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その翌日、三原が外から帰ってくると、笠井主任が三原を呼んだ。
「君。××省の石田部長から申し出があったよ」
主任は机の上に両肘を突いて拳(こぶし)を組み合わせていた。それは彼が多少困惑(こんわく)しているときの癖であった。
「いや、直接本人が来たのではないがね。事務官がやってきた。ああ、ここに名刺がある」
名刺は、(××省事務官佐々木喜太郎(ささききたろう)とあった。三原は、それを一瞥(いちべつ)して主任の話を待った。
「石田部長の申し出というのは、安田辰郎について先日、某氏から問い合わせがあったが、これは警視庁からの意向だとわかったので、あらためて直接に届けると言うのだ。彼は確かに一月二十日からの北海道出張のときに自分と同じ列車に乗りあわせていた。もっとも車両は異なっていたが、ときどき、挨拶にも来たし、顔を合わせた。もし念のため自分以外の証人を求めるなら、小樽を過ぎたころに、北海道庁の役人で稲村勝三(いなむらかつぞう)という人が自分と同席していたから、その男に照会するがよい。稲村氏とは函館から偶然乗り合わせたのだが、安田がつぎの札幌で降りますからと挨拶に来たので、稲村氏にも引き合わせたから知っているはずだ。と、まあこういう主旨なのだ」
「ずいぶん、安田のために弁じたものですね」
三原は言った。
「そうもとれるがね。しかし安田の行動を警察が調べているというので協力してくれたのだろう」
主任は微笑していた。その微笑には意味があり、三原にもそれはわかった。
「その石田部長と安田の関係はどうなんですか?」
「役人と出入り商人だからね。たいてい察しはつくよ。ことに石田部長は汚職の中で疑惑の人だ。が、現在のところ石田部長と安田の間には問題になるような線は出ていないね。しかし、安田は××省に最近かなり食い入っているから、部長に盆暮の挨拶は適当にしているだろう。石田部長のわざわざの申し出は、その返礼のつもりかもしれないな」
主任は、組んだままの指を鳴らした。
「しかしね、返礼であっても、言うことが事実なら仕方がないよ。念のために、北海道庁の役人には照会電報を打っておいたが、返事は石田部長の申し出のとおりだろう。つまり、安田が一月二十一日の《まりも》に乗っていたことは、嘘ではないということなのだ」
また、安田の《まりも》乗車を証明する目撃者が一つふえた。三原は、うんざりして主任の前を離れた。
ちょうど、午すぎであった。三原は庁内の五階食堂にはいった。ここは地方のデパートの食堂ぐらいに広い。窓からの明かるい陽射しが溢れていた。三原は飯を食う気になれないので、紅茶を運んできて一口すすったが、思いついて手帳をひろげ、鉛筆で書いてみた。
〇安田辰郎の北海道行。
青函連絡船に彼の自筆の乗船客名簿があった。(17便。函館から《まりも》に連絡する)石田部長の証言。北海道庁の役人が小樽をすぎたころに石田部長の紹介で安田に会う。札幌駅で河西に会う。
三原はこれを見つめて考えこんだ。この四つは、四枚の岩盤の重なりのように崩しようがなかった。しかし、これは崩す必要があるのだ。いや、絶対に、崩さなければならないのだ。
二十一日朝七時二十四分博多発の急行《さつま》と、同日二十時三十四分札幌着の急行《まりも》と、どう結んだらよいか? 結ぶ方法は不可能だった。不可能ということは、それがない(ヽヽ)ということなのだ。──しかし、しかし、安田辰郎は確実に北海道札幌駅に現われている。
三原は、頭をかかえ、十何度目かの目を表にさらした。すると、彼は、奇妙なことに気がついた。
北海道庁の役人稲村某氏が、安田辰郎に会ったというのは、小樽駅をすぎてからである。安田はそのとき、別の車両から石田部長に別かれの挨拶をしに来たというのだが、小樽駅をすぎるまで安田が一度も来なかったのは、少しおかしな話である。
石田部長、稲村氏、安田辰郎の三人は、車両こそ違え、函館から乗車したのだ。ちょいちょい石田部長のところに挨拶に顔を出したという安田を、稲村氏が小樽を過ぎるまで見なかったというのは、どういうわけだろう。
三原は時刻表をとり出した。函館・小樽間は急行でかっきり五時間かかることがわかった。あれほど部長と懇意だった安田が、五時間も知らぬ顔をして車両に引っこんでいるわけがない。いや、もう一つ突っこめば、安田はどうして石田部長と同じ車両に乗って、長い退屈な旅行を談笑でまぎらわさなかったのであろうか。一歩ゆずって、それが遠慮から出たことであっても、五時間もの間、寄りつかなかった理由がしれない。
稲村氏は厳正な第三者である。その稲村氏が、小樽をすぎて初めて安田を見たというのは。──
(安田辰郎は、小樽駅から《まりも》に乗車したのではあるまいか?)
三原の頭をこれがかすめた。これなら、稲村氏が小樽を過ぎたころに安田を初めて見たということがわかる。車両が違うということは、安田が小樽駅から乗りこむ姿を見られたくなかった、と解すれば理屈が合う。彼は小樽を列車が発車すると、悠々と石田部長と稲村氏の前に現われ、あたかも函館から乗車していたように稲村氏に思いこませた。──
まだ、厚い霧の中から、三原は前方に薄い明かりがさし、ぼんやり物の形が見えたような思いがして、息がはずんだ。