五月の夜。五月という語にはこころよい響きがある。発音そのものはさほどよくもないのだが、すばらしいものをいっぱいに意味しているからだろう。人の想像力へ訴えかけ、いきいきとした刺激をうみだす作用があるのだ。
新緑があたりにひろがっている。それは建物のかげなどにも点在し、おや、あんなところにも植物があったのかと、あざやかな驚きをもたらしてくれる。山へ行ったらさぞ美しいだろうなあ。渡り鳥たちはすでにやってきて、飛びまわっていることだろう。海岸の波うちぎわには、夏のけはいが寄せているかもしれない。それらを想像すると、頭のなかまで新緑になったような気分になる。
ここはメロン・マンションの五階の一室。室内の空気は換気装置によって浄化されたものだ。また、夜であるため、窓ごしに広場の樹々の色を|眺《なが》めることはできない。だが、やはり五月のかおりがあたりにただよっている。緑の香気がどこからともなくしのびこんできているようだ。想像力のせいかもしれない。しかし、それでいいではないか。
ここの住人は亜矢子と昭治。いずれも三十歳で、ふたりは夫婦だった。昭治はナグ開発コンサルタント事務所というのにつとめている。中小企業から各種の研究の委託を受け、改良点を提案したりするのを営業とする会社だ。すぐれた人材を揃え、実績もあり、信用もある。
二人はそこで知りあい、三年前に結婚した。亜矢子はつとめをやめ、いまは家庭の仕事に専心している。倦怠期はまだおとずれず、ふたりは幸福だった。子供はまだなかった。そのため室内はきちんとしており、家具や飾りは理知的なムードで統一されていた。
壁の時計が夜の十時を示していた。亜矢子はそれを見ながら言った。
「きょうはおもしろいテレビもないし、ステレオでも聞きながらお酒を飲みましょうか」
「それもいいな」
亜矢子は装置を使わず、自分の手で緑色のカクテルを作って持ってきた。昭治は言う。
「新茶をあしらったカクテルか。五月のかおり、五月の味、五月の色だな。しかし、あざやかな緑というやつには、どこか人をいらいらさせるものがあるな」
「年に一回ぐらいは、そんな時期もあったほうがいいのよ……」
その時、電話のベルが鳴った。その音に反応し、ステレオ装置は自動的に音量が小さくなり、話のじゃまにならない程度になった。亜矢子は「あたしが出るわ」と言い、室のすみへ立って受話器をとった。
「もしもし」
それに対し、男の声がした。
「あ、奥さん。お元気ですか」
なれなれしい口調だった。聞きおぼえのある声。だれだったかしらと、彼女は思い出そうとした。頭のなかで、知人の名のリストを大急ぎでめくってみた。しかし、そのなかにはない相手だった。思い当たらない。よく知っているはずの声なのに。度忘れしているという感じ。亜矢子は不安になった。いたたまれないような気分になり聞いてみた。
「失礼ですけど、どなたでしたかしら……」
「だれだとお思いですか」
「お名前をおっしゃらないなんて、困りますわ。失礼ですわ。なぞなぞ遊びでしたら、よそでやって下さい……」
彼女ははっきり言った。ふざけているのだったら電話を切るつもりだとの決意を口調にこめた。相手の男の声は言う。
「ふざけているのではありませんよ、奥さん。ぼくの声をお忘れなんですか。おわかりになりませんか」
それを耳にし、亜矢子はしばらく考え、ためらいながら言ってみた。
「もしかしたら、広川さんのご兄弟でしょうか」
「いいえ、ちがいますよ」
「どこかお声が似ているので、そうかなと思ってしまったのですわ。ほかに思い当たりません。ご用がないのでしたら、これで……」
「待って下さい、奥さん。兄弟なんかじゃありませんよ。ぼくには兄弟はないんです。そのこと、ご存知だったでしょう」
「すると、あなたは、広川さんご本人なの。まさか……」
亜矢子は途中で声が出なくなってしまった。受話器を持つ手がこまかくふるえ、顔は青ざめた。相手の男の声はつづく。
「そうですよ。本人にむかって声が似てるなんて、ちょっとひどいな……」
「まさか。たちの悪い冗談はおよしになって下さい……」
「あはは……」
男の笑い声が長くつづいた。たのしい笑いではなく、いやな笑いだった。それを終わらせるには、亜矢子は悲鳴をあげ、受話器をおく以外になかった。やっとのことでそれをやり、彼女は崩れるように床に倒れた。
それに気づいた夫の昭治は、彼女を抱きおこした。ブランデーを持ってきて飲ませ、ソファーに横たえた。
「おいおい、どうしたんだ。悲鳴をあげて倒れたりして。なんに驚いたのか知らないが、きみを通じてだと、驚きが増幅されて、こっちまでびくりとするぜ」
彼は気を落着かせようと、冗談めかして言った。亜矢子は何回か大きな呼吸をくりかえし、ソファーの上で身を起こしながら言った。
「あたし、どうかしたのかしら」
「事情がわからないうちは、なんとも言いようがないよ。いったい、いまの電話、だれからなんだい」
「だれからだとお思いになる……」
「わかるものか。だれなんだ」
「あなただって、きっとまさかとおっしゃるわ。前に事務所にいらっしゃった広川さんからよ」
「まさか……」
昭治は言った。それごらんなさいと指摘するのも忘れ、亜矢子はあたりをこわごわ見まわしながらふるえ声を出した。
「だって本当なのよ。たしかにあの人の声だったわ。それに、自分でもそうだと言ってたのよ。それから笑ったわ」
「そんなばかなこと、あるわけがない。きみも知ってるじゃないか。あいつは四年前に死んだのだ……」
広川というのは、昭治のつとめ先のナグ開発コンサルタント事務所にいた男。頭は優秀でいい才能の持主でもあったが、社内での持てあまし者だった。無神経なところがあり、協調性に欠けていたのだ。
会議などの席上、他人の意見に対してけちをつけずにいられない性格。広川はふとって背が低く、厚い唇をしていた。その口から軽蔑したような言葉をあびせられると、だれもいやな気分になる。
こちらのアイデアの欠陥を告げてくれるのはありがたいが、広川は自己の能力を誇りながらそれを言うのだ。冷静さは乱され、内心で反撥の炎が燃えあがってくる。正面きってけんかがしにくいだけに、みなの反感は静かにひろがっていた。
広川をやめさせることができればいいのだが、仕事上での失敗はないのだ。それに大口の出資者のごきげんを取って信用をえているので、手も出せない。といって、他の全員がやめるには、いささか惜しい職場でもあった。表面に伸びるのを押さえられた形のみなの不満と反感は、地下に根をひろげ、それは大きくなる一方だったのだ。
そして、あの日になった。ある企業から依頼されたレジャー用モーターボートの試作品が完成した。新しい推進法により、高速で航行するボート。これまでのとちがい、波をほとんど立てず、揺れも少なく、音も出ない。氷上を滑るソリのような感じなのだ。
それの担当が広川だった。彼が責任者となって指揮をとり、試運転までこぎつけたのだ。じまんげにそれに乗りこみ、沖へむかって進んでいった。そして、そのまま。
広川は二度と帰ってこなかった。出発後、二十四時間がたって届け出がなされ、ヘリコプターが海上を捜索したが、ボートの姿は発見されなかった。遭難と推測され、事故として処理された。警察へ提出されたボートの設計図には、べつに不審な点もなかったのだ。
広川は海に消えた。事務所にはなごやかさがよみがえり、能率はあがり、仕事は順調に進み、業績も一段と発展した。みなの頭からは広川の印象がうすれていった。思い出して楽しいものではなかったのだ。
「あいつは死んだんだ。きみだって知っているだろう」
昭治は亜矢子に言った。当時は彼女もそこにつとめており、結婚したのはその一年ほどあとのことだった。亜矢子はうなずく。
「ええ、それは知ってるわ。でも、死体は発見できなかったんでしょ。だから、どこかに流れついて、生きていたとも……」
昭治は手を振って言う。
「死体は海へ沈んだのさ。万一、生きてどこかに流れついていたとしても、数年間も連絡なしでは生活できないよ。むかしなら可能だったかもしれないが、情報の時代だ。預金口座、クレジットカード、免許証、健康診断のデータ。それらなしでは、なにひとつできないじゃないか」
「だけど、記憶喪失になっていて、いまになって記憶がもどったということも……」
「記憶喪失という症状はいまもあるが、身元不明のままということはありえないよ。指紋や身体の特徴で、コンピューターはあっというまに解決する。かりに解決できなかったとすれば、ニュースになるはずだが、そんなこともなかったじゃないか」
「そうね」
亜矢子はその理屈だけはみとめ、またブランデーを飲んだ。しかし、なっとくした表情にはならなかった。昭治はグラスに残っていた緑のカクテルを飲みながら言った。
「きみの気のせいさ。五月の気候は妙な想像力をかきたてるようだ」
「ちがうわよ。あれが気のせいだなんて。あの話しかた、特徴のある笑い声、あれは本当に広川さんだわ」
「じゃあ、だれかがからかったのさ。いたずらかなにかだろう」
「でも、広川さんの口調を知ってるのは、事務所の人ぐらいなものでしょう。事務所の人で、そんないたずらをしたがる人、あるかしら」
「さあ、心当たりはないな……」
昭治は腕を組んだ。事務所の者にとって、だれも冗談にも広川を思い出したくない気分だった。彼は困った。亜矢子をムードでなだめることも、理屈で押さえることもできそうにない。彼は言った。
「あした出勤した時、それとなくだれかに聞いてみるよ。いま、あれこれ考えてみても、なんの解決もえられない。睡眠薬を飲んで寝なさい。持ってきてあげる」
昭治は薬のびんを持ってきた。亜矢子のおびえ方が激しいので、薬の量をふやして与えた。彼女は水で飲み、ベッドに入った。時どき思い出したように、ふるえながら呼吸をくりかえしていたが、やがて亜矢子は眠りについた。
「なんということだ。妙ないたずらをするやつがいるものだ……」
昭治はつぶやき、ひとりでグラスを重ねた。広川のことを思い出すと不快になり、飲まずにはいられなくなる。しかし、いずれにせよ、やつは死んでしまったのだ。いいことだ。不良部分がなくなることは、組織体の生きる上にはいいことなのだ。広川の死により企業は順調になり、世の進歩にもそれだけ多くつくせたというものだ。
やつがボートの試運転で沖へむかう時、おれは無電機の部分を受け持って製作した。内心むかむかしていたので、最終検査をいいかげんにやってしまった。昭治は少し反省した。だが、その反省は少しだけにとどまった。あれが事故のもとになったわけではないはずだ……。
追憶を中断するように、電話のベルが鳴りはじめた。起きているのは昭治だけで、彼が出なければならなかった。さっきのいたずら電話がまたかかってきたのだろうか。そうだとすれば、文句のひとつも言ってやらねばならない。
「もしもし」
昭治は受話器をとりながら、そばのボタンを押した。録音装置が動きはじめ、会話を記録する。後日の証拠の資料になる。
「やあ、しばらくだな。あはは……」
相手の声が言った。昭治はそれを聞き、自分の声がのどで止まるのを感じた。まさしく広川の声そのものだったのだ。しかし、勇気を出して問いかえす。
「どなたでしょうか」
「おれだよ、広川だよ」
「どちらの広川さんでしょう」
「おいおい、どちらのってことはないだろう。いっしょに仕事をしてた仲間にむかって……」
会話をくりかえすうちに、昭治は肩のあたりをつめたい手でさわられたような気がしてきた。やつの声だ。死んだはずの彼の声だ。昭治はさっき亜矢子をなだめたことなど忘れて、悲鳴をあげたくなった。声のふるえるのを押さえながら言う。
「どなたか知らないが、からかわないでくれ。広川なら死んだのだ。この世には存在していないはずだ」
「それなら、おれはだれということになるんだ。自分では広川だと思ってるんだぜ」
「悪質のいたずらでおどかそうとしたってだめだ。声の質を似せる装置のたぐいなら、開発されているとかいう話だからな。本当に広川なら、その証拠を示したらどうだ」
昭治は自分をはげまして強く言った。ばけの皮をはいでやらねばならない。相手は答えた。
「いつだったか、みなで旅行したことがあったろう。その時に酒を飲みすぎて、きみはプールに落っこちた」
「その通りだが、そんなことなら、あの時いっしょに行った者はだれでも知っている。ごまかされないぞ」
「じゃあ、べつな話をしよう。きみが奥さんと結婚する前のことだ。おれが亜矢子さんになれなれしい行動をし、きみになぐられたことがあった。きみとおれしか知らないことだ。みっともなくて他人に話せることじゃないものな」
「なるほど、たしかにそんなこともあった。しかし、ぼくたちが結婚したのは、広川が死んだあとのことだ。きみが広川なら知らないはずだ」
と昭治は反撃をこころみた。
「ということはだね、おれは死んでないということになる。あはは……」
相手は笑い声をたてた。広川独特の笑い声。生きている時もいやな感じだったが、死んでいるはずの当人の声だ。あの世から伝わって聞こえてくるのだろうか。亜矢子が悲鳴をあげて倒れたのもむりはない。
昭治も倒れたくなるのをなんとかこらえた。好奇心だけが彼を支えていた。いったいこれはどういうことなのだ。本当に亡霊からの電話なのか。彼の口は意志と無関係に、勝手に声を出していた。
「なんの用なのだ」
「いや、なんとなくきみに話したくなってね。きみもおれに、なにか言うことがあるんじゃないのか。たとえば、だまっていたのでは気がとがめるといったことで……」
受話器から亡霊がいまにもあらわれそうだった。昭治の理性は乱れ、心は恐怖でゆさぶられ、一刻も早くこんなことからのがれたかった。彼は頭に浮かんだことを言った。
「ボートの試運転の時、無電機の検査が不充分だったかもしれない。だが、それがあの事故の原因となったわけじゃないだろう」
「あっはっは。そんなことか。いや、なるほど。あはは……」
笑い声はつづくのだった。昭治はがまんしきれなくなり、受話器をおいた。だが、笑い声は依然としてあたりを飛びまわっているようだった。
彼はウイスキーのびんを出し、それを飲んだ。何杯飲んでも、広川の幻影を追い払うことはできなかった。睡眠薬を飲む。なんとか眠りが訪れてきた時、電話のベルが鳴る。それが本物なのか幻聴なのかたしかめるため、昭治はもうろうとした頭でおきあがり、受話器をとる。
「もしもし」
「おれだよ、広川さ。これからそっちへ行こうか。いっしょに飲みたくなった」
「やめてくれ」
彼は受話器をおく。声というものはイメージを描く作用を持っている。広川の幻影があたりに浮かびあがった。昭治はボタンを押し、電話のベルが鳴らぬようにした。自動録音装置をも切った。つぎの日にまたあの笑い声を聞きなおす気にもならない。
彼は薬をもう一錠飲んだ。それから思い出し、ドアの鍵をたしかめた。死んだ広川が、いまの電話の言葉どおり、訪れてくるのではないかとの恐怖を感じたのだ。
窓の鍵もたしかめる。亡霊としたら、どこから侵入してくるかわからないからだ。あたりを調べまわっているうちに、急に薬がきいてきた。彼はソファーに倒れ、そこで眠った。
だが、深い眠りではなかった。ベルの音が聞こえるようだし、広川の笑いつづける幻がそばにいるようだ。彼はうめき、亜矢子の名を呼んだが、彼女も起きてはくれない。悪夢がくりかえしくりかえし押しよせてきた。
つぎの日、昭治はおそく目ざめ、出勤した。彼にはめずらしく遅刻だった。会社についても、薬のききめが残っているせいか、頭がぼんやりしていた。同僚の顔を見ても、なんだかはっきりしないようだ。だれもかれも生気のないような表情に見える。
昭治は昨夜の事件が気になってならない。自分ひとりの胸におさめておいては、いつまでもこの状態のままだ。彼はとなりの席の同僚に話しかけた。
「じつはね、気分がすぐれないんだ。きのうの夜、わけのわからない、とんでもない電話があってね……」
どこから話していいかわからず、彼はまとまりもなくそう口をきった。すると、同僚は言った。
「なんだ、きみもか。ぼくもいま、それを言おうと思っていたところなんだ。おかげで、きのうの夜は眠るどころではなかったよ」
同僚の表情がぼんやりしていたのは、そのせいだったのか。昭治はふしぎがって聞いた。
「なんだかよくわからないが、なにかあったのか。こっちの事件とはだね、死んだはずの広川から電話がかかってきたことなんだ。そっちもそうなのか」
「そうさ。広川からだ……」
広川という言葉は、事務所のなかに波紋のようにひろがっていた。ここは幹部クラスの室。すなわち、広川を知っている者ばかりだった。だれかが言った。
「ぼくのところにも電話があったぜ。まさかと思ったが、なにしろやつにちがいない声さ。言うことも、やつでなくては知ってないはずのものだ。ぼくは一時的に錯乱状態になってしまった」
「どんな話をした」
「亡霊にとりつかれたのかと思ったよ。前からちょっと気になっていたんだが、あの試運転の時に、燃料の配合をいいかげんにしたことをあやまっておいた……」
みなはそれぞれ、昨夜の恐怖を語った。そして、その話のなかから、いままではっきりしていなかった事故の原因がうかびあがってきた。各人の手抜きが重なりあって、あの事故が起こり、広川の死となったことが……。
ボートの設計に問題はなかったのだが、みなの内心における広川への反感が、それぞれの受持ち部分で手を抜かせることになったのだ。計器のメーターの接触をいいかげんにした者もあったし、船体のボルトの一本をゆるめた者もあった。昭治の場合は無電機の点検をいいかげんにするという形だった。
べつに直接に申し合わせてやったわけではない。各人の日常の嫌悪感が、たまたま機会を得て偶然に一致した。しかし、結果は申し合わせてやったのと同じことになった。そして、広川は海へ消えたのだ。
沈黙がしばらくつづいた。顔をみあわせたあと、だれかが言った。
「おれたちがよってたかって、やつを海へ沈めてしまったことになるな。しめしあわせたことでなく、やつにちょっとした失敗をさせようとしてだ。殺意はなかったにしろ、殺したことになるんじゃないのかな」
また沈黙がつづく。
「いや、やつの自業自得さ。みずからまねいた結果だよ。われわれにとっては、あくまで事故さ」
「しかし、法的にはどうなるのだろう。ただの事故ですむのだろうか」
「さあ……」
みなは眠り不足の顔をみあわせた。いままで考えもしなかった事実が公然となったのだ。もちろん、肯定する者はいない。しかし、内心では良心がうずき、罪におののいているのだった。
そばの机の上で、電話のベルが鳴った。だれもがびくりとする。昨夜以来、みなベルに敏感になっているのだ。しかし、得意先からのビジネスの連絡かもしれない。だれかが応答しなければならぬ。近くのひとりが受話器をとった。
「もしもし」
「おはよう、広川だよ。みなさん、お集まりだろうな……」
その声を聞き、電話に出た者はすぐにボタンを押し、高声スピーカーに切り換えた。自分ひとりで聞くのにたえられなかったのだ。
「いたずらなら、いいかげんにしてくれ」
「いたずらじゃないよ。本人なんだぜ」
「やめろ。広川は死んだのだ。われわれになにかうらみでもあるのか」
その質問に広川の声は言った。
「おいおい、そんなこと聞くことはないじゃないか。こっちがなぜうらむかは、みなさんがた、いま理解したはずだが……」
「われわれは、いまいそがしいんだ。あとにしてくれ」
「そうしてもいいよ。あとでかけなおす。きっとかけるからな。あはは……」
また笑い声。電話は切れた。
みなの青ざめた顔。悪夢のなかにいるような気分だ。笑いとばすことは、もはやできない。なにかの意図が秘められているような印象だった。みなは小声で話しあう。
「やはりあれは広川だ」
「とんでもない。やつは死んでいるよ」
「じゃあ、いまのはだれなんだ。ほかにどんな仮定が立てられる」
「たとえばだな、彼は生存中に、みなを驚かそうと計画を立てていた。それがこうなってあらわれたとか……」
苦しい理屈だった。すぐ反論される。
「しかしねえ、やつには他人をびっくりさせるなんて高級な趣味はなかったよ。それに生存中になんて言ったって、死を予期してなんかいなかったはずだ。まさかあんなことになるとはね。かりに予期していたとしたら、注意して死にはしなかったさ」
べつな者が思いついて、こわごわ言う。
「警察がさぐりを入れているのじゃないかな。それとも、やつの死に不審の念を抱いた知人が、私立探偵かなにかをやとって調べはじめたのかもしれない。不意をついた巧妙な作戦だ。それにひっかかり、みなは昨夜、それぞれの手抜きをしゃべってしまった。手にのせられた形だな」
その説はみなの不安をかきたてた。そんなことで逮捕されたら、事務所の信用はいっぺんでなくなってしまう。反論しなければいられない気分だった。
「しかしねえ、あの声はどうなんだ。それに彼の体験、性格、みなそっくりだったぜ」
「声は録音がどこかに残っていれば、そっくりに再生できないこともない。体験については、情報銀行の個人用口座に残っていただろうさ。そのデータと、他の人びとの口座の広川についてのデータを組み合わせ、分析を精密にやれば、性格も再現できないことはない」
その説明を聞き、ひとりはうなずく。
「なるほど、そうなると不可能とはいえないな。個人の生存とは、独自の体験情報、独自の性格、独自の行動、それらの集合のことといえる。それが生存なら、広川は生存しているということになるな。行動といっても、この場合は声だけだが、電話での会話という限りにおいては、生存しているのと同じことだ」
生と死の境がコンピューターでぼかされたことに感心している。他の者が言った。
「おいおい、生と死の意味についての考察をやっている場合じゃないぜ。われわれにとっての問題は、どうすべきかだ。かりにいまの方法が可能としても、だれがやったのかだ。普通の者には、個人情報をそれだけ集めることはできない。警察や私立探偵にもできないだろう。万能の鍵でも持っていなければむりだ……」
「ありえないはずだな……」
みなはまた身ぶるいした。昨夜の電話をはじめて聞いた時より、さらにいやな感じだった。亡霊なら消えるだろう。しかし、亡霊ではなさそうなのだ。目には見えないが、どこかに存在している相手なのだ。そいつは死者をよみがえらせ、みなの弱点をつきとめたのだ。なんのために、だれがそんなことをはじめたのか……。
また電話が鳴った。高声装置がさっきのままなので、会話がみなの耳に入る。広川の声が言った。
「電話をかけなおしたぜ、約束どおり」
「いったい、なんの用なんだ。用件はなんなのだ」
「いいぞ、やっと話に入れそうだ。こっちの要求に従ってもらいたい。いやとは言えないはずだ。この事情をマスコミと警察に流されても平気なやつはいないだろう」
「なにがほしいんだ。金か……」
おそるおそるの質問に、広川の声が言う。
「そんなものはいらん。要求は二つだ。そのひとつ。この件について、これ以上とやかくせんさくしないことだ。どうだ」
「承知した。もうひとつはなんだ」
「ほっとするのは早い。もうひとつのほうが重要なのだ。ある装置を開発してもらいたい。電話の受話器の改良だ。自白剤の霧がそっと湧きあがり、受話器をにぎっている者に作用するというしろものだ」
「そのような品は……」
「いやとは言わさないぞ。そこの機能をもってすれば、できるはずだ。完成したら、その納入先をいずれ指示する。早くなしとげるのだ。それとも、ことわる気か。反対の者がいたら、そう言ってもらいたい……」
しかし、だれも反対の声は口にしなかった。