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ここで三原は手帳に鉛筆を走らせていたが、書きおわると鳥飼に、
「こんなふうになりますね」
といって見せた。左の表のようなものだ。
「そうです、そうです」
鳥飼は目をとめて言った。
「しかし、なぜ、お時は途中下車したのでしょうか?」
三原は言った。
そうだ。それなのだ。鳥飼にはその理由がわかっていなかった。それを考えているのだが、思案がつかなかった。
「私にはわかりません。なぜだか」
鳥飼は手を頬にあてて答えた。
三原は腕を組んだ。彼の目も、その理由を解こうとするように、茫乎(ぼうこ)として海の方を見ていた。海の上には、志賀島(しかのしま)が淡く浮かんでいる。
「三原さん」
鳥飼は、ぽつんと呼びかけた。
彼は先刻から抱きつづけてきた疑問を、このとき唇に出す気になった。
「なぜ警視庁では、今になって佐山の情死を洗うのですか?」
三原は、すぐ返事をせずに、煙草をとり出して、鳥飼にすすめた。ライターを鳴らして火をつけてやり、自分も一本口にくわえて、ゆっくりと青い煙を吐いた。
「鳥飼さん。こうしてお世話になっているあなただから、お話ししましょう」
三原は口をひらいた。
「佐山憲一は、こんどの××省事件の重要な参考人だったのです。彼は課長補佐といっても、長い間、実務にたずさわってきた男で、行政事務には明かるいのです。したがって、こんどの事件にも大きな役割を演じています。その点では、参考人というよりも被疑者に近いでしょうな。ただ、われわれがうかつだったのは、まだ事件の当初だったので、彼の監視が十分でなかったことです。そのため、うかうかと死なれてしまいました」
三原は、煙草の灰を指で叩き落として、つづけた。
「しかし、彼の死によって、助かった顔をしている者がずいぶんいますよ。じっさい、調べれば調べるほど、佐山の口から聞きたいことがいくらでもあるのです。ほんとに惜しい証人を死なせてしまいました。悔(くや)んでも追っつかないくらい残念です。佐山の死は大打撃です。だが、われわれがくやしがっている反面、こおどりしている者があるわけです。佐山はその連中をかばって死んだのでしょうが、近ごろ、彼の死に疑惑を起こしています」
「疑惑?」
「つまり、彼の死は自発的なものではなく、他から強制されたのではないか、という疑いです」
鳥飼は、三原の顔をじっと見た。
「何かその形跡があるのですか?」
「はっきりしたものはありません」
三原は答えた。
「しかし、遺書がありません。たしか連れの女にもありませんでしたね」
そうだ、それは鳥飼も考えて部長に言ったことがある。
「それから、東京で佐山の身辺を洗ってみると、お時との関係の線が出てこないのです」
「え、なんですって?」
「いや、佐山に誰か愛人がいたらしいことはわかったのですが、それがお時かどうか、はっきりしないのです。いっぽうお時のほうも、私が小雪に行って女中たちにきいたり、彼女の住んでいたアパートに行って調べたのですが、これも確かに男があったようです。アパートには、よく男の声で電話がかかってきて、お時はたびたび外泊したそうです。それが誰だかわからない。男は一度もアパートに姿を見せたことはないそうですからね。たぶん、それが佐山でしょうが、はっきり佐山だと断定する根拠は何もないのです」
鳥飼は、それは少しおかしいな、と思った。現に佐山とお時とは情死しているではないか。──
「しかしですな、三原さん。佐山とお時とが、仲よく《あさかぜ》に乗りこんでいる所を小雪の女中が二人目撃しているのですよ。いや、もう一人いたな、たしか小雪に来る客でした。三人が見ているのです。それから、この場所で、両人は情死している。それは私も見ているし、あなたがお持ちの本署の現場写真や、死体所見などでも明瞭なことです」
「そうなんです」
三原は、はじめて当惑した表情をした。
「ここに来て、いろいろな資料を見せてもらって、情死の事実には間違いないことを、あらためて認識しました。だから東京から私が持ってきた疑念とは、現実が合わないので弱っているのです」
鳥飼には、三原の持っている疑念というものがどんなものか、わかるような気がした。