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点と線(三)香椎駅と西鉄香椎駅01
日期:2018-01-12 23:04  点击:303
 
 鳥飼重太郎は、七時ごろ家に帰った。格子戸が開いた音はたしかにしたのに、誰も出てこない。狭い玄関で靴をぬいでいると、女房が奥から姿も見せずに、
「お帰んなさい。お風呂がわいていますよ」
 と、襖(ふすま)ごしに声だけかけた。晩飯の前に、まず風呂にはいれという意味である。襖を開けると、女房は編物を片づけているところだった。食卓には白い布がかかっている。
「お帰りが遅いと思ったから、すみ子とさきに御飯をすませましたよ。すみ子が新田さんと映画に行くと言って出かけましたから。さあさあ、お風呂へはいってらっしゃい」
 重太郎は黙って洋服をぬぐ。くたびれた洋服で、裏地が破れかかっていた。ズボンの折返しにごみや砂がたまって、畳の上にばらばらとこぼれた。今日一日歩きまわった疲労が、音立ててこぼれたといえそうだった。
 仕事の都合で帰りが不規則なのは、いつものことであった。女房と娘はあてにしないで、六時半をすぎたら飯をたべることになっている。すみ子というのが娘の名で、新田は近くその夫になる男の名だった。二人は今夜、映画に出かけて留守だというのだ。
 重太郎はあいかわらず黙ったまま風呂にはいった。古い桶の五(ご)右衛(え)門風呂(もんぶろ)である。
「どうですか?」
 と、女房が湯加減をきく。
「いいよ」
 と重太郎は、面倒くさそうに答える。面倒なのは、よけいなことを言いたくないからだ。湯につかっている間、ぼんやり考えごとをするのが彼の癖であった。
 彼は昨日の情死体のことを考えていた。どういう事情で心中したのであろう。それは東京から家族が死体を引き取りにくるという電報がはいったから、やがてわかるかもしれない。新聞は佐山課長補佐が、目下摘発進行中の××省の汚職事件に重大な関係があり、その死によって上層部のなかには安堵(あんど)する者がある、などと書き立てている。佐山という男は、そういう気の小さい、善良な人間であったらしい。また、新聞によれば、佐山とお時とは深い関係があり、そのことで佐山は悩んでいる口吻(こうふん)をもらしたこともあるという。して見ると、佐山は、事件と女関係との二つの悩みを死で解決したのであろう。いや、この場合、事件の懊悩(おうのう)が直接の動機であって、女のことが死へ駆けだすはずみをつけた、と想像できそうである。
(それにしても)
 と重太郎は、湯を顔にかけて考える。
(あさかぜ(ヽヽヽヽ)でいっしょに博多駅に到着したのに、女は佐山だけを旅館においてどこに行っていたのか。佐山は十五日の夜に丹波屋旅館にはいっている。彼のポケットから出てきた列車食堂の受取証によれば、その日が博多着の日に間違いないから、彼だけはまっすぐ旅館にはいったことになる。このときは女は姿を見せなかった。十六日から二十日までの五日間、佐山は宿でじりじりして女からの連絡を待っていた。お時という女は、その間、どこで何をしていたのだろう)
 重太郎は、タオルで顔をふいた。
(その連絡が佐山にとって、どのように大事であったかは、彼が毎日宿にいて外出もせずに待っていたことでわかる。待ちかねた電話は二十日の午後八時に女の声でかかってきた。それはお時であろう。なぜなら、宿の者に佐山を呼んでくれと言わずに、菅原を呼んでくれと電話口で言っている。その変名を使うことを二人で打ち合わせしていたに違いないからだ。さて、佐山はその電話を聞いて、待っていたとばかりに出て行った。その晩に香椎の海岸に行って心中した。少々気の早すぎる心中のようだな。せっかく会ったのだから、もう少しゆっくりしてからでよさそうなものだが)
 重太郎はいったん、五右衛門風呂から出たが、石鹸を使うでもなく、ぼんやりすわって、体の冷えるにまかせていた。
(最後のよろこびの時間も十分に与えないだけの、切迫した事情がそこにあったのか、あったとすれば、それはなんだろう。そういえば、遺書もなかった。しかし遺書のないことはたいしたことではない。だいたい、遺書を書いて死ぬのは若い人で、中年以上は遺書のないのが多い。遺書のない方に、よけい追いつめられた原因が多いようだ。ことに、佐山の場合は、うっかり遺書を書くこともできなかったであろう。女は男に引きずられて、これも遺書を残さなかった。そういう情死だった。そうだ、情死であることは間違いない。が──)
 重太郎は、体の寒いのに気がついて、もう一度、風呂の中にはいった。
(だが、あの列車食堂の御一人様が、まだ心にかかる。少し気にかけすぎるのかもしれないが)
 女房の声が聞こえた。
「あんた、まだ上がらんのですか?」

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12/01 11:46