョウチンと、拍子木とをかくしておく。いつでもそれを持ち、夜回りに化けられる。夜道を歩くには、夜回り姿が最もいい。怪しまれないし、夜回りが金を持っているわけなどないから、すれちがいざま浪人者に切りつけられる心配もない。
このような準備があるからこそ、落ち着いて仕事ができるのだ。逃走の手はずなしだったら、不安で気が散り失敗しかねない。
しかし、思いがけぬ不運も、ないことはない。屋敷内を追われ、ひらりと塀の外へ出たはいいが、そこをたまたま目明しが通りがかっていた場合など。これはもう逃げる以外にない。目明しは|呼《よび》|子《こ》を吹きながら追ってくる。その音を聞きつけ、加勢が出現するかもしれない。だが、かねて用意の細工によって、あたりの常夜灯が消えはじめる。闇になればしめたものだ。次郎吉はふところから呼子を出して吹く。そして、自分も十手をふりまわし、戻って目明しにあう。
「おい、あっちへ行ったようだぞ。はさみうちにしよう。むこうへ回ってくれ」
相手はまんまとひっかかる。変だなと気づいて戻っても、その一瞬のうちに次郎吉の姿は消えている。そばの武家屋敷の塀を越え、なかにかくれればいいのだ。町奉行所の配下の者には手が出せない。目明しが門に回り、賊が侵入したと注意することはできるが、そのすきにゆうゆう逃げられる。
万一にそなえ、次郎吉は各所のお寺の屋根裏に、|飛脚《ひきゃく》の服装をかくしておく。数人の目明しに追われ、自宅へ帰れそうにない場合、ひとまずそこに逃げこむのだ。ここも町奉行所の手がとどかない。追手はまわりをかため、寺社奉行の許可か応援を待たねばならぬ。
そのあいだに次郎吉は変装し、暗いうちにそとへ飛び出し、かけだすのだ。大名家が国もとの藩との定期連絡に使う、大名飛脚の姿になっている。そのための手形も盗んで入手してある。どこの関所も通過できる。文箱のなかを見せろなどと強要されることもない。盗んだ金が入っているのだが。
さらにあとを追われたとしても、江戸から一歩そとへ出れば、またも目明しは手が出せない。江戸のそとは代官の支配下で、それは勘定奉行の管轄。ねずみ小僧が逃げたらしいと、町奉行から勘定奉行、そして代官にまで通達がとどくには、けっこう日時がかかる。そのころには、次郎吉は江戸に舞い戻っているというわけ。
多くの大名屋敷のなかには、警備の厳重なのもある。邸内にひそんでいるところを、腕のたちそうな家臣に発見されることもある。しかし、次郎吉は平然と言うのだ。
「じつは、将軍直属のお庭番、|隠《おん》|密《みつ》なのです。この家に不穏な動きがあるらしいと、わたしが派遣された。しかし、隠密に証明書などあるわけがない。侵入者として切られても文句は言えない。だが、わたしを殺しても、また、つぎの隠密が派遣されるわけで、きりがないことでござるぞ」
隠密と聞くと、どの大名家もびくりとする。とっつかまえて、本物かどうか問いあわせようにも、将軍直属ではそれもできぬ。へたに殺して、本物だったらことだ。どことなく怪しいが、怪しいからこそ隠密なのかもしれぬ。穏便にすませておいたほうがいいというものだ。
「お役目ご苦労にござる。当家に不穏な動きがあるなど、事実無根のうわさ。将軍家には、なにぶんよろしくご報告を……」
などと、かなりの金をつかまされることにもなる。まったく、みごとな芝居。
そのうち、次郎吉の耳に、こんな評判が入ってきた。
「ねずみ小僧、なかなかやるなあ。痛快です。しかしねえ、大名家あらしばかりとなると、いささかあきてきますな。たまには、景気のいい商店から、ぱっと金を巻き上げてもらいたいものですよ。派手な豪遊をしている金持ち連中、それをへこましてくれると、胸がすっとするんですがね……」
くりかえしだけだと、大衆は満足しなくなるものらしい。なにか変ったことをやってみせぬと、刺激にならない。こうなると、ねずみ小僧としては、人気を高めるために新しいことをやらなければならない。
次郎吉は幕府の要職にある役人の屋敷から盗んだ衣服を着て、大小をさし、めざす商店へと出かける。
「主人はおるか。分不相応のおごりをしているとのうわさがあり、真偽をたしかめるために来たのだ。事実であれば家財没収。だが、商店は信用が大切であろうと存じ、ただのうわさにすぎぬ場合、さわぎを大きくしては気の毒。よって、供も連れずに来たしだいだ。主人に内密にお会いしたい」
主人はあわてて奥へ案内する。
「担当のお役人には、いつもそのための付け届けをしておるはずでございますが。あなたさまは、どのようなお役職で……」
「じつはだな、このところ、各奉行所の縄張り意識がひどすぎ、横の連絡がいいかげんになっている。目にあまるほどだ。そこでこのたび、勘定奉行町奉行連絡評定組という役が作られた。みどもは、その|吟《ぎん》|味《み》取調筆頭の者である。これがその任命書だ」
次郎吉はもっともらしい書類を出す。主人は恐れ入るが、話のわかる役人らしいと察し、いくらか包んで差し出す。その時そわそわして引きあげかけると、かえって怪しまれる。おもむろに印籠をはずして渡すのだ。
「ただ金をいただいては|賄《わい》|賂《ろ》となる。許すべからざることだ。これはみどもが老中よりいただいた印籠。進呈いたそう。良心もとがめないというわけでござる」
主人は手にとり、高価な品と知る。
「これはこれは、お気前のよろしいかたで。では、手前どもも、さらに気前よくさせていただきませんと……」
と、すごい大金を出された。次郎吉はそれを持ち帰り、あわれな子供たちにばらまき、号外をはりだす。強盗や傷害をやらなくても、かくのごとく商店から金を巻きあげられるのだとの〈ね〉の署名入りのやつをだ。
江戸中がわっと沸く。
「みごとなものですなあ。金持ちがだまされる話ぐらい、痛快なものはない。どこの商店か書いてないが、あそこの店かもしれないと推理する楽しさもある。たしかに新手法だ。このつぎには、どんな事件を起してくれるでしょう。わくわくしますなあ」
新しいことをはじめると、さらに一段とすごいものでなければ、大衆は満足しなくなる。みなの期待が次郎吉をかりたてる。彼は悪循環に巻きこまれはじめた。
そのころになると、ねずみ小僧の人気につられ、何人かの亜流が出現していた。うさぎ小僧、かすみ小僧、しみず小僧など、まぎらわしい小泥棒がうろうろしている。次郎吉は腹を立てた。この手法の義賊は、おれの考案になるものだ。勝手に模倣するのはけしからん。彼はそいつらの家をつきとめ、奉行所に密告した。
亜流の小僧たちは全員逮捕。盗みためた金もろとも、奉行所に運ばれた。亜流とはいえ、これだけの泥棒をいっぺんに逮捕できたのは珍しいこと。奉行所の役人、与力同心目明したちは祝杯をあげた。ほっとした気のゆるみ。それに、奉行所に侵入をくわだてるやつがあるなど、考えもしない。
そこをねらって、次郎吉は忍びこんだ。押収してあった金銭を、ごそっと持ち出す。それを見て、仮牢のなかの亜流小僧たち、声をかける。
「ついでに、おれたちも助け出してくれ。同類のよしみで」
「なにを言いやがる。おれは元祖。きさまらは亜流だ。獄門台で模倣の罪をつぐないやがれ」
「ちくしょう。大声で役人を呼ぶぞ」
「おあいにくだ。老中からと称し、おれがとどけた眠り薬入りの酒で乾杯しあい、みなぐっすりだ。あばよ」
これをまた号外ではりだす。しかし、今回はほどこしをせず、べつな形で庶民のために使うとの予告つき。
その約束は、やがて訪れた川開きの日にはたされた。花火の打ちあげが進んだころ、仕掛け花火が点火された。大きな〈ね〉の字が大川の上に輝く。同時に打ちあげられた大型花火が何十発。すばらしい美しさ。
「いいぞ、ねずみ小僧」
「ねの屋あ」
こうなってくると、幕府もほっておけない。奉行所が荒されては威信にかかわる。|火付盗賊改《ひつけとうぞくあらた》めの一隊が出動するらしいとのうわさ。これは重罪犯逮捕のため、管轄にとらわれず活動できる、各奉行所から独立した組織。どこへでも乗りこみ、独自に処刑もおこなえる。その指揮者は鬼のなんとかと称せられる、頭と腕のすぐれた武士。
次郎吉は少しふるえた。いささか調子に乗りすぎたかな。あいつに乗り出されると、これまでのようにいい気分で動けぬ。といって、一方では民衆が期待している。
機先を制してやろう。彼は老中筆頭の屋敷に忍びこんだ。幕府の最高権力者とはいえ、屋敷内の警備のいいかげんさは、他と大差ない。次郎吉は中奥へ忍びこみ、大金を盗みだした。持ち帰るには手にあまるほどの重さ。しかし、ちょっと運ぶだけでいいのだ。つまり、表御殿の来客用の座敷に移しただけ。そこで金を包みかえ、紙の表に火付盗賊改めの責任者の名を書いた。老中が見れば、昇進のための運動費とすぐにわかる外見だ。そして、次郎吉は引きあげて待った。
計画はうまくいった。つぎの日、老中はそれを見てうなずく。そろそろ昇進させてくれとの意味であるな。働きぶりもいいと聞いている。口をきいてやるとするか。中奥ではなにか至急に金がいるとさわいでいる。ちょうどいいから、この金はそれに回そう。江戸城へ登城し、若年寄を呼んで言う。
「そちらの配下の、火付盗賊改めを昇進させてはいかがであろうか」
「は、妥当な人事でございましょう」
老中の意向には従わざるをえない。その交代を知って、次郎吉は喜ぶ。新任者なら仕事になれるまで、しばらくは大丈夫というものだ。どんなやつか、顔でも見ておくか。
しかし、あにはからんや、彼にとってはもっとやりにくい相手。名前は和泉甲蔵。顔をみると忘れるわけのない、子供の時に金をめぐんでくれた武士。おれの今日あるは、あの人のおかげといえる。あの人の在任中、おれが仕事をしてはぐあいが悪い。運動費を使って例の手で昇進させようにも、いくらなんでもすぐにはむりだ。仕方がない。しばらく旅にでも出るとするか。
次郎吉は店を休業にし、西へむかい、気ままな旅に出た。金がなくなっても、彼にとって入手は簡単。京、大坂、長崎まで見物し、高野山はじめ各寺院に自分の供養料を前払いした。そんなわけで、江戸に戻るころには、もはや思い残すこともなくなっていた。
「さて、そろそろ、ねずみ小僧としての人生の最後を飾るとするか。うんとはなばなしくやろう。後世に語りつがれるような形で。なにをやるかな。うん、江戸城がいい。白昼に公然と乗り込み、城内をあばれまわり、討たれて死ぬとするか。おれがはじめて表舞台へあらわれ、それが最後でもある。江戸の町人たち、あっと叫んで手をたたくぞ」
次郎吉はまた武士の服装をし、御門からゆうゆう歩いて入った。外見がきちんとしているので不審に思われなかった。やがて表御殿、すなわち幕府の政庁の建物があった。その玄関からあがりこむ。大ぜいの武士たちが、もっともらしくなにかやっている。そのうち、次郎吉は老人に呼びとめられた。
「みなれないかただが、貴殿はどなたでござるか」
「勘定奉行町奉行連絡評定組の、吟味取調筆頭の者でござる」
「聞いたことのない役職でござるな」
「じつはな、じいさん。おれはねずみ小僧次郎吉ってんだ」
「しっ、小さな声でお願いいたす。ばか話をしていると上役に思われたら、みどもはお役御免になる。せっかくここまで出世したのだ。それが本当の話であれば、なおのことだ。なんにも聞かなかったことにいたす。早くあっちへ行って下され。みどもを巻きこまぬよう、お願い申す」
「ひでえもんだな」
どこへ行っても同じこと。|外《と》|様《ざま》大名たちの|控《ひかえ》の間を抜けても、だれも見て見ぬふり。お家が大事だ。へたにさわがぬほうがいいのだ。次郎吉はさらに奥へ進んでみる。えらそうなやつが見とがめ、注意する。
「このあたりは、そちのごとき身では入れぬことになっている。刀を持ちこんでもいかんのだ。無礼であるぞ」
「なにいってやがる。おれはねずみ小僧次郎吉、見物したいんだ。とめられるものなら、とめてみやがれ」
刀を抜いて見得を切る。背景は金色に絵を描いたふすま。芝居の大道具とはちがって、高級にして本物だ。次郎吉はうっとりとなった。それを見た周囲の連中はきもをつぶした。殿中で刀を振りまわしたのは、浅野|内匠《たくみの》|頭《かみ》以来の大事件。
「なんたること。だれか出合え」
さわぐ者はあっても、いまや文弱の世。殿中の係には、組み付く勇気のある者はない。切られて死んではもともこもない。せめて刀さえあれば、あいつを切ることぐらいはできそうだ。しかし、このへんは刀を持ちこんではいけない場所。まして抜いたりしたら、あとで事情のいかんを問わず切腹ものだ。
「これは一大事。担当者に報告して参る」
要領のいいのは、さっそくその場をはなれ、便所に入る。巻きぞえにならぬのが一番だ。便所はたちまち一杯。だれも入ったきり出てこない。本当に便所に入りたい者は、遠くまで歩いてゆく。
それでも、やっと城中警備の担当者のところへ報告がもたらされる。担当者は飛びあがり、気を静めるために、処世訓の狂歌を書いた紙をふところから出して読む。
〈世の中は、さようでござる、ごもっとも、なにとござるか、しかと存ぜず〉
三回くりかえし、おもむろに言う。
「さようでござるな。一大事とは、まことにごもっとも。なにがどうなっているのでござるか。しかし、なにしろ前例なきこと、前任者からも聞いておらず、しかと存ぜぬしだいでござる」
「そんな場合ではないようでござるが」
「なにをおっしゃる。みどもは老中に属する役職。貴殿の指示で軽々しく動くわけには参らぬ。まず老中の指示をいただいて参れ」
だれかが別な係の前へ、ゆっくりとあらわれる。殿中でかけ足は禁止なのだ。それを破ると、あとで問題にされる。
「早くなんとかすべきではござらぬか」
「みどもは儀式の時に限る警備係。賊にたちむかってもいいが、これが前例になる。その責任は貴殿にあるが、よろしいか」
「いや、それは困り申す。御門番の一隊、お庭番などは動いてくれぬものであろうか」
「御門番の一隊を殿中に入れた前例はござらぬ。お庭番は上さまじきじきの命でなければ動かぬ。貴殿、上さまに伝えたらいかが」
「その取次ぎ係が見当たらぬのでござる。上さまはお昼寝の時刻なれば、あ、あ、なんだか急に腹ぐあいが悪くなり申した。下城して休養いたすゆえ、あとはよしなに」
かかりあいを恐れ、みんな逃げ腰。いつも逃げまわっていた次郎吉、表舞台にあらわれたとたん立場が逆になった。刀を振りまわしながら進むと、奥のほうに広間があった。一段と高いところへすわってみる。将軍以外にすわれないところだ。それを見た者、大声をあげかけ、あわてて口を押える。大声禁止の広間なのだ。それに、飛びかかってふすまに穴でもあけたら、首がとぶ。
「大変でござる、大変でござる」
と小声でつぶやきながら、どこへともなく去ってゆく。その声を聞いても、だれも出てこない。ただただ時が流れてゆく。
次郎吉としては、こと志とちがい、張り合い抜けだった。あたりにはだれもいなくなった。押入れに入り、そこから天井裏にかくれ、しばらく休む。
これからどうしたものだろう。大奥へ行ってみるか。女ばかりの住居は、大名家では中奥だが、将軍の江戸城では大奥と称する。しかし、大奥ほどぶきみなところはないという。年に一度の大掃除に、男と女が顔を合わさぬよう、厳重な監督のもとに鳶の人足が入るが、出てくる時には人数がへっている。このうわさを次郎吉は、火消しにいる時に聞いた。女たちにつかまり、おもちゃにされたあげく、消されてしまうらしい。そんな死にざまでは、ねずみ小僧の印象を悪くする。
ひとまず帰るとするか。天井裏を移動し、玄関近くの座敷にあらわれる。そして、出あった相手に言う。
「くせものはお庭のほうにかくれたようでござるぞ」
「そうでござるか。貴殿、すまぬが御門番の一隊に知らせてくれぬか。お庭なら、御門番が出動してもかまわぬと存ずる」
「かしこまってござる」
次郎吉は御門にむかい、そのまま出てしまう。
家に帰った次郎吉、さわぎの結果を待つが、ちっとも町のうわさにならぬ。みっともないので役人たちがだまっているのだろう。そのうち、幕府で大はばな人事異動があったらしいとわかるが、それで終り。万事うやむやになってしまったようだ。面白くない。
彼は殿中でのさわぎを、おもしろおかしく物語にまとめた。それを持って草双紙の版元へ行く。
「ねずみ小僧を主人公に、こういうものを書いた。売れると思うし、後世まで残るんじゃないかな。出版してもらいたい」
草双紙屋の主人、それを読み、顔をしかめる。
「こりゃあ、なんです。でたらめもいいところ。あまりにばかげてるので、お上も出版禁止にはしないでしょう。しかし、ねずみ小僧は庶民の偶像ですぜ。その印象をこんなふうにぶちこわしたら、わたしゃ、江戸っ子たちにぶんなぐられる。本にはできませんな。ねずみ小僧については、ちゃんとしたものを書くよう、ある作者にたのんであります」
せっかく書いたものは、目の前で破り捨てられた。次郎吉はがっかり。それから数日は、酒びたり。二日酔いつづきでごろごろしていると、そとで叫びながら走る声。
「大変だあ。ねずみ小僧さまがつかまったそうだ」
次郎吉は起きあがる。外出すると、どこでもそのうわさでもちきり。なんでも、浜町の松平|宮内少輔《くないしょうゆう》の屋敷に忍びこみ、殿さまの寝所に近づき、護衛役の女たちにとっつかまり、町奉行所の者に引き渡されたという。
なんということだ、と次郎吉はつぶやく。殿さまの寝所に金などあるわけがない。それに、そこが最も危険な場所。おれがつかまらなかったのは、そこを注意して避けたからだ。わざわざつかまりに行くようなものだ。どこのどいつだ、そんな気ちがいじみたことをしたやつは。
しかし、つかまったやつは、気ちがいではなく、わざわざつかまりに入った男だった。大名家出入りの建具屋、星十兵衛のどら息子。両親の死んだあと、家業そっちのけで遊び暮し、店をつぶした。そのあと草双紙の作者となり、でまかせ話を書いてかすかに食いつないでいた。そのうち同情した草双紙屋の主人に、実録物を書きなさい、いま人気のねずみ小僧がいい、売れますよとすすめられ、調査にかかった。
調査しはじめてみると、どうも、かつておやじのところで修業していた次郎吉がくさい。芝居の木戸番の子、建具の修業、火消しの鳶、条件がそろっている。聞きまわると、すごい人気だ。どう物語にまとめようか、訴えたらいくら金をもらえるかなど思案しているうちに、もっといいことを思いついた。おれがねずみ小僧になればいい。物語にしたってうまく書けっこない。おれが主人公になれば、後世に残るというものだ。
そして、松平家の屋敷に忍びこみ、不器用につかまったというしだい。だから、拷問にかけられると、すぐに白状した。大名家からの被害届けはいいかげんだから、その気になればいくらでもつじつまがあわせられる。次郎吉の弟妹が奉行所に呼ばれ、あれが兄かと聞かれた。二人は実の兄が処刑されるよりはと、そうだと答えた。
そして、処刑の日、薄化粧をさせられ、しばられて馬に乗せられ、町じゅう引回しとなる。
通りでの民衆の声はすごかった。
「庶民の神さま」とか「世なおし大明神」
「われわれの光だ」
「さよなら」とか「なむあみだぶつ」
「その仏さまのようなお顔は、決して忘れず、いつまでも語りつぎますぞ」
手を振るやら、ふしおがむやら、泣き出す者やら、老若男女の人の渦。
しかし、そのなかでただひとり、こうどなったやつがいた。
「この大泥棒のばかやろう」
これこそ次郎吉。おれが苦心さんたん、だれも傷つけず、殺さず、火もつけず、亜流をやっつけ、ここまで築きあげた人気と伝説。それをあのにせ者め、さっと盗みとりやがった。
民衆も民衆だ。おれからめぐまれたやつが、いっぱいいる。おれは盗んだ金のことは忘れても、だれにめぐんでやったかはみんなおぼえている。
まわりの民衆が次郎吉をどなる。
「あんた、なんてことを言うんだ。江戸っ子の恥さらしめ。ねずみ小僧さまは立派なかただ。あんた、あのかたから金を盗まれたか。あのかたは、あんたのような人から金を盗むわけがない。このばか。ぶっ殺すぞ」
殺気だったまわりの連中に袋だたきにされながらも、次郎吉は馬の上のうっとりした表情のにせ者にむかって、叫ぶのをやめない。
「この、うすぎたない泥棒やろうめ。あんなやつを出現させるなんて、神も仏もないのか。やい、泥棒。きさまなんか人間のくずだ。犬畜生よりも劣る……」