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竹取物語(口語訳)11
日期:2018-01-06 17:36  点击:1130
解説
 
 ひとつの試みとして、私なりの現代語訳をやってみた。心がけた第一は、できるだけ物語作者の立場に近づいてみようとしたこと。
 なにしろ、わが国で、はじめての物語だ。その前に、なかったとは断言できない。しかし、わかりやすく、魅力的で、面白かったからこそ、この物語がその栄誉を与えられているわけだ。
 もっとも、社会背景も変っている。原文に忠実なようつとめたが、自分なりのくふうも加え、章の終りごとに、ほどほどの補足も書いた。また、改行もふやした。
 訳していて気がついたことだが、かぐや姫が天空の外の人であった点を除けば、なんの飛躍もない。竹からの出生、羽衣などは、それに付随したことである。
 動物が口をさくわけでもなければ、神仏もこれといった力を示さない。龍だって現実には出現せず、霊魂もただよわず、ラストの不死の薬はぼかしたまま。
 そこが、物語として、みごとなのだ。利益や出世の話だけだったら、つまらない話だ。といって、むやみに鬼を出し、化け物を出し、動物を動かしては、ごつごう主義になる。
 そりゃあ、超自然的な民話も、ないわけではない。しかし、ごく短いものに限られる。少し長目になると、ルール無視でごたつきかねない。
『竹取物語』では、超自然的な発想はひとつだけで、あとは人間的なドラマである。だから、すなおに面白い。そのノウハウを知っていて書いたのだから、この作者はなみなみならぬ人物だ。しかも、前例となる小説がなかったのだから。
 紙に筆で、この物語を一気に書きあげたのではないだろう。話すのが好きで、さまざまな物語を作って話し、その反応のなかから手法を身につけ、まとめて書き残すかとの気持ちになった結果と思う。このあとで多く作られたお姫さま物語の、さらに先をいっているようで、私は皮肉さを感じた。
 また、描写を極端に控えているのも、特色である。四季の変化のゆたかな日本なのに、それに関連したのが、まったくない。中秋の名月で、私は少し加筆したが。
 姫がいかに美人かの描写もなく、思いを寄せる男性たちの年齢、顔つきも不明。心理描写だって、簡単なものだ。最後の章など「泣く」の表現が多出する。
 つまり、発想とストーリーとで、人を引き込んでしまうのだ。構成に自信あればこそだ。描写を押さえると、読者や聞き手は、自分の体験でその人のイメージを作ってくれ、話にとけ込んでくれる。
 そのパワーが失われると、季節描写や心理描写に逃げ、つまらなくなる。新人の短編の選をやっていると、はじめの部分で夏の日の描写があったりする。読み終って、夏でなくても成立するのにと、点が悪くなる。美人だって、くわしく描写すると、好みじゃないねと、そこで終り。
 蓬莱など、中国の神話を引用しているが、作者は信じていないし、それは聞き手も同様だったからだろう。仏教も、あまり関係ない。先駆者というものは、時代に恵まれるといえそうだ。
 訳では、もっと熟語を使いたかったが、その限界がむずかしい。蓬莱の玉の枝の細工代の未払いの件。当時は金銭以外の物品でも支払われていた。原文は|禄《ろく》だが、報酬が最も適当と思った。
 ほかに原文では、返事とか|功《く》|徳《どく》とか、熟語もいくらか出ている。ふやせば読みやすくなるが、ムードをこわす。自分なりの判断でやるほかなかった。
 最も参考になったのは、吉行淳之介訳『好色一代男』(中央公論社)で、訳文とは別に書かれた「訳者覚書」の部分は読んで面白く、まさに同感だった。
 そのころの日用語を、対応する現代語になおしただけでは、つまらないものになる。また、なまじ現代でも通じそうな用語には、迷わされやすい。
 吉行さんは「さもなき」の形容詞に悩んでいる。「それほどでもない」としたくなるが、調べてみると、むしろ「さも・なし」は強い否定の意味だったらしい。
 この『竹取』でも、多くの人は「ともすれば」をそのまま使っているが、現代では意味がずれているし、あまり使われていないのではないか。
『竹取』が『一代男』より楽だったのは、前作がなく、パロディ的な扱いがなかったからだ。『一代男』に「兵部卿の|匂《にお》い袋」なるものが出てくるが、だれもブランド名と思うだろう。それが源氏物語をふまえたものとはねえ。
 吉行さんが、あえて『一代男』を手がけたのは、なぜか。作者の西鶴が花鳥風月に反逆し、面白さの原点に戻ろうとした点にあるらしい。
 訳のむずかしさは、外国文の翻訳体験者がいろいろ書いているので、ほどほどにしておく。
 
 ここで参考にさせていただいた書名を並べ、感謝いたします。
  中河與一訳注『竹取物語』角川文庫
 昭和三十一年初版。私には読みやすかったが、旧字旧かなで、若い人にはどうだろう。それなりの感情が伝わってくるけど。
  野口元大校注『竹取物語』新潮日本古典集成
 これは原文を主とし、校注がくわしく、もとのままを味わいたい人には、適切な内容だと思う。
  川端康成訳『竹取物語』日本の古典 河出書房新社
 昭和四十六年刊。これは川端訳というより、監修というべきだろう。若い人の文らしく、そのかわり自由な調子がある。
  田中保隆『竹取・落窪物語』古典文学全集 ポプラ社
 学校図書館協議会の選定図書で「です・ます」調である。
  三谷栄一編 鑑賞日本古典文学『竹取物語・宇津保物語』角川書店
 右の五冊、それぞれ感心させられる個所が多かった。ほかにも現代語訳のあることは知っていたが、あまり手をひろげなかった。
 文学辞典、百科辞典にも、それぞれ解説はのっている。私の場合、研究者としてでなく、作者に感情移入するのがねらいだったので、くわしいことは略す。
 数十年前に、チベットの民話の中国語訳の本が出て『竹取』と類似部分があると話題になったらしい。ここに一冊の本がある。
  金子民雄訳 オコーナー編『チベットの民話』白水社 昭和五十五年。
 英国での出版は一九〇六年。かなり古い。まえがきで、中国とインドからの物語が多く、ねをあげている。地方色ゼロとも評している。語り手としては巧みな種族らしいが。
 ヒンズー教の影響か、動物のからむ話が多い。中国で『竹取』の原形が発見されない限り、日本からの流入と判断するのが常識だ。
『竹取』はストーリーが主で、どこの土地でも通用する話なのだ。私も自作を何回も流用されているので、よくわかる。私の作品は中国語にいくつも訳されているから、いまのチベットで民話あつかいで話されているのではなかろうか。
 アメリカ産らしいジョークを読み、面白いと思った。半年ほどしてモスクワから雑誌の編集者が来て、うまい日本語で同じジョークを話した。面白くて作者不明だと、いかに早くひろまるかの、いい例だろう。
 
 それにしても、月とはふしぎな天体である。太陽系の惑星で、これほど大きな比率の衛星はない。しかも、見かけの大きさが太陽と同じ。そのため、日食や月食が起る。
 中秋の名月の特色は、前日もその次の日も、月の出の時刻にあまり差がないこと。ほかの季節だと一日ちがうと五十分の差があることもある。
 生命の発生も、大海のなかではなく、入江のような場所で、潮の満干によってではないかと思う。人体をはじめ、生物のバイオリズム(周期)は、月に関連している。
 その満干だが、地中海では差がほとんどなく、エジプト文明、ギリシャ文明などでは、月の影響とは気づかなかった。メソポタミア文明も同じだが、なにかの力を想像してだろう、占星術をうみ出した。
 しかし、有史前の日本では、マレー系、南方海洋系の渡来民族もまざっていたはずだ。理解とまではいかないが、なにかを感じていたかもしれない。貝塚が各地に残っているし。根拠のない仮説ではあるが。
 いくらかでも月や宇宙や空想に、そして物語の世界に、親しみを抱いていただければと、あまり解説風でない文章を書いたわけです。
 

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