江戸からかなりはなれた地方の、ある藩。さほど大きな藩ではない。しかし、よくまとまっており、なにも問題をかかえこんではいない。平穏と無事のうちに日々が過ぎてゆく。
しかし、いま城中の奥まった一室において、藩の上層部の者たちによる会議が開かれていた。会話が盗み聞きされないよう、厳重な警戒の上でだ。上層部とは城代家老と、そのほか三人の家老、さらに町奉行、勘定奉行、寺社奉行、合計七人。藩の要職といえば、このほかに藩主と、江戸づめの家老二人がいる。だが、殿はいま|参《さん》|勤《きん》|交《こう》|代《たい》で江戸に出ており、江戸家老もそちらの仕事でいそがしい。つまり、藩の運営の実質的な責任者はこの七人といえた。
年配の城代家老が、手紙を示しながら、しかつめらしく深刻な表情で言った。
「じつは、江戸屋敷から手紙がまいった。内容はこうである。先日、殿が江戸城へ登城した時、幕府の役人から、貴藩はこのところ景気がよろしいようで、けっこうでござる、と話しかけられたとのこと。それに対し殿は、いや、とんでもござらぬ、わが藩でゆたかなのは将軍家への忠誠心のみとお答えになった。このことを殿から聞き、江戸家老はさっそくこちらに報告してきたというしだいだ。どうも心配でならぬ」
若い寺社奉行が発言した。
「そのようなことが、なぜ問題となるのですか」
「景気がいいとなると、藩に対して工事をおおせつけられる。江戸城とか将軍家ゆかりの寺院の修理をだ。それによって藩の力を弱め、幕府に反抗する力を芽のうちにつみとっておこうというのだ。余分な金をはき出させようという計画。あまりよろしい政策とは思えぬが、これが幕府の方針なのだから、いたしかたない」
「幕府の方針への批判は許されていませんからな」
「ここにおられるみなさまだけがご存知のことだが、この城内の金蔵にはかなりの金銭がたくわえてある。長いあいだかかって、節約に節約を重ねてためたものだ。戦国の世は、もはや遠い昔となった。現在、いざという時に役に立つのは金銭だ。金がなければどうにもならない。そのための準備金だ。このことは、われら役付きの者だけの秘密、殿にさえ知らせてない。そして、外面的には地味に地味にしている。貧しさをよそおっているわけだ。時どき領民たちが|一《いっ》|揆《き》を起しかけさえする。これも巧みな演出。つまらない工事をおおせつかり、ごそっと金を出させられてはつまらないからだ。たくわえた金のことは、ほかに知る者などないはずだ。このなかのだれかが、外部にもらさない限り」
みなは口々に言う。
「役につく時、決して他言はしないと、われわれは武士の名誉にかけて誓った。誓いを破ったら、切腹となり家名は断絶になってもいいと。家族にさえも話してない」
寺社奉行がまた言う。
「それでしたら、心配に及ばないのではないか。幕府の役人は、ただのあいさつとして、殿にそう言っただけなのではないでしょうか。お元気でけっこうとか、いいお天気でとかと同じような意味で」
城代は答える。
「そうかもしれぬ。殿からのまた聞きを、江戸家老が手紙にし、それによってわれわれが知ったことだ。幕府の役人の言葉の裏にある微妙さまでは、わたしにはわからない。殿にくわしく問い合せたいが、それもできぬ。あまりくどく殿に聞くと、不審にお思いになる。そのあげく、秘密の準備金のことが、殿に知られてしまう。そうなると、ことだ。幕府の役人に聞かれた時、ついしゃべっておしまいになるかもしれない」
「殿はお人がよろしいからな」
城代は手紙をながめながら言う。
「あいさつにすぎなければいいのだが、どうも気になってならない。あるいは、と考えると」
「あるいは、なんなのです」
「藩内に隠密がいるのではないかと思う」
「隠密……」
その言葉を口にしながら、みな不安そうな表情になる。そのなかにあって、城代家老はつけ加える。
「しかも、藩内に住みついているたぐいの隠密だ。藩内を通過してゆく旅人はたくさんあり、当然そのなかには隠密もまざっていよう。しかし、通り過ぎるだけなら、城内のたくわえまでは気づくまい。なにしろ、貧しげなようすをよそおっているのだからな。だが、藩内に住みつき、じっと観察している隠密となると、話はべつだ。金のあることを、うすうす察したかもしれない。その報告が幕府にもたらされ、幕府が殿にかまをかけ、あのあいさつとなったのかもしれない。殿は金のあることをご存知ないから、その手に乗らないですんだ形ではある。しかし、金があるという事実をつきとめられ、報告されたら、もう手の打ちようがなくなる。早いところ、その隠密がだれかを明らかにし、なんとかせねばならぬ。まさか、家臣のなかにまぎれこんではおらぬだろうな」
人事担当の家老が言う。
「ここ数十年のあいだに、新しく召抱えた者はありません。怪しげな者はいません。藩を裏切るような家臣はひとりもいないと断言できます。中奥のほうはどうでしょうか」
中奥とは、殿の側室やその侍女たちの住む、女ばかりの一画。藩の外交と儀礼を担当し、さらに殿の側近や中奥の管理をも分担している、最も年長の家老が言う。
「公私の別はあきらかになっている。殿の私的生活に属する中奥のことがわれわれにわからぬごとく、中奥の女たちも公的のことはなにも知らない。そもそも、殿さえ金のことはご存知ないのだからな。中奥を取締る老女はしっかりした女だ。変なそぶりの女がいれば、女同士の|嫉《しっ》|妬《と》から必ずつげ口があるはずだ。そんな報告が老女からないところをみると、大丈夫と断言してよいと思う。それより、農民の中にまざっているのではなかろうか」
農民はすべて勘定奉行の支配下にあり、その戸籍もできている。勘定奉行は言う。
「他藩から流れてきて住みついた農民も、ここ何十年のあいだありません。そもそも、農民にばけたとしても、農民たちのあいだにとけこみ、心おきなく話ができるようになるのは容易でない。二、三代、すなわち百年近くかかる。また、農民にまぎれていたのでは、城内のことを知りようがない。藩内の|年《ねん》|貢《ぐ》の合計を聞きまわったりしたら、目立って、すぐに怪しまれる。こうも能率が悪く手間のかかることを、隠密がやるとは思えぬ。ばけるとすれば商人のほうがいい」
商人を監督する立場にある町奉行は言う。
「藩内を通過する商人はたくさんいるが、ここへ住みついて商売をはじめる者は、必ず届け出るようきめてあり、やはりここ数十年のあいだ届け出はない。いままでの同業者が利益を奪われると文句をつけ、それをさせないからだ。可能性として考えられるのは、商人が弱味をにぎられるか買収されるかして、隠密の手先となっている場合だ。しかし、ばれたら処刑され財産没収、その危険をおかしてまで商人がそれをやるとは思えない。隠密のほうでも、商人をそう信用しないのではないか。藩に通報されたら、隠密本人はすぐつかまってしまう。そもそも、城の物品購入係も藩が貧しいと思いこんでいるのだから、そこから秘密のもれるわけがない」
「藩内に他藩の浪人が住みついていないか」
「そういう者たちには、ある期間以上の滞在を許していない。金がなければ、藩外までの旅費を与え、追い出している。なにしろ、浪人にうろつかれると、治安が乱れ、ろくなことはない。ところで、寺社奉行の管轄のほうはどうか」
「それは大丈夫。身もとはすべてはっきりしている。みなこの藩のうまれ。他国へ修行に出た者もあるが、戻ってきた時に他人にすりかわっていたという疑いのある例などもない。他国から藩内の寺に修行にやってくる者はあるが、一年以上の滞在者はいない。第一、修行僧が藩政について聞きまわったら、たちまち話題になってしまう」
「となると、隠密がいるとなると、どんな職業をよそおっているのだろうか」
その城代のつぶやきに、勘定奉行が言う。
「職人ということになりましょう。勘定奉行の管轄ともつかず、町奉行の管轄ともつかず、調査が不充分になっている。腕の修業のためにやってきて住んでいる者もあり、いつのまにか出てゆく者もある。また、藩内に産業をおこすため、指導してくれるよう呼び寄せた者もあり、いろいろだ。産業面で役に立っているわけで、あまりうるさくは取締れない。隠密がいるとなると、このなかだろう」
「なるほど、もっともな意見だ。職人関係を洗いなおしてみるべきだな。そう人数も多くはあるまい。やってできぬことではない。勘定奉行と町奉行とで部下を出しあい、ひそかに調べてもらいたい。藩内にいる他国から来た職人の名を書き出し、怪しくないのを除いてゆけば、疑わしい者が浮び上ってくるだろう。それをやってもらいたい。しかし、内密にだぞ。城内に変なうわさが流れても困るし、隠密に気づかれても困る。うるさい藩だとの印象を与え、職人たちに出てゆかれたら、産業がおとろえてしまうし」
城代家老はこう言い、その日の会議は終った。
つぎの会議の時、その報告がなされた。
「職人の調査をすませました。最近やってきたばかりの者、城下以外に住んでいる者、他藩からやってきて技術を習得するのだけが目的らしい者、これらをつぎつぎに消してゆくと、ひとりだけ残りました」
「それはどんなやつだ」
「庭師の松蔵です」
「なに、あの松蔵……」
みなその名前は知っていた。三十五歳ぐらいの男で、十年ほど前にこの藩にやってきて、なんとなく住みついてしまった植木屋だった。城下の植木屋の親方のところに修業に住みこみ、親方が病死したあと、その幼い男の子を育てながら生活している。親方の妻はその前に死んでおり、幼児をほっておくことができず、仕方なしに住みついたという形だった。無口だが腕のいい庭師。
「で、その松蔵の生国はどこか」
「それが、江戸なのです」
「ううむ。となると、疑わしくなるな。まったく疑わしい」
その意見はもっともだった。腕がいいため、城の庭の手入れもまかせている。名園といっていいほどの、みごとなものに仕上げてくれた。殿の私的生活の場所である奥御殿や中奥の庭も作り、殿からおほめのお言葉もたまわっている。城内に出入りできる、家臣以外の人物となると、松蔵ぐらいなものだ。若い寺社奉行は言った。
「あの男は、ご家老たちのお屋敷のお庭の手入れもしています。盆栽作りの才能もあり、ご家老の夫人がたは、それをお求めになって喜んでおられるとか……」
家老たちはいやな表情になる。城の防備を担当する家老は、弁解をかねて言う。
「そのご心配は無用だ。われら家老は、藩の秘密など、妻子にも絶対に話していない。こうとなったら、面倒なことにならぬうちに、松蔵を切ってしまおう。疑わしい人物を城内に出入りさせておいては、よろしくない」
勘定奉行がそれをとどめた。
「しかし、松蔵が隠密でなかった場合、殺したりしたら大損害だ。いまでは名物ともいえる、わが藩の誇りのお城の名園が、荒れはててしまう。殿も帰国なさってがっかりされるだろうし、中奥のご側室も不快になられるだろう。しかし、それはまあいい。松蔵は肥料にくわしく、農民たちの相談にのってやっており、藩内の農作物の収穫を高めるのに役立っている。また、山のほうで薬草栽培もはじめている。これは藩が依頼してやらせていることだ。やがては藩の産業のひとつになると思われる。いま松蔵を殺したら、将来にかけて藩の財政上、かなりの損害となる」
「それはそうだろうが、もし松蔵が隠密で、その報告により幕府から工事をおおせつかったら、それ以上の大損害となる」
「その点はいうまでもないこと。しかし、隠密でなかった場合の損失、悪人らしからぬ松蔵をなぜ殺したかについてささやかれる藩内のうわさ、それらを計算に入れると、軽々しく切るのは考えものだ。もちろん、なにか疑わしいとの証拠でもあればべつだが」
その議論を城代家老が仲裁した。
「では、さらに調べることにいたそう。だれかを江戸にやり、松蔵の出生地で、本当に町人のうまれかどうかを聞き出してくるのだ。寺社奉行の配下の者に、その仕事をたのみたい。松蔵の先祖の墓のある寺にも当ってもらいたいのだ」
その結論にもとづき、ひとりの家臣が江戸へと旅立っていった。
その結果が、やがて寺社奉行から会議の席で報告された。
「どうにも判断がつかないので、ありのままをお話しする。その町名のところに、たしかに松蔵という男が、かつて存在はした。しかし、なにぶん十何年も前のことなので、人相についても近所の人の記憶もぼやけており、問題の松蔵と同一人物なのかどうか、確認できなかったそうだ。松蔵の人相書きを見せたが、似てるようだと言う者も、別人だと言う者もある。十何年も会わずにいるのだから、かりに本人を見せても、すぐにわかるかどうかだ。それに、この人相書き、へたくそな絵だ。もっとましな絵師をやとうべきだ」
寺社奉行の出した人相書きを見て、だれかが言う。
「わたしが見せられても、似てるような似てないようなとの感想をのべるだろう。しかし、旅の絵師をやとったはいいが、そいつが隠密だったなんてことになったら、えらいことだぞ」
「話を混乱させないでくれ。ところで、江戸の町人たちの言う松蔵は、腕はまあまあの植木職人だった。ところがある日、不意にいなくなったとのことだ。うわさでは、なにかしでかし、江戸にいられなくなったのではないかとの話。金の横領か盗みか、密通か人殺しか、そこまではわからないが」
「なるほど。そういえば、松蔵から身上話を聞いたことがないな。そのたぐいのことをやっていたとすると、発覚すれば死罪。当人は口がさけてもしゃべるまい。江戸から消えた松蔵と、ここのが同一人だったとしてだが」
「それなら、こうしたらどうだろう。もし本人が本当のことを話してくれるなら、当藩が、江戸の町奉行から追及されないよう保障してやると約束したら」
「いや、それは無理だ。話すわけがない。かりに話したとしたら旧悪を知る者が周囲にいることになり、いごこちの悪いことおびただしい。姿を消して他藩に行ってしまうだろう」
また、防備担当の家老が言った。
「どうだ、なにはともあれ、松蔵を呼び出し、問いつめてみるか。おまえは町人のうまれなのかと」
「それも無理だな。町人だと答えるにきまっている。町人なら当然のこと。隠密が、自分は隠密だと言うわけがない。みとめれば、その場で殺される。ただの庭師だったら、疑いがかけられただけでいやけがさし、他藩に移る。当藩の損失だ」
最も年長の、外交と儀礼を担当している家老が発言した。
「わたしは江戸家老を勤めたことがある。だから、幕府の隠密に関していくらか聞いている。隠密とは、お庭番という役職。ふだんは江戸城のなかの庭の管理をやっている。つまり、庭師なのだ。だから、松蔵が庭師であることを考えあわせると、疑わしいように思えてならない。話があう。江戸の松蔵の|失《しっ》|踪《そう》をいいことに、お庭番の者たちを各藩に出むかせたのではなかろうか。もしかしたら、ほうぼうの藩に、江戸から来た松蔵という庭師がおり、隠密の役をはたしているかもしれない」
「しかし、なあ、話があいすぎるような気もするな。お庭番が庭師では、あからさますぎる。藩に潜入するのに、本職のままでというのは芸がなさすぎる。なにか他の職人に身をやつしたくなるのが、人情ではなかろうか」
防備担当の家老がそれについて言う。
「いや、それを逆手にとるという作戦もあるのです。あからさますぎると、かえって盲点となる。兵学にもよく出てくる。巧妙な侵入者をとらえるのは、なにくわぬ顔で堂々と入ってくる者をとらえるより容易だと。やはり、松蔵の処分は早いほうがいい」
「本当に隠密だった場合、やつを殺せば、そのことが江戸の幕府の耳にいずれは入る。隠密を切ったとなると、幕府は、さてはなにかやましい点があるのだなと思うのではないだろうか」
「では、山の中ででもひそかに殺そう。足をすべらせて谷に落ちて死んだ形にしておけばいい。隠密は事故死や病死をしないものだときまってはいない。やつが隠密だったら、死後かわりの者がやってくるだろう。よく見張っていれば、つぎに当藩に住みついた者が後任者となる。それからは扱いやすくなるぞ」
「名案です。ただし、松蔵が本当に隠密だった場合だけですがね。また、つぎの隠密、もっとすごいやつが、もっと巧妙な手段で潜入してくるかもしれない。松蔵が隠密だったとしても、くわしいことを知られていないのなら、注意しながら、いまのままおいておくほうが得策ともいえる。比較の問題です。それに、庭の手入れにすぐ困る。せめて、親方の遺児が松蔵から技術を学びつくすまで待てればいいのだが」
議論はきまらず、城代がしめくくった。
「もう少しはっきりするまで、判断を待ちたい。信用できる町奉行配下の者を何人か使い、ひそかに松蔵の動きを監視してくれ。隠密の疑いだなどと教えずにな。なんとかうまい理屈を考えて命じてくれ」
「やってみましょう。しかし、中奥での動きまでは監視できませんよ。中奥の庭仕事となると、庭師は老女の監督の下で入れるが、われわれは入れません」
松蔵の動きが調べられ、その報告がなされた。会議の席で町奉行が言う。
「これまでの中間報告というわけですが、松蔵にはあまり友人がいない。趣味といえば、ひまな時に魚釣りをする程度。庭作りとなると、お城とか家老屋敷の仕事が多い。そんなわけで、ほかの職人たちにつきあいにくいやつとの印象を与えているのでしょう。お城や家老屋敷に出入りしていると、言葉づかいがていねいになってしまったりしてね。ほかの職人たちとつきあい、酔ってばかさわぎをしたり、ばくちをしたりすると、お城へのお出入りをさしとめになるかもしれないと、松蔵が気をつけているようでもある。というわけで、やつがどんな性質なのか、だれもよく知らないのです」
「なるほど」
「友人が少ないという点、仕事大事と松蔵が考えての上だったら、やつは怪しくない。しかし、正体を知られたくないためにそうしているのだったら、怪しいといえる。ここは依然としてなぞなのです。やつがどんな性格かは、ご家老はじめ、お城の上役のご夫人がたのほうがくわしいようです。庭の手入れをしている松蔵と話をかわしておいでのはずだ。その方面から聞き出すことはできませんか」
「うむ、弱ったね。女たちから聞き出すとなると、うわさが変にひろがりやすい。夫人たちが下働きの女に、松蔵ってどんな人だねなどと聞いたら、たちまち話題になる。また、松蔵に警戒されることになる。こっちの武器は、やつにまだ怪しまれていない点にあるのだ」
防備担当の家老が言う。
「やはり、このさい切るほうが……」
「切るのがお好きですねえ。しかし、切るとですよ、松蔵が隠密だったということになる。すると、上役たちのご夫人がたが、その手先としてあやつられていた形になる。しこりが残りかねません。われわれの妻子が、気づかなかったとはいえ、利用されていたという点でね。できうれば、殺すのは、はっきりした上でが望ましい」
「ことは少しも進展していない。いったい、松蔵は字が読めるのか。読めるのだったら、隠密と断定してもいい。隠密は字が読めなくてはだめだろうし、ただの庭師なら、学問は不要だろう」
と城代が聞き、町奉行が答えた。
「それもわからないのです。ひらがなで自分の名ぐらいは読み書きできそうだが、それ以上どうかとなると、なんともいえない。松蔵がだまって立札に目をむけているとする。読んでいるのか、ながめているだけなのか、当人以外には知りようがない」
「それなら、ひとつわなをかけてみよう。やつがやってきた時、お城の庭に重要そうな書類を一枚、そっと落しておく。やつがどう反応するか、物かげから観察するのだ。拾いあげてしげしげと見たら、読んだときめていいだろう。やってみることにしよう」
「で、どんな書類を作りますか」
「そうだな。江戸の商人にあてての、借金の返済延期を求める手紙なんか、どうだ。勘定奉行の印を押した、もっともらしいのを作ってくれ」
その計画は実行に移された。松蔵のやってくるのを待ちかまえ、城の庭にその手紙をおき、物かげから見ている。しかし、その時、運が悪いというべきか、とつぜん風が吹いた。あれよあれよといううちに、手紙は高く舞いあがり、どこかへ飛んでいってしまった。手わけしてさがしたが、ついに見つからない。勘定奉行はため息をつく。
「とんでもないことになってしまった。あの手紙、川へでも落ちて沈んでくれればいいが、だれかに拾われたらどうなる。わが藩の恥さらしだ。商人に対して、返済延期を泣きついている文面なのですよ。あの手紙の内容は事実ではないと、城下に立札を出すわけにもいかず。それに、もし万一、あれが本物の隠密の手に渡ったら……」
「その場合なら借金の存在を暗示している文面だから、悪い結果にはならないと思うが」
「いや、そうはいきません。幕府は念のためにと、その商人に会ってたしかめるだろう。商人がその手紙を受け取り、それを証拠に金をかえせと請求してきたらどうなる。勘定奉行の印のあるものを、あれはうそだとも言えない。また、その商人が金など貸してないと答えたら、わが藩への疑惑は高まる一方。隠密どころか、幕府の役人が直接、取調べに乗りこんでくるかもしれない……」
勘定奉行の想像は、悪いほうへとばかり発展する。城代家老がなぐさめる。
「もしそうなったら、貴殿だけの責任にはしない。わたしも城代家老として、いっしょに腹を切る」
「いっしょに切腹していただいても、しようがありませんよ。これが戦場においてとか、なにか悪事をしての死なら、まだ救いがある。しかし、計略のにせ手紙を作っただけのあげくでは、あまりにばかげている。ああ……」
そのあと何日か、みなは書類の拾得者のあらわれるのを待った。しかし、それはなかった。字の読めない者には重要さがわからず、重要さのわかる者は、読んだなと怒られるのを恐れて捨ててしまったのかもしれない。勘定奉行は、手紙がどうなったのかの不安を忘れかね、いらいらしはじめた。
城代家老は言う。
「このあいだは失敗した。もう一回やろう。こんどは風に飛ばされないよう注意してだ」
勘定奉行は首をふる。
「もう、わたしはごめんです。手紙ならべつな人に作らせてください」
「では、わたしが書こう。江戸屋敷においでの殿にあてた辞職願いだ。病気のため城代をやめたいといった文面。内容などどうでもいいのだ。問題は、やつが拾って読むかどうかだ。読んだらその場でひっとらえる。読まなければそれですむ」
またも準備がなされた。松蔵が庭へやってくる。物かげから見られているとは知らないらしく、松蔵は手紙を拾いあげた。さあ、どうするだろうか。松蔵はそれで鼻をかみ、ぽいと投げ捨てた。家老や奉行たちは、顔をみあわせて相談する。
「どう判断したものか。読んだのであろうか、鼻をかむために拾いあげたのであろうか。どっちともとれる動作だった」
「拾いあげて鼻をかむまでの、あの短い時間。そのあいだに内容を理解したとなると、相当な学があることになる。でなかったら、まるで無学、字に無関心ということになる。ゆっくりなら読めるというのでないことだけはたしかだ」
「結局、わからんということだ。こんどは、もっとむずかしい内容の、こまかい字の手紙でやってみるか」
「いや、この作戦はもうやめたほうがいい。歩く道に、いつも手紙が落ちてるとなると、隠密だったら、すぐ変だと気づくだろう」
「だったら、変だと思うかどうか、その態度を観察するというのは……」
「見わけられないのではないかな。読まずに、切った枯枝や枯葉といっしょに燃やしたとする。これを怪しいときめられるかどうか、むずかしいぞ。手紙を上下さかさまにながめたとする。これを怪しいといえるかどうか。なにか、もっとべつな方向から手をつけるべきではなかろうか」
城代が言うと、寺社奉行が発言した。
「そもそも、松蔵が栽培しかけている薬草とは、なんなのです。あれを調べてみたら」
「うむ、そうだ。これは大変な手ぬかりだった。あの薬草は、お城の医師の手をへて、殿の口に入る可能性のあるものだ。ゆっくりと作用する毒性のあるものだったら、一大事だ。殿が変死、不審な死だとのうわさが立つ。そして、お家騒動の件よろしからずと、お家おとりつぶしにならぬとも限らぬ。これにひっかかったら、えらいことだぞ。家臣みな浪人となる。それとなく、医師に聞いてきてくれ。将来の藩の産業計画のために、どんな効用があるのか知りたいとか言って……」
やがて、寺社奉行が薬草を持って戻ってきて報告。
「どうもあの医師、いい加減ですな。たよりないこと、おびただしい。気力をつける作用があるはずだが、薬草の本の図と少しちがう。さらに効果のある改良品種かもしれませんといった答えです。もっといい医師をやとうべきだ。そこで新しいのをやとうと、それが隠密……」
「その議論は、前にもやった。問題はその薬草だ。貴殿、つづけて飲んでみてくれぬか」
「ごめんこうむります。いかに寺社奉行でも、墓に入るのはまだ早い。また、効果があるにしても、わたしは若く、気力があります。薬のききめのためかどうか、見わけにくいでしょう」
「となると、この役は貴殿に……」
城代に言われ、最も年長の外交と儀礼担当の家老は、断われなくなった。その薬草を毎日飲みつづけることになった。これもご奉公のひとつと自分に言いきかせ、それをつづける。しかし、変な味で、毒かもしれないと思うと、不安になる。その家老もいらいらしはじめた。いらいらしてきたのが、薬草のせいなのか気のせいなのか、当人にも第三者にも見当がつかなかった。薬草を手がかりとする調査も、はっきりした結論は出なかった。
「なにか方法はないものか。やつの弱味をにぎって、おどしながら変化を見るとか……」
と城代が言ったが、町奉行は首をかしげる。
「だめでしょう。それがないんですよ。これといったことをやっていない。江戸でやったかもしれない犯罪の証拠でもあればいいんですがね。いや、それがあれば隠密でないと判明するわけでしたね。弱りました」
「しかし、人間というものは、金と人情には弱いものだ。そこをねらって、おどすのと逆の戦法をこころみてみるか。松蔵のこれまでの功績をねぎらい、金をやる。まあ、一種の買収だ。隠密だったとしても、魚心あれば水心で、当藩のためにならぬ報告を、江戸には送らないでくれるのではないだろうか」
「ご城代がご自身の判断でなさるのなら、反対はいたしません。わたしたちは、その反応をかげからのぞくことにします」
金の包みが用意され、松蔵が呼ばれた。城代家老は庭の手入れのよさをほめ、優しくねぎらいの言葉をかけ、金を渡した。松蔵は、頭は何度も下げたがあまり口をきかず、金をもらって帰っていった。城代家老にも他の者にも買収の効果があったのかどうか、よくわからなかった。もちろん、隠密かどうかも。そのうち、だれかが思いついたように言う。
「かなりのお金を渡してしまいました。買収に役立てばいいのですが、逆効果になったらことですよ。いやに景気がいいと思われてしまう。お城の金蔵には大金があるのかもしれぬとの印象を与えてしまう。そうなったら一大事。ご城代の責任となりましょう」
「うむ……」
防備担当の家老が、また例のことを言う。
「こうなったからには、切る以外に……」
「いや、待て。松蔵があの金をどう使うか、ようすを見よう。なにかの手がかりになるかもしれぬ」
それが調べられ、報告がもたらされる。
「あれから松蔵、お寺へ行ったそうです。城代家老から、身にあまるお言葉をいただき、お金をもらったと住職に話し、こんな大金を持っていると不安だから、あずかっておいてくれと……」
「平凡な行動で、また手がかりなしか。散財してくれれば、金めあての強盗をよそおって殺せたのだがな。住職に話して金をあずけたとなると、やつに金があるのを知っているのは、お城の関係者となってしまう。やつをへたに殺すと、住職がわれわれに疑いの目をむけかねない。住職も道づれに殺さなければならないかな」
と防備担当の家老が言うのを、寺社奉行が制した。
「やめてください。そんなことされたら、わたしが寺社奉行として責任をおわされる。第一、お寺の住職が殺されたら、領民たちは不安でさわぎはじめるでしょう」
城代が顔をしかめながら言う。
「だいたい、やつが独身だからいかんのだ。ひとりだと身軽で、いつでも逃げられる。とらえどころがないのも、そのためだ。だれか松蔵に嫁を世話しろ。町奉行、下の者に命じて、それとなく持ちかけさせてみろ」
その計画が実行された。城下の小さな商店の、平凡な娘が松蔵の嫁となった。その女は親方の遺児ともうまく気があったらしく、家庭は順調のようだった。その経過報告が町奉行からなされた。
「部下に命じ、松蔵の嫁にそれとなくさぐりを入れさせたのですが、要領をえません。亭主の正体についてなにも知らないのか、正体を知ったのだが、結婚によって愛情が高まり、口外しないのか、判断に苦しみます。女をしょっぴき、ひっぱたいて問いつめることはできます。しかし、それをやると、松蔵は腹を立て、幕府にむけて、あることないこと、当藩についてあしざまに報告するかもしれない。隠密だった場合ですがね。また無実とわかって釈放してからでは、もう手おくれ。こんな藩にいられるかと、親方の遺児を連れて、消えてしまう。庭園はあれはて、とりかえしがつかないこと、以前にのべた通りです」
「こうと知ってたら、信用できる家臣の娘にいいふくめ、やつの正体を調べる任務を命じて嫁入らせればよかった。といって、いますぐ離婚させるわけにもいかず……」
「あの病死した植木屋の親方、本当に病死だったのだろうか。怪しまれず住みつくために、松蔵が殺したとの仮定も立つ。いまとなっては調べようもないが。しかし、松蔵は遺児の世話をよくこれまでつづけてきた。偽装のためか、良心の|呵責《かしゃく》のためか、これまた見当がつかない。使命感にもとづく演技ということもありうるし」
反省だの疑惑ばかり出てきて、問題は足ぶみをつづけている。しばらく考えていた防備担当の家老が、こんなことを言い出した。
「先日来、なにか別な解答があるのではと考えつづけだったが、ふと頭に浮んだことがある。松蔵は幕府の隠密ではないかもしれない」
「これは新説。なんだというのですか」
「かたき討ちということもあるぞ。松蔵の肉親が、この藩の家臣、あるいは殿という場合だってある、そのだれかに殺された。そのうらみをはらそうとして、目立たぬようこの藩に住みつき、それとなく機会をうかがっているのかもしれない」
「しかし、職人なんですよ」
「だから、なおさらやっかいだ。やつが武士なら、堂々と名乗って切りかかるだろう。しかし、その実力のない職人なのだ。卑怯だろうがなんだろうが、目的のためには手段を選ばない。どんな巧妙な方法を使うか、予測できませんぞ」
人事担当の家老は、腕組みする。
「わたしの頭を痛める意見が出ましたな。松蔵を呼び、親のかたきを討つのなら手伝って本懐をとげさせてやるともいえない。家臣を見殺しにすることになる。松蔵だって言わないだろう。もし言ったら、藩が当人をひそかに逃がすだろうと思ってるにちがいない。だれがねらわれてるのやら、調べようがないから困る。わかれば手の打ちようもあるのだが。かたきとねらわれるような身に覚えのある者は申し出よ、との指示を出すか。だれも申し出ないでしょうな。周囲から変な目で見られ、昇進にもさしつかえる。ひそかに調べるよう心がけてはみるが、あまり期待しないでいただきたい。時間がかかる。やれやれ、やっかいな仕事をしょいこんだものだ」
そうこうするうち、松蔵をめぐってひとつの事件が突発した。そのことについて、町奉行から報告がなされた。
「部下に命じ、ひきつづき松蔵の動きをそっと観察させていたのですが、昨日、こんなことがおこった。川ぞいの道を、松蔵が悲鳴をあげながら逃げまわっている。追いかけているのは、他藩の浪人らしき男。そこで部下は、思わず飛び出し、松蔵を助けて浪人を切り殺してしまった」
「殺してしまったと……」
「それは仕方ありません。領民を守るのが藩の家臣の役目。また、部下には松蔵に隠密の疑いがあるとは言ってなかったのです。腕のいい庭師だから、他藩からさそいの手がのびるかもしれない。その防止のため、そっと見張れと言ってあった。松蔵がやられたほうがよかったのかどうか。この問題となると議論はきりがありません。浪人を殺してしまったという事実があるだけです。いうまでもなく、その浪人の死体を調べてみましたが、身もとを示すものは、なにもなしです」
「いけどりにできればよかったのだがな」
「いまさら、しようがありませんよ。松蔵は大いに感謝しています。命を助けられたのだから当然のことですがね。しかし、なにごとだと聞いても、答えは要領をえません。川で釣りをしていたら、因縁をつけて切りかかってきたとのことです。話はそれだけです。松蔵の話が事実なのかうそなのか、浪人が死んではたしかめようがない。あの浪人、凶暴性のある気ちがいだったのかどうかも……」
「その浪人、松蔵にうらみをいだいてやってきたのではないかな。松蔵のほうがねらわれる身だったとも考えられる。妻と不義をしたので、|成《せい》|敗《ばい》してやろうと、浪人に身をやつしてたずねまわっていたのかも……」
「ここのと同一人かどうかは不明だが、江戸から松蔵が失踪した。その原因がわからない限り、なんともいえない。命をねらわれるようなうらみを買っているとなると、本人も絶対に言わぬだろうし」
外交と儀礼担当の家老が口を出す。
「薬草を飲みつづけて妙な気分なのだが、わたしの隠密についての知識によると、こうも想像できる。松蔵という隠密、使命をおびてここに住みついた。しかし、いごこちがよく、家庭もでき、任務をおろそかにした。そういう場合、江戸からべつな隠密がやってきて、処分するらしいのだ」
「それは、ありうることだな。いつかの金と人情による買収工作が成功し、心がこっちに傾いたということになるな。今回は命を助けてやり、ますますいい結果になる。隠密だったとしても、わが藩のためになる人物だ。これからは扱いを変え、もっと大事にしなければなるまい」
「いやいや、必ずしもそうとは安心できぬ。隠密となると、裏の裏まで計画してとりかかるものかもしれない。この一件、松蔵への当藩の警戒心をゆるめさせるための、芝居だったとも考えられるぞ。あの浪人、わずかな金に目がくらみ、その犠牲にされたのかもしれない。身もと不明だなんて、うまくできすぎている」
「ちょっと待ってくれ。さっき、わが藩に寝がえった隠密だから、大事にすべきだとの説が出たが、それはちがうぞ。幕府を裏切った隠密ということになる。その松蔵をわが藩が守ってやるとなると、幕府の心証がはなはだしく悪くなる」
「そうなると、早く松蔵を切ったほうがいいことになるな。しかし、あいつ、武芸がどれぐらいできるのだろう。だれかに切りかからせてみるか。だめだろうな。武芸の達人だったら、ためすために切りかかったのだと察して、平然としているだろう。本気で切りかかって、松蔵がただの庭師だったら、首が飛んで終り。危険な|賭《か》けであること、これまでくりかえした議論に戻る。また、武芸がまるでできない隠密だってあるだろうし……」
城代家老が言う。
「いいかげんにしてくれ。きりがない。混乱するばかりで、わたしの頭もおかしくなりかけてきた。二日ほど休んで、冷静な気分になってから、あらためて相談しよう」
つづいて、松蔵に関して、またひとつ報告が入った。旅の武士が道ばたで松蔵に話しかけ、しばらく話しあい、歩み去ったと。町奉行はそれを話し、城代の指示をあおいだ。
「どういたしましょう」
「なにを話しあったというのだ」
「松蔵のいうところによると、植木の手入れ法を聞かれたので教えたのだとのことですが、どこまで本当なのやら」
防備担当の家老が言う。
「その武士を追いかけていって、切り殺すべきだと思う。幕府に報告がとどけられてしまっては手おくれになる」
「わが藩に好意的な報告という場合だってあるぞ。また、殺してしまっては、なぞは解決されずに残る。うむをいわさず殺して、あとで他藩の身分ある武士とわかったら、ことがこじれる」
「その武士をていねいに呼びとめ、いろいろ聞いたらどうであろうか」
外交と儀礼担当の家老が言う。
「みどもは幕府の役人だと名乗られたら、それ以上どうしようもない。わたしの隠密についての知識によると、隠密どうしの連絡は、すべて口頭でなされるとのことだ。密書など持っていたら、言いのがれができないからな。だから、所持品を徹底的に調べても、なにも出てはこないだろう」
町奉行があせった口調で言う。
「ぐずぐずしていると、その武士は関所を通って藩外に出てしまいますよ。手の届かないとこへ行ってしまうのですよ。どうします」
「うむ。どうしたものかな。よし、こうしよう。町奉行の配下で、最も信用できる者をひとり、すぐ旅に出せ。そして、その武士のあとをつけさせるのだ。どこへ行くかをつきとめれば、手がかりがえられるぞ。うん。これはわれながら名案だ」
その指示により、それがなされた。しかし、何日かして帰ってきた尾行者は、途中で見失ってしまったと報告した。町奉行は会議の席でそれを話した。
「まことに残念なことです。旅の用意もそこそこに出発させたので、なにかと不便だったらしい。はかまがほころびたが、針と糸を持参してなかった。旅館でそのつくろいに手間どり、そのあいだに見失ってしまったとのことです」
「なるほど。わたしの知識によると、それは隠密宿というものかもしれない。隠密たちが連絡をとりあうのに使う宿だ。主人もなかまだ。だから、わざとはかまをほころびさせ、そのあいだに逃がしたとも考えられる」
防備担当の家老が言う。
「本当に見失ったのかな。めんどうくさくなったので、切ってしまったのではないかな。あるいは、相手に気づかれ、てむかってきたので切り殺したのでは。切ったはいいが、死体を調べて、他藩のれっきとした武士とわかる。となると、藩に迷惑の及ぶのを防ぐため、その尾行者、自己の責任で見失ったと言いはることになるぞ」
「たしかに、あの部下はお家を思う念が強いからな。ありえないとはいえぬ」
迷いはじめる町奉行に、寺社奉行が言う。
「いや、その武士にうまく言いくるめられ、買収されたとも考えられますよ。まじめな人物ほど、だまされやすい。そのすきにつけこまれ買収されたとなると、帰って事実を報告しにくい。見失ったとでも言うほか……」
「なにを言うのです。わたしの部下はそんな性格ではない」
城代が言う。
「貴殿の責任で断言できるか」
「ええと、そうなると……」
「断言してもらったところで、見失ってしまってはどうにもならない。ああ、またもなぞのままだ。判定を下そうにも、そのもととなる材料が、いまに至るもなにもないのだ」
「そこに隠密側の作戦があるのかもしれません。松蔵は一味のおとり。あいつに皆の注意が集中するようしむけておき、そのすきに、隠密仲間がもっと大きな仕事を進行させているのかもしれない。松蔵はただ目立つように、意味ありげに泳ぎ回っているだけです。現実にはなにもしなくていい。だから、われわれがいかに調べようとしても、なにも出てこないのです。こういう考え方はどうでしょう」
「ううむ。ありえないこととはいえないな。専門の隠密ともなれば、それぐらいの作戦はたてるかもしれない。しかし、そのすきに、どのような大仕事をたくらんでいるというのだ」
「そこまでは見当もつきません。わたしはただ可能性をのべたまでで」
「いいかげんにしてくれ。不安だけが高まり、ますます泥沼にはまりこんでゆく……」
城代家老は悲鳴をあげた。
そのつぎの会議の時、人事担当の家老がこんなことを言いはじめた。
「いままでだれも発言しなかった、あることを思いついた。松蔵は隠密は隠密でも、幕府のそれではないのかもしれない」
「またも新説が出ましたな。で、どこからの隠密だというのです」
「ちょっと言いにくいことですが……」
「気をもたせないでくださいよ。重大問題なのですから」
「つまりです、われらの殿に直属している隠密。殿は参勤交代によって、一年おきの江戸ぐらし。留守中の藩政のことが気にもなりましょう。おざなりの報告文書によらない、その実態を知りたくもなりましょう。留守中、目のとどかないのをいいことに、家臣たちがいいかげんなことをやるかもしれない。その監視役を作りたくもなる。幕府の隠密の私的な小型版です。そのため、庭師を江戸でやとい、ここへ送りこんだのでは。松蔵が江戸を出てここに住みついたのには、なにか理由がなくてはならない」
「ううむ」
「殿だって、藩に金の余裕があるのかどうか、お知りになりたいでしょう。だいたい、今回のさわぎのもとは、幕府の役人に景気がいいそうでと声をかけられたという、殿の話です。本当にそう声をかけられたのかどうか、たしかめようがない。殿がご自分でその話を作り出し、われわれにかまをかけたのかもしれません。これまでの松蔵の報告をもとにです」
みなはうなずく。あれこれ考えすぎると、かえって思考力が失われ、そうかもしれないと考えはじめると、なんだかそれが事実のように思えてくるのだ。
「なるほど、なるほど。ありうることだな。殿がお城の庭を、しきりにほめておいでになる。いまにして思うと、松蔵をお城に自由に出入りさせよ、勝手に処分するな、との意味を含めた殿のお言葉だったともとれる」
だれかが防備担当の家老に言う。
「貴殿は、松蔵を切れ切れと、さかんに主張なさった。切っていたらえらいことでしたぞ。殿の帰国の時、どう説明するつもりでしたか」
「いまさら、そうおっしゃるな。わたしの発言、殿にはぜひ内密にしておいていただきたい。おのおのがただって、松蔵に疑念をおっかぶせたではないか。わたしと大差ないことですぞ」
だれかが思いついたように言う。
「そういえば、松蔵と話した武士を追っていって、途中で見失ったと戻ってきたのがあったな。見失ったのでなく、つかまえて問いつめ、そのことを打ちあけられたのかもしれない。追っていった者、たしか江戸屋敷づとめの経験者だったはずだ。そういう事情となると、のみこみが早いのではないかな。先日は買収されたのかもしれないとの意見が出たが、その逆、殿によろしくと買収をおこなったとも考えられるぞ。自分の昇進をよろしくお伝え下さいとね」
町奉行が言う。
「あいつが昇進するとなると、町奉行になる。わたしはどうなるのだ」
「隠居を命じられるか、家老への昇格か、どっちかしかない。貴殿の才能がどう評価されるかの点にかかっている。もっとも、昇格となると、家老に空席がなくてはならない」
最も年長の外交と儀礼担当の家老が言う。
「わたしはまだまだご奉公できるぞ。しかし、あの薬草、こうなると飲みつづけたほうがいいようだな。松蔵が殿の隠密となると、毒であるわけがない。なんだか気力がでてきた。そうだ、松蔵は城代家老の辞職願の手紙を読んでいるぞ。そのことが殿のお耳に入れば、空席がそこにできる」
そのうち、寺社奉行が口を出す。
「しかしですなあ、殿はご立派なかただ。隠密を使って監視するとは、家臣を信用なさっていないことになる。そんなことを、なさるとは思えない。わたしは、江戸においでの、正室とのあいだにできた世つぎである若君のつかわした隠密ではないかと思う。若君は、正式に相続なさるまで、藩には来られないのが幕府のきまり。しかし、やがては自分が領主となるのだから、その藩の実情について、とらわれない知識を持っておきたいとお考えになるのは当然だ。将来の藩政改革のための材料を集めておいでになるのかもしれない」
「そうでなければ、やはり江戸にお住まいの、家督をいまの殿にゆずられて隠居なさっておいでの、先代の殿の隠密かもしれない。隠居したとはいっても、やはり藩のことは気になる。いまの殿に対して、こんなことでどうすると意見のひとつもなさりたいだろう。それには材料がいる。先代の殿はなかなかの名君でしたからな」
話題が幕府という|漠《ばく》|然《ぜん》たるものから、身近で現実的なものへと移ったため、会議は活気をおびてきた。
つぎの会議の時、町奉行が防備担当の家老に言った。
「松蔵の監督は依然つづけているのですぞ。部下の報告によると、貴殿は松蔵に庭の手入れをやらせ、大金を払い、なにごとか長い時間にわたって話しこんだとか。これはよろしくない。自分の忠実さを殿か若君に伝えてくれるよう、買収しようとなさったのでしょう」
「いや、決してそんなことはない。松蔵の正体は本当のところなんなのか、それを自分なりに調べようとしたまでのこと。買収だなんて、そんな卑劣なことはいたさぬ」
「しかし、貴殿はさかんに松蔵を切れと主張なさっていた。その穴埋めをしておきたくもなるのではなかろうかな。いちおう、いまのお言葉を信じておきましょう。で、ご自分で調べてみて、なにか判明しましたか」
「それがその、なにもわからぬ」
疑心暗鬼の空気がしだいに濃くなる。会議が開かれるたびに、それは一段とひどくなる。
「松蔵は、殿や若君のではなく、江戸家老のひとりがよこした隠密かもしれない。やがては城代家老となり、藩の実権をにぎろうと考え、いまの家老たちを失脚させる材料を集めさせているとも考えられる。ことのおこりは江戸からの手紙、殿の話ということにして江戸家老が作りあげたものかもしれない。とすると、また対策もちがってくる。われわれは力をあわせ、そのたくらみに当らなければならない。内輪で争いはじめたら、それこそ思うつぼです」
「そうとわかれば、力をあわせましょう。しかし、そうだと判明したわけではないのですぞ。ことはもっと複雑かもしれない。ここの中奥においでのご側室と殿とのあいだのご子息も、いま江戸屋敷においでだ。ここのご側室は、殿のお気に入りだ。ご側室の父は、江戸屋敷で殿のおそばにつかえている。なにか想像したくなりませんか。ご側室、その父、ご側室のご子息、これらが組んで殿をたきつけると、なにがおこるか。ご正室とのあいだの若君をさしおいて、こちらを正式の世つぎになおしかねない。松蔵はその連絡係、中奥に入れる立場にある点が、どうも気になります」
外交と儀礼担当の家老が言う。
「お家騒動だな。となると、あの薬草、じゃま者を殺すための毒の作用を持つものとも考えられる。なんだか急に胸がむかついてきた」
「いずれにせよ、これは大陰謀。殿の判断ひとつできまる賭けです。隠居なさっている先代まで抱きこみ、もしこれが成功したら、松蔵にとりいってた者は、はぶりがよくなるでしょう。しかし、失敗に終ったら、反対に反逆者の一味となって、重く罰せられる。えらい分れ道に立たされてしまった。ご城代はどうなさるおつもりです」
「ううむ……」
と城代家老はうなるだけ。こうこみいってくると、思考がまるで働かないのだ。そのうち、だれかが城代にこう言う。
「こんなことを申していいのかどうかわかりませんが、ご城代は最初からなにひとつ決定を下さない。ただ、みなの発言を聞いているだけ。慎重を期しているともとれるが、そうでないともとれる」
「なにを言いたいのだ」
「じつは、これらすべて、ご城代のしくんだ芝居ではないのですか。みながどう反応を示すか、それをためすための芝居。ことのおこりは、ご城代ですよ。江戸からの手紙ということで、大さわぎに火がついた。あの手紙、ご城代がお作りになったものではありませんか。そんな気がしてきた。そうならそうと、いいかげんで幕にしてくださいませんか」
「いや、決して、そんなことはない」
「しかし、松蔵に金をやったり、嫁を世話したりしている。そうでないのでしたら、われわれをなっとくさせる証拠でもお見せください」
「そんなもの、あるわけがない。わたしは本当に、どうしたものかきめかねているだけなのだ」
会議は開かれるが、しだいにみなしゃべらなくなっていった。相談をつづけてきたが、結論はなにひとつ出ていない。また、へたな発言をしたら、そのむくいがあとでどんな形でわが身にはねかえってくるのか、見当もつかない。こうなると、自分の判断で最悪の事態にそなえなければならない。
城内の各所でささやきがかわされたり、自宅で会合が開かれたりする。仲間や子分を少しでもふやしておこうというのだ。大きな集団となっていれば、どっちへころんでも無事だろう。江戸屋敷へおくり物をとどける者もあらわれる。いろいろな派ができ、それぞれのおもわくで将来に賭けている形だ。二重に賭けたり、三重に賭けたり、裏でひそかに手をにぎりあったり、手をにぎるとみせかけて、いざという場合に他を没落させようとたくらんだり……。
藩政の事務どころではない。会議ではなにもきまらない。城内はがたがた。疑惑とその対策のためだけにだれもが立ち回っている。
城下のようすもどことなくおかしくなり、通過する旅人はふしぎがる。その旅人のなかには幕府の隠密もおり、不審な動きを感じ、帰って報告する。べつな隠密がやってきてみると、たしかにその通り。苦心してさぐらなくても、数日いれば城内の四分五裂はすぐわかる。
それが確認され、幕府は正式に命令を出し、それが藩にもたらされた。
「幕府への反逆の動きがあるとは思えないが、内部の不一致、藩政をおろそかにしている点はあきらかである。お国替えを命じる」
もっと別な地方の、|石《こく》|高《だか》の少ないところへ移れという一種の格下げ。この命令は絶対で、さからえない。家臣たちは家族ともども、全員ひっこすことになる。
大変な費用。移ってしばらくのあいだも、なんだかんだと出費がかさむ。城のなかにたくわえてあった万一の場合への準備金は、そのために使われ、なくなってしまった。
かわりに新しい藩主とその家臣たちが移ってくる。庭師の松蔵はつぶやく。
「みな交代してしまった。しかし、おれは武士でないから行かなくていい。ついてゆく義理もない。ここは住みよいところだし、いい気候で、のんきでいい」