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点と線(四)東京から来た人02
日期:2018-01-12 23:08  点击:363
 
「いま、みかんを買っているときに、ちょっとあなた方のお話が耳にはいったのですが」
 と、若い男は重太郎の横に立ちどまって言いだした。
「じつは、私も、一月二十日の晩の九時半ごろに、あの心中の男女らしい二人を見かけたのです」
「ほう」
 重太郎は目を大きくした。ぐるりを見ると、喫茶店とも飲食店ともつかぬ小さい店がある。重太郎は、遠慮するその男をそこに誘った。砂糖水に色をつけたようなコーヒーを飲みながら、彼は男の顔を見た。
「くわしく話してください」
「いや、それがあまり、くわしくはないのですが」
 と男は頭をかいて、
「果物を買っているときに聞いたものですから、私の話もご参考までに、と思ってその気になっただけです」
「いや、結構です。どうぞおっしゃってください」
 重太郎がうながすと、
「私はこの土地の人間ですが、博多の会社に通勤している者です」
 と、若い会社員は言いだした。
「あの心中死体が発見された前の晩、つまり二十日の夜ですが、私も心中の男女らしい二人を見かけました。私のは、九時三十五分の西鉄香椎駅着です」
「ちょっと」
 重太郎は手で、待った、のまね(ヽヽ)をした。
「それは電車ですか?」
「はあ。競輪場前を九時二十七分に出る電車です。ここまでちょうど八分で着きます」
 競輪場前というのは、博多の東の端にあたる箱崎にある。箱崎は蒙古襲来の古戦場で近くに多々良川(たたらがわ)が流れ、当時の防塁の址(あと)が一部のこっている。松原の間に博多湾が見える場所だ。
「なるほど。それで、あなたはその男女を電車の中で見たのですか?」
「いや、電車の中ではないのです。そのときの電車は二両連結で、私は後部に乗っていました。乗客は少なかったですから、後部にいれば目についていたわけです。きっと前部に乗っていたに違いありません」
「それでは、どこで見かけたのですか?」
「改札を出て、私の家の方に歩いてゆくときです。その晩私は博多で飲んで少し酔っていましたから、歩く速度が遅かったのです。すると、私の後から同じ電車で降りた人が、二三人追い抜いて行きました。それは土地の者ですから、私も見知っています。ただ、知らない男女の一組が、やはり後から来て、かなり急ぎ足で先に行きました。男はオーバーで、女は防寒コートの和装でした。その二人が浜の方へ出る寂しい道を歩いてゆくのです。私は、そのときは気に止めず、自分の家のある横丁にまがりましたが、あくる朝、あの心中でしょう。新聞によると、前夜の十時前後の死亡とあったから、もしやあの男女ではなかったかと思いあたったわけです」
 会社員は、そう言った。
「それで、顔を見ましたか?」
「それが、今いったように、後から来て追い越して行ったものですから、後姿しか見えません」
「ふむ。オーバーの色とか、コートの下の着物の模様とかは?」
「それもまるでおぼえがないのです。あの通りは電灯の明かりも暗いし、それに酔ってもいましたから。ただ女の言った一言だけが聞こえました」
「何?」
 重太郎は目を光らせた。
「どんなことを言ったのですか?」
「私の傍を通り抜けるとき、女が、男に〈ずいぶん寂しい所ね〉と言ったのです」
「ずいぶん、寂しい所ね。──」
 重太郎は、思わず復誦(ふくしよう)するようにつぶやき、
「それで、男の方はなんと答えましたか?」
「男の方は黙っていました。そして、ずんずん向こうに歩いて行ったのです」
「その、女の言った言葉は、声に何か特徴はありませんでしたか?」
「そうですな。わりあい澄んだ女の声でしたよ。それに土地の訛(なまり)のない、標準語でした。この辺の者なら、そんな言葉づかいはしません。言葉の調子から、あれは東京弁だと思います」
 重太郎は、袋のくしゃくしゃになった「新生」を取り出して火をつけた。吐いた青い煙が宙にもつれる間、つぎの質問の用意を考えていた。
「その電車は、たしかに九時三十五分着でしたか?」
「それはまちがいありません。私は博多で遊んで遅くなっても、かならずその電車にまにあうように帰るのですから」
 重太郎は、その返事を聞いて考えた。この会社員の見た男女は、国鉄の香椎駅で降りた、果物屋の目撃した男女と同一人物ではないか。この会社員は、その男女を電車の中では見ていないのだ。ただ、自分のあとから追い越した同じ電車の降車客につづいていたから、そう思ったのではなかろうか。国鉄の香椎駅には九時二十四分に着く。西鉄香椎駅は九時三十五分に着く。十一分の差がある。両駅の間は約五百メートルの距離だ。香椎駅を降りて海岸に向かう道は、この西鉄香椎駅の傍を通るから、道の順序も時間の順序も合うわけである。
「私の申しあげるのはこれだけです」
 と、人のよさそうな会社員は、重太郎が考えている顔を眺めて立ちあがった。
「果物屋で心中の男女をおききのようでしたから、ついお話ししたかったのです」
「いや、どうもありがとう」
 と重太郎は、その人の住所と名前をきいて、心から礼を言って頭を下げた。女の言った一句を知らせてくれただけでも、収穫であった。
 その店から外へ出ると、すっかり夜になっていた。

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