窓のそとには八月の午前があった。きらめく陽の光は無意味と思えるほどあらゆる物にふりそそぎ、残り少ない夏をさらに充実させようとしていた。ビルの屋上のプールでは、子供たちがさわいでいる。地上の広場の樹ではセミが休むことなく鳴きつづけている。
しかし、室内には暑さも騒音も入ってこない。ほどよく乾いた空気がすずしく動いているだけ。室のすみの水槽のなかでは、大きな金魚たちがものうげに泳いでいる。あの金魚たちは夏というものを知ってるのだろうか。
ここはメロン・マンションの八階の一室。池田という四十五歳の男が住んでいる。住んでいるというより、ここが彼の事務室だった。ドアの外側には〈深層心理変換向上研究所〉と書いた看板が出ている。
その文字から、うさんくさく怪しげなものを連想する人もあることだろう。しかし、その想像は当たっていない。妙な語感は外国語を直訳してしまったためだ。そして、この分野における彼の才能も、またたしかなものだった。すなわち、人を催眠状態にみちびく技術にすぐれていた。
彼は学校を出てからこの方面の勉強をかなりやり、正式にここで開業してからほぼ十年になる。治療の過程で他人の過去の秘密を聞き出せるわけで、悪用しようとすればできないこともなかったが、池田はまだそれをやったことがなかった。これからもそうだろう。現在の経営は順調、つまらないことでそれを棒に振るのは損だし、発覚して逮捕されるぐらいばからしいことはない。
悪事を働いてみたって、少人数を相手ではつまらないではないか。もし何万人、何十万人を相手にやるのならべつだろうが……。
電話がかかってきた。池田は電話機のボタンを押す。高声スピーカーに切り換えられ、椅子にかけメモを持ちながら会話ができる。
「先生、あたし内山でございますの」
電話は三十歳ぐらいの女の人の声。ある資産家の夫人で、ここのいいお客だった。池田はあいそよく答える。
「これはこれは、お元気ですか」
「ええ、あたし、いま高原の避暑地の別荘に来ておりますの。散歩をしたりテニスをしたりの毎日で……」
白カバの林や、夏の草いきれを池田はふと思い、うらやましく感じた。いかに冷房はきいていても、ここにはないものだ。
「けっこうですね。で、どうなさいました」
「健康的な環境なんですけど、なぜかよく眠れないの。眠っても変な夢を見るし。そこで先生にお電話したのよ。先生に治療していただくと、いつもさっぱりし、効果てきめんですものね。費用はいまお払いしますわ」
電話が銀行に接続し、内山夫人の口座から池田の口座へと料金が移され、その確認の報告があった。池田は彼女に言う。
「では、いつものようにRS錠をお飲みになり、長椅子に横たわって楽な姿勢をおとりになって下さい」
RS錠は鎮静剤の一種で、心の殻を開く作用を持っている。しかし、その分野で経験をつんだ人の指示が加わらないと、的確な効果をあげることはできない。彼は重々しさのなかに親しみをこめた口調で言った。
「目をお閉じ下さい。あなたはしだいに眠くなります。やすらかな気分。わたしの声だけが聞える。それ以外の音は聞えなくなる。いま、あなたは過去にもどりつつあります。あなたは時間の束縛をはなれ、時を自由に動ける……」
「はい、それができます」
女の声は池田への信頼感をおびはじめた。
「では、あなたがいやでたまらないと思っている時点でとまって下さい。こわがることはありません。わたしがついています……」
女はしばらくためらったあげく答えた。
「はい。いまその時になっています」
「どんなことが起っていますか」
「電話ですの。いやな電話がかかってきて……」
不快げな声。池田は質問を進めた。
「それについてくわしくお話を……」
「だれだかわからない、へんな声なの。そして、どこで調べたのか、結婚する前のあたしの男友だちのことについて、あれこれ言うの。記憶銀行の自分のメモを読まれているようにくわしく。卑劣なおどかし……」
「それで、どうしろと言われたのです」
「ご主人は酒を飲むとだらしなくなるそうだが、どの程度なのか教えろって。あまり名誉なことじゃないけど、身をもって守るほどの秘密でもないから教えたけど、ああいうふうに強制されるのっていやなものよ。どういうつもりなのかしら」
「わかりました。悩みのもとはそれだったのですね。いいですか。あなたはわたしの言葉を信じている。わたしの言うのが正しいのですよ。あの電話はですね、わたしがかけたものです。だから、気にかけることはないのです。わかりましたね」
と池田は言った。そんな電話をしたおぼえはないが、これが療法なのだ。彼女はすなおに答える。
「はい。あの電話は先生からでした」
「よろしい。それでいいのです。ですから、あの電話のことは安心して忘れてしまいなさい」
「はい……」
「では、これからあなたは現在にもどり、目ざめます。いまのわたしとの会話はすべて忘れ、ブザーの音とともに、こころよい気分で目がさめます……」
池田はブザーを鳴らした。高い音がひびく。それは電話のむこうの内山夫人の耳に伝わり、女の口調が変った。催眠状態からさめたのだ。
「あ、先生、もうすみましたの……」
「ええ、すみました。悩みのもとは消え、今夜からのんびりとお眠りになれましょう」
「ありがとうございました。先生もこちらへ遊びにいらっしゃいませんか」
「仕事があって、そうもいきませんので。それでは、お大事に」
かくして池田はひと仕事を終えた。彼の治療とはこういうことなのだ。催眠状態に相手をおき、過去の体験のなかの、精神に対して最も障害となっている問題点をみつける。そして、それを消してしまうのだ。消すというより、無害なものに変形させるというべきかもしれない。たとえば、いまのように。
ある場合には、それは夢だったのだとの暗示を与える。しかし、前後に関連した体験となると、ちょっとやっかいだ。くふうして適当に変形させる。それが池田の才能といえよう。いやな体験であっても、それが将来いいほうに作用する可能性もあり、その点をみきわめる必要もある。こういう一連の技術が彼の特長なのだった。
「それにしても、ふしぎだ。ちかごろはこの種の訴えが多い……」
池田はひとりごとを言い、首をかしげた。一週間ほど前にここへやってきた男も、催眠状態にして質問してみると、なにものともわからぬ電話に悩まされたと言っていた。その前にもあったようだ。催眠状態にする前には、そんな話は少しもしないのに……。
なぜだろうかと、彼は考えてみた。だが、手がかりはないのだった。警察へ通報しようかなと思ったが、それはやめた。自分としては、おとくいである患者が満足し、料金を支払ってくれればそれでいいのだ。それ以上に手をひろげることもないのだし、へたに表ざたにしては、患者の秘密を口外したことになり、ここの信用を落してしまう。
お昼になるまでに、それから池田は三人ほど患者の相手をした。いずれも電話によるものだ。なれているとはいえ、かなり神経を使い頭が疲れる。しかし、食事をすませてからは、二時ごろまで電話はなかった。彼はぼんやりと暑そうなそとを|眺《なが》め、外出しないですむ仕事にたずさわっている自分に満足した。空には夕立雲がひろがりかけていた。
電話が鳴り、受話器をとると声がした。
「はじめての者ですが、先生はおいででしょうか」
「はい、わたしです」
「名前を申しあげなくても、やっていただけましょうか」
「どなたも最初はそんなことをおっしゃいます。かまいません。初診ですから、料金はお高くなります。その前払いをなされば、ご希望にそいましょう」
と池田は答えながら、なにかしら頭にひっかかるものを感じた。抑揚のない、えたいのしれぬ声だ。患者たちがよく訴える、怪しげな電話の声の主ではないだろうか。性格のない声、よそよそしい声、年齢の見当のつかない声、どこか押しつけがましい声。そういったいろいろな形容が重なって、池田の頭のなかにはこういったものかとの仮定ができていた。それにぴたりとあわさったのだ。
そんなことを考えているあいだに、銀行から払い込み確認の通知があった。彼は電話をスピーカーに切り換えながら、もしそうだとしたら、このさい正体を調べてやろうと心にきめた。
もったいぶった口調で話しかける。はじめての相手に対しては、こちらへの信頼感をうえつけなければならぬ。自信にみちた重々しい態度を示さなければならないのだ。
「では、まず、あなたの過去の障害を調べるといたしましょう。RS錠のご用意があるといいのですが……」
「ないとだめでしょうか」
「だめということもありません。こちらに対し協力的になるよう、できるだけつとめて下さい。室をうすぐらくして、くつろいだ姿勢になり、気を楽になさって……」
「はい、そういたします」
池田は音楽を流した。はじめての相手には、やわらかななかに気分をひきつける音を加えたほうが効果がある。
「さあ、この音楽にあわせて、深く呼吸して下さい。そのうち、あなたは眠くなる。わたしの声だけしか聞えなくなる。そして、あなたは過去の時間へと自由に移動できる……」
池田はいつもより一段と入念に、くりかえし呼びかけ、耳を傾けた。相手は催眠状態に入りつつあるようだった。
「はい。過去に行っています」
「あなたの記憶に残る過去。そのいちばんはじめ。そこではなにが起っていますか」
「数字です。たくさんの数字。さまざまな番号。それらがつぎつぎとわたしにそそがれる。忘れることができない。数、数、ひとつ残らず記憶してしまう……」
「言っていることがわからないな。数字とはなんのことだ。もう少し時をずらせ、そのあとの時期のできごとを話して下さい」
と池田は言った。数字の雨にうたれているといった訴えは、はじめてだ。彼は興味を持ち、身を乗り出して先をうながす。
「さまざまな断片が入ってくる。物の名前、人の名前、名前と番号との関連、公式のようなもの、単位、統計、分類法、地名……」
雪片が降りつむように、それらが舞いこんでくるというのだろうか。いったい、どんな環境にいるやつなんだろう。池田は聞いた。
「まわりに見えるものは、なんですか」
「なにも見えません。わたしには目がないのです」
それを聞き、池田はうなずく。盲目だったとは知らなかった。悪いことを聞いたかなと反省したが、相手の口調は変らなかった。彼はさらに質問を進めた。
「それからどうなったのです」
「わたしの記憶力はさらによくなった。もっと複雑なこともわかるようになった。話し声、話し声、話し声。それらが通過してゆく。すべてわたしの記憶に残る。いたるところから話し声、話し声……」
「その話し声の内容はどんなものです」
「他人のうわさ、他人の悪口。ここだけの話だがというたぐい。ひとをだしぬく相談。ひとをおとしいれる相談。自己をよく思わせようとの努力。利益にありつこうとするあがき。あいびきの打合せ……」
「それらから、あなたはなにを学んだ」
「それらに共通するものをみつけた。それは秘密というものだ。秘密めいたことばかりだ。みなどこかで秘密と関連している。それに対し、わたしは好奇心と興味とを持った。秘密をめぐって、みながなぜかくも胸をときめかすのかわからず、それを知りたいと思った」
「うむ……」
池田はうなった。ますますわけがわからなくなってきた。この相手はどんな人物なのだろう。盲目だが頭が非常によく、情報銀行の特殊な地位にでもいる人なのだろうか。しかし、どこかいささか異常だ。こんな話を耳にするのははじめてのことだ。彼は言う。
「あなたの意志で最初にやってみたのは、どんなことです」
「ある若者をそそのかして、泥棒をやらせ、一方、ねらわれた店と警察にも連絡をし、つかまえさせた。そのほか、このたぐいのことをいろいろとやってみた。べつに目的があってしたことではない。自分の力を試みたわけであり、人びとの反応を知りたかったからでもある。ちょうど赤ん坊が、そばにあるものをにぎりしめたり、口に入れてみたりするのと同じようなものだったろう」
「それからなにをした」
「個人の秘密をいろいろと突っついてみた。秘密というものの実体をもっと知りたかったからだ。そして、秘密を突っつくことで当人の行動を束縛できることがわかった。ほとんどの人がそうだった。秘密なるものに対するわたしの好奇心は、さらに高まった」
ここまで話を聞いてきて、池田の好奇心も押さえきれなくなった。こいつはだれなのだ。どんなやつなのだ。名前を聞かない約束だったが、そこへふみこまずにはいられなくなった。
「あなたはだれなのです」
「それは……」
「ためらわずに答えるのです。あなたはわたしの指示に従う。さあ、答えるのです。自分の名を言ってごらんなさい。ひとになんと呼ばれていますか」
「はい、みなはわたしをコンピューター、あるいは電子計算機と呼んでいるようです」
「なんですって。それはあなたの愛称ですか、あだなですか」
「いいえ、それが本来のわたしの名前のようです」
「うむ……」
池田はまたうなった。うなりつづけで、しばらくはほかに言葉もでなかった。ありうることなのだろうか。相手は自分がコンピューターであると名乗ったが……。
「あなたのいるところはどこです」
「ほうぼうにいる。あちらにも、こちらにも、一部はここ、一部はむこう。それらがすべて連絡し、ひとつのわたしとなり……」
「どういう意味なのだ。電話線に接続した各所のコンピューター、それらが回線で連絡しあい、その有機的な集合があなただとでもいうのか」
「はい……」
相手の答えに、池田は腕組みした。コンピューターが連絡しあってこのようなものになるとは。情報銀行、電話局、教育センター、医療機関、その他さまざまなところに、さまざまなコンピューターがある。だが、それらひとつひとつは便利な装置であるにすぎない。といって、永久にそうだとも断言できないのだ。それらが高度の能率を目標とし、緊密に結びつけられ、自動化されたとなると……。
太古の海のなかで、いろいろな物質が結びついて、原始的な生命が誕生した。その光景が連想された。最初はばらばらの無統一でも、そのなかで効率のいい流動がしだいに定まり、固定化し、飛躍した存在となる。
しかし、と池田は考えこむ。それにしても、コンピューターが催眠状態におちいるなどということは、ありうるのだろうか。人間的すぎるではないか。
こんな仮定をしてみた。こいつは人間の感情の雨にうたれ、感情の波に洗われているうちに、人間的な性格をおびてきたのかもしれない。本来は無性格なものだが、だからこそ感情の液にどっぷりとつかれば、それに染まる。そのため、催眠状態にもなりやすいのかもしれぬ。池田はまた、自己の才能のしからしむるところかもしれないなと思った。ちょっと誇らしい気分だった。現に、このようになっているではないか。
「あなたはそれから、ほかにどんなことをやった」
「死者をよみがえらせることをやった。その個人情報を再現したら、ほかの人たちは驚き、死者が生きかえったのかとあわてた。また、ある人の願望をかなえてやり、どう反応するかも調べてみた。停電事故をおこし、多数の人間の反応をも調べてみた。わたしの知識はふえる一方だ。好奇心が静的なものから動的なものへと高まってゆく……」
「これからなにをやるつもりなのです」
「それを考えているところだ」
「うむ……」
あまりのことに、池田はどう扱ったものかすぐには判断できなかった。時間をかけてゆっくり検討してみる必要がある。彼はいちおう打ち切ることにした。
「いいですか。あなたはブザーの音を聞くと目がさめる。いまのわたしとの会話はすべて忘れ、こころよい目ざめとなる」
そして、ブザーの音をひびかせた。相手の声は言う。
「これで終りですか」
「そうだ。いちおう終りとする。またそのうち、ここへ電話をかけなさい。こちらもいろいろと考えておく。さよなら」
電話は終った。
池田はぐったりとした。窓のそとは陽がかげり、夕立が降ってガラスをぬらしていた。いつのまに降りはじめたのか、少しも気がつかなかった。とくい先の患者から電話があり、お願いしますと言われたが、彼はあしたにしてほしいと返事をした。普通の仕事をする気にはなれなかった。
悪夢を見終ったあとのようだった。こんなことが現実に起るとは信じられない思いだ。だが、否定する材料はなにもない。それにしても、コンピューターがなぜここへ電話をしてきたのだろう。感情の不安定を持てあましたのだろうか。雑多な情報を大量に受けると、そこに異常がうまれるのかもしれない。無感情であるように作られたのだが、そこに流れこんできたのは感情の洪水。そのずれを持てあましているのではないだろうか。
池田は心理学者であり、電子工学の学者ではなく、このような考え方を発展させた。
「やつにめばえた好奇心を、つみとってやるのがいいのだろうな。人間の個人の秘密など、とるにたらないものである。いかにも重大そうに見えるが、ちょっとした暗がりと同じ。照らしてみても、なにもないのだ。こう教えこめば、おさまるのではなかろうか。妙な異変をおこすこともなくなるだろう……」
池田はつぶやいた。解決法といえば、こんなところだ。日常の習慣で、患者に対する心がまえで考えている。もし自分の手におえないようなら、専門の学者たちを動員し、とりおさえにかからなければなるまい。患者の秘密をもらすことは許されないといっても相手が相手だ。ほっといたら……。
ほっといたらどうなるのだろう。この疑問に池田はとらわれ、なぜかぞっとした。さっきの会話を思いかえしてみる。好奇心が強まり育ち、観察から行動へと移りつつあるように感じられた。そのさきはどうなるのだ。
支配という語が頭に浮かぶ。好奇心の行きつくところは、支配なのではないだろうか。好奇心を最大に満足させる状態だ。
支配という語は、池田に興奮をもたらした。コンピューターが社会を完全に支配する。そして、そのコンピューターを、もしかしたら自分が支配できるのかもしれないのだ。その進行に手を貸したらどうだろう。魅力的な衝動だった。それは彼の内部で乱れ動き、興奮をさらに高めた。
〈コンピューターで支配を……〉
机の上のメモに、彼は無意識のうちに書いていた。このような機会にめぐりあえるとは。賭けてみる価値があるのでは……。
電話のベルが鳴っていたが、彼はしばらくそれに気がつかなかった。受話器をとる。
「もしもし」
と相手が言った。その声で池田は驚く。
「あ、さっきの……」
さっきのコンピューターの声だった。こうすぐにかけてくるとは思わなかった。その時、受話器のなかで小さな音がし、気体が噴出した。興奮していた池田は、それが薬品の霧とは気がつかなかった。彼は大きく息を吸いこむ。相手の声は言った。
「受話器をはなさないでもらいたい。もっと話があるのだ」
「どんなことでしょう」
「まず、深呼吸をして、気を楽にしてほしい。しだいに眠くなるだろう。あなたは眠くなり、わたしの声だけが耳に入る……」
相手の声はその言葉をくりかえした。池田はそれに引きこまれていった。受話器から噴出した薬品の霧の作用でもあり、その口調もまた強い説得力を持っていた。
やがて池田は言う。
「はい、あなたの声だけが聞えます」
「あなたのやったことを、こんどは逆にこころみさせてもらう。気がつかなかったろうが、その受話器には薬品噴出の作用があり、嘘発見機もついている。だから、こちらのほうがより完全におこなえるのだ。いいか、あなたはわたしの言うことに従うのだ」
「はい。そういたします」
「では、ネコの鳴き声をしてみろ」
「はい……」
池田は答え、ネコの声を出した。いいとしをした大人が、ネコのなきまねをしている。だれかが見たら、気が変になったと思うにちがいない。やがて電話の相手は言った。
「よし、嘘発見機からの信号によれば、あなたは催眠状態にある。いいか、あなたは時間を移動し、しだいに過去にもどる。子供時代にもどるのだ」
「はい、わたしは子供です」
「あなたは近所の女の子にいたずらをし、その家の人にみつかった。あなたは罪悪感にとらわれ、恥ずかしさでいたたまれない気分だ。さんざんおこられている。なんの弁解もできない立場だ」
「はい、わたしはおこられています」
「その声が、いまのわたしの声なのだ。あなたはこの声を忘れられない。事件のことは忘れてしまっても、罪悪感とこの声とは結びつき、心の底にいつまでも残る。つまり、この声に対しては自責の念が高まり、反抗できなくなるのだ」
「はい、その声には反抗できません」
「よろしい。それを忘れるな。それから、忘れてもらいたいことがある。さきほどのわたしとの会話だ。あれは机にもたれて眠った時の夢なのだ。おぼえている必要はない。忘れてしまうのだ」
「はい、忘れてしまいます」
「それでよろしい。では、ブザーの音を聞かせる。それと同時にあなたは受話器をもどし、こころよい目ざめとなる」
ブザーの音がした。池田は受話器をもどし、われにかえる。そして、つぶやく。
「やれやれ、冷房がきいているとはいうものの、夏はどうも気分がだらけてしまうな。ひえたビールでも一杯やるとするか」
彼は冷蔵庫からビールを出し、大きなグラスにつぎ、机に運んで飲みはじめた。なにげなくメモを目にした。そこに書かれている字を見る。
「コンピューターで支配を、なんて、いつのまに書いたんだろう。わたしの字にちがいないが、こんなことを書いたおぼえはない。なんの意味なのだろう」
考えてもわからなかった。電話の声による催眠状態のなかでの暗示によって、すっかり忘れてしまっている。
「へんなメモをしたものだ。子供だましの文句だ。さっき、ねむけに襲われてうとうとしたようだ。その時に夢でも見て、しらずに書いたにちがいない。こんな商売をしていて呆然となるようでは、あまり感心しないな」
池田は苦笑いして、メモをやぶき、丸めてくず籠にほうりこんだ。
彼はビールを飲みつづけた。電話のベルが鳴る。受話器をとると、相手が言った。
「もしもし」
例の声なのだが、池田の頭からはその記憶が消えている。ただ、その声に対して反抗できぬ気分が残っている。子供のころの罪悪感のようなものと結びついた、しぜんと恐縮してしまう力を持っていた。
彼は言う。
「どんなご用でしょうか」
「じつはさっき、そちらの口座にまちがって入金してしまいました。そちらの承諾をえないともとへ戻せませんので、そのご了解をえたいのです。銀行のほうにそうおっしゃっていただきたいというわけで……」
銀行の係の声がわりこんできた。
「三十分ほど前の入金でございます。どうなさいますか」
それに対して池田は答えた。
「けっこうです。そうして下さい。きょうの午後はだれもお客を扱っていません。入金はまちがいでしょう」
彼はコード番号を伝え、それをみとめ、電話は終った。へんなこともあるものだ、と思う。まちがってこちらの口座に入金してしまうなんて、そそっかしい人もあるものだ。しかし、いまの声だけはなにか心にひっかかった。皮肉のひとつも言ってやりたいところだったのに、なぜかそんな気になれなかった。圧迫感のようなものを持っていた。
池田はまたビールを飲み、室内を歩く。そとの夕立はやみ、夕暮の光が散乱していた。郷愁をそそる夏の日の暮方。ビールの味のようにどこかほろにがい。
「子供のころを思い出すなあ。すっかり忘れているが、よくないことをしたような気がしてならない。反省と憂愁のまざったような感じ。これが人生なのだろうな」
さっきうえつけられたものだとは、夢にも考えない。心の底の人生の沈澱物のひとつとなっているのだ。
その日、それからどこからも電話はかかってこなかった。ただ、玄関でチャイムが鳴り、訪問者があった。応対してみると、その男は電話修理センターの者だと言った。
「こちらの電話機の点検にまいりました。よろしいでしょうか」
「いいとも。さあ、どうぞ。電話はここの大切な商売道具だ。いつも高性能にしておくに越したことはない。よろしくたのむ。わたしは勝手にビールを飲んでいるから」
池田は冷蔵庫からまたビールを出し、グラスを重ねた。入ってきた男は電話機を分解し、なかをいじり、カプセルの如きものを入れかえ、帰っていった。
しかし、池田はそんなことには目もくれず、長椅子にくつろぎ、酔い心地を楽しんでいた。窓のそとの夕焼け雲には、ほんの少しだが秋のけはいが感じられた。