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「女の方の身もとは、どうだね?」
それは出てきた。八千円ばかりはいった折りたたみの財布の中に、小型の女もちの名刺が四五枚、バラにはいっていた。みな同じものだった。
「東京赤坂××。割烹料理小雪。とき」
名刺の行書体文字はそう読まれた。
「とき(ヽヽ)というのがこの女の名前だな。赤坂の小雪という料理屋の女中らしいな」
部長は判断して、
「役人と料理屋の女中の情死か。ありそうなことだな」
と言った。それからすぐに男と女の名刺にある住所に電報を打つように言いつけた。
死体は、さらに警察医によって精細に調べられた。外傷はどこにもなかった。男女の死因は青酸カリによる中毒死であった。推定死亡時間は前夜の九時から十一時までの間ということである。
「すると、その時刻にあの海岸を散歩して、心中したのだな」
と、誰かが言った。
「ずいぶんとこの世の別かれを惜しんだことだろう」
しかし、死体の所見は、死の直前の交渉の形跡を認めなかった。それを知らされて、刑事たちは意外な顔つきをした。あんがい、きれいに死んだのだな、と一人が言った。死因は両人とも青酸カリの中毒死であることが確認された。
「十四日に東京を発ったとみえるな」
主任は列車食堂の日付を見ながら言った。
「すると今日が二十一日だから、一週間前に出たのだな。ほうぼうを遊んで歩いて、この福岡に来て死場所をきめたというところか。おい、この列車番号の7というのは何か、駅にきいてみろ」
刑事の一人が電話をかけていたが、すぐに報告した。
「列車は東京発の下り博多までの特急だそうです。《あさかぜ》という名だそうです」
「なに、博多までの特急だって?」
部長は首を傾(かし)げた。
「じゃ、東京からまっすぐこの博多に直行したのかな。それでは一週間もこの福岡にとまっていたか、九州のどこかをうろついていたことになる。どうせトランクは持っていたろうから、それを捜す必要もある。写真を持って市内の旅館を調べてみてくれ」
と、刑事たちに命じた。
「部長さん」
と、一人の刑事がすすみ出た。
「ちょっと、その受取証を見せてください」
それは痩せた、色の黒い、目ばかり大きい不精げな男だった。死体の発見のときに、香椎潟に行った男である。着ていたオーバーがくたくただったように、洋服もくたびれていた。使いふるしたネクタイが撚(よ)れている。鳥飼重太郎という古参の中年の刑事だった。
鳥飼刑事は、骨ばった汚い指で受取証をひろげてみていたが、
「御一人様? この男は一人で食堂で飯を食べたのですなあ」
と、ひとりごとのように言った。
主任が聞きとがめて、
「そりゃ、君。女の方は食べたくなかったから、いっしょには食堂には行かなかったのだろうよ」
と口を出した。
「しかし──」
と、鳥飼は口ごもった。
「しかし、なんだね?」
「いや、しかしですなあ、部長さん。女というやつは食い気が張っていましてね。腹はいっぱいでも、同伴(つれ)が食べるときは何かつきあうものですよ。たとえば、プリンとかコーヒーとかですな」
部長は笑いだした。
「そうかもしれんな。しかし、この女はそんなつきあいもできないくらい、腹がいっぱいだったかもわからんな」
と軽口を言った。
鳥飼刑事は、何か言いたそうだったが、そのまま黙って帽子をかむった。それも古いもので、ふちが歪(ゆが)んでいた。その帽子によって、鳥飼重太郎なる人物が、いっそう、精彩を加えたようであった。彼は踵(かかと)の減った靴をひきずって出て行った。
刑事たちの出はらったあとの部屋の空気は妙にむなしく、がらんとしていた。居残った一人二人の若い刑事が火鉢に炭をついだり、ときどき、部長に茶を持って行った。
そういう状態で昼もすぎ、窓の陽ざしが薄くなったころ、どやどやと大勢の足音が前後して闖入(ちんにゆう)てきた。
刑事連が帰ってきたのではなく、新聞記者たちであった。
「部長さん。××省の佐山課長補佐が心中したのですって。いま東京の本社から逆に知らされて、飛びあがったところですよ」
彼らは殺到しながら、わめいた。察するところ、今朝、署から打った電報で東京の新聞社がかぎつけ、福岡の支局に急報したらしい。