静かな広い室内。壁が厚く、となりの住居から音が入ってくることはない。いうまでもなく、こちらの物音もとなりにはまったく伝わらない。プライバシーをまもる防壁なのだ。
床には厚いじゅうたんが敷きつめてあり、どんな音も吸収してしまう。北欧調の、洗練と簡素の調和した家具がならび、清浄装置をくぐってきた適温の空気が、ゆるやかに流れつづけている。
二十七歳の女性がシャワー室から出てきた。ミエという名。つややかな肌から湧く汗をバスタオルでぬぐいながら、はだかのまま化粧台の前にすわる。だれもいない気やすさで、彼女はかおりのいい液を使い、化粧をたのしむ。
ドアから不意の来客が入ってきたらどうするか。そんな心配はない。鍵がかかっているし、ドアにはインターフォンとテレビカメラがとりつけてあり、ドアを開けることなく用件をすますことができる。親しい友人だったら、待っていてもらってそのあいだに着がえればいい。
ミエは窓ぎわに立ち、そとを|眺《なが》めながら服を着ていった。よそのビルからのぞかれる心配もない。窓は特殊ガラスであり、内側からそとを眺めることはできるが、そとからだと薄く曇ったようになり、内部のようすをうかがうことができない。窓もまたプライバシーをまもってくれているのだ。
ここはメロン・マンションの二階。そとは二月。晴れた日の午後で日光が降りそそいではいるが、大地のつめたさを追い払う力を持つに至っていない。窓からは第六住宅地区の中央にある広場をよく眺めることができる。草花は冬枯れで、まだ生気をあらわしていない。日が長くなったとはいえ、植物たちを目ざめさせる強さには達していないのだ。建物のかげには雪が残っている。
ミエの夫は広告エージェントを経営し、景気は悪くなかった。だから彼女も、このように室を美しく飾ることができた。だが、夫は出張がち。三日ほど前から外国へ一週間の予定で仕事に出かけている。まだ子供のない彼女は、時間をもてあましながら午後をすごさねばならぬ日々が多かった。
彼女はキッチンに行き、壁のボタンを押した。機械がめざめて動き、十秒ほど振動音をひびかせて止まった。グラスにそそがれたカクテルがそっと出てきた。そのための装置なのだ。手にこころよい冷たさを感じながら、彼女は椅子にもどり、テレビをつけた。
ハワイアン音楽をやっている。録画なのだろうか、ハワイからの中継なのだろうか。そんなことを考えながら、熱帯の花のかおりのような甘いメロディーに耳を傾け、青いカクテルを口に入れた。
「ほかになにかやってないのかしら……」
チャンネルをまわす。フットボールの中継、軽いドラマ、時事解説、プラスチックを材料とする手芸。その他さほど興味をひく番組もなかった。彼女はスイッチを切る。
平穏と倦怠の空気がまわりに押しよせ、彼女はなにかをやってそれを振り払わなければならなかった。ミエは椅子についているリモート・スイッチを押した。
室のすみにある、電話機をのせた車つきの台が、そばへやってきて止まった。じゅうたんの下の磁気レールをたどってやってきたのだ。彼女はダイヤルをまわし、待った。番号ボタンを押す型式のより、彼女はダイヤルをまわす旧式のほうが好きだった。ムードがあるし、まわす感触も楽しいし、なにも能率第一にする必要がないからだった。呼び出し音がやみ、ミエは言った。
「アユコさん、あたしよ……」
友人を相手に電話のおしゃべりをして時間をすごそうというのだ。相手は言う。
「ちょっと待ってね。長椅子のそばのに切り換えるから……」
長いおしゃべりがはじまった。天候のぐあいから、きのうの買い物。それを買おうときめるまで、どれだけ迷ったか。やっと決心して買ったものの、なんだか後悔が残っているといったことなど……。
たあいない、意味のない行為だ。だが、彼女はこれが好きなのだ。好きというより、精神がそうするよう求めているといったほうがいいかもしれない。生理現象なのだ。
むかしにくらべ、マスコミは大きく発達した。新聞はページ数がふえ、雑誌は種類がふえ、テレビはチャンネルがふえた。コマーシャルは機会があるたびに顔を出し、商品の名と長所をのべたて、解説をやる。情報の流れが激しい水圧をもって個人にそそがれる。
目から耳から注入される一方なのだ。しかし、それはどこへ流れ出てゆけばいいのだろう。出口がないと、それは頭のなかにたまり、渦を巻いて押しあい、変調をもたらす。排出孔が必要なのだ。彼女の場合、それが友人との電話だった。情報の送り手の立場に身をおくことによって、アンバランスになることをいくらかなおせるのだ。
ミエは言う。
「それからね、きのう広場をちょっと散歩したんだけど、霜柱がひどいのよ。靴がよごれちゃったわ。あんまりしゃくだから、管理係に電話で文句を言ったんだけど、冬ですから仕方ありませんだって。ひどいでしょ……」
「ええ、ほんとにひどいわね……」
アユコはあいづちを打つ。しかし、心から同情して、いっしょに腹を立てているのではない。ただ反射的に応じているだけのことなのだ。第一、お互いに相手の話す内容など、べつに身を入れて聞いてはいない。
自分の話す番を待つあいだの、やむをえない空白。少しいらいらする。神は人間に一枚の舌と二つの耳を与えた、ゆえに話すことの二倍は聞かねばならぬ。紀元前のギリシャの哲人の言葉だ。だが、マスコミ時代には二対一の比率などめちゃめちゃになった。耳に入ることの十分の一も話せない。そのためのいらいらなのだ。
電話のむこうでアユコが言った。
「ねえ、クミコについてのうわさを聞いたでしょ。すごい発展のようよ。年下の若い男に熱をあげてしまって、ご主人にないしょでつきあってるんですって……」
「あら、知らなかったわ。ほんとなの、それ。もっとくわしく話してよ」
ミエの声にははずみがついた。こういう話題になると、急に活気をおびてくる。この種の情報だけは、いかに巨大に成長したとはいえマスコミも与えてくれない。有名人のゴシップなら、新聞雑誌などで知ることができる。だが、それはこちらの胸をときめかせてはくれない。その瞬間に公知の事実になり、もはや秘密という背徳めいた刺激の力を失っているからだ。
サロンにおける最も楽しい話題として、恋愛とスキャンダルに及ぶものはない。これは時を越えた真理。双方でよく知っている第三者についての、うわさ話の楽しさ。能率化した情報産業も、ここまでは入れない。人間性にみちた豪華な快楽。
「その青年ってのがね、あまりたちがよくないらしいって話なのよ……」
「だったら、忠告してあげたら。どうにもならない破局に進んでゆくのを、だまって見てるってのも……」
「でもねえ、そんなことどこから聞いたと言われても困るしね。それに、本人が本気で熱をあげてるのに、水をさすというのもねえ……」
「そうよ、へたに口を出したりすると、こっちがうらまれるのがおちよ……」
会話の文句は深刻だが、二人の口調は明るく笑いにみちていた。有益で安全な情報が世にあふれている状態、こうなるとそれらは価値を失い、秘密で無益で不健全な情報のほうが相対的に価値を高めてくる。
嫉妬、羨望、ひがみ、中傷、同情、|憐《れん》|憫《びん》、残酷などの、原始的な感覚をよびさましてくれるのだ。人間がどうしようもなく持てあましているもの、それを発散させてくれる。二人はそれを語りあい、説明し、裏がえしにし、刻みなおし、さんざんおもちゃにし、心ゆくまで味わうのだった。
電話のむこうで、アユコが、ふとなにかにおびえたような声をあげた。
「へんねえ、だれかに盗み聞きされてるような気がするわ」
「まあ、そんなこと、あるはずがないじゃないの。あなたって、神経質ねえ、だれかが部屋のなかにひそんでるっていうの」
「よくはわからないけど、そんな感じがしただけよ。なぜかしら」
「気のせいよ。ひとのうわさ話をながながやるっていうのは、いいことじゃないわね。そのうしろめたさのせいよ」
「そうかもしれないわね。でも、おもしろいわ。なぜ、こう夢中になっちゃうのかしら……」
またひとしきり陽気な笑い声があがるのだった。やがて、アユコのほうに来客があったらしく、長い電話は終わった。
ミエは長椅子にねそべった。しかし、まだ完全にはればれしていない気分だ。話したりない思いだった。
彼女は思いつき、ダイヤルをまわした。
「もしもし、お願いしたいの……」
かけた先は身上相談センターの電話サービス部だ。相手は言った。
「はい。では、まず、基本料金の払い込みをお願いいたします」
ミエは電話機のそばのボタンを押し、ダイヤルをいくつかまわした。銀行の口座から、そのぶんだけ振り込みがなされたのだ。相手は確認し、担当の人につないでくれた。中年の男の声になる。
「どんなご相談でございましょう。ご遠慮なくお話しになって下さい……」
「あたし、生活に不足はないんですけど、主人が出張ばかりして退屈なの。それで、ひまを持てあまし、一週間前にひとりでシャトー・クラブに遊びに行ったの。郊外の森のなかにある、ルーレットのできるレストランよ。そこで感じのいい男性と知りあい……」
ミエはしゃべった。この相談は料金先払いであり、こちらの名は言わなくていいのだ。それに電話サービス部の回線は、逆探知できないことになっている。そのうえ、担当の者は職業上知りえた秘密を口外しないよう禁止されている。口外したら評判が落ち、たちまち閉鎖になるだろう。
「それはそれは……」
相手は驚いたような、批難するような声をはさんだ。それにうながされるかのように、ミエはうれしげに話しつづけた。
「それから、夜の森林公園を散歩しましょうとさそわれて……」
さっきのアユコとの電話では、第三者の秘密を話題にした。それはそれで楽しいことなのだが、自己の秘密について語るのは、もっと強い興奮なのだ。ひとりごとでなく、聞いてくれる人間が現実に存在している。そして、口外されないとの保証もある。
宗教における|懺《ざん》|悔《げ》|室《しつ》のようなもの。いや、むかしの酒席における|幇《ほう》|間《かん》といったほうがいいかもしれない。それを相手になら、どんな自慢もできる。自慢話はいかにしゃべりたくても、友人にむかってはできないものだ。へたにやれば軽蔑される。それが自由にやれるのだ。料金を払っただけの価値は充分にある。内容はさほどでもないのだが、ミエは大変なことをしてしまったかのように、告白に熱中した。
「そういうことをなさってはいけません。良識をお持ちなのですから、今後あまり無茶はなさらないほうが……」
担当者はあたりさわりのないことを言った。それ以外に言いようがないし、それでいいのだ。聞くほうは、たしなめられることがうれしいのだし、そんなことで内部のもやもやが燃焼してしまうのだ。もっとも、相談の電話のなかには経済や法律の具体的な助言を求める者もある。それにはさらに料金を要するわけだが、利用率はごく低い。
電話を終わったミエは、またカクテルを持ってきた。頭のしこりが取れ、そのあとに酔いがこころよくまわってゆく。雑念も湧いてこず、芯からくつろいだ気分。
彼女はダイヤルをまわし、音楽の曲名を告げて、電話機の横のボタンのひとつを押した。壁のスピーカーから音が流れ出る。電話線利用のジューク・ボックスだ。料金は取られるが、何千種ものなかから好みの曲を聞くことができる。
ミエは聞きほれ、メロディーのなかで時のたつのを忘れた。そのうち、音楽が中断し、電話のベルが鳴りはじめた。よそからかかってくると、それが優先し、自動的に切り換わる。電話局のコンピューターの作用だ。
「だれからかしら……」
彼女はものうげに受話器をとり、耳に当てる。聞きなれない男の声が言った。
「あなたは一週間前に、シャトー・クラブに行き、ご主人にかくれて男性とつきあった……」
単調な声であるため、内容の重大さがかえってひきたった。ミエは飛びあがりそうになって口走った。
「え、なんでそんなことを。どこから聞いたの。あなた、だれなの……」
「…………」
つぶやきのような、よく聞きとれない音がして、そこで電話は切れた。いかに問いかけても返答はなかった。彼女の顔は青ざめ、うつろな目つきになった。自分を取り戻した時には、新しく作ったカクテルを、知らないまに飲みほしていた。
驚きが去ると、怒りがこみあげてきた。だれなのかしら、あんな失礼なことを言うなんて。最初に疑いをむけたのは、身上相談センターだった。ほかの人には打ちあけたことのない事柄だ。許せないことだわ。強く抗議をしなければ。ミエはダイヤルをまわした。
「さっきお電話した者ですけど、内容をよそにもらすなんて、あまりにもひどいじゃありませんか……」
さっき相手をしてくれた担当の男の声が答えた。
「とんでもございません。お客さまのお話をよそにもらすなんて、ありえないことでございます。法律で禁止されていることですし、そんなことをしたら信用がめちゃめちゃ、今後、ご利用いただけなくなってしまいます……」
「だって、いま変な電話があって、あたしの秘密を話しかけてきたのよ」
「しかし、そちらさまのお名前もうかがっておりませんし、当方からの逆探知もできないしくみになっております。また、電話局と当方との回線は特殊なもので、絶対に盗聴されないようすべてを機械が処理し、混線も決して発生しないものです。点検は毎日おこなっております。そうでなかったら、営業の認可が取り消しになってしまいます。微妙きわまる人間性サービス業ですから、当然のことでございましょう」
「でも……」
「もしご不審でしたら、おいで下さればそのしくみをごらんに入れ、なっとくなさるまでご説明いたします。担当者であるわたくし個人の口からもれることもございません。利用者の信頼を裏切りますと、くびになるばかりか、十名の保証人に迷惑がおよびます。それに、高給をいただける職を失う気もございません。夢でもごらんになられたのではございませんか……」
確信にみちた口調に、彼女は圧倒され、それ以上の反論はできなかった。
「そうかもしれないわね」
「申しあげにくいことでございますが、当方の信用にさしさわりのあることは、よそであまりお話しにならぬようお願いいたします」
「気にさわったらごめんなさい……」
論理的に説明され、ミエは勢いこんだ言葉をひっこめてしまった。たしかにそのとおりだ。かりにもし悪用するとしたら、あたしなんかじゃなく、もっと大物を狙うはずだわ。
そうなると、さっきの声の主はだれなのかしら。だれかがあたしを尾行し、行動を調べ、けちな恐喝でもたくらんだのかしら。しかし、それだったらすぐ金の話をするはずなのに。そんな感じは少しもなかった。そのため、かえって不安をかりたてる。
だれだろう、だれだろう。考えているうちに、ミエはふと黒い疑惑につつまれた。まさかと思うが、それだけに心にひっかかる。夫じゃないかと想像したのだ。出張したということにして、あたしを監視していたのかもしれない。そして、じわじわといじめ、おどしにかかっているのかもしれない。室内の空気が急にひえはじめたような気がした。
彼女は身ぶるいした。かつて小説で読んだスリラーを思い出した。筋はよく覚えていないが、恐怖の印象だけは残っている。ミエは少し反省する。あまり軽率なことはすべきでなかった、これからはつつしもうと。
しかし、いくらなんでも、こんなことをされるほどの落度はあたしにはない。また、夫がこんな手間のかかることをたくらむだろうか。ミエには信じられなかった。日ごろ、そのようなそぶりは少しもない。強くやきもちをやく性格なら、長い出張にはあたしを連れて行くはずだ。
おとといは国際電話で話もした。手のこんだ細工のできる人ではない。また、留守中に探偵社に依頼してやらせるような人でもない。そういう金の使い方はしない人なのだ。結婚して以来の生活で、そういうことは彼女にわかっていた。だからこそ、ミエも心では夫を愛しているのだ。
となると、だれなのだろう。問題は出発点にもどってしまった。まるで見当がつかない。相談センターの人に指摘されたように、夢か幻覚だったのだろうか。
そういえば、さっきの声は性格がはっきりしていなかった。はっきりしないというより、性格がないようにも思えた。普通だと声を聞くといちおう顔つきが想像できるものだが、さっきの声は顔つきも、年齢も性格も心に描けなかった。描く手がかりを欠いていた。夢のような声。
「幻聴だったのかもしれないわ。ただの幻聴か、それとも……」
彼女は口ごもった。アルコール中毒か、精神休養剤の飲みすぎのせいかなと、ちょっと不安になったのだ。そう思いつくと、心配はしだいに大きくなる。
ミエはまたダイヤルをまわした。精神科医に相談しようと思ったのだ。電話はつながり、医療カードの番号を告げる。ちょうどすいていたのか、すぐ医師に話ができた。
「どうなさいました」
「自分でもよくわからないんですけど、幻聴があったようなの。薬品のせいか、アル中になったのかと心配で……」
「順序をたてて診察しましょう。まず脳波を調べましょう。そのご用意を……」
ミエは立ち、棚の医療箱から小型の脳波測定装置を出して頭につけ、一端を電話機の横のソケットにさしこんだ。そしてボタンを押す。これでむこうへ送られるのだ。それが終わると医師が言った。
「けっこうです。あとでくわしく検討しますが、コンピューターは異状なしとのランプをつけております。では、つぎに連想のテストをおこないます。室内を静かにし、椅子に横たわってくつろいだ気分になり、受話器を耳にして下さい。そして、お聞かせする音で頭に浮かんだことを、すぐお答えになって下さい」
「ええ……」
ごうごうという音が聞こえた。彼女は「ジェット機」と答える。規則的にくりかえされる拍子木のような音がした。「宗教」と答える。くにゃくにゃしたような音がする。「蛇」と答える。
「なぜ蛇を連想なさったのでしょう。蛇について頭に浮かぶことを、なんでもおっしゃって下さい」
「そうね。子供のころ、近所の男の子に蛇のオモチャで驚かされたことがあったわ。だけど、そうじゃなく、なんといったらいいかしら……」
医師に対する信頼感で、彼女はあれこれとしゃべった。かくしだては正確な診断のさまたげになる。相手にうながされ、言いにくいことにまでおよぶ。医師も職務上知りえたことは口外できないのだ。それへの安心感。
「受話器の感触と、蛇への印象とに共通なものをお感じになりませんか」
「さあ、そういえば……」
質問が送られ、答が送りかえされ、それがくりかえされた。やがて医師は、たいしたことはなさそうですと言い、もし幻聴がまたおこったら、病院へおいで下さいと指示した。それから鎮静剤の名を教えた。
彼女はお礼を言い、電話を切る。戸棚をさがすとその薬があった。服用して横になっていると、ねむりがおとずれてくる……。
ミエは夢を見た。あまり楽しい夢ではなかった。どこともわからぬ夜の街の道を、急ぎ足で歩いている。目的地がどこなのか、なぜ急いでいるのかもわからない。しかし、急がねばならぬのだ。
やがて、その理由を知る。追われているのだ。ふりむくと、黒衣の人物がついてくる。ずきんのついた、すその長いマントのようなものを着ていて、足が見えず、男か女か、老人か若いのかもわからない。もうずいぶん逃げつづけているのだが、距離はひろがらない。黒い蛇に追われつづけているようだ。
建物の角を曲ろうとした時、だれかにぶつかる。「助けて」と飛びつき、よく見るとそれも黒いマントの人物。顔にも黒いずきん。恐怖と好奇心とで、そのずきんを引っぱってはがす。しかし、その下にも黒いずきん。その下にも……。
彼女は逃げ、近くの家の戸をたたく。扉が開くが、そこに立っているのも、やはり黒いずきんとマントの人物。彼女はまた逃げる。道ばたに公衆電話をみつける。あれで助けを呼ぼう。そして、電話機の前に立った時、電話機が鳴り出した……。
その音でミエは目をさました。汗びっしょり。しかし、電話の音はつづいていた。そばの電話機が鳴っているのだ。ねむけの残る頭で、受話器を手にする。
「もしもし、どなた……」
「蛇です」
「あら、さっきの先生ですの……」
彼女は言った。精神科医からの連絡かと思ったのだ。しかし、ちがうことに気づき、息をのむ。いっぺんに目がさめ、背中が寒くなる。あの幻聴かもしれぬ、だれともわからない声だったのだ。
「……これ、幻聴なのかしら……」
「ちがいます。幻聴のような気がしますか」
「そうは思えないわ。いったい、だれなの、なんの用なの、なにが目的なの……」
「あなたについてくわしく知っている者です。蛇について固定観念があるということもね。くわしく言えば……」
「よしてよ」
ミエは電話を切ってしまった。むしょうに腹立たしかったのだ。あたりを見まわす。室の厚い壁も、特殊ガラスの窓も、厳重なドアの装置も、なんの役にも立っていないことを知った。プライバシーという秘宝をまもる城壁ではなくなっているのだ。
かこいがなにもかも取り払われ、衣服をはがされ、心のなかの記憶までが白日のもとにさらされているようだ。このような室のなかにいるというのに。
彼女は判断した。これは悪質な犯罪にちがいない。目的はわからないが、おそるべき犯罪があたしをねらっているのだ。徹底的に究明してもらわなければならない。彼女は警察へ電話しようとした。
ダイヤルをまわす指に力がこもる。呼び出し音が少しおかしかった。だが、いきどおりで燃えているいまの彼女には、そんなことは気にならなかった。
「もしもし、警察でしょうか」
「ちがいます」
「あら、まちがえたのかしら」
「そうではありません。へんなことはなさらないよう、ご注意申しあげます」
彼女はすぐに気がつく。また、あの正体不明の声だ。警察へかけたはずなのに、どうしてわりこんできてしまったのだろう。
「なぜなの。さっきの人なのね。こんなことって許せないわ」
「お怒りのようですが、こちらは、あなたについてなんでも知っているのですよ。あなたが想像している以上に。ほかであなたについてどんなうわさがなされているかも……」
「どんなうわさなの……」
彼女は不安になる。友人と第三者についてのうわさを楽しんだことを思い出した。それが逆になったら、どんなに不快だろう。
「それは言えません。いずれ、おりをみてご主人にでも。あるいは、おとなりの住人のかたにでも……」
「あんまりだわ。ひどい。こんなたちの悪いことってあるかしら。お願い。そんなことやめてちょうだい」
「ご相談によってはね」
「あ、やっぱり恐喝なのね。なぜ、こんな目にあわなくちゃならないのかしら。それで、なにを要求なさるの。お金だって、そんなには自由にならないわ。それとも……」
「あなたにできることです」
「早くおっしゃってよ。あたし、気を失いそうだわ……」
彼女は泣き声をあげた。相手の声は言う。
「簡単なことですよ。こちらについて、これ以上のせんさくをなさらないことです。どこにも訴えない、よそでも話題にしない。その約束だけでいいのです。これならおできになるでしょう」
「ええ、だけど、なぜなの。あなた、だれなの……」
「そういうような好奇心を押さえるという約束です。それが守られている限りは、べつにどうもいたしません。しかし、いいですか、もし約束を破ったら、すぐにわかります。嘘だと思いますか」
「思わないわ……」
その点だけは信じないわけにはいかなかった。彼女は約束し、電話は終わった。
長い時間、彼女はぼんやりしていた。現実とは思えないが、やはり現実なのだ。またカクテルを作って飲み、いくらかの元気はでた。だが、その元気をどこへむけようもない。
電話がかかってきた。習慣で受話器を取ったが、声を出す気にもならない。アユコからだった。こんなことを言っている。
「ねえ、うちのお客が帰ったの。おしゃべりをしましょうよ。おもしろいうわさを聞いたのよ」
「でも……」
ミエは気のりのしない返事。
「どうしたの、元気のない声で……」
「ちょっと気分が悪いの。休みたいわ。また今度にしましょう」
「仕方ないわ。残念だけど……」
アユコはあきらめる。ミエはもう他人のうわさに興じるどころではなかった。あの声の主が、どこにひそみ、どこで聞きつけるかわからないのだ。もののはずみで、そのことに口をすべらせたりしたら……。
彼女は窓のガラスが裏がえしになったように思った。だれかがこっちをのぞきこんでいるのに、こっちからはむこうが見えない。どんな相手なのか……。
秘密の権利。それがへんな存在に奪われてしまったのだ。こうなると、身上相談センターにも、精神科医にもむやみと話せなくなる。情報を排出する楽しみ、新陳代謝の生理機構のぐあいが狂いつつあるのだ。
もちろん、彼女はそれをはっきりと理解したわけではない。だが、生きる活気がどうかなるようないやな予感をおぼえた。陽気さも消えた。あの声との約束。それがこちらのからだのまわりを包み、窒息させる。頭の内部でやがてはなにかの圧力が高まり、それが耐えきれないものになってゆくのでは……。