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翌朝の朝刊には、××省課長補佐、佐山憲一の情死が大きく扱われていた。A紙は小倉で、M紙は門司で印刷しているから、この日本の二大新聞をはじめ、地元の有力紙もみな大きな見出しのスペースをつくった。それは単純な情死事件ではない。目下進行中の××省の汚職問題にひっかけていた。どの新聞も佐山の死は、汚職に関係があるとみていた。東京検察庁談としては、佐山課長補佐を召喚(しようかん)する予定はなかった、と載っていた。しかし新聞の観測的な記事によると、佐山課長補佐が参考人として取りしらべられることは必至であり、同人は上層部に事件が波及することをおそれて、愛人と情死を遂げたのではあるまいか、と書かれてあった。
その新聞が重なって、部長の机の隅に置いてあった。当の部長は、革製の小型のスーツケースの内容物を調べていた。
昨日の昼間から深夜にかけて、刑事たちが福岡市内の旅館を洗って歩いた結果、捜しあてたもので、今朝、刑事部長が出勤そうそうに披露(ひろう)したのである。
それを突きとめたのは若い刑事で、市内の丹波屋(たんばや)という旅館で、宿では、たしかに、写真の主を客に泊めたと証言した。宿帳には、「会社員、藤沢市南仲通り二六、菅原泰造(すがわらたいぞう)、三十二歳」と記帳してあった。十五日の晩から一人でつづけて宿泊し、二十日の夜、勘定をすませて出て行ったという。その時客は、このスーツケースはあとでとりに来るからと言って、置いて行ったというのである。
さて、今、そのスーツケースの内容をことごとく出してみたのだが、洗面具だとか、着がえのワイシャツや、下着の類とか、汽車の中で買ったらしい娯楽雑誌が二三冊といった平凡なもので、何一つ書置めいたものはむろん、手帳らしき物も出なかった。
部長は調べおわると、その獲物を持って帰った若い刑事に顔を向けた。
「なに、男が一人で泊まっていたって?」
ときいた。
「はあ、一人だそうです」
若い刑事は答えた。
「ふうん、おかしいな。女はどうしたのだろう。その間、どこに行っていたのだろう。十五日の晩なら、東京から《あさかぜ》でこの博多に着いた日だ。それから二十日の夜まで、男はずっと一人で宿にいたのか?」
「どこにも出かけず、一人で宿にいたそうです」
「その間、女は訪ねてこなかったか?」
「いえ、誰も来なかったといいます」
この問答の最中に、鳥飼重太郎は、そっとその場をはずした。彼は、古帽子をつかむと、音のせぬように部屋を出て行った。
彼は表へ出ると、市内電車に乗った。ぼんやり向かい側の車窓から見える動く景色を見ていた。しばらく乗ってある停留所まで来ると、そこで降りた。ひどく年寄じみた動作であった。
彼は横丁をいくつもまがった。歩き方はやはり緩慢(かんまん)であった。それから、ゆっくり丹波屋という看板のかかった建物を見あげると、磨きのかかった廊下の見とおせる玄関にはいった。
番頭が帳場から出て、警察手帳を見てかしこまった。
若い刑事が主任に報告した事実をあらためてたしかめたのち、鳥飼重太郎はとがった頬に微笑の皺をよせながら、質問した。
「その客が来たときの様子は、どうだったね?」
「なんですか、たいそう疲れた様子で、夕食をたべると、すぐに寝てしまわれました」
と、番頭は答えた。
「毎日、外出もせずにいると、ずいぶん、退屈だろうが、どんなふうでしたな?」
「女中もあんまり呼ばないで、本を読んだり寝ころがったりしていました。そういえば、陰気なお客さんだと女中も話していました。ただ、あのお客さんは、電話がかかってくるのをしきりと待っていたようです」
「電話を?」
鳥飼は大きな目を光らせた。
「はあ。自分に電話がかかってくるはずだと、女中にも言い、私にも言っていました。電話がかかってきたら、すぐに取り次いでくれとおっしゃるのです。どうも、毎日、外出もなさらなかったのは、そのためではなかったかと思われます」
「そうかもしれんな」
鳥飼は、うなずいた。
「それで、その電話は、かかってきたかね?」
「かかってきました。私が電話を聞いたのです。二十日の午後八時ごろでした。女の声で、客の菅原さんを呼んでくださいと言いました」
「女の声でな。佐山と言わずに、菅原と言ったのだな?」
「そうです。私は、お客さまが毎日、じれるくらいに電話を待っていたのを知っていたので、すぐに部屋につなぎました。そうです、ここは各部屋に電話を切りかえるよう交換台があるのです」
「それで、どんな会話があったか、わからなかったかな?」
番頭は、この問いにうすく笑った。
「へ、へ。私どもでは、お客さんの電話は盗聴しない躾(しつけ)をしておりまして」
鳥飼は、残念そうに舌打ちした。
「それから、どうだった?」
「話は、一分ばかりで切れたようです。それから、すぐにそのお客さんは、計算してくれとおっしゃって、勘定をおすましになり、あのスーツケースをあずけて、出て行かれました。まさかあの人が心中なさるとは夢にも思いませんでしたなあ」
鳥飼重太郎は、鬚(ひげ)の伸びたあごに指を当てて考えていた。
──佐山課長補佐は十五日の夜からずっと、女からの電話がかかってくるのを、じりじりして宿で待っていた。そして、やっと電話がきた晩にすぐ情死した。どうも、奇妙な話だ!
彼の目の先には「御一人様」という列車食堂の受取証が、まだ揺曳(ようえい)していた。彼はつぶやいた。
「佐山は女の来るのを宿で待っていた。なぜ彼は心中する相手を、五日間も待たねばならなかったか?」