一枚のガラスを境にして、冬と夏とがとなりあっていた。
いまは一月。ショーウインドウのそとでは、きびしい寒さをふくんだ風が走りまわっている。葉の落ちた街路樹の枝をふるわせ、公園の池の氷をひとなでごとに厚くし、時には薄い雲からのかすかな粉雪を仲間に加えたりもする。
しかし、店のなかの暖房はよくきいていた。ここは各国から輸入した民芸品を売る小さな店だ。たとえば、メキシコ産のあやつり人形がいくつかある。どこかユーモラスな表情の、ひげの濃い、むぎわら帽をかぶった男の人形。赤いスカートの女の人形。黄色、青、白、黒と原色が彩りをきそいあっている。
そばには木の実に緑色でとぼけた目鼻を描いた、まじないの道具ともみえる原始的な楽器がある。もし、この楽器がその秘めた力で音楽を響かせたら、人形たちは踊りはじめ、あたりはたちまち強烈な日光の熱帯になってしまいそうな感じだった。
そのほか、スペイン、ポルトガル、イタリー、インドなどの民芸品が並べられ、派手な色があたりにみちていた。温度だけでなく、店のなかはすみずみまで夏だった。べつにここは温かい地方の品の専門店ではないのだが、冬になるとこれらの品がよく売れるのだった。人々は視覚のための暖房装置をも欲しがるからなのだろう。
この店はメロン・マンションの一階にあって通りに面していた。建物の正式の名は第六住宅地区のA号ビル。十二階建で、一階はこのようないくつかの商店になっているが、二階から上はすべて住居用に作られている。住宅地区用の標準型ビルだ。
だが、人間にとって数字やアルファベットだけの表示は味気ない。そこで、それぞれ愛称がつけられている。例をあげれば、少しはなれた第五住宅地区は花の名、第七地区は鳥の名、そして、この地区はくだものの名なのだ。
このとなりのB号ビルはパイナップル・マンションと呼ばれ黄色っぽくぬられており、ここメロン・マンションはいうまでもなくうすみどりだ。
ビルのむれにかこまれ、中央には公園をかねた広場があり、花壇、噴水のある池、それに高速地下鉄の駅への入口もある。居住者の多くは毎朝この入口からはいって都心へつとめに出かけ、夕方にはまた、それぞれの建物のなかの自分の室へともどってくる。
もっとも、このところは冬の季節なので花壇に草花の生気はなく、噴水もとまっていた。また、いまの時刻は夕方。ひとしきり帰宅の人々の流れが通りすぎると、散歩する人影もない。薄暗くなるのも早かった。
この民芸品の店の主人は、六十歳ぐらいの男。中年の婦人客の相手をしていた。女客はあれこれ迷ったあげく、陶器の|壺《つぼ》のようなものを指さして聞いた。
「これはなんなの」
「スペイン産の水飲み壺でございます。ボティーホという名のものでございます」
「ふくらみのぐあいが素朴でいいわね。もっとくわしい説明をうかがいたいわ」
「かしこまりました」
主人は店の一隅の台の上の電話機に歩みより、番号ボタンをいくつかつづけて押した。それから、電話機の横のボタンのひとつを押す。すると、店の壁にはめこまれたスピーカーから、若い女の声による説明が流れはじめる。
〈ボティーホはスペインのアンダルシア地方で作られております。この地はアフリカに近く、古くはアフリカからイベリア族がここに移住して国を作り、その後フェニキア人が、つづいてカルタゴがその支配をうばい、またジプシーが訪れ……〉
その地の歴史から風土へと説明がつづく。この声は民芸品輸入組合協会の本部から送られてくるものだ。そこへの電話番号をボタンで押し、さらに商品の番号を押す。そこのコンピューターはそれに応じ、ただちに録音テープの声を送りかえしてくれるのだ。うろおぼえや知ったかぶりのあやふやさは、どの店からもなくなっている。
スピーカーで拡大されたその説明には、ギターによるスペインの民謡のメロディーが加わった。哀愁をおびながらも明るい、情熱のこもったリズム。
〈……これをお部屋の棚にさりげなくお飾りになったらいかがでしょう。エキゾチックなムードが発散し、静かにひろがり、あなたの胸のなかに、やすらぎと楽しさをもたらすことでございましょう。また、ご来客のかたの目には……〉
お客の心のなかに買いたいとの欲求をめばえさせ、それを巧みに育てあげるような口調だった。中年の婦人客の目は品物にひきつけられ、ついにそれを手にした。
「これをいただくことにするわ」
「ありがとうございます。お持ち帰りになりますか。それとも、のちほどお届けいたしましょうか」
「包んでちょうだい。持っていくわ。うちはイチゴ・マンションだから、歩いてすぐなのよ」
女客は金を払い、品物をかかえて店から出ていった。
そのあと一時間ほど、店にお客はなかった。主人は品物の並べかえなどをしたあと、つぶやいた。
「きょうはそろそろ、店じまいとするかな……」
彼は電話の番号ボタンを押す。呼び出し音が終わり、受話器の奥で「どうぞ」という声を聞くと、そばのボタンを押す。レジスターが軽い金属音をたて、きょうの売上を記録した伝票テープをまわしはじめた。
「これで経理センターにあるわたしのファイルに、営業の記録が整理される。むかしにくらべ便利になったものだ。品物の補充も自動的に注文してくれるし、しかも、まちがいがない……」
伝票テープは動きをとめ、それと同時に電話は自動的に切れた。主人はボタンを押しなおした。こんどは組合協会の本部につながる。最近の流行の変化についての情報を知りたいと思ったのだ。それへの番号を押すと、テープが男の声を送ってきた。
〈このところ、東アフリカ、アラブなどの品の動きがいいようです。店の飾りつけは、それらに重点をお置きになるといいでしょう。照明は少し黄色みをおびたものになさると一段と効果があります……〉
主人はうなずいていたが、電話を切り、手で腹のあたりを押さえながらひとりごとを言った。
「品物の並べかえはあすにでもしよう。なんだか腹ぐあいが変で、気分がすぐれない。ひとつ診察をしてもらうかな」
また、電話機のボタンに指をあて、べつな番号を押した。応答がある。女の声だ。
「はい、第六地区病院でございます。保険番号をどうぞ……」
主人はそれを告げてから言った。
「じつは、腹のぐあいが悪いのです」
「それはいけませんね。では、お答え下さい。いつからです……。きのうからの食事をおっしゃって下さい……。痛みは……。便通のぐあいは……。はい、熱と脈とをはからせていただきます」
主人は電話台の横のいくつものボタンのうちのひとつを押し、台から診察器を出し、自分のからだに当てた。電子的な装置で体温がはかられ、脈も測定され、それは病院へと送信された。
ボタンを押しなおすと、通話はもとにもどった。女の声が指示を読む。
「コンピューターによる診断の結果を申しあげます。たいした症状ではなく、ご心配なさることはございません。ただの消化不良でございましょう。食後には消化剤をお飲み下さい。もし、一週間たって、それでも異常がつづくようでしたら、病院までおいで下さい。くわしい診察をいたします……」
「ありがとう。いちおう安心したよ」
主人は電話を切った。彼の表情ははれやかなものになった。元気づいた動作で立ちあがり、金庫をあけ、きょうの売上をしまいにかかった。
その時、電話のベルが鳴った。彼は金庫の扉を手早くしめ、受話器をとる。
「はい、こちらはメロン・マンション一階の民芸品の店でございます」
しかし、電話の相手はしばらく声を出さなかった。まちがいかなと思いながら、主人が「もしもし」と二度くりかえすと、やっと言った。
「お知らせする。まもなく、そちらの店に強盗が入る……」
低い男の声。主人はあわてて聞きかえす。
「なんですって。つまらない冗談はやめて下さい。いったい、あなたはどなたです。なんでそんなことを……」
だが、相手はもはやなにも言わなかった。やがて、電話はむこうから切れた。それで終わりだった。主人は受話器をおき、ちょっと不快そうな声を出す。
「いまのはなんだ。われわれの知らぬ間にも科学は飛躍しつづけている。だが、いくら進んだからといって、そんな犯罪の予報までできるわけがない。悪ふざけだ。酔っぱらいか、テレビに熱をあげすぎたどこかの子供の……」
彼は首を振った。忘れてしまおうとしたのだ。しかし、首を傾けたままの姿勢で、そのまま動きをとめた。いまの自分の言葉で気がついたのだ。
あれは酒に酔った声ではなかった。子供っぽい声でもなかった。また、よく思いかえしてみると、他人を驚かしてひそかに楽しむ、病的な性格の感じられる声でもなかった。でたらめでない、なにか裏付けのあるような口調だったのだ。
だが、それにしてもなぜここへ。まちがいかもしれない。しかし、この仮定も、すぐに崩れた。こっちで民芸品の店とはっきり告げたあとで相手が言ったのだから。
店の主人は腕を組んだ。どうしたものだろう。このことを警察へ連絡しておこうか。彼は電話機へ手をのばしかけたが、六十歳という年齢にふさわしい分別ある動作で、それをやめた。とても信じてもらえそうにない。話したところで笑われるのがおちだ。返事の文句さえ想像できる。犯罪の予測が正確にできるようになれば、警察などいらなくなるでしょう、と言われるにきまっている。ひとさわがせなと、怒られるかもしれない。
彼は残念がった。すぐ録音用のボタンを押し、いまの声を記録しておけばよかった。それなら嘘でない証拠になる。それをもとに、警察は相手を割り出してくれるかもしれなかったのだ。しかし、いまさら後悔しても手おくれだった。
「まあ、仕方ない。こんな妙な日は、すぐ店を閉めて帰ったほうがいいのだろう。そして、食事をしながら少し酒を飲み、ゆっくり眠るとしよう」
彼はショーウインドウの内側のボタンを押した。かすかな金属の音をたてながら、そとのシャッターがおりてくる。また、壁のスイッチを押すと、それにつれて店の照明が消えていった。はなやかな南国の品物たちは、薄暗さのなかに沈んでいった。
その時、店の入口のガラス戸が開いた。つめたいそとの空気が少し流れこみ、だれかが入ってきた。主人はそのけはいを感じながら、小さなランプひとつの暗さのなかで言う。
「いらっしゃいませ。しかし、きょうはもう店じまいでございます。できましたら、あしたおいでいただければと思います」
「いや、買物に来たのではないんだ……」
と、入ってきた人物が言う。主人は聞きかえした。
「で、どんなご用でしょう。ご注文でしたらうけたまわっておきます」
「そんなことではない。金庫をあけて、なかのものを渡してもらおう。さあ、早くしろ。ぼくはナイフを持っている……」
主人は目をこらして相手を見た。暗くてよくはわからなかったが、青年のように思えた。声や言葉つきからみて、どうやら単純そうな性格のようだった。長いあいだ商売をやっていると、それくらいの見当はつく。
侵入者の青年の手のものは、ちょっと光った。それは動いて、にぶい音をたてた。ポルトガル製の燭台にナイフがぶつかったのだろう。
「わたしはとしよりです。乱暴はおやめ下さい。しかし、きょうは小切手やカードのお客さまが多く、金庫にはあまり現金がございません……」
答えながら、店主はふるえた。興奮のため頭に血が集まってきた。興奮のつぎには恐怖がおそってきた。血の気の急速に失われてゆくのが自分にもわかった。明るかったら、青ざめているのが相手にも見えるだろう。
いま、刃物を持った強盗に直面しているのだ。それを意識すると、さっきの電話のことが記憶によみがえってきた。あれは本当だったのだ。しかし、なぜこんなことが……。
「ぐずぐずしないで、早く金庫をあけろ。なかには、お客の注文でとりよせた高価な古い貨幣があるはずだ。メキシコの金貨、ギリシャの銀貨などだ……」
青年に言われ、店の主人は足がよろめいた。そのとおりだったのだ。だが、この相手はどうしてそれを知っているのだろう。考えようとしても頭は働かなかった。かりに働いたとしても同じことだったろう。しかし、主人はなんとか時間をかせごうとした。
「こう暗くては、金庫のダイヤルをあわせることができません。スイッチを入れてあかりをつけます……」
歩きかけようとする前を、青年がさえぎった。
「ぼくが懐中電灯で照らしてやる。おっと、電話機には近よらないで。警察への非常ボタンを押そうとすると、こっちもナイフを振りまわさなければならなくなる」
計画は見やぶられてしまった。電話機の横の赤いボタンを押すと、それだけでパトロール・カーが来てくれるのだが、それは相手も知っていた。懐中電灯のあかりが金庫の上にひろがった。
主人はあきらめ、金庫のダイヤルに手をかけた。もはや助けを求める手段は残されていない。さっき警察へ電話しておけばよかったのだが。それでも、彼はできるだけ動作をゆっくりやるようつとめた。そうしてみたところで、なんの役にもたたないにきまってはいるのだが……。
絶望的な気分のなかで、主人は音を耳にした。店のそとで自動車のとまる音。つめたい舗道の上を急ぎ足で歩く数名の靴の音。それは近づいてきて、ドアが開き、声となってあたりにひびいた。
「警察だ。おい、そのナイフを捨てろ。逃げられはしないぞ。拳銃がねらっている。抵抗したら発砲する」
青年は悲鳴のような声をあげ、ナイフをはなした。べつの手からは懐中電灯が落ち、床にころがった。主人は事態の好転したことを知り、ほっとして壁に歩みより、スイッチを入れた。店のなかに明るさがもどる。
青年の顔がはっきりした。十八歳ぐらいだろうか。鋭さのたりない表情。警官たちはそれでも注意しながら近づき、手錠をかけた。それから店の主人にむかってたずねた。
「なにか被害がありましたか」
「いえ、金庫をあける前でしたので、まだなにも渡しておりません。商品もこわされていないようです。おかげで助かりました」
主人は答えながら想像した。きっと、店の前を通りがかった人がのぞきこみ、すぐ急報してくれたのだろうと。
警官はナイフと懐中電灯とを証拠物件として拾いあげ、青年を軽くこづきながら強く言った。
「おい、なんでこんなことをたくらんだ。自分で計画したことか。そとには人影がなかったようだが、仲間はいるのか。どうなんだ」
共犯がいるのなら、すぐ手配をしなければならない。だが、青年はおどおどした口調で答えた。
「計画したなんて、ぼく、そんなことまでは……」
「出来心と言いたいのだろう。つかまると、みな同じことを口にする。では、署へ行ってくわしく聞こう」
店の主人が口をはさんだ。
「この男、注文でとりよせた古い貨幣が金庫にあることを知っていました。どこから聞きこんだのか、問いただしてくれませんか。気になります。こっちもすぐ対策を考えなければなりません」
警官はうなずき、青年の肩をゆすった。
「さあ、答えてみろ。なんで知ったのだ」
「お答えはしますが、信じていただけないんじゃないかと……」
「それはこっちで判断することだ。言ってみろ」
「じつは、一時間ほど前に、ぼくのところへ電話があったのです。メロン・マンションの一階の民芸品の店へ押し入れと。金庫には高価な貨幣がある。店は老人ひとり、おとなしい性質だから、おどかせば奪うのは簡単だ、閉店になる前にやれと……」
「だれからの指示だ。おまえたち一味の指揮者はだれなのだ」
「だれだか知りませんよ。指揮者なんていません。だいいち一味だなんて、ぼくはいままで、盗みなんかしたことはありません。記録を調べていただければはっきりします。強盗だなんて、考えたこともない」
青年はむきになって言った。内容の信用されないことを自分でも予期しているからだろう。いかにも単純そうな性格で、頭もそうよくはないらしい。だが、動機だけはさっぱりわからず、異様だった。警官は笑いもせず質問を重ねた。
「考えもしなかったことを、なぜやる気になったのだ。指示したのはだれなんだ」
「困ったな。それがわからないんですよ。声にも聞きおぼえがない。低い男の声。しっかりした感じ。信頼させるような力がこもっていましたよ。それで、なんだか言うことをきかなければいけないような気になってしまって、ついふらふらと……」
警官たちは少し笑った。
「暗示にかかりやすい性質なんだな」
「ええ、いつだったか病院へ行った時も、そんなことを言われました。ぼく、これからどうなるんです」
「それは取り調べた上できめることだ。さあ、署まで行こう」
青年を連行し立ち去りかける警官に、店の主人はもうひとつ思い出して、呼びとめて聞いた。
「あの、これも教えて下さい。ここが襲われていることを通報してくれたかたはどなたでしょうか。あとでお礼にうかがいたいと思います。おかげで助かったのですから。しかし、それにしてもずいぶん早く来てくださいましたね」
「いや、それがどうも変なことでね。われわれにもよくわからないのです。まさか、こんなこととはね……」
警官は口ごもり、主人は言った。
「どういうことなのでございましょう」
「通報は通報なのだが、こんな例ははじめてだ。じつは、しばらく前に署に電話があったのだ。この店にあとで強盗が入るとね。しかし、この種の情報はあまり的中することはない。あたりまえのことだがね……」
「そうでしょうな」
「しかし、その声は録音されたので、いちおうコンピューターにかけた。いたずらの前歴のある者のしわざかどうかをたしかめるためだ。また、犯罪の前科のある者かどうかも……」
「該当者はありましたか」
と主人は身を乗りだした。警官は首を振る。
「なかった。それに、なにか説得力のある口調だった。そこで念のためにと、パトロールに同行してやってきたというわけだ。入ってみると、その通りだった」
「だれなんでしょう」
「この青年をもっと調べればわかるかもしれない。妙な一致点がある。なにかが判明したら、いずれ連絡します」
警官たちは軽く敬礼をし、青年を連れて出ていった。店の主人はやっと緊張から解放され、椅子に腰をおろした。それから、棚からブランデーのびんをおろし、少しだけ飲んだ。疲れを消さなければならない。
酔いは血行をよくし、落ち着きをもたらしてくれた。思考もよみがえってきた。店の主人はいまの事件のことを頭のなかでくりかえしながら、まとまりをつけようと努力した。
「ふしぎでならぬな。どういうことなのだろう。青年をそそのかした者と、警察へ通報した者とは、同一なのだろうか。もしかしたら、あの青年をおとしいれようという、だれかの陰謀だったのかもしれない」
目をとじて、さっきの青年の顔を思い出す。だが、そんなことまでしてやっつけるほどの価値のある人物ではなさそうだ。あんなのに脅威を感じるやつがあるとは考えられない。
「やはり、陰謀という仮定もおかしい。おとしいれるのだったら、なにもここまで予告するわけがない。不必要なことではないか……」
想像はすぐ壁につきあたってしまう。犯人と警察と被害者に、あらかじめ同じ頃に電話をするなど、考えられぬことではないか。
主人は迷った。ここへも電話のあったことを、警察に話すべきだったのかどうかと。さっきは安心感で呆然とし、言う機会を失ってしまった。これからでも申し出ようか。しかし、青年と警官との話から思いついて作りあげたことと受け取られるかもしれない。ばかにするな、混乱するのを手伝いたいのかと怒られたりしてはつまらない。やっかいなことを敬遠したいのは、年齢による気力のおとろえかもしれなかった。
それにしても、どういう意味なのだろう。なにが目的だったのだろう。彼はグラスを傾け、飲みながら考えた。意図のつかめない現象は不安なものだ。
「なにかがおこったのだ」
主人は内心を口にした。それ以外に表現のしようがなかったのだ。それを結論とし、彼は酒をしまい、オーバーを着て、帰りじたくにかかった。
その時、また電話が鳴りはじめた。
彼は身ぶるいした。また、あのえたいのしれぬ声が話しかけてくるのではないかという気がしたのだ。ベルは鳴りつづける。いや、きっと警察からの連絡だろう。なにか聞き忘れたことがあったにちがいない。むりにそう自分にいいきかせ、主人は電話をとった。謎の声でも、警察からでもなかった。
「もしもし、おじさん……」
聞きなれた|甥《おい》の声だったので、彼はほっとした。甥はまだ独身で二十五歳、明朗な性質の主だ。時にはその明朗の度がすぎて、軽薄な段階までふみはずしてしまうこともある。しかし、電話のむこうの声は、いつもとちがってなにか真剣だった。悩みを訴えたがっているような印象を受ける。主人は言った。
「どうしたんだ、なにか変だよ。しかもこんな時間に、ガールフレンドにでもふられたので、気分がおさまらないとでもいうのかい」
「ええ、早くいえばそうなんですけど、それだけじゃないんです。わけがわからなくなってきました」
「ひとりでさわいだって、相談に乗りようがないよ。なにがあったんだね」
「聞いて下さい、こうなんですよ。すてきな女性と知りあったんです。背がすらりとしていて、目が大きく、なかなか魅力的。どうして知りあったかと言いますとね……」
「そんなことはどうでもいいよ」
と主人はさきをうながした。
「きのうの午後にデートの約束をしたんですけど、待ちぼけをくわされちゃったんです。彼女、べつな男と遊んでいたことが、あとでわかったんですよ。ぼくは腹が立ってしようがない。昨夜ねむれなかったし、なにか仕返しをしてやろうと夜どおし考えた」
「なにをたくらんだのだ」
「その女の家に電話をかける。ぼくはブタの鳴き声の録音テープを持っている。相手が出たら、電話口でそれをまわすんです。そして、すぐに切ってやろうという計画ですよ」
店の主人は笑いながらもたしなめた。
「それは驚くだろうな。しかし、少し度がすぎるいたずらじゃないかね。おまえにはそういうところがあるぞ。すぐ分別をなくしてしまう。約束をすっぽかす女もよくないが、自分がそんなことをやられる場合も考えてみろ。で、それをやったのか」
「ええ、そうなんです。だけど、話はその先のことなんですよ。その電話をすませてから、さあ十分ぐらいあとのことでしょうか、こっちは相手のびっくりしたところを想像してひとりで笑ってたんですが、そのとき電話がかかってきたんです。出てみると……」
そこで甥の声はちょっととぎれた。つばをのみこんでいるらしかった。
「なんだったのだ」
「聞いたこともない声の相手が、こう言うんです。おまえはいま、無責任な行為で他人を驚かしたな、よくないことだ、いい気になるなよ。これだけ言って終わりです」
「そんなことがあるのかな」
「ありえないことでしょう。どうしてわかったんでしょう。こっちはぜんぜん声を出さないで、すぐ切ってしまったのに。逆探知をされるひまもなかったはずですよ。こんな気持ちの悪いことはありません。だれかに盗聴されてたんでしょうか。しかし、それは法的に禁止されているし、ぼくに目をつけて盗聴するなんてありえない。なにか目に見えぬ存在に監視されているような気分なんです」
「どんな声だった」
と主人は思いついて聞いた。
「男の低い声でしたよ。力をたくわえているような、見とおしているような口調。どんな性格かつかみにくいような口調。おまえの弱味をにぎったぞと宣告されちゃったような感じです。もっとも、これは驚いて気をまわしすぎているせいかもしれませんがね。しかし、不安ですよ。それで、おじさんに電話をかけたんです」
「まあ、そうくよくよすることはないさ。ブタの声でびっくりさせただけで、悪質な犯罪をやったわけじゃないんだろう」
と主人ははげました。謎の声はこっちで知りたいくらいだと言いたかったが、いま甥の不安をかりたてては気の毒だ。
「しかしねえ、かけたのがぼくだと、彼女につげ口されては困るんですよ。そんなことになったら、ぼくの評判が落ちる。気が沈みます。どうしたらいいでしょう」
「わたしにもわからないよ。しかし、気にしないことだね。そのうち、こっちへも寄らないかい。それまでにはいい知恵も浮かぶかもしれない」
「考えといて下さいよ。じゃあ……」
甥からの電話は終わった。店の主人はまた考えこんだ。甥を心配させまいという老人の心理から、強盗事件のことは言わないでおいた。しかし、こっちにとっては謎が深まったのだ。低い男の声、目的のわからない内容という点で、共通しているようではないか。
「なにかがおこりはじめているのにちがいない」
彼は自分に言いきかせた。この店だけではなかったのだ。この店への予告電話を偶然と片づけることはできる。甥の件も偶然と片づけることはできる。しかし、こう重なると偶然とはいえなくなる。となると、もっと広い範囲にかけて、なにかがおこりはじめているといえよう。そう考えたほうがいい。
それから先は頭が働かなかった。主人は店の照明を消し、ドアからそとへ出た。入口のシャッターをおろし鍵をかける。
雪がふりはじめていた。つめたい風が踊りながら彼をとりまいた。オーバーを通し、寒さを肌へ押しつけようとしている。しかし、そうなる前に彼は帰宅できる。住居は歩いて八分ほどのブドウ・マンションのなかにあるのだ。
彼は歩きながら、寒さのためでなくぞっとしたものを感じた。空気のなかに、理解を超えたものがひそんでいるような気がしたからだ。