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厄よけ吉兵衛
日期:2017-12-31 14:58  点击:367
 あけがた、吉兵衛は夢を見た。
 ミカンを食べながら歩いている夢だ。そのミカンは酒を含んでいて、食べるにつれて酔ってくる。いい気分だった。きれいな|虹《にじ》が空にかかっている。それをながめながら、ふらふらと歩いている。その時、うしろから声をかけられた。
「やい、町人。あり金を残らず渡せ」
 ふりむくと、覆面をした武士。まずしい身なり。浪人らしい。どう答えたものかと迷っていると、相手は刀を抜き切りつけてきた。肩のところにぐさり。身をかわそうとしたが、酔っている。足がもつれ、吉兵衛はそばの川のなかに落ちた。つめたい水……。
 そこで目がさめたのだった。ふとんのなかで、いまの夢をしばらく頭のなかでいじくりまわした。そとはいくらか明るい。近所のかすかなざわめきが聞こえてくる。
 七つ半、すなわち朝の五時。街のめざめる時刻だ。江戸は早寝早起き。七つ立ちといって、大名行列などは四時に出発する習慣だ。勘定奉行は、六時には役所に出勤している。
 吉兵衛が寝床から出ると、妻がふとんをしまった。しかし、|枕《まくら》だけは吉兵衛が自分でしまう。眠っているあいだに魂を託す大切な品だ。ていねいにあつかわなければならない。
「おはようございます」
 子供たちがあいさつする。娘は十六歳。むすこは十歳だ。みそ汁とナットウで食事をする。食事中はほとんど会話をしない。おしゃべりははしたないことなのだ。それでも吉兵衛は、ひとことだけむすこに言う。
「おまえは十歳。重要な年だ。どの方角も凶。災厄にあわぬよう、よく注意するのだぞ。この一年、むりなことは決してするな」
「はい」
 毎朝のことで、日課のひとつになってしまっている。それも、むすこのことを思えばこそだ。いまのところ、唯一のあととり。あらゆる厄よけの秘法をおこなっているとはいうものの、この子にもしものことがあったら、娘に養子を迎えねばならぬ。といって、ぐずぐずしていると、娘の婚期を逸しかねない。養子を迎えるとなると、良縁の|願《がん》のかけかたがちがうのだ。だからこそ、むすこがこの十歳をぶじに乗り越えてくれるよう、心から願っている。
 食事のあと、お茶を飲みながら、吉兵衛は夢占いの本を開く。いつなにが起るかわからない世にあって、これはたよりになるもののひとつなのだ。
〈盗人に切られた夢を見れば、思わぬ方角より吉報きたる〉
〈ミカンの夢を見ることあれば、難あり。警戒が大切、油断すべからず〉
〈虹の夢を見たら、何事も急ぎ片づけるべし。ぐずぐずすれば、こと成りがたし〉
〈酔うて水中に落ちるを見れば、ごたごたに巻きこまる〉
 などと似たような項目はあったが、さっきの夢そのものに相当するのはない。吉なのか凶なのか、さっぱりわからない。どちらかといえば凶と考えておいたほうがいいのかもしれぬ。近所の稲荷さまに参詣しておくとするか。何事も急ぎ片づけるべし。
「ちょっと出かけてくる」
 そそくさと吉兵衛は出て、近くの小さな稲荷に参詣した。ほぼ三日に一度は参詣している。おかげで、きょうまでなんとか大過なくすごしてこれた。霊験あらたかなのだ。
 六時ちょっとすぎ。商店が戸をあけはじめている。営業は八時からだが、それにはいまから準備しておかねばならない。
 トウフ屋の前で吉兵衛は足をとめ、なかをのぞきこんであいさつをする。
「おはよう」
「おや、吉兵衛の旦那。お早いことで」
「アブラアゲを一枚くれ」
「どうぞどうぞ。お持ち下さい。お代はいいですよ。朝の一番のお客には、相手の言い値で売ることにしてるんです。それをやっているおかげで、ずっと商売がつづいている。しかも、こんなに早く、吉兵衛さんとなると、お金はとれない」
「そうかい、すまないな。じゃあ、もらってゆくよ。このところお稲荷さまに供え物をしてないことを思い出したというわけさ。ついでに、この店の繁盛も祈ってきてあげるよ」
「よろしくお願いしますよ」
 吉兵衛はまた鳥居をくぐり、アブラアゲを供え、トウフ屋のことも祈った。うそをついてはいけないのだ。稲荷のお使いであるおキツネさまは、なんでもお見とおしだ。
 弁天さまはヘビ、八幡さまはハト、熊野権現はカラス、|帝釈天《たいしゃくてん》はサル、大黒さまはネズミ。神さまにはそれぞれ動物が所属しているのだ。ここのおキツネさまも、この供え物で喜んで下さるにちがいない。少なくとも、きょう一日は、いくらかすがすがしい気分になる。
 戻る道で、仕事に出かける行商人や職人たちに会う。七時はその時刻。吉兵衛は長屋を持っている|大《おお》|家《や》なのだ。そこの住人たちの姿を見ると、声をかけてやる。
「きょうも、けがをしないようにな」
「わかっておりますとも。いってまいります」
 自宅の門口に立って、吉兵衛はながめる。元三大師の魔よけのふだがはってある。つののある人物の絵のふだで、悪魔をはらうききめがあるのだ。サザエの貝殻もつるしてある。このとげで、やってきた鬼は退散することになっている。さらに、三峰神社のオオカミのおふだ。これは盗難よけのためのもの。
 不幸の侵入にそなえ、警戒は厳重にしておいたほうがいい。門口を入った内側にも、おふだが並べてはられている。水難を防ぐ水天宮、火災よけの秋葉神社、盗難を防ぐ仁王尊。盗難にはとくに注意せねばならぬ。それらのおふだを点検し、吉兵衛は満足する。
 四つに折って、のりで軽くとめてあるのは、赤で描いた|為《ため》|朝《とも》の絵だ。これはホウソウを防ぐ役に立つ。いつもはっておきたい気分だが、そとへはると「さては流行か」と近所が大さわぎになる。だから、このようにすぐはり出せるよう用意しておくのが一番いい。むすこが感染したら一大事。
 座敷にすわると、長屋に住んでいる若い男がやってきて、庭へまわった。旅姿をしている。
「これから出かけてまいります」
 まだ独身の、よく働く歯みがき売り。そのうち一軒の店を持ちたいと、|金《こん》|比《ぴ》|羅《ら》さまに願をかけて、仕事にはげんでいた。そのおかげだろう。道で大金の入った財布を拾った。吉兵衛は大家として、それを奉行所にとどける手続きをとってやった。落し主がみつかり、謝礼が出た。それを若者に渡す時、吉兵衛はすすめた。
「おまえは金比羅さまに願をかけたそうだな。あの神さまは強い霊験があるかわり、へたをするとたたりもある。この機会に、お伊勢まいりをしてくるがいい。ついでに、よその土地での見聞をひろめてこい」
 それできまったのだ。吉兵衛は暦を調べ、旅立ちにふさわしい日を選んでやった。それが、きょう。若者は言う。
「おかげさまで、天気のいい日に出発できることになりました。えんぎがいい」
「道中手形をなくすなよ。それはわたしの責任で発行したものなのだから。おまえが旅先でなにかやらかすと、保証人であるわたしも巻きぞえになる」
「よくわかっております」
「道中、キツネやタヌキにまどわされるなよ。馬フンを食わされたり、旅館と思って竹の林に寝かされたりする。変だなと気がついたら、足をとめて深く呼吸するといい。それから、ワラジのうしろに牛のフンをつけておくと、マムシ、毒虫が近づかない。カラタチの葉を寝床の下に入れれば、ノミにたかられないですむ。足の裏が痛くなったら、ミミズを泥のついたまますりつぶしてぬればいい」
 あれこれ旅の注意をする。若者が聞く。
「いったんわかした水であれば、飲んでも腹をこわさないと言う人がいますが」
「そんな話、読んだことも聞いたこともない。だめだ。ききめはないぞ。水にあたるのを防ぐには、タニシをショウユで煮て、乾かしたものを口にするほうがいい。|熊胆《くまのい》と反魂丹をあげよう。腹痛の時に使うといい」
「ありがとうございます。では……」
 若者は出発していった。吉兵衛のむすこは、寺子屋へと出かけていった。それにもくどいほど注意の言葉をかけた。
「さて、わたしはうちの長屋を見まわってくるか」
 これが吉兵衛の日課だった。先祖代々、長屋を所有し、それを家業としている。長屋とは、同じ型の住居をいくつもつなげ、連続させて一棟とした建物のこと。独立家屋である吉兵衛の住居から一町ほどはなれたところに、それがある。
 表通りには商店が|軒《のき》をつらねている。その切れ目の横町を入る。そういう裏の土地に、長屋は建てられているのだ。
 入口に木戸がある。そこを入ると、両側に一棟ずつ、むかいあうように並んでいる。中央に下水のみぞが掘られ、そのむこうに井戸がある。少しはなれて、共同の便所とゴミ捨て場があり、もちろん鬼門の方角は避けてある。住居はそれぞれ九尺二間。せまいものだが、これが一般庶民の住居なのだ。
 居住者は二十世帯。そこからの家賃が、吉兵衛の収入となる。しかし、決してのんきな商売ではなかった。居住者のなかから、よからぬことをした者が出ると、それは大家の責任でもある。けんかで人を傷つけたりするやつがあると、吉兵衛も奉行所に呼び出され「きつくしかりおく」と申し渡される。長屋内でばくちをやった場合も同様だ。
 それがたび重なったり、盗賊と知っていて届け出なかったり、放火犯が出たりしたら、大家も江戸追放や遠島になる。まったく、そのことを考えると気が気でない。毎日をびくびくしながらすごしている。とても割りのあう商売ではないが、祖先以来の家業なのだ。
 長屋の数をふやせば、それだけ収入もふえるが、神経もまたすりへらさなければならない。だから、そんなこと考えもしない。太っ腹をよそおう大家もいるが、そんな人だって内心は同じこと。
 吉兵衛は毎日、ようすを見てまわらないと気がすまない。
 
 まず、左の棟の手前の家をのぞき、声をかける。そこは野菜売りの家。朝、市場へ行って仕入れ、かついであちこち売り歩くという商売。亭主はその仕事に出て、女房が留守番をしていた。ちょっとした美人で、四カ月の身重のからだ。
「どうだね、ぐあいは」
「あ、大家さん。まあ、なんとか……」
「つけているかい、品川の仁王さまのお|祓《はら》いを受けた腹帯を……」
「はい」
「それならいい。この調子だと、うまく安産月に生まれそうだな。母か子か、どちらかが死ぬ月の出産となると、ことだ。そのための|祈《き》|祷《とう》だなんだで、ぶじにすんだところで、金がかかることになる」
「いろいろお教えいただいて……」
「どうやら、すべてうまくいっているようだな」
 この女、かつて近くの菓子屋の店の男といい仲になったことがあった。どんなことがあっても、いっしょになるというさわぎ。その仲をさくよう菓子屋の主人にたのまれ、吉兵衛も力を貸したことがあった。
 なぜなら、その組合せだと相性が悪いのだ。家に病気がたえず、できそこないの子ばかり生まれることになる。不幸になるとわかっている結婚を、そのまま見すごすことは、良心が許さない。
 板橋の縁切り|榎《えのき》に出かけていって祈り、それから説得。冷静になりなさい。いまは熱病にかかっているようなものだ。あの男がイモリの黒焼きを菓子にまぜ、それを食わされた。その、ほれ薬のききめは、すぐにさめる。そもそも、男女には相性というものがあって……。
 好意と信念と理屈とがそろっている。ついに女はあきらめた。そこで、すぐここの野菜売りとの縁談を進め、いっしょにさせたのだ。この女は水性、亭主は木性、うまくゆかないはずがない。しかも、商売が野菜売りとくる。水、木、野菜だ。よろず吉、大福あり、長命うたがいなく、よい子がうまれる。長屋のため、ひいては世のためでもある。
 よいことをしてやったと、吉兵衛は心のなかで満足している。この女だって、きっと感謝しているにちがいない。
「ご亭主の仕事は順調だろうね」
「もう少しかせいでくれるといいんですけど」
「それでいいんだ。やがて景気がよくなるよ。末広がりの運勢の人なのだから」
「でも、食べるものは、売れ残りの野菜ばかりですの」
「妊娠中は野菜のような淡白な食事のほうがいいんだ。けがれが少ない」
「このあいだなんか、ナスの夢にうなされましたわ」
「それはえんぎがいい。鏡や杯の夢と同じく、いい子が生まれる前兆だよ」
「そうだといいんですけど」
「安心しなさい。では、また……」
 どうやら、この家はぶじなようだ。亭主の金使いが急に荒くなったら、いちおう疑ってみなければならないところだが。これも、相性で二人を結びつけたからだ。
 どこの家の戸口にも、盗難と火災よけのおふだがはってある。いいことだ。各人それぞれが用心するに越したことはない。
 そのとなりはカゴかきを業とする家だが、女房から、子供が百日ぜきで困るとこぼされた。吉兵衛は教えてやる。こういうことも大家のつとめなのだ。
「オモチャの犬張子があるだろう。それにミソコシのザルをかぶせ、神棚にそなえるのだ。さらに念を入れ、近所の橋に行って、祈願をしておくといい。ただし、なおった時、その橋の欄干を紙で包み、水引をかけて、お礼の意を示すのを忘れないようにな。おこたると大変なことになる」
「なぜ、そんなことで病気が……」
「ご主人が酔っぱらって、お稲荷さんの鳥居に小便をしようとしたら、やりたいようにさせておくかね」
「とんでもない。やめさせますわ」
「それと同じだよ。自然や人間界を支配する原理とは、そんなふうに、どこでつながっているか、きわめて微妙なものなのだ。神を疑ったり、不吉なことを口にしては困るよ。この長屋の和を乱す。出ていってもらうことになるよ」
「いいえ、そんな。あたしだって、ばちが当るのはいやですわ」
「それだったら、どこかの神社にお百度まいりをするとか、厄はらいをしてもらうとか、誠意を示しておくほうがいい。一家のためだけでなく、みなのためでもあるんだ」
「といいますと……」
「たとえばだな、まだまだ幼児の死亡が多い。おとといも、むこうの横町の子が死んだ。幼児を埋葬する時、人形をいっしょに入れてやればいいんだが、それをしないと、死んだ子の魂が遊び相手をほしがり、よその子をあの世へさそう。こういうことをちゃんとしない人がいるから、不幸がたえないんだ。考えれば考えるほど、気の毒でならない。困ったことだ」
「ほんとにそうですわね。それから、あの、もうひとつうかがってもいいでしょうか」
「なんだね」
「大家さんは生活にゆとりがある。なぜなんでしょう」
「毎日を気楽にすごしているわけではないよ。節約が大事、まあ暮しはなんとかなっている。それに、まじないのおかげだろう。一生、金銭に不自由しないというやつだ。うちでは、代々それをやっている」
「ぜひ、お教え下さい、それを」
「六月の十六日に、永楽銭十六枚で食べ物を買い、よその十六歳の子供に、それとなくおごってやる。それだけのことだ」
「そんな方法があったんですか。じゃあ、さっそく、うちの人に……」
 女は急に目を輝かせた。
「そうしなさい。しかし、信心をつづけなければ、ききめはあらわれないよ。また、ひまがあるのだったら、なにか内職でもしなさい。ぼんやりしていては、神さまのほうも助けようがない」
「わかりましたわ」
「わかってくれればいいんだよ」
 吉兵衛はその家を出る。百日ぜきの治療法を疑ったりし、危険な考えの持ち主かと一時はひやりとさせられたが、これからは、この女も心がけがよくなるだろう。それは亭主にも影響する。そうなれば事件をおこすこともない。すべてにいいことだ。
 
 長屋の住人の職業は、そのほか、牛車ひき、紙くず買い、行商、職人など。店をかまえないでやれる職業の者ばかり。
 子供たちは、そのへんや通りで遊んでいる。女房たちは井戸端に集って、洗濯をしながらなにやら雑談にふけっている。しかし、きょうはいつもとちがい、笑い声がなく、どこかようすがおかしい。変なことが発生したのでなければいいが。吉兵衛はそばへ行ってあいさつをする。
「みなさん、こんにちは」
「あら、大家さん……」
「どなたもお元気なようで、けっこうですね。お変りもなく……」
 少しだけ語尾を強めると、女のひとりがこんなことを言った。大工の職人の女房だった。
「それがね、大家さん。困ったことがおきてしまいまして」
「なんです」
「あたしの亭主の財布がなくなったんですの。昨夜、眠っているあいだに」
「おいおい、軽々しく、そんなことを口にするなよ。重大な問題だぞ」
「でも、寝る前には、たしかにあったんです。それが、起きてみると……」
「すると、盗難だな……」
 吉兵衛は腕組みをする。どうやら盗難にまちがいないようだ。長屋の入口には木戸がある。夜になると閉じることになっているが、形式的なもの。夜おそくまでソバ売りをしている者もいる。いちばんおそく帰った者がしめることになっているが、必ずしも守られていない。また、その気になれば乗り越えることもできる。
 だから外部からの賊とも考えられるのだが、吉兵衛にはこの長屋の内部の者のしわざのように思えた。ただの賊なら、この家が大工職でかせぎがいいと知っているわけがない。となると、やっかいな事件である。
 しかし、そんな推測を口にしたら、疑心暗鬼、住人たちの和が乱れてしまう。また、その犯人がわかってもことだ。監督不行き届きということで、当人の処罰ばかりでなく、吉兵衛も奉行所からしかられることになる。被害者の女はぼやいている。
「なぜ、盗難なんかに。ちゃんと、おふだがはってあるのに」
「日が悪かったのかもしれませんな。それに、あなたのご亭主は、酒を飲みすぎるよ」
「お酒がなぜいけないんですの」
「自分ばかり飲んで、神棚に供えるのをおこたってたのでは……」
「ちゃんと供えてますわ。お酒でたたられるなんて、変ですわ。財布のなかみはしれてますけど、盗まれるっていい気分じゃない。大家さん、なんとかして下さいよ」
 女にたのまれ、吉兵衛は言う。
「よろしい。わたしが行ってこよう。しばられ地蔵に祈ってくる。知っての通り、その地蔵さまをしばり、願をかけると、盗品がとり戻せるのだ。地蔵さまがかわって、賊を苦しめてくれるからだ」
「うまくいくといいですわね」
「ききめはある。だからこそ、しばられ地蔵が評判なんだ」
「だけど、ぐずぐずしていると、お地蔵さまの力の及ばないところへ逃げてしまうかも」
「そう心配することはない。だれか、わたしの家へ行って、|下野《しもつけ》日光山の、走り大黒さまのおふだを持ってきてくれ……」
 やがて、それがとどく。かすれたような印刷で、立った人物が描かれている。ふつう大黒といえばすわっているが、これはその立った姿らしい。吉兵衛は言う。
「これを壁に、こういうぐあいに、さかさまにはる。そして、この足の部分にだ……」
 と針を突きさした。このまじないによって、犯人は逃げられなくなるのだ。女は聞く。
「これで大丈夫なんですか」
「そうだ。ききめがなければ、お上がこんなものの発行を許しているはずがない。さて、わたしは本所のしばられ地蔵まで行ってくるよ」
「お手数をおかけします」
「なに、長屋のことは、わたしの問題でもあるのだ」
 吉兵衛は散歩がてらと、ぶらぶら歩く。途中、はっと気がつく。悪い方角にむかっている。わたしとしたことが。時間はかかるが、まわり道をしなければならない。きょうは、このことでつぶれそうだ。もっとも、ほかに急ぎの用もなく、あわてることはなかった。
 いったい、世の中になぜごたごたが絶えないのだろう。時の流れによって、三元九星が循環する。それによって、善悪吉凶が発生している。そう本に書いてある。立派な本に書いてあるのだ。だから、真理にちがいない。
 わたしはその指示にさからわない。家屋の修理、着物の着ぞめ、病気の全快祝い、みな吉日を選んでいる。おかげで、まあ大過なく今日まですごせてきた。
 しかし、世の中には、まだ悪がつきない。九星にさからう連中が多いからだろうか。さっきもだれかが言いかけたが、走り大黒の足に針をさすことで逃亡をとめられるのなら、悪人はみなつかまってしかるべきだ。火災防止のおふだも、多くの家にはってある。それなのに、依然として火事は絶えない。
 なぜだろう。吉兵衛もふと疑問をいだいた。みなの信心のたりないせいだろうか。あるいは、九星の理屈だけでは律しきれないためかもしれない。世の中、しだいに複雑になってきてるからな。
 それをおぎなうためだろう。昔のえらい人たちの知恵によって、さまざまなご神体が作られ、信仰がなされている。
 だが、まだなにか不足のようだ。もっとずっと強く的確な、お寺なり神社なりが作られていいはずだ。何十年か何百年あとには、そんなことになるのだろうな。みながそこに祈れば、犯罪や火事や不幸が、この世からなくなってしまうといった……。
 早くそんな時代になってほしい。しかし、それまでは、いまの信心を守るしかない。手をこまねいていたのでは、事態は少しもよくならない。現状のなかで、せい一杯の努力をする。それが、まともな生き方というのではなかろうか……。
 地蔵さまにつく。そばに小さな店があり、ナワと札とを売っていた。それを買い、吉兵衛は札に自分の名前を書く。その石の地蔵は、ナワで何重にもしばられていた。いろんな人が願をかけにくるようだ。吉兵衛もナワをかけ、ねがいをとなえた。本心からだ。長屋の秩序が乱れては困る。
 どこかの商店主らしい男がいて、地蔵のナワをほどいている。吉兵衛は声をかけた。
「うまく盗難品が戻ったのですか」
「ええ。なかばあきらめていたのですが、岡っ引が犯人をつかまえ、取り戻してくれました。ほんとに、この地蔵さまの力はすばらしい」
「大黒さまのおふだは使いましたか」
「いや、わたしの店は京橋でして、近くに釣船神社があります。そこへ|絵《え》|馬《ま》を寄進しました。賊を釣りあげる。盗難にはききめがありますよ」
「そうでしたか。わたしもさっそくと言いたいところですが、不意に来られては、神さまも迷惑でしょう。あまり勝手すぎますものね。そのうち、心がけて参拝するようにいたしましょう」
 かなり歩いたので、吉兵衛は腹がすいてきた。茶店に入り、団子を注文する。お茶がつがれた。茶柱が立っている。
「これはえんぎがいい。釣船神社に対して遠慮を示したことがよかったのかもしれないな。おまえは感心だ、助けてやるぞとのお告げにちがいない。なにかいいことが……」
 なんとなく立ち去りがたい感じがし、団子を食べたあと、もう一回お地蔵さまをおがみに行く。そして、そこで見た。
 さっきしばったナワを、ほどこうとしている女がいる。吉兵衛はかけつけ、つかまえた。
「まて、そんなことはさせない……」
「あら、大家さん……」
 吉兵衛の長屋に住む老婆だった。亭主に死なれ、ひとりむすこは左官の職人。しかし、不器用であまり収入がよくない。ちかごろは目が悪いとかで、よく壁のぬりそこないをやってしまい、親方におこられてるという。
「なんだ、おまえか。なぜこんな……」
「申しわけありません。悪いとは知りつつ、お金に困り、あの家なら、どうせ飲んでしまう金と思って、つい……」
 夜中にそっと盗みだした。しかし、地蔵の話を耳にし、気にしてやってきたというわけだった。老婆は泣きはじめた。周囲の人たちが興味を持ちはじめる。
「まあ、こんなとこでは落ち着いて話もできない。あっちのほうで……」
 吉兵衛は木のかげに連れていって話す。
「……おまえがやったとはね」
「その財布はここに持っています。おかえしします。なかは一文も手をつけてありません。どうかお許しを。お奉行所へは連れてかないで下さい。わたしがいなくなると、むすこが……」
「それにしても、とんでもないことをしてくれたね。長屋のなかでそんなことをされると……」
「長屋から追い出されると、行くところが……」
「本来なら追い出すところだが、わたしにだって人情はある。ことを荒立てたくない。この財布は、わたしからかえすことにする。しかし、そんなにお金に困っているとは知らなかった。今月の家賃はまけてあげよう。しかし、だれにも言うなよ。それをまねするやつが出ないとも限らぬ」
「もちろん、決してしゃべりません。ありがとうございます。なんとお礼を……」
「しかし、むすこさんの眼病には弱ったね。井戸のそばにザルをつるすという、まじないをやってみなさい。それから、毎朝、神棚に水をあげ、その前で宙に指で字を書く。目という字をたくさんだ。そのあと、その水で目を洗う。ききめがあるよ。目という字はこう書くんだ……」
 吉兵衛は教えた。
「……そして、なにより信心だよ。もっと神を恐れなければならない。またこんなことをしたら、それこそ、むすこさんの目がつぶれるよ」
 いろいろと老婆に教えさとし、地蔵にあやまらせた。吉兵衛は地蔵のナワをほどき、さいせんを供えた。いずれにせよ、ききめはあったのだ。老婆はさきに帰す。
 帰り道、吉兵衛は弘法大師と清正公とに参詣した。いつなんでお世話になるかわからない。おがんでおくに越したことはない。江戸には神社が約四百、寺は千以上もある。稲荷や地蔵は数しれない。人びとにとって、それほど親しい必要物なのだった。
 犬がほえかかってきた。吉兵衛は手のひらに虎の字を書き、犬にむける。ききめはあり、犬は退散していった。
 
 吉兵衛は長屋に戻り、大工職人の女房に財布を渡す。
「霊験たちどころだ。ほら、この通り」
「ほんと。まあ、すごいこと。いったい、どこにあったんですの」
「それはだな、しばられ地蔵からの帰り道、犬にであった。なんと、その犬がこの財布をくわえていたではないか」
 吉兵衛は老婆をかばい、適当な作り話を口にした。
「だけど、犬はこの家に入ってこれなかったはずですわ」
「近所のネコがしのびこんで、くわえて持ち出したのかもしれない。あるいは、ネズミが引っぱり、それをネコが、さらに、それを犬がとりあげたのかもしれない」
「きっと、ネズミのせいですわ」
「ネズミは悪い動物ではないが、こういういたずらは困る。家の下の土を水でこねて、ネズミの穴をふさぎなさい。すると、三カ月は出てこないはずだ」
「そういたしましょう。ちゃんと財布が戻った。お礼の申しようもありません」
 この話は、たちまち長屋じゅうにひろまる。地蔵さまの力、大黒のおふだのききめ、それが現実に示されたのだ。すばらしい。そういう方面にくわしい大家さんもえらい人だ。
 吉兵衛はみなに言う。
「これで、みなさんも信心の力がわかったでしょう。目に見えぬ力は存在するのです。日々のおこないに気をつけるのが第一です」
「あの、大黒さまのおふだはどうしましょう。ご用ずみになりましたが」
「二またの大根を供えなさい。野菜売りの売れ残りにあるはずだ。そのあと、火で焼くのがきまりだ」
「おっしゃる通りにいたします」
 四時をすぎた時刻。そろそろ職人たちが仕事をおえて帰ってくるころだ。夕食の仕度などで、長屋もいそがしくなる。
 吉兵衛も自宅に帰る。
「やれやれ。一件解決のため、きょうはしばられ地蔵まで行ってきたよ」
「お疲れになったでしょう……」
 妻が迎えて言う。
「……さきほどから、お客さまがお待ちです」
 座敷で浪人者が待っていた。吉兵衛が聞く。
「どんなご用で……」
「こちらの長屋に、あいた家があるそうだが、入れてはもらえないか」
 浪人ぐらしが長いらしく、かたくるしさが少なかった。たしかに一軒あいている。職人として腕をみがき、修業し、独立して|棟梁《とうりょう》となって出ていったのがいる。人を使う身分になると、長屋ずまいはできないのだ。あとにだれかを入れないと、家賃がとれない。このあいだから気になっていたことだ。
 しかし、浪人者とは。かたきとねらわれているやつだと、ことだ。また、武士をやめさせられたのだから、なにか欠陥があったとも考えられる。どうしたものだろう。
「なぜ、お引っ越しに……」
「易者に見てもらったら、こちらの方角に越すといいことがあると言われ……」
「それはいいお心がけで。出世して出ていった、えんぎのいい家があいてはおりますが……」
 吉兵衛は相手をながめ、あれこれ考える。信心ずきの性格のようだ。あつかいやすいかもしれない。浪人者がひとりいると、なにかと力強いし、長屋の子供たちに字を教えてくれるかもしれない。しかし、それはうわべだけで、へたをすると、逆にぶっそうな存在にもなりかねない。それを察してか、浪人は言った。
「生計はどうしてるのか、ご心配なのでしょう。うちわ作りをやっています。うまいものですよ。それに絵と字を描く。町人風でないというので、武家屋敷に好評だと、注文が多いのです。なぜ浪人になったのかも、ご不審のようですな。わたしは六男、家はつげず、養子の口にもありつけなかった。占ってみると、武士をやめたほうがいいと出て……」
「なるほど……」
 まともに信用していいものかどうか。調子がよすぎて気がかりな点もある。けさ、妙な夢を見た。これと関連があるのだろうか。どうにも判断のしようがない。
「二日ほど考えさせて下さい。お名前と生年月日とをうかがっておきます。そこの紙にお書きになって下さい……」
 それを持って、信用できる易者に意見を聞くことにしよう。それ以外に方法はないではないか。いままでの大家に問い合わせても、持てあまし者だったら、これさいわいと適当なほめ言葉がかえってくるだけだ。浪人はしゃべっている。
「最初は|傘《かさ》はりをやっていたのですが、ためしに作ったうちわの出来がよく……」
 そんなことはどうでもいいのだ。吉兵衛はキセルで火鉢を三度たたく。これは合図なのだ。長っ|尻《ちり》の客を帰すために、妻がホウキをさかさに立て、下駄の裏に|灸《きゅう》をすえてくれる。
「では、二日後にまた……」
 ききめはあらわれ、浪人は帰っていった。
 妻子とともに夕食をとる。そとでカラスの鳴き声がした。
「夕ぐれにカラスが鳴いた。あしたは晴れだぞ。そうそう、節分の時にまいた豆はどこにしまってあったかな。あれを口に入れると、雷にうたれない。外出の時には少し持ち歩くことにしよう。なにごとも用心。おまえもそうしろ。十歳は気をつけなければならない年なのだから」
 と、またもむすこに注意する。
 食事がすめば、もうすることがない。|爪《つめ》切り、障子のはりかえ、夜はしてはいけないことが多いのだ。眠るのが一番。江戸の住民たち、朝も早いが、夜も早いのだ。灯火の費用もばかにならない。吉兵衛は家賃の計算でもしようかと思ったが、あしたの昼にのばすことにした。
 吉兵衛は寝床の枕をおがみ、となえる。
「|小《さ》|夜《よ》ふけてもし訪れるものあらば引き驚かせわが枕神」
 これをしておけば、火難や盗難の時に、すぐ目がさめるのだ。それに頭をのせ、横たわり、眠くなるのを待つ。
 きょう旅立った若者、どこまで行ったかな。お伊勢さまのおみくじを引いてきてもらうよう、たのんである。豊作かどうかを早く知らねばならぬ。凶作とあったら、長屋の者たちに、米を早目に買いこんでおくよう、教えなければならぬ。大家はそんな面倒まで見なければならないのだ。
 人生とは気疲れの多いものだ。なんだかんだで、わたしも四十歳。来年は前厄だ。厄はらいをしなければならない。最も霊験のあるのはどこだろう。
 しだいに眠くなる。やれやれ、きょうもぶじに終った。あしたもぶじであるといい。そのために、あらゆる努力をしているのだ。目に見えぬ力が、わたしを見まもっていて下さる。
 今夜の夢がいいとありがたいのだが。

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